『教育』2020.11号 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」を読む

 人はどこで、どういう風に学ぶのだろうか。このことを考えるときに、ふたつ重要な視点がある。
 第一に、人は、あらゆる場で、あらゆるときに、学んでいるということだ。多様な筋道の学びがある。学校に通っている人も、塾、通信添削、家庭教師、読書、スポーツクラブ、習い事、テレビ、ラジオ、新聞、インターネット、友人との会話、SNSやメールのやりとり(昔は手紙)等でも学んでいるだろう。
 第二に、そのことの裏返しでもあるが、学校の教室で学んでいることなどは、ごく一部に過ぎない点である。そして、教師は、その点をはっきりと自覚するだけではなく、子どもたちが学び場や方法を、できるだけ豊富にもつように指導すべきであるという点である。教え子たちは、上級の学校や社会に巣立っていく。そのときに、学校で学んだことしか修得しておらず、あるいは学校での学び方しかできないとしたらどうだろうか。あらゆることから学べる人間として送り出す必要があるはずである。
 菅間正道「リアルな学び/交わりとオンラインをめぐる一考察」は、教育に必要なことを追求しているだけではなく、余儀なくされた休校措置のなかで、可能な限りのことを実践している。菅間氏は、自由の森学園高校の教頭先生だが、自由の森学園は、私のゼミの学生で卒論で扱った者がいた。なんと卒業式にその学生は出席し、ビデオを撮ってきたので、それを見たことがある。現在の堅苦しい学校教育のなかで、創造的な教育をしている少ない学校であり、この論文にしても、そうした校風故に可能になった積極的な面を感じる。

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『教育』2020.10号を読む 山本宏樹「インターネットを生きる子どもたち-その保護と教育」

 山本宏樹氏の「インターネットを生きる子たち-その保護と教育」を取り上げたい。
 一読して、正直なところ、憂鬱な気分になった。ここに書かれていることは、間違っていない。子どものネット利用に関して、様々な数値が書かれているが、そういう調査があるのだろう。ネット利用の光と影についても、例が出されている。これも、そういう事実があるのだろう。そして、終りのほうに、優れた実践が書かれている。
 では、何故憂鬱な気分になるのか。
 間違ってはいない「事実」が書かれ、優れた実践が紹介されているからといって、適切な方向性が示されるわけではないという、極めて典型的な文章だからである。私の知人は、こうした文章は、ICT活用に対するラッダイト運動だと評している。私は、そこまで言う気持ちはないが、しかし、いいたくなる気持ちはわかる。 “『教育』2020.10号を読む 山本宏樹「インターネットを生きる子どもたち-その保護と教育」” の続きを読む

『教育』2020.9号を読む 神代健彦「『能力と発達と学習』をゆっくり読む」の検討

 勝田守一著『能力と発達と学習』は、私にとって、戦後最高の「教育学概論」「教育学入門」の書であり、いつかこれを越える『教育学』を書きたいと、ずっと思い続けて、なお果たせないできた高い峰である。しかし、若い世代にとって、勝田守一は、ほとんど過去の人であり、検討に値しない教育学者と考えられていると聞いたことがある。神代氏が「勝田の教育学は、「発達」や「子ども」を無謬の前提として、あらゆる社会的要請を無視するものであるかのように言われる」と書いていることからもわかる。そういう世代であるにもかかわらず、『教育』編集部の依頼に応えて、この決して読みやすいとはいえない本の「現代的意義」を論じるという、あまり気乗りのしない仕事を、果敢に引き受けられたことには、敬意を表すべきだろう。
 しかし、やはり、勝田に共感していないせいか、私には、とうてい納得できない読み方をしているように感じる。
(1) 最初に、総括的結論が示される。「あまり面白い本じゃない。」「いま流行りの教育論を素朴にしたような感じで、はっきり言って新味がない。」

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『教育』2020.8号を読む 荒井文昭「現場で決める--教育の自由を支える民主主義のかたち

 第二特集「コロナ一斉休校と子ども・教育」の最後の論文は、荒井文昭氏の「現場で決める--教育の自由を支える民主主義のかたち」だ。
 題名が「現場で決める」だから、まず「現場が決められない」状況から入っているのだが、「パソコンとwifi機器の無償貸与をしながら、双方向性を確保しようとしている一部の学校、NPO」がある一方、多数は、指示待ちの状態に置かれていることが、「深刻な事態」という。確かに、私が聴いている現場の声でも、指示待ち状態が多いが、しかし、それは積極的な提案をしても、上から潰されるという事態もあわせて起きており、強制された指示待ちという、いかにも残念な事態であることが多い。残念ながら、この文章では、積極的な提案が潰されることについてのコメントがないことだ。筆者の職場でも同様なことが起こったというが、それについては、「東京の教育に象徴される教育政策の結果」であると、そのこと自体は間違いではないにせよ、ではどう切り込むかいう視点があまり感じられない。職場の大学での実践を紹介しているが、大学と小学校、中学校では状況はかなり違う。オンライン教育の実施などを提唱しても、待ったがかかるのは、教委の消極性だけではなく、確かにネット環境の整備が遅れていることがある。では、それに対応しようがないとかといえば、私はあったと思っている。例えば、ネット環境がない家庭では、学校に登校させて授業を行う、その授業をZOOMなどを使ってネット配信して、双方向授業とする。そういう案をいろいろなところに提示した。当初は、数人数の登校は認めるところが多かったのだから、可能だったはずである。困難な状況であるほど、創造的に対応を考えねばならない。

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『教育』2020.8号を読む 戦争の社会認識を育てる実践

