春学期に行ったこと「いじめ発生における加害者の家庭環境的要因」

今年のゼミデーマである『環境としての人間』から、私は自身のサブテーマに「いじめ」を選んだ。またその中でも加害者に焦点を当て、「いじめ発生における加害者の家庭環境的要因」について研究を進めることにした。

『環境』と一口に言っても、その言葉が形容するものは様々である。その中で私が今回「いじめ」を取り上げるに至った理由として、過去の私自身の実体験がある。当ゼミやそれ以外の場でも既に自ら口にしているため特に言い淀むこともないのだが、私は中学3年生のときに同級生からいじめを受けていたことがあった。当時の私は、何故いじめを受けなければいけないのか、何故自分だけ辛い思いをしなければいけないのか、そう考えながら中学生活がただただ早く終わらないかと願う日々を過ごしていた。それから6年あまりが経過し、大学の講義にていじめについて学ぶ機会が増えていった。それと同時に、自身が受けていたいじめのことを、講義の内容に当てはめるかのように思い返すことが多くなった。当時は「どうしていじめるの」という当たり前に浮かんだ疑問を、加害者の同級生に聞けるはずもなかった。将来教師を志すにあたっていじめは絶対にあってはならないと考える人間として、より時間をかけてこの疑問について考える機会なのではないかと思い、今回「いじめ」を研究のサブテーマに挙げた。

日本では、学校におけるいじめは1980年代に校内暴力とともに増加し、近年までにかけて社会問題化してきた。特に有名なものとして、教師も加わっていた「葬式ごっこ」が原因で自殺した、東京都中野区立中野富士見中学校2年の鹿川裕史君の事件(1986年)が挙げられる。また、川に沈められたり、現金100万円以上をとられたりしていたと明かす遺書を残して自殺した、愛知県西尾私立東部中学2年の大河内清輝君の事件(同年)や、体育館内の運動用マットに逆さまに突っ込まれた形で亡くなった、山形県新庄市の明倫中学校1年の児玉有平君の「山形マット死事件」(1993年)など、まだ若い命を奪うような陰湿ないじめが学校現場にて発生し、社会に大きな衝撃を与えた。今年に入ってからも、2月には神奈川県川崎市川崎区港町の多摩川河川敷で、中学1年の上村遼太君が殺害され、遺体を遺棄された「川崎市中1男子生徒殺害事件」や、7月には岩手県矢巾町で中学2年の村松亮君が、いじめが原因で飛び込み自殺する事件など、いじめの極めて深刻な実態をあらわす事件が後を絶たない。これらの過激さを増し、陰湿で、残酷で、執拗と言える近年のいじめの様相が、加害者の人格や価値観などによって齎されているものとすれば、その加害者の人間性が養われてきた場、即ち育ってきた家庭環境に何かしらの誘因があるのではないかと考えた。一概にそうとは限らないかもしれないが、産まれてから極めて長い期間置かれている生活環境から、一切影響を受けないと考えるのは些か難しいだろう。これより、今回の研究においてはいじめの中でも「加害者の家庭環境」に着眼点を置くことにした。

研究方法として、過去に私をいじめていた同級生に直接インタビューすることを考えた。いじめというのは加害者、被害者ともにデリケートというか、容易に踏み入れない面があり、第三者にインタビューを行うことは難儀だと考えたが故の方法である。私自身が実際に体験したものなので、当時の様子を思い返しながらより意義のあるインタビューが出来るとも考えた。インタビューの内容としては、主に当時の家庭での状況(家庭内での会話はどれくらいあったか、食事は誰ととっていたか等)について伺う。長期的な家庭状況も可能な限り聞いていきたい。またこれも可能ならばという程度ではあるが、加害者の同級生の保護者にも、話を伺える機会があれば当時の家庭での状況について保護者の視点からも伺いたいと考えている。インタビュー以外に、学内でいじめについて取り扱っている教員の方に話を伺うことと、文献調査を研究方法として挙げた。文献に関しては、いじめの行動科学や心理学などの面からアプローチをかけた選定をしたい。

