「普通に死ぬ」のもなかなか難しい2

 前回は、死去に伴う「死の認定」で振り回された話だったが、今回は、死後の身辺整理の話だ。父は、老人ホームに入居して生活していたわけだが、ほとんどの人はここで死を迎える。ただ、ホスピスのような施設ではなく、普通に近い生活をしている人たちもいるし、父のように、あまりに高齢になっているために、歩行能力がほとんどなくなって、寝たきり状態になっている者もいる。そして、100歳以上の人も何人かいるような施設である。雰囲気はとてもよく、2,3回食堂につきあったが、90歳を超えた人たちが多いにもかかわらず、あったかい雰囲気があって、断片的ではあるがコミュニケーションもある。おそらく多くの入居者は、人生の残りはここで生活するのだという意識だろうと思う。父の場合もそうだった。だから、それぞれの部屋には、生活に必要なものがほぼ揃っている。自宅あるいは借家に一人暮しだったが、自分で食事を作ったり、掃除洗濯することが難しくなって、住んでいるところを引き払い、持ち込める最大限の荷物をもって入居した人も少なくないだろう。父の場合は、兄夫婦と同居していて、そこに家もあったから、すべてを持ち込んだわけではないが、帰ることはないという意識で、施設に入居したから、それなりの荷物がある。
 今回のテーマは、こうした荷物をどう処理するかという問題だ。 “「普通に死ぬ」のもなかなか難しい2” の続きを読む

国際社会論ノート 慰安婦問題を考える2

4、日本政府は現在賠償を支払うべきか
 この問題についても、極めて強固な対立する立場がある。
 まず確認しておくべきは、否定派がいかに「強制連行がなかった」と主張しても、朝鮮半島の人たちが、自発的に応募した事例は、あったとしても少数であることだ。戦局が悪化した時点にいた慰安婦たちの聞き取りでは、半島出身の人たちの表情は、他の国の出身者たちとは明らかに異なっており、日本兵に対する否定的な態度が強く出ていたと報告されている。つまり、強制連行ではなかったかも知れないが、詐欺的な方法で連れて行かれたことは間違いない。そのような人たちに対して、謝罪・賠償をすべきことは、当然だろう。しかし、ここで「方法」の対立が生じている。 “国際社会論ノート 慰安婦問題を考える2” の続きを読む

首里城火災でなんとなくすっきりしないこと

 私自身沖縄を訪れたことがないので、他のひとほどの入れ込みがないのだが、完成して間もなく消失というのは、なんとも残念なことだ。また、ごく最近完成した建築物なのに、これほど簡単に焼失してしまうのが不思議だ。火災後、既にさまざまな動きがある。それがどうもすっきりしないのだ。
 まず、火災が起きて、なんとも早い時期に、沖縄知事が官邸を訪問して、協力を要請し、官房長官が最大限の協力を約束した。そして、間もなく再建に関わる援助をする旨の閣議決定までされた。
 他方、こうしたことに敏感に反応するyahooニュースの書き込み、例によって大量だが、納得できる書き込みもあるが、そうでないものも多い。だいたい次のような内容がほとんどである。
・管理が国から県に移った直後に起きたのだから、県の責任であり、県が再建するにせよ負担すべきである。
・県がイベントなどを許可したことが、背景にある。
・洪水などの災害のほうが問題で、自然災害への援助に予算を使うべきで、再建などする必要がない。 
 大体このような意見が圧倒的であった。しかし、フェイク的要素もある。イベントは、県に管理が移管する前から行われていたので、県の管理になったことが原因ではなく、しかも、イベントを行っている業者は、かなり電気などに気をつけているという指摘もある。窪田順生氏によれば、火災の真の原因は、入場料が低く抑えられているために、防災などに充分な費用をかけられないことにある。海外ではこうした重要な観光施設では、入場料が日本の3倍程度であり、そのために充分な防災設備が設置されているという。今回問題になった、スプリンクラーが設置されていなかったというのも、木造だから無理だというのは間違いで、木造でも可能だと窪田氏は主張している。確かに、何故あのような建築物に絶対必要なスプリンクラーが設置されていなかったのか疑問であるが、これは、当初からの設計上の問題だから、おそらく、入場料の多少によるものとも思われない。しかし、こうした原因に関する議論は、今後、今回の火災原因の究明と合わせて、しっかり議論していくべきものだろう。

 私がすっきりしないのは、民間の意見では、かならずしも再建が必要という方向に傾いているわけでもないのに、政治的に再建を当然視し、政府は調査であろうが、予算をつける意思決定までしていることである。 “首里城火災でなんとなくすっきりしないこと” の続きを読む

