『教育』2019.12号を読む 「黙」の強制

 確かに、授業で教師が説明をしているときには、静かに聴くことが多いだろう。しかし、その場合でも何か疑問に思ったことをつぶやいたり、あるいは、共感したら「そうだ」といってみたりすることは、決して説明を妨げはしないし、むしろ教師にとってはやりやすいのではないだろうか。
 では、何故、このように、「黙」が学校で強制されるのか。
 学校としての「公式」の説明としては、「無言清掃の目的は、校舎と心を磨くこと」と説明されることがあるという。無言での清掃が、活発に「ここが汚れているから、もっと掃除しよう」とか、「こうしたほうがいい」とか、確認しながら清掃するよりも、きれいになるかは疑問だ。無言だと心が磨かれるというのも、あまり合理的理由は見られない。結局、様々な場面を想定すると、私の想像では、「黙」は、「時間の節約」と「管理の容易さ」を求める学校、教師の都合によって、強制されている。集会の移動のとき、おしゃべりしながらするよりも、黙々と移動したほうが、早く着くことは自然だろう。おしゃべりしたりすると、列が乱れたり、なにかトラブルが起きるかも知れない。時間もかかる。だから、黙って歩いて早く行け、ということになるのではないか。
黙食
 どんなことでも、おしゃべり、会話しながらするのは、黙ってするよりも時間がかかる。今の多くの給食時間は、料理の運搬、配膳、食事、後片付けを、限られた時間内に終わらせなければならない前提がある。すると、食事時間は長くても15分程度になるようだ。15分で、おしゃべりしながら食べきれるものではない。大人だって難しいだろうから、子どもはなおさらだ。だから、「おしゃべりなんかしないで、黙って食べて、時間内に終わらせろ」ということになるのではないか。これは、食育とか、健康などを考えれば、明らかにマイナスである。
 しかし、これだけではないようだ。近年の給食指導の特質として「完食」がある。単に原則的に「残さず食べましょう」というゆるい指導であれば問題もないだろうが、「全部食べないと昼休みはない」という指導が以前は問題になっていた。最近は、むしろクラス毎の競争を組織する傾向がある。
 次のような例が紹介されている。
 まず、全校そろってのランチルーム給食の学校があるが、この時間が子どもにとっては恐怖だという。高学年の子どもが係になって、黙食や完食のチェックをして報告、成果が放送で発表、残食調査のランキングがなされ、掲示板などで公表される。いいクラスは表彰されるが、残食量が多いクラスの担任が校長に呼ばれて指導を受けるのだそうだ。
 自分たちが給食を残すと、担任が校長に呼ばれて怒られるのだから、子どもにとっては、確かに恐怖だろう。食べ残しを許してくれる教師だから、子どもたちには優しい先生に違いない。
 確かに食べ物を残すことはいいことではない。私自身、今では、環境問題を考えて、食べ物はほとんど残さないようにしている。米粒も全部丁寧に箸で摘んで残さず食べる。食べ物の残り物は環境負荷になるからだ。しかし、それは子どもに強制することではない。「全部食べろ」というのではなく、「食べられるだけの量をとりなさい」という指導を実行できる環境を整えるべきなのだ。配膳の受け取りをするときに、きちんと考えさせ、多すぎると思ったら減らしてもらえばよい。しかし、それには「時間」が足りないというのだろう。時間をやり繰りして、合理的に完食を実施するか、時間を節約して、無理やりに完食を強制するか、学校運営の力量が問われているのではないか。
黙働
 清掃はどうか。こちらはもう少し根が深い問題があり、また教科研メンバー内でも、必ずしも意見がまとまっているわけではないようだ。
 黙働は1930年代に始まったが、戦後は戦前への反省から見られなくなり、1970年代に復活しだしたそうだ。
 次のように紹介されている。
 1972年に、山口県徳山市の徳山小学校が無言清掃で学校事故を3分の1に減らしたことで、学校保健文部大臣賞を受けた。
 1974年に、長野県の中学校長が永平寺の禅行の影響で「自問清掃」が始まった。
 2004年に、国立教育政策研究所が無言清掃を好意的に紹介して、実質的に文科省によって奨励される形になっている。