春学期中の研究の進捗として、インタビューを行えた同級生は2人、うち1人は保護者にも話を聞くことが出来た。内容に関しては、夏休み中にも数人に行えたインタビューに内容と似通った部分がおおいため、夏休みでの進捗を報告する記事の方でまとめさせて頂くことにする。若干断片的ではあるが、文献も何冊か目を通した。その中で分かった事柄をまとめる。

『イジメと家族関係』(中田洋二郎 著)

・現在の学校でのいじめは、観衆を意識し劇場化した要素が強まっている。例えばあだ名なんかは昔から存在し、決まり文句の悪口で互いを悪ふざけと了解した上で罵り合うことも多く、これは子ども同士のゲーム程度の認識である。しかし現在の子どもはこれを少し異なる目的に使っている。相手の弱点への目の付け所の巧みさ、発想のおもしろさ、その機知を周囲にアピール周りからうけを狙うためである。この種のいじめは、相手が傷つくことに頓着しない、身勝手で自己中心的な現代の子どもの特徴が反映されている。娯楽としてのいじめが発生する背景として、子どもの文化の変化、特に子どもがよく見るテレビの影響があると考えるのが自然である。メディアを通してあらゆる情報が選択無く子どもに伝えられてしまうが故に、大人の世界と子どもの世界の垣根がなくなり、大人向けのブラックジョークまで届くようになってしまった。

・家族が家族として機能するためには、「健康な家族」である必要がある。家族が健康という共通の目標に向かって努力し、まとまりを保とうとするときこそ、家族は有機体として機能することができる。家族の健康にとって大切な家族機能として、「家族の問題解決の能力」、「家族のコミュニケーション」、「家族の役割」、「感情的な応答性」、「感情的な関わり」、そして「行動の統制」が挙げられている。これらが瓦解してしまえば、所謂家庭崩にまで至ってしまう。

・健全な家族関係には、通常、心の傷を自分たちの相互作用によって自然に「癒していく」能力が存在する。心理学者であるラバーテの家族心理学の中核となる概念は「私も重要である―あなたも重要である」という相互の尊重を家族の健康性の指標とするところにある。この関係が崩れ「あなたは重要ではない―私は重要である」などと重要性の偏りの関係が生じたとき、ここにイジメ、甘え、過保護などの病理的な関係が生じる。「癒し」が実現しやすい状況をつくりだすことは人為的になされねばならない。そこで、相手を受容しつつ、不自由にしないで、援助する配慮が必要となる。

 

『ヒトはなぜヒトをいじめるのか』(正高信男 著)

・いじめの発端は二者間のトラブルであり、その諍いは親しい間柄ほど起こりやすい。攻撃に至る理由は何でもよく、いじめる側は「あいつが悪い」と理由付けして攻撃を加える。精神的に相手に痛手を与えることによって自分の強さを第三者にアピールする行為がいじめの芽生えの特徴である。大人も職場でもどこでも見受けられるもの。いじめは人間に動物としての生来の攻撃性と人間特有の欲望が備わっている以上、根絶することは困難を極める。

・子どもにとって安全基地の働きをする母性に対し、「自分の想い通りにいかないことがあることを教え、励ましたり助言したりしながら、家の外という社会へ押し出す力」である父性が、子どもの自立を促す。父親不在が子どもをいじめへ駆り立てる要因のひとつになり得る。母子密着型の日本では父親が疎外されている、ともとれる。被害者も加害者も同じ遊び仲間の内部で生ずるが、それでも仲間を離れられない「弱さ」がいじめの背景となっている。根本的に欠如しているのは「多様であること」への不寛容であり、この不寛容は即ち「周囲と同質でないこと」への恐怖の裏返しに他ならない。いじめは「一人」でいることをストレスとしか捉えられない人間の弱さの産物である。

 

『世界のイジメ』(清永賢二 著)