読書ノート『黎明の世紀』深田祐介を読む

 第二次世界大戦はどのような戦争だったのか。いまだに続いている論争である。歴史学的に事実を積み重ねれば、あまり疑いようのない歴史認識が形成されると思うのだが、運動や実践に関わっていると、ともすると、自分と同じ傾向の書物しか読まない、あるいは、自分に都合のいい事実のみ取り上げ、そうでないものは無視する。そうした傾向は、残念なから、まだまだみられる、あるいはますます強くなっている。私はできるだけ、自分と異なる立場の書物を読むことにしているのだが、この本もそうした種類のものである。
 著者の基本的な目的は、ポツダム史観、あるいは東京裁判史観と呼ばれるものを否定したいということにある。深田氏のような立場の人は多数いるわけだが、彼らの理解によれば、東京裁判史観とは、第二次世界大戦は、ファシズムと民主主義の闘いであり、ファシズム側が侵略戦争をしかけ、民主主義側がそれを防ぐ正義の戦争を闘って勝利したと解している。東京裁判は、勝者が敗者を裁くものであり、勝者が自分たちを民主主義、正義の立場にたち、相手が悪、つまりファシズムであったと規定するのは、ある意味当然であろう。日本がサンフランシスコ条約を受け入れたことは、この東京裁判の判決を受け入れたことを意味しており、国際社会における「建前」としては、それを「国家が否定」することは、サンフランシスコ条約を破棄することに等しい。ヒトラーがベルサイユ条約を破棄することを意味する再軍備やラインラント進駐などを実行したことは、歴史的事実であるが、日本政府がこれまで、サンフランシスコ条約を破棄する行為に出たことはない。しかし、政治家そして、保守的思想家からは、東京裁判史観を批判する見解は絶えずだされている。 “読書ノート『黎明の世紀』深田祐介を読む” の続きを読む

オペラ随想 聴衆の登場とオペラ

 現代の音楽に限らず、演ずる芸術は、聴衆の存在があって初めて成立する。文学にとっては読者が必要だが、まったく読者がつかない文学はありえる。そして、死後評価されるようになる文学も存在する。しかし、音楽は、聴く者の存在なしには存立し得ないといってよい。聴くものがいないまま、作曲家が死んだあと、何かのきっかけで、その作曲家の作品の人気がでることは、個別の曲としてはあるが、作曲家としては、私の知る限り存在しない。有名な作曲家は、生きているときから有名だったのである。何故そうなのか、確信はないが、おそらく、音楽は、創作(作曲)と鑑賞者(聴衆)の間に、演奏者という媒介者が必要だからではないと思う。古くは、作曲家が演奏することが多かったにせよ、やはり広く知られるようになるためには、他の音楽家によっても演奏されることが必要だったろう。特に、ロマン派以降は、作曲家と演奏家は分離してくるから、尚更である。演奏家もプロだから、曲への共感がなければ演奏しない。演奏家がすばらしい音楽だと思うから演奏する。そして、優れた音楽だと感じれば、今度は、演奏家が自分の存在意義として、活発に演奏して、広く知らしめるだろう。従って、優れた音楽を創作した作曲家は、聴衆をたくさん獲得し、そして、そのことによって、作曲家としての地位を固めていくことができる。 “オペラ随想 聴衆の登場とオペラ” の続きを読む

英語民間試験し中止 一人の政治家が高校生や教師全体より大事なのか

 英語民間試験の導入が、突然延期された。毎日新聞は「白紙に戻された」と報じているが、今後の問題についてはあいまいだ。しっかり善後策を検討して数年後に実施したいという発表だったと思うが、そもそも無理がある制度なのだから、どうなるのかわからない。小室圭-真子内親王婚約延期なども、着地点がまったく不明だから、同じようなことが起きたといえる。
 11月1日の毎日新聞は、「英語民間試験見直し 「萩生田氏守るため」官邸が主導」という見出しをつけている。記事の内容は、見出しの通りだ。閣僚2名の辞任が相次いだので、安倍首相の最も近い側近の一人である萩生田氏が辞任に追い込まれるのは、絶対に避けなければならないという「官邸」の判断で、試験の延期が決定されたというのだ。事実、文科省は抵抗したようだし、民間検定試験機関との連絡は行われていた。それも突然の延期公表で中止になった。
 しかし、よく考えてみよう。一人の政治家の地位を守るために、全国の受験生を犠牲にしていいのか。もちろん、多くの人が、民間試験採用は中止すべきだと主張しており、私もそう書いたから、延期(中止)はよい。しかし、欠陥を是正して実現したいと表明していたのだから、どうやったら欠陥を是正できるかの最低限の検証を経て、やはり、今の段階では無理だとわかったから中止したいというのであれば、まだ納得できる部分がある。 “英語民間試験し中止 一人の政治家が高校生や教師全体より大事なのか” の続きを読む

オペラの読み替え、筋変更は何故 ローリングリンの場合

 二期会の「蝶々夫人」の筋の変更について書いたが、筋の変更は、現在ではむしろ普通のことになってしまった。結末を変えるのは、むしろ大人しいほうで、時代や登場人物の社会的存在まですっかり変えてしまうことも珍しくない。ワーグナーの「タンホイザー」では、原作は、吟遊詩人の話だが、画家だったり、詩人だったりする。近年のバイロイトでは、自動車工場が舞台になっている。あまりに馬鹿馬鹿しいので、どうしても直ぐに視聴するのを止めてしまう。ワーグナーはどれもみな長いので、実際の舞台での視聴なら最後まで我慢するが、DVDやBDだと、途中で放り出してしまう。そうした素材の分析をこのブログに書くように心がける以外に、全部見る方策はなさそうだ。
 実は昨年の二期会での上演をみて、文章を書いていたのだが、アップしていなかったのがあるので、多少書き直してアップすることにした。 “オペラの読み替え、筋変更は何故 ローリングリンの場合” の続きを読む