国際教育論3回 Q&A

Q ソンミ村の虐殺などの事件は南ベトナムで行われていたのですか?
A ベトナム戦争というのは、アメリカの方針としては、南ベトナムを「守る」ということであり、南を「不当」に援助しているから北ベトナムを攻撃しているにすぎず、あくまでも基本は南ベトナムにおける「民族解放戦線」との闘いでした。解放戦線はゲリラ活動をしていた兵士たちでしたから、民間人との区別がつかず、そこで村全体を消滅させてしまうというような乱暴な作戦がかなりとられていたのです。ソンミはその一例に過ぎず、似たような事例は他に多数ありました。北に対する攻撃は爆撃機等を使ったもので、兵士が上陸して陸地での戦闘行為をするということはなかったはずです。

Q 南ベトナムの人でアメリカに味方した人は、統一に納得できたのか、統一後に差別されたりしなかったのかと思いました。
A そこに極めて大きな問題が残っていたというべきでしょう。問題の層はたくさんありました。
 まず、当初から北ベトナムは、ひとつの国家を成立させることを意図していました。そのことが変わったことはないのです。しかし、実態として、南ベトナム政府ができ、ふたつの国家として20年間程度分かれていたわけですから、南で活動する民族解放戦線の中には、北と統一することを当然とする人たちと、ひとまずは南がアメリカの支配を脱して独立し、その後様々な条件を考慮して、統一のための模索をする、あるいは分化したまま継続するということを考えていた人たちもいました。そういうことは、対アメリカ戦争を闘っていたときには、問題にならなかったのですが、アメリカが出ていって、解放戦線が勝利したあと、早速問題となりました。
 まずアメリカにあまりに接近していた人たちは、当然のことながら、戦後生きていくことはできないと考えていましたから、亡命することになります。そまつなボートにのって亡命した人が多く、「ボートピープル」と呼ばれました。日本もかなりの難民を受け入れました。現在日本で活躍しているベトナム人たちは、このときにやってきた人たちが多いはずです。亡命することもできず、難破して死んでしまった人たちもたくさんいました。
 独立後の最大の問題は経済でした。20年間ずっと戦争をしていたわけですから、経済的には全く基盤ができていなかったのです。もちろん、農業はあったとしても、散々爆撃されていましたから、面積の割に使える農地は圧倒的に少なかったはずだし、工業などはどうにもならない程度だったでしょう。20年間、ベトナム戦争を支持するソ連や中国を中心とする世界的な援助に頼って、生活物資を確保してきたわけですから、戦後そういう援助物資がなくなって、直ぐにベトナム経済は行き詰まってしまいました。今なら、国際的な援助態勢がしかれたのでしょうが、そういうこともなかっただけではなく、アメリカは撤退し、まわりのカンボジアが大変な破壊された状態になり、更に悪いことに、中国と対立するようになります。中国がカンボジアのポルポト政権を援助するようになって、カンボジアとの戦争や中国との戦闘も起きました。そういう中で、ドイモイ政策という新しい経済政策を実施するまで、ベトナムは極めて困難な状況に置かれていました。やっと落ち着いてきたのは、この10数年のことだは思います。日本はそうなって、今はベトナムへの投資を積極的に行うようになりましたが、かなり長い間、ベトナムは入国危険度が高い国となっていましたから、なかなか復興が進まないというのが実態だったと思います。ここらは、興味があったらいろいろと調べてください。

Q アメリカは何故ジャングルを進む戦法をとったのでしょう。
A 北ベトナムはジャングルの道を切り開いて道をつくり、その道を使って南に軍事物資や生活物資などを運び、解放戦線に渡していたのです。ホーチミンルートと名づけられたその道を遮断しなければだめだというので、もちろん、空爆もしていましたが、それでは効率が悪いというので、実際にジャングルで解放戦線を壊滅しようという作戦をとったと思われます。