・アメリカのいじめ加害者は、性別に関係なく、身体的虐待や精神的虐待を受けた経験を有する、或いは一貫性のない躾を家庭で受けていた、等の家族間での問題を有している場合が多い。原因として、これらの家庭の多くは、親が子どもの日常に十分対応するだけの関心と愛情を持ち得ていないことによる対話の不足、親自身の健全な子育てについての知識や技術の不足、愛情を十分に注がれて育った経験がない、などが考えられる。逆に、親の無条件の愛情を幼児期に十分注がれた中でしっかりした躾と教育を施された子どもにいじめっ子は少ない。アメリカのいじめ対策を踏まえて強調される重要なこととして、いじめを許容しない社会を創造するためには、親や教師を含めたすべての大人が、責任ある問題解決者として積極的に行動することが求められる。規範となるべき行動をとることにより、子どもは許される行為・許されない行為の別を学ぶことができ、人としても尊敬され、愛情を注がれることにより他者を尊敬し思いやることが出来るようになる。

・オランダのいじめの発生に影響する環境的要因に、母親と保育園の関係、さらには親自身の子どもに対する関係が問題として挙がっている。子どもに対し建設的な愛情と自立に向けての発達支援に十分な配慮を持った親からは、将来のいじめ加害やいじめ被害の児童や生徒は生じにくい。子どもは親、特に母親の視線を介して他者を無償に愛することや他者から自立して生きていく強さを体験として学ぶ。逆に、父親や母親の幼い子どもに対する厳しい支配とお仕置きを伴った躾は、子どもの心の中に将来のいじめを含む反社会行動の芽を作り出してしまう。

 

春学期は文献調査が足りなかったため、今後より多くの文献に目を通し研究の幅を広げるよう努めたい。また、自身のテーマをしっかり決定するまでにかなりの時間を要してしまったため、研究自体に費やせた時間が少なくなってしまったことが反省点として考えられる。行えたこともインタビューと文献調査のみで、学内の教員に話を伺うことは出来なかった。太田先生からの助言として家族療法も視野に入れることを勧められたため、秋学期から家族療法の授業を履修することにし、その中で研究につなげられればと思う。文献調査に関しても、家族療法について扱った本も今後読み進めることにする。

春学期に行ったこと 「障害児のきょうだい児について」

私はゼミテーマ『環境としての人間』から、「特別支援教育」に関して、さらにその中の「きょうだい児」についてを自分のテーマとし、研究を行っている。

 

きょうだい児とは、障害を持った人物の兄、姉、弟、妹といった、障害児と兄弟関係にある人物のことを指す。まだまだ十分ではないとはいえ障害に関して理解が進み、障害者支援なども進んできている現代ではあるが、その支援の対象は主に障害者本人か、療育の中心である母親に焦点があてられており、そのきょうだいには目が向けられることが少ない。しかしながら、きょうだい児は一生のうちの大部分を障害者とともにすごさなければならないだろうし、きょうだい児特有の悩みや不安もあるだろうと考えられる。特別支援というとどうしても障害者本人のことを思い浮かべてしまいがちだが、その陰に隠れた人たちがどのように感じているかや、よりサポートしていくためはどのようなことができるか関心を抱いた。また私の知人の中にもきょうだい児が数人おり、そのほかにも部活動できょうだい児である児童と関わる機会もある。障害児が兄弟姉妹にいるという環境から受ける影響はどのようなものか知りたいと思い、またそういった人たちの理解につながると思ったためにこのテーマを選んだ。ほかにもきょうだい児支援を行うことで、家庭環境の改善につながり、障害者本人の環境の改善にもつながるとも考える。

 

春学期の間では主に参考になる文献を探し、またきょうだい児である人物3名にインタビューを行った。

まず以下に参考文献から得られたことをまとめる。

 

現在、障害児・者当人(以下、同胞と記す)の支援とともに家族の支援にも目が向けられている。しかしながら障害児・者の家族に関する研究は、母親の障害受容プロセスやストレス、負担についての研究が中心であり、障害児・者のきょうだいであることによる体験や、その影響に関する研究は少ない(三原.2000)。だが、そのきょうだいは障害を持つ同胞と人生の大半を過ごすという環境にある為に、その同胞から多大な影響を受けると考えられる。

