三上和夫氏が亡くなった

 三上和夫氏といっても、知る人ぞ知るということもいえるが、教育学の世界では、著名であるし、また実力ある研究者だった。現在、私は、大学時代の教授(ただしゼミ生ではない)であった五十嵐顕全集の編集の手伝いをしているのであるが、五十嵐先生がなくなったとき、強く著作集の刊行を三上氏が主張したが、反対もあり、それは実現しなかった。その経緯については、三上氏から直接何度も聞かされており、したがって、今五十嵐顕全集が準備されていることについて、三上氏は非常に喜び、可能な協力を惜しまなかった。その協力によって入手できた五十嵐論文も少なくない。しかし、この完成をまたずして亡くなられたことは、本当に残念だ。

 私の大学時代は「紛争の時代」であり、とくに私が進学した学科は、紛争時代の対立が人的にまだ色濃く残っており、今から考えると、あまり研究に好ましい環境ではなかった。大学院に進学すると、当時はオーバー・ドクターが多数おり、就職難によって、年々多くなっていた。就職難はいまでもかわらないが、いまでは、院生の数を減らすことで対応するようになっているという。しかし、当時は、大学院への進学は「権利である」という意識が強く、とくに私の進学した学科は、定数いっぱい入学させていたので、ほんとうに院生数が多かった。そして、教授たちは、極めて忙しいひとたちだったから、綿密な学生指導などはできない状況だった。私の学科では、先輩院生が、新入学院生の研究指導をするという体制がとられており、私の指導者が三上和夫氏だったのである。だから、院生時代に、三上氏とは、私の研究内容について、たびたび議論をしたわけである。そういう事情の故か、極めて難解とされる三上氏の文章を、私は比較的楽に読むことができた。
 さて、以上は、個人的なことだが、やはり、研究者としての三上和夫氏について、少し触れねばならない。
 三上氏は、日本の教育制度や政策、財政について、広く、かつ詳細な研究していたが、私がもっとも高く評価するのは、「学区」に関する史的な研究である。学区というと、いろいろな意味があり、通常は、通学区のをことをさすが、主にアメリカに存在する行政委員会としての学区について、三上氏は実際に極めて短期間存在した日本の学区を研究してまとめたのが、『学区制度と住民の権利』であり、この著作にたいして、教育学博士号が授与されている。蛇足だが、私も「統一学校運動の研究」で、同じときに、博士号を授与された。
 独立行政組織としての学区とは、その学区内の学校にたいして、立法・行政権を行使する自治組織であるわけだが、日本には、極めて短期間の一部地域にしか存在しなかったにもかかわらず、それが意味をもつのは、教育の自律性のシステムだからである。教育の自律性とほぼ同じような意味で、国民の教育権論は、「教育の自由」の主張として押し出してきたが、しかし、その教育の自由論は、具体的なシステム論としてではなく、ある種の抵抗の精神のようにあつかってきたように、私には思われた。JSミルは、自由を社会的・政治的な意味と、精神的な意味とに分類したが、国民の教育権論は、教育の自由を精神的な自由論のレベルであつかってきたことになる。しかし、教育の自由を社会的に実現するためには、やはり、それを可能にするシステム、制度が必要なのであって、三上氏はそれを「学区」におけるさまざまな要素を現代に活かすことに見出したのである。そして、実際に、それが具体化できる契機が、1990年代にむしろ政策側によって提起された学校選択論だった。私は、それ以前から、オランダの学校選択論に研究対象を定めていたのだが、そこで、三上氏と共同して学校選択論の主張を展開するようになった。そして、『現代のエスプリ』に学校選択論の特集を、法政大学の坂本旬氏、東大の小玉重夫氏(当時はお茶の水女子大)の4名で編集公刊した。ほかにも三上氏とは共同作業をしたが、やはり、この学校選択の仕事が、私にとってはもっとも重要だった。
 三上氏の健康がすぐれないことは、けっこう前から聞かされていた。若いころから極めてハードな研究をしていたから、身体の酷使に耐えられなかったのかもしれない。元気であれば、当然五十嵐顕全集編纂にももっと直接的にかかわってくれたはずだが。また、私の住んでいた場所と、三上氏の家族の住所が近かったので、家族ぐるみの付き合いもあった。とくに私はオーバードクターの時期がながく、就職できない時期に、勤務先から家族のところに帰る岐路、私のところに一泊して、語り合い、励ましてくれることが度々であった。彼は、多彩な趣味をもっており、陶器づくりに熱中したり、パイプの彫刻に一時こっていた。マルクスの顔を彫り込んだパイプを見せられたときには、その精妙さに驚くとともに、笑ってしまったことも事実だ。
 ご夫婦は、勤務地が異なるので、長い間同居できなかったが、定年後同居が実現し、晩年をともにすごすことができたこと、そして、ハードな生活から解放されてゆったりとすごすことができたことは、三上氏にとっては、ある意味とても幸せだったのではないだろうか。冥福を祈ります。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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