Q トンキン湾事件などのフレームアップをアメリカ人は気づかなかったのでしょうか。
A もちろん当初は気づかなかったと思いますが、ジャーナリストたちの報道で次第に疑問が広がり、やがて気づかれるようになり、反戦運動が高まったといえます。

Q ベトナム戦争ではアメリカ・北ベトナム双方の映像が流れていたが、現在はアメリカ側しか流れないのは何故か。
A これも単純ではないと思います。当時の日本で、ニュースで流れていた映像は圧倒的にアメリカのものでした。ベトナム解放戦線の映像は、むしろときどきのドキュメンタリー番組とか、映画が上映されたりしていました。中国やソ連などでは、逆だったかも知れません。とりあえず、双方が宣伝のために報道関係者をいれ、取材をさせていたのですが、宣伝効果があると思っていたら、逆に戦争の悪い面が明るみに出てしまい、その後、都合の悪い映像が流れないように、暴動関係者への規制を強めたという政策に転換していったと思われます。その転機が湾岸戦争でした。湾岸戦争では、CNNが特権的に映像の配信を認められ、他のメディアはかなり締め出されていましたし、また、最初から高度な戦闘機器による戦争でしたから、戦闘場面で報道関係者が歩き回って取材をするというようなことはできなかった面もあると思います。

Q ベトナム兵はPTSDにならなかったのか。
A あくまでも精神医学の進歩したアメリカ社会での動向ですから、同じ現象があったとしても、同じように理解されるかどうかはわかりません。ベトナムの方がずっと傷は大きかったのですから、後遺症があったことは当たり前のことでしょう。しかし、ベトナムの場合には、次の建国という作業がありましたし、闘うことについての罪悪感は少なかったはずなので、気分は違っていたと思っていいのではないでしょうか。当時どのように闘っていたのかというようなインタビューがかなりNHKによって21世紀になってから行われましたが、その映像なども見るといいかと思います。

Q フレームアップはいつごろから行われていたのでしょうか。
A 正確はわかりません。たぶん戦争という行為が発生したときからあったのではないでしょうか。とにかく戦争にはフレームアップはつきものです。
 イラク戦争で、ある女性兵士が英雄扱いされたことがありましたが、あれも、本人が嘘だったという告白をして、フレームアップだったことがわかってしまいましたが、とにかく、開戦だけではなく、戦争行為の中で常に発生するものであり、情報を吟味しなければならないということでしょう。

Q ベトナムの行ったゲリラ戦についてがよくわからなかった。
A 古典的な国際法は「戦時」と「平時」を区別するもので、戦争が起きたときに、国家として守るべきことを定めようというのが、もっとも軸になっています。「宣戦布告をする」とか、休戦会議とか、使節に対する遇し方とか、様々なことが決まっていますが、その中のひとつに、戦闘行為は「正規軍」が行うというのがあります。そして、正規軍と戦闘行為をしているときには、相手を殺害してもいいが、捕虜になったら礼節をもって遇しなければいけないとか、そういうことが決まっているわけです。日本が戦争中のことで非難されたのは、この捕虜の扱いが大きな部分を占めていました。
 正規軍以外は非戦闘員なので、攻撃してはいけないし、殺害すれば、平時の殺人罪が問われます。
 ところで、こうした戦時法は、王朝的な戦争がイメージされており、植民地独立戦争などは、まったくイメージされていません。植民地保有国の発想なのです。独立戦争をしている人たちは、圧倒的に不利なわけですから、正規軍などという形をとらず、市民みんなが抵抗戦力となりますう。支持されていればですが。つまり、そこでは、正規軍と非戦闘員たる市民との区別がなくなるわけです。
 これは、闘う側としては非常に有利なので、弱い方が、政府の正規軍と闘う場合には、あるいは植民地の外国の軍隊と闘う場合には、通常の形になったのです。典型がベトナム戦争だったといえるでしょう。
 しかし、政府側、当地側にとっては、なかなかやっかいです。兵隊と市民の区別がつかないのですか。そこで、無差別攻撃などが出てくるわけです。現在のアフガン戦争はそうした状況になっています。