きょうだいへの支援の必要性を最初に指摘したのは英国のHolt(1958)であり、わが国できょうだいに対する支援の必要性が指摘され始めたのは、1963年に設立された「全国心身障害者を持つ兄弟姉妹の会」が、1995年に名称を「全国障害者とともに歩む兄弟姉妹の会を変更した翌年からであるとされる(柳澤.2007)。

この問題に関しては、同胞自身から受ける影響以外にも、同胞に手がかかるため両親(特に母親)と十分な関わりが持てないといったような親の対応による影響などがある。柳澤(2007)は、きょうだいが家族の中で時に親の代わりとなるような役割を求められ、親が障害児・者に対して抱いている感情やストレスのあり方が、きょうだいに影響することが多くあると指摘している。今井・佐野.2010)は、親が、きょうだいが感じている孤独感を認識することが必要であるとしている。

受ける影響として、肯定的影響のものと否定的影響のもの、両方があるだろう。例えば肯定的影響のものであれば、「障害のある人への理解が深まる」といったようなことや「忍耐力がつく」といったようなことが考えられる。反対に否定的影響のものであれば「将来に対する不安」や「介護負担」等考えられる。さらに、障害児・者の世話をするのが年下のきょうだいである場合には、そのことできょうだいの役割の逆転が生じてしまい、不適応を引き起こしやすくなることも指摘されている(Stoneman,Brody,Davis,Crapps,&Malone,1991)。

柳澤(2007)によると、きょうだいへの支援活動を支えているのは、国内外ともにまずあげられるのが、すでに成人となったきょうだいであり、それに加えて、障害児教育の教員、ソーシャルワーカー、スクールカウンセラー、心理学や障害児教育学の専門家など多様な支援者が関わっており、また自発的な活動にとどまっている傾向にある。大瀧(2011)は、障害児・者をきょうだいにもつことの影響とその心理社会的発達について丁寧に捉えた研究が必要とされており、併せて、きょうだい自身のための支援とは何か、その充実を図るために求められることについて検討することが重要であると指摘している。

 

上記のことより、障害者のきょうだいは、障害者とともに生活する環境にいることで障害児のいない環境で育った児童とは少し違う心理社会的発達をしてきていると考えられる。また、障害者からの影響だけでなく、親からの影響も大きいということが示唆される。この環境で受ける影響は肯定的影響と否定的影響があり、障害者が身近にいるという環境が、一概に良い・悪いと言えるものではないことがわかる。他には、きょうだいへの支援活動をしているのは成人となったきょうだいが中心であり、いまだ支援は自活的な活動に留まっている。

 

 

次に、インタビューから得られたことをまとめる。

春学期のインタビューでは、上記にあるように3人のきょうだい児の方にご協力いただきお話を伺わせていただいた。協力者は筆者の大学の知人である。

1人目(Aさんとする)は弟が知的障害(県の分類では発達障害?)であり、現在はAさんが一人暮らしのため離れて暮らしている。女性。

2人目(Bさんとする)は妹がダウン症であり、現在もともに生活している。女性。

3人目(Cさんとする)は弟が自閉症であり、彼女も一人暮らしのため離れて暮らしている。女性。

 

インタビューで質問した内容を大まかにまとめると、

  1. 障害を持つ弟(妹)に対してどう思っているか。良かったなと思うこと、嫌だなと思うこと、困ったこと等
  2. 親と障害への考え方や理解について違いはあるか

3.親からの期待はあるか、親にこうして欲しかったとかはあるか

4.将来や結婚について

等聞かせていただいた。時間やその時の話の流れの都合上、インタビューをした相手によって聞いた内容は異なっている。

 