 今回取り上げる文章について、かなり批判的色彩が強いが、実践そのものを否定しているわけではなく、優れたものだと考えている。批判はあくまでも、価値ある文だと思うので行うものであることを、最初に断っておきたい。

 中山京子「教師の社会認識を育てる--海を越える取り組みから」を取り上げる。中山氏は、小学校の先生を11年やったあと、大学で教職課程担当の教員をしている。中山氏の文は、教職をとる学生に対する採用試験の学習と大学の学問との関連、日米の教師で英語でのパールハーバーとヒロシマを考えるワークショップ、グアムへのスタディ・ツアーに関する三つの柱で構成されている。それぞれ興味深い提起がなされているように思われる。しかし、それぞれに若干の疑問も感じるのである。 “『教育』2020.8号を読む 戦争の社会認識を育てる実践” の続きを読む

『教育』2020.8号を読む 佐久間建ハンセン病学習

 特集1の「社会の課題に向きあう教師たち」の最初の文は佐久間建「教育実践から社会認識へ--ハンセン病人権学習を進めるなかで学んだこと」で、筆者は小学校の教師で、『ハンセン病と教育』という著書がある。
 佐久間氏がハンセン病と出会ったのは、勤めた小学校の近くにハンセン病施設があったからだ。1993年のことで、96年に廃止された「らい予防法」がまだあったので、「おばあちゃんが全生園にいってはいけない」と言われている子どもがいたそうだ。
 ハンセン病はかなり古い時代から知られていた病気で、聖書などにも出てくるそうだが、感染力は極めて弱く、それほど恐れられていた病気でもなかった。この文章では触れられていないいが、社会的な差別の対象になったのは、明治時代からである。歴史的に有名な人では、関ヶ原合戦で最も奮戦して敗れた大谷善継がいる。殿様だったということもあるだろうが、尊敬され、高く評価された戦国武将だった。つまりハンセン病が大名として活動することの妨げにはならなかったわけである。 “『教育』2020.8号を読む 佐久間建ハンセン病学習” の続きを読む

『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2

 昨日に続いて、今回は石坂友司氏の「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」を考えたい。
 石坂氏は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関わりについて、ポジティブな面もあると断りながら、ネガティブな部分を強調する形になっている。ポジティブ面はほとんど書かれていない。私には、スポーツがナショナリズムと結びつくことのポジティブな側面というのは、思いつかない。昨日書いた、当初のオリンピックの価値を見ても、むしろナショナリズムを越える部分に意味があるといえる。国籍を越えて讃えあうとすれば、オリンピックとしての感動的な場面となるだろうが、勝った相手が違う国籍であるから、祝福しない、あるいは逆に、自分たちの国が勝者になったからうれしい、というようなことは、そんなにポジティブな価値とは思えない。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム2” の続きを読む

『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1

 7月号は、オリンピック・パラリンピックとナショナリズムの関係を論じた論考が二つある。 森敏生「オリパラ教育のあり方を再考する」と 石坂友司「オリパラが生みだすナショナリズムを考える」だ。前者が、オリパラ教育を基本的に推進する立場、後者が疑問を呈する立場で、方向性が異なった文章だ。『教育』としては、比較的珍しい現象で、私はとても好ましいと思う。教育科学研究会といえども、見解は多様でかまわないはずであり、異なった意見をぶつけ合うことで、新しいものが生みだされていくとしたら、教科研の発展のために、とてもいいことだと思う。
 オリンピックがナショナリズムの高揚に、政治的に利用されていることは、疑いないところだ。オリンピックやスポーツの推進に、極めて熱心な人なら、それに疑問を感じないかも知れないが、私のような、スポーツ好きではあるが、あくまでも趣味だと思っている人間にとっては、過度のオリンピックの入れ込み、そして、それがナショナリズムと結びつくことについては、やはり、疑問を強く感じる。 “『教育』2020.7号を読む オリパラとナショナリズム1” の続きを読む

『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育3

 いよいよ、ナショナリズムと能力主義を超える方法を探る部分になった。ナショナリズムは、国民に一定の居場所を提供するが、余裕がなくなると、容易に排外主義に転化してしまう。そうならないために、どのような原則が必要か。
 佐藤氏は、まず、能力主義を乗り越える原理を探る。氏は次のように述べる。
 「学校教育がその子ども一人ひとりの得意なことを見つけさせ、その能力を活かし発揮させるように導きその子たちに生きる自身をもたせることこそが、教育の原点ではないのか。そうした能力形成を軽視し、受験競争のための知識獲得だけに駆り立てることが、どれほど重要だというのであろう。」
 そうした具体例として、電気製品の修理の技術をもっている、歌や踊りにみんなが驚嘆する、料理や大工がとてもてきぱきとできる、そういう生活能力が、学校教育をきっかけに発揮されるようになることを期待する。 “『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育3” の続きを読む

『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育2

 前回は、津久井やまゆり園で殺傷事件を起こした植松聖に関する佐藤氏の分析に、多少の疑問を呈した。今回は、そこを引き継ぎつつ、次の部分に進みたい。
 植松は、「経済発展に寄与しない人間は存在理由がない」ということで、殺傷事件を起こしたとされるが、それに対して、佐藤氏は、それが本当なら21世紀は恐ろしい世紀であるとして、そうした観念を生みだした「能力主義とナショナリズム」の批判に進むのだが、私は、そこで一歩留まりたい。もちろん、「経済発展に寄与しない人間」も完全に存在理由があるし、生存権が保障されるべきである。しかし、そのような確認で済ますことができない問題であるとも感じるのである。それは、私がオランダにいたときの経験から考えることだ。 “『教育』2020.7を読む ナショナリズムと歴史と教育2” の続きを読む