いる報道でも、なんとかならなかったのだろうかと思われる点がある。
ネットでの意見でも、引きこもり状態があったとか、あるいはコミュニケーションに苦手で、ときどき威嚇的な行動をとるということが、近所のひとたちから語られており、それに対して、銃の所持の許可がおりたのはおかしいのではないか、というのが多数あった。銃所持の許可は、かなり厳しい審査があるということだが、20代後半の時点で、特に職業的、あるいは害獣の処分が必要な状況でないにもかかわらず、銃の所持が認められたのは、確かに疑問をもたれるところだ。日本では、アメリカのように銃犯罪、したがって、殺人事件も少ないのは、銃規制が徹底しているからだといわれているが、こうした事件が起きると、やはり、銃規制の強化が叫ばれることになるだろう。猪や鹿など、農産物に被害をもたらす野生動物については、猟を認められているから、そうしたひとたちには、許可する必要があるが、やはり趣味での銃所持は、強い規制があってしかるべきだと思う。
更に考えてしまうのは、彼のこれまでの人生の歩みである。近所のひとたちの話では、コミュニケーションに問題があり、あまり地域での交流はなかったという。都会の大学に在籍していたが、中途退学して、戻っていたという。家は代々長く続く農家で、高級果物を栽培で、ジェラード店を軽井沢にだしていて、人気だったというが、当人は、事業をしようとして失敗していたともいう。父親は、農業を営むとともに、市議会議員で昨年からは市議会の議長を務めていたという、地域の名士といえるだろう。昔風にいえば、豪農であり庄屋として、地域のまとめ役でもあるようなひとにちがいない。父親と母親が、果実をつくりつつ、店も成功させているというから、有能なひとにちがいない。
傍目でみれば、うらやましい家庭だし、子どもにとっては、実に理想的な状況ではないかと思われるだろう。
しかし、おそらく当人にとっては、いろいろと不満なところがあったに違いない。大学の中退はもっとも気になるし、また、特別生活上必要とも思われないのに、銃をもつということも、かなり違和感がある。社会のなかで創造的な仕事をして成功している両親の子どもだから、能力が低いひととは思えない。ということは、自分がやりたいことと、親の期待(それを決して主観的には押しつけていなかったとしても)との間のミスマッチがあったのではないかと思わざるをえないのである。
親が代々続く農家であるというと、親たちは社会の変化にうまく適応しているひとたちのようだが、それでも、基本的には伝統的な考えを強くもっているひとではないかと思うのである。あるいは、まわりがそういう期待をこめて、環境が形成されていたのかも知れない。彼は、サバイバルゲームが好きだったという。私自身は、サバイバルゲームについて、まったく興味がないし、あのような過酷な状況に身をおいて、自分を試すような感覚もないし、またどういうひとが関心をもつのかもわかっているわけではないが、少なくとも、彼がサバイバルゲームに関心があり、銃をもっているということは、やはりつよく自分は束縛されているという観念に囚われていたのではないかと思うのである。
家庭的に恵まれているということは、逆に制約もあるということにもなる。
軽々しくいえることではないが、ひととのコミュニケーションがうまくとれないと、社会のなかでは、生きづらいのは確かであるし、多くの職業は、コミュニケーションが必要である。しかし、コミュニケーションなどほとんど不要だという職業もある。具体的な例をあげても意味はないからあげないが、結局、当人もそうだが、まわりも、自分たちが生きてきた社会とは異なる社会を、次世代の者は生きていくのだから、とにかく、責任と自由を与えて、まずは自分のやりたいことをやらせること有効なのではないだろうか。特に彼の場合、生活に困ることは当面ないのだから、経済的自立は先のことにして、自分のやりたいことを徹底的にやらせることで変わったかも知れない。
そんなことはしているというかも知れないが、そのことに共感できる大人は少ない。心のそこで、くだらないことをやっていると思いがちなのである。世間的には、どんなにつまらない些細なことでも、本人が打ち込めることであれば、そこから少しずつ広げていくことができるし、また、そういうことに打ち込んでいるひとをネットで探すことができれば、そういうひととはコミュニケーションがはずむのではないだろうか。
彼について、ああすればよかったというようなことは、意味がないが、似たような状況になる青年・中年はたくさんいる。また、そういう予備軍もいるに違いない。少なくとも予備軍に対する、まわりの大人の対応は変えられる。自分が好きなことを、まわりは認めてくれない、という意識を、まわりの大人が、心底共感を示せるかが、ひとつの鍵なのではないか。