まず1.障害を持つ弟(妹)に対してどう思っているか。良かったなと思うこと、嫌だなと思うこと、困ったこと等についてだか、良かったことでは、許容範囲が広がることとか、他の障害者に対しても自分なりに理解できていることなどが挙げられた。また、AさんとCさんは現在特別支援の教諭をめざしそのための勉強をしているが、弟がそのきっかけになったと話していた。

嫌だなと思ったことでは、特にないという意見もあれば、その障害を持った兄弟の「お姉ちゃん」として家庭でも学校でも扱われることが苦痛であったという意見もあった。これはBさんの件だが、姉としてしっかりしていなければいけない、といったように、昔は気を張っていたという風に語っていた。他には、障害者に何か起きたときに行動ができない父親に対して不満を漏らす声もあった。障害者自身に対しての不満は、思ったことをそのまま言ってしまうことなどがあり、社会に出たときにやっていけるか危惧する声もあった。

 

  1. 親と障害への考え方や理解について違いはあるかでは、特にないという意見や考えたこともなかったという意見であった。他には、昔は親の意見がわからなかったけれど、最近ではそれも理解できるようになってきたという意見もあった。

 

  1. 親からの期待はあるか、親にこうして欲しかったとかはあるかについてだが、期待については特にされなかったという意見と、大変されたという意見に分かれた。期待をされなかったという意見では、親自身が、昔自分の親に期待されて嫌だったから好きなようにしなさいと言われる場合と、ただ単に期待されていない場合とがあった。また期待される場合では、障害を持った子にはどうしても限度があって、でもそうでないあなたは頑張ればそれだけ成果を出せるんだという様に期待されたと語っていた。特に勉強面での期待が大きかったという。

親にこうして欲しかったということについては、周りの人物が面倒を見てくれたから特になかったという意見もあれば、頑張っても障害を持った子が優先で見てくれないとか、苦労しているのは知っているので迷惑を掛けられないと感じていたという意見もあった。

 

  1. 将来や結婚についてでは、将来は自分が障害のある兄弟を面倒見ながら過ごすのも苦じゃないが親が施設とかに入れてもいいという風にいてくれているケースもあるが、まだ考えていないというケースもあった。結婚については、結婚した後一緒に暮らすのかどうかという問題や、理解のある人を見つけられるかどうかや、まずパートナーに障害のあるきょうだいのことを打ち明けられるかといった問題が挙げられた。打ち明けられるかという問題では、打ち明けたとして受け入れてもらえるかどうかが怖いという理由が挙げられていた。

 

上記のことより、インタビューとした人物の家庭環境や本人の気質、障害のあるきょうだいの特性などにより全く意見も多くあったが、障害児のきょうだいであるという環境から受ける影響について少し知ることができた。

 

 

以上が春学期の間に行ったことである。

秋学期の課題として、さらに文献を読み進めること、インタビューをより多くの人に行い、そこからきょうだいに対する支援の糸口を見つけること、きょうだい以外にも親、特に母親へのインタビューやアンケートの実施等を行いたいと考えている。

 

 

引用参考文献

・林隆(2008) 支援者の支援,発達障害研究 第30巻,第1号,30-38.

・今田真紗美・佐野秀樹(2010) 障害児・者のきょうだいが持つ感情のモデル化:感情のつながりに着目して 東京学芸大大学紀要.総合教育科学系.61(1):175-183.

・三原博光(2000) 障害者ときょうだい 学苑社

・大滝玲子(2012) 発達障害児・者のきょうだいに関する研究の概観 : きょうだいが担う役割の取得に注目して 東京大学大学院教育学研究科紀要. 51巻, 2012.3, pp. 235-243

・Stoneman,Z.Brody,G.H.Davis,C.H.Crapps,J.M&Malone,D.M,(1991)Ascribed role relations between children with mental retardation and their younger siblings. American Journal of Mental Retardation,95,537-550

・柳澤亜希子(2007) 障害児・者のきょうだいが抱える諸問題と支援のあり方 特殊教育学研究 45(1).13-23.2007

 