 日本会議と関係の深いNPO法人「日本を美しくする会」が無言清掃や素手による便器清掃を実地指導し、その影響下にある「便教会」という組織が20都道府県で活動するようになっている。そして、「素手による便器清掃」をさせるような働きかけをしているのだという。しかし、それはさすがにネットで批判を受けているようだ。
 ひとつのポイントとして「永平寺」があるようだ。僧侶の修行寺として有名な永平寺の側にある福井県の永平寺中学では、永平寺流の掃除が定式化されているという。「清掃準備・机運び(6分)、正座で瞑想(1分)、規定に従い全員清掃(8分)、各自で気になったところの清掃(2分)、後片付け(2分)、正座で瞑想(30秒)、反省会(30秒)で20分で完了」というものである。この学校では、2年生のときに、永平寺での一泊研修が行われているというのだから、徹底したものだ。私自身、観光客としてだが、永平寺を訪れて、修行の様子をみたことがあり、感心したものだが、義務教育学校の中学生に強制するものとは思えない。そして、このような清掃を繰り返すことが、人間的な様々な能力の向上に役立つとは、あまり思えないのだがどうだろうか。
 更に徹底した実践として、無言清掃から、無音清掃に取り組んでいる学校もあるそうだ。仲間に対して指示や要求があるときには、みぶり手振りで意思疎通をする。ボディランゲージのコミュニケーション能力は高まるかも知れないが、コミュニケーション能力は、それも含めて、言語での能力が大事なので、やはり、本末転倒というべきだろう。指示や要求があるならば、言葉での意思疎通のほうがずっと効率的のはずだ。
 では、無言というのは、まったくナンセンスなのか。もちろん、個人的に何か集中しているときは、通常無言である。だから、掃除などは、自分の役割分担が明確になり、どのようにやればいいのか了解している段階であれば、それをできるだけ丁寧かつ迅速に行うために、無言に自然となるものだろう。だから、みながきちんと清掃に取り組んでいるときには、特に黙働を強制する必要などないわけだ。問題は、掃除はさぼる子どもが少なくないという点だろう。さぼるといっても、まったくやらない場合と、だらだらおしゃべりしながら、あるいは他人の邪魔をしながらやる場合もある。それを役割分担を了解させ、さあやろうということで、解消されるなら、おそらく現場でも戦後になって、黙働が普及しなかったに違いない。そこで最も簡便な「黙ってやる」ことが導入される。少なくとも、導入したときに、多くの教師が追随する理由ではないだろうか。 
 「教師にとっては楽なこともある。休み時間は喧騒が普通なので、無言清掃は落ち着くし癒しになる。」という紹介されている教師の言葉が、それを如実に示している。疑問に思っても、なかなか言い出せない教師が多いそうだ。では、どうすればいいのか。現場の教師ではない私には、的確な処方箋を提示することはできない。先に書いた原則的なありかたを、粘り強く実践して、子どもたちがやがて納得するように仕向けるということだろうか。
 最後に教育学の世界でも、無言清掃をポジティブに評価する者もいるとして、志水宏吉氏があげられている。彼は、優れた教育実践をしている学校の分析で有名であるが、「鍛える文化」として、無言清掃を部分的に効用を認めているという。例えば、子どもの反応として、実際に清掃をしてみて、今まで気づかなかったところにごみがあることがわかったという経験談が紹介されている。無言ということは、集中していることだから、集中して清掃をしたことによって気づいたことがあるというわけだ。だから、先に述べたように、無言である「部分」とコミュニケーションの部分の使い分けが必要だということになる。
 この特集の最後に、そもそも「清掃」を子どもにやらせることの是非が提起だけされているが、これはまた別の機会に考察しよう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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