菅首相の学術面での暴挙

 これほど露骨な学術機関への介入を、早速菅首相が実施するとは思わなかった。これまでも、安倍内閣の番頭として、メディア支配を強めてきた安倍首相と菅官房長官だったが、会見や対話における、ふたりの対応は、少々違っていた。安倍元首相は、質問に対して、全く的外れな話を延々とすることによって、質問に答えないという姿勢がはっきりしていた。国会討論などで、そうしたはずらかし答弁は何度もあった。それに対して、菅元官房長官は、記者会見が主な場であるが、最初から、答える必要がないとか、そんなことはない、といって、質問そのものを封じてしまう。更に、望月記者に対するように、質問させないというやり方だった。どちらも、一国の政治指導者としてふさわしいとは思わないが、菅氏のほうが、より冷徹で抑圧的であると感じさせるものだった。

 高い支持率の一方で、菅内閣は強権的になるという危惧もささやかれていたが、早くもそれが現実のものになったというべきだろう。
 日本学術会議というのは、あまり一般国民にはなじみがない組織だと思うが、戦前の軍国主義体制に、科学者たちも協力してしまったという反省から、平和を守るという立場で、文系理系を含めた研究者の組織として、戦後一貫して、科学研究の平和と自律的発展を目指してきた組織である。発足時の声明を確認しておくのも意味があるだろう。
 
 「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明」1949.1.22
われわれは、ここに人文科学及び自然科学のあらゆる分野にわたる全国の科学者のうちから選ばれた会員をもって組織する日本学術会議の成立を公表することがきるのをよろこぶ。そしてこの機会に、われわれは、これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓うものである。そもそも本会議は、わが国の科学者の内外に対する代表機関として、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とするものである。されば、われわれは、日本国憲法の保障する思想と良心の自由、学問の自由及び言論の自由を確保するとともに、科学者の総意の下に、人類の平和のためあまねく世界の学会と提携して学術の進歩に寄与するよう万全の努力を傾注すべきことを期する。
 ここに本会議の発足に当ってわれわれの決意を表明する次第である。」
 
 また同年に、次のような声明も出している。
「学問、思想の自由尊重に関する日本学術会議声明」1949.10.6
 「大学等学術研究機関の人事については、学問、思想の自由を尊重することを旨とすべきであって、単に政党所属等を事実上の理由として、処置すべきではない。
 また、特に大学においては、学問・思想の研究に関連する教授会の権限が尊重せらるべきであって、これが、外部よりする政治的理由によって左右されてはならない。
 右声明する。」
 
 こうした声明をみれば、日本学術会議の性格を読み取ることは困難ではないだろう。
 そして、時々の科学研究の課題に対して、提言をしてきたわけだが、歴代の内閣の科学技術政策に批判的な提言を行うことも多く、特に自民党内閣は、学術会議と距離を置こうとしてきたことも事実である。そして、これまで、学術会議の独立性を露骨に侵害することは、あまりなかったが、組織や資金の点で、次第に政府の統括下に置こうと少しずつ介入してきたことも否定できない。政府は別に、科学技術の振興策を作成するために、組織を別に設置して、学術会議との直接対決は、避けてきたように、私には思われていた。
 ところで、これまで何度か書いてきたが、日本の様々な国力が、バブル崩壊以後低下してきたが、特に安倍内閣になってからが、顕著なのである。安倍政権によって、株高とか、失業率の低下とか、明るい数字ばかりを政府は強調してきたが、もっと重要な国民一人あたりの所得などは、かなり先進国として悲惨な状況になっている。そして、大学の国際的地位の低下もその一つである。おそらく、そのターニングポイントになったのは、国立大学が独立法人に編成変えされたことだったと思われる。(以下も便宜上国立大学とする)そして、この再編は、私は私立大学の教員になっていたので、リアルにはわからないが、おそらく、政府と国立大学の、特に研究系大学の思惑が一致したことによって可能になったように見える。
 政府の思惑は、国立大学に競争原理を導入しつつ、予算を減らしていくこと。毎年各大学の予算を1%ずつ削減していくことが決められていて、当初はそれほどの悪影響でもなかったようだが、かなり経った現在では、特に国の予算に依存している国立大学では、予算不足が深刻になっている。国立大学側は、それまで不自由であった外部資金の導入が容易になることで、歓迎した節がある。しかし、この再編には、学長の人事権や、理事会による大学運営の組織的変更など、大学の自治を脅かす他の要素もはいっていた。現在話題になっている東京大学の総長選などは、そうした管理機構の改編の悪影響が出たものといえるだろう。つまり、それまではかなり自治が保障されていた国立大学に、文科省の介入する余地が拡大したということだ。
 たしかに、一部の大学は、独立法人になって、資金が潤沢になり、いい思いをしているように見える。しかし、それはわずかな大学であり、またその大学内部でも、わずかな学部、学科、研究室である。一部の学科では、大学院生に、給与に相当するものが支払われているが、大部分の大学院生は、その大学であっても、高い授業料を払っているのである。こういうなかで、研究成果や教育成果があがると考えるのは、歴史を知らない者といわざるをえない。歴史的にみて、科学的な成果は、社会全体の教育水準が高まり、底辺での底上げが実現しつつあるようなところで、多く起きているのである。決して、一部エリートが独占的に科学の発展を押し進めたわけではない。その代表的な事例が、産業革命時代に、多くの発明を生んだイギリスだといえる。
 つまり、富が一部に集まるような社会よりは、社会全体に行き渡るような社会でこそ、社会的な発展があり、それは学術の世界でも同様なのである。また、これは常識的に理解できることだが、科学の発展にとって、絶対に不可欠なのは、学問の自由である。学問の統制を押し進めた戦前の日本を見れば、逆の側面から学問の自由の大切さがわかる。もっとも、戦前でも、自然科学は、かなり自由であった、という認識をもっている人もいる。しかし、それは時局にあう分野においてのみあてはまることであって、ほとんどの分野では、疎外されていたのである。
 今回の学術会議の推薦名簿から、首相が気に入らない人物を外したことは、そういう意味で、日本の学術研究にとって、極めて禍根を残すことになる。撤回される必要があることだろう。
 安倍元首相や菅首相にとって、学術の世界は、おそらくあまり関心のないところだろうし、ほとんど未知の世界に違いない。安倍氏は、かつてダボス会議で、これからの日本では、基礎研究などの無駄な分野ではなく、実用的な分野に力をいれていく、ということを、恥ずかしげもなく述べたことがある。おそらく、安倍氏は自慢げに述べたのだろうが、ダボス会議に出席していた人たちは、驚き、失笑し、軽蔑しただろう。安倍晋三氏の学術に対する意識は、この程度なのである。菅首相にしても、あまり違いがあるとは思えない。それはそれでよい。しかし、それならば、学術研究には、その世界を信用して任せるべきである。それぞれの専門分野には、独自の論理がある。もちろん、政治は、基本的には社会全体に責任をもつのだから、何も干渉してはならないということはない。不祥事などがあれば、それを是正させる必要がある。そのように、政府の介入が必要な場合もあるだろう。しかし、まだ仕事がはじまっていない、これからという人選の段階で、当の団体が選んだ人選を否定するというのは、社会全体にマイナスの結果を残すものだ。
 菅首相にとっては、権力の発動という快感なのかも知れないが、もっと歴史感覚をもつ必要がある。
 菅首相は、「法に基づいて適切に対応した」というのならば、きちんと説明できるはずである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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