「中1ギャップを軽減する学級づくり」ー夏休みー

夏休みは中学生の「友人関係」と「学習」について研究し考察をした。

・伊藤美奈子、宮下一博『傷つけ傷つく青少年の心』北大路書房 2004,8

・保坂 亨『学校を休む‐児童生徒の欠席と教員の休職』 学事出版 2009,1,22

の2つ文献を読み、中学1年生2人を対象にインタビューを行った。

 

○友人関係

・『傷つけ傷つく青少年の心』を読み中学生の友人関係を考察した。以下は青少年の友人関係の実態において、友人との付き合い方を伊藤による研究結果を基に6つにわけて明らかにしていく。

①本音を出さない自己防衛的な付き合い方

この付き合い方は自分のありのままの姿を見せないで友達付き合いする傾向を示す。自分を友達に見せることを弱さだと考えたり、本当の自分を友人に見せて笑われたり、傷ついたりすることを恐れるためである。このような自分を見せては嫌われてしまうと心配することもありこのような付き合い方は研究結果から男女差は特に無く、中学生児童に多く見られた。

②友達と同じようにしようとする同調的な付き合い方

この付き合い方は、できるだけ友達に合わせて同じようにしようとする付き合い方である。自分一人だけが変わったことないように、自分だけが目立つことがないように気を付けて友達付き合いをする。これは中学生に最も多く見られ、男子よりも女子に多くみられる傾向であることが研究により明らかになった。

③できるだけ多くの人と仲良くしていきたいと願う全方向的な付き合い方

この付き合い方は、どんな人とでも友達になりたいと思っている人の付き合い方である。そのため相手を選ばず、誰とでも仲良くしようとして友達付き合いをする傾向がある。この付き合い方は女子よりも男子に多くみられる傾向である。

④自分が理解され、好かれ愛されたいと願う付き合い方

この付き合い方は、みんなから愛され、好かれたいという気持ちでの友だちづきあいである。それだけ友達付き合いを必要としていることが読み取れるが、同時に自分から友人を理解しようという姿勢ではなく、受け身の付き合い方をしている場合もあることを注意しなければならないとされる。こちらに関しては中学生児童よりも高校生・大学生の女子に多く見られることが結果により明らかになった。

⑤自分に自信を持って友達と向き合える付き合い方

この付き合い方をする人は、友達と自分の考え方が異なっていてもその事実を受け止めることができる。したがって意見がぶつかることを恐れず、友達と真正面から付きあっていく。自分と友達が別の個性を持っていることを理解しているため、友人と違っていても自信を無くし、傷つくことは少ないことがわかる。しかし共感し合える関係ではないかもしれないことも考えられる。これに関しては中学生、高校生、大学生共に年齢的な差は見られないが、女子よりも男子に多くみられるのが特徴であることがわかった。

⑥自分を出して積極的に相互理解をしようとする付き合い方

この付き合い方は、傷つくことを承知のうえで深いかかわりを求め、積極的に友達付き合いをしていく傾向を表す。友人同士で本音を言い合い、内面の深いところで付き合うことが友人関係だと考え、高校生・大学生の女子に多くみられる結果だった。

分析結果から中学生児童による友達付き合い方は①、②、③の項目が大きく占めることが明らかとなった。いずれにせよ中学生児童は相互理解を求める友人関係ではなく集団・グループを意識した友人関係を必要とし、その中で自分は周りにどう見えられるかといった不安を抱えながら対人関係を築いていると推測できる。

・『学校を休む‐児童生徒の欠席と教員の休職』の文献を参考に子どもの心理発達という面からも中学生の友人関係を考察すると以下のことが言える。特に思春期では同性の親密な友人関係「chum」の存在から集団内適応が重視されることや親離れをする時期との関連からいじめや不登校、家庭内暴力等が多くなっている。子ども達にとっての思春期とはそれまでの身長、体重の増加といった量的な変化がある。更に、精神面や今までに経験したことないことに挑戦するといった質的変化も伴う困難な時期である。保坂によると、子ども達が次々と児童期から思春期へと心理発達上の移行をしていく難しい時期に小学校から中学校への環境移行がかさなっていることが言える。

また、保坂による調査では小規模の小学校から大規模の中学校へと進学する児童に長期欠席や不登校が多いことがわかった。原因として、それまでの小さな集団から大きな集団へ

と移行することに加え、学級編成により多くのクラスに平均的に分けられることでクラス

にほとんど知り合いがいないという状況に身を置く心理的負担が上げられる。

よって考察として集団や親密な友人関係を求める思春期・青年期の子ども達にとっては大きな負担となり、登校意欲にも影響してしまうことが明らかになった。

従来、思春期・青年期の対人関係の深刻な悩みとして、対人恐怖の問題が(永井、1994)が言及されてきた。対人恐怖は対人場面との関わりで現れ、人前での緊張や赤面、人から見られることが気になる、他人といると表情が硬くなってしまうことへの不安、羞恥、恐怖とされる。対人恐怖は過去の問題のようにも言われる(山田、1992)が、明るく社交性のある者でも「周りが自分をどうみているのか気になる」という悩みを抱え、「そのように悩んでいることを絶対に他人に知られたくない」と語っているようだ。また、永井は「友人関係がグループ化しており、トイレにいくのも同じ仲間で誘い合い、それ以外の人と仲良くしていると村八分的になるため、いつも友人関係には気を使っている」現状を指摘している。「周囲との良い関係という規範に非常に縛られている」現代の青少年期の対人関係の気苦労が推測できる。対等な対人関係を結ぶうえで障害となっているものとして「青年期のヤマアラシのジレンマ」から説明できる。伊藤(2004)によると現代の青年は相手と親密な関係を持ちたいと思う一方で、傷つけ合うことを恐れ、適度な心理的距離を模索している」と述べている。つまり「近づきたいが近づき過ぎたくない」「離れたいが離れ過ぎたくない」という「適度さ」において敏感であることを指摘し、人と親密になることにも、離れていることにもためらいがあると思われる。それは、自己を傷つけることと相手を傷つけることを恐れているためであり、このジレンマは相手に嫌われたのではないかと萎縮したり、相手との関係を確かめるためにしがみついてみたり、反対に相手との関係に見切りをつけようとする気持ちが働くと推測できる。

 

○勉強(学習面)

小学校から中学校に進学すると、学校生活は勿論、授業自体も小学校とは一変する。勉強の内容が難しくなり授業のスピードも速くなることは一般的によく言われる。また中学では特に学習面において生徒同様保護者も関心の度合いが増えていくのではないか。筆者自身も中学校に入学し、初期の頃の授業は小学校とは異なり進みが早く、教科の先生によっては厳しく精神的負担が大きく適応することに努力をした記憶がある。また定期テストにより明確に結果が出ることで客観的に自身の学力がわかってしまうことも学習面における負担の一要素ではないか。以下は中学1年女子生徒2人にインタビューへの協力を依頼し、内容を一部まとめたものである。

筆者「春から中学校生活が始まり、1学期分が既に終わったけど学習面において振り返ってみてどうだったかな?勉強は難しかったかな?」

生徒A「小学校から英語の授業はあったけど中学校の英語は覚える単語が多くて文法もあるから苦手になってきた。」

筆者「その苦手な英語はどうやって勉強してる?何か先生から指示とか出てるのかな?」

生徒B「次の授業の内容の穴埋めプリントが配られて、予習に使っている。予習したかどうか次の授業で先生にチェックされるから毎回ちゃんとやってる。」

生徒A「予習はプリントが簡単だし、教科書の英文をノートに写すだけだからそんなに大変じゃない。でも毎回テストが難しくて点数が悪くて親に怒られるから英語は嫌い。」

生徒B「私ん家も小学校の時は勉強についてあまり言われなかったけど中学校になったら順位が良くなかったり下がっちゃうと怒られる。塾に行ってるのにってよく言われる。」

筆者「中学生になって塾通う人多くなるよね。授業自体はどうかな?進みが早い?小学校と違くて驚いたことある?」

生徒A「教科ごとに先生が違くて、授業の進め方も違うこと。プリントで授業すすめたり板書だったり…板書は先生によってノートの取り方も違う時があって大変。」

生徒B「初めの授業は内容も簡単だし、授業もゆっくりだったけど、いつのまにか進みが速くて板書間に合わなかった時があった。」

以上これらのインタビューより、中学では学力が成績として数字化され、順位が出てしまうことで小学校では感じることがなかった友人との学力差が明確になってしまう。そのため子どもも自身の実力を知り不安を促進させてしまうことが予測できる。更にその明確な成績により小学校の通知表では「うちの子はできる方だ」と思っていた保護者も不安に駆られ、我が子を責めることはあってはならないだろう。その定期テストの評価が公立高校入試の合否判定に用いられる内申点に直結する地域も多いため、不安に繋がる心境も分からなくない。また教科ごとに教員が異なるため、授業の進め方やノートの取り方もそれぞれ変わってくる。中学1年の初期では、中学校の教員も優しく授業の進度もゆっくりと進める。しかしそれでも始めから勉強についていけない生徒もいることも注意しなければならない。教科を指導する教員も増え、生徒はその増えた教員数分の方法に慣れることが求められる。具体的には、話し方、授業のスピード・ルールが異なる点、授業によっては教室が違う、小テストの形式、宿題の提出日など、これらに適応できる生徒やできない生徒がいることを、担任を始め各教科の教員が認識することが重要であると考える。授業準備が苦手な生徒はそれぞれの教科の手順に合わせる段階で混乱し、やる気をなくすこともあるのではないか。中学になると1日に6教科あり、教材の量も増えるため準備や自己の管理力が必要である。教科書やノートは勿論、ワークや資料集、辞書更には実技等の教材もあることで、整理整頓が苦手な生徒や忘れ物が目立つ生徒が出てくる。このような生徒を教科への関心や意欲が無く態度が悪いと判断することはあってはならない。生徒が教科に集中できる環境を作るために教材数を極力減らすことや初期段階で必要ないものは家に持って帰らせるまたはロッカーへ整理して管理することを丁寧に指導していくことが重要ではないか。その指導は担任や各教科の教員と共通であることが望ましいため日頃から生徒の情報やそのクラスの特色を共有し連携した体制で運営することが今後の課題である。このような中学生生徒の学習問題は学校任せではなく、家庭でも正確に認識する必要がある。我が子が思春期や反抗期を迎え難しい時期だからといって、勉強のことは細かく確認せずに子ども自身や学校任せて数値化させた評価だけにとらわれてしまっては子どもは学習に負担を感じてしまう。つまり、小学校から中学校へ移行する間に子どもの得意・不得意なことや学習習慣や学習スタイル等を具体的に確認しておくことで子供が抱える学習や中学校生活での問題・悩みが家庭において早期に対応が可能となる。子どものストレスや変化を素早く発見できるのは家庭であり、保護者である。保護者と担任を始め学校が日頃から良好な関係で情報を共有していれば、子ども自身も保護者や学校に相談し易く、相談を受けた周りの大人たちも相談に乗ることができるのではないか。基本的に中学では自主的に学習する力を養うことも必要であるが、学校側も家庭側も子ども達を中学生になったのだからといって始めから自立性や自主性を求めてはならない。入学初期は子ども達自身も緊張と新しい生活に不安や戸惑いもあるため教員はその心理を十分に理解することが必要だ。一人一人注意深く観察し子ども達の適応の度合いによって援助やサポートをしつつ中学の新しい学習・生活スタイルを学ばせることが重要である。

以上が夏休みに行ったことである。秋学期は「部活動」を中心に文献やインタビューにより研究を進めていく。同時に大学生を対象としたインタビューも進め、その結果から「友人関係」や「学習面」等に関してもより詳しく分析する。最終的に「中1ギャップ」を軽減し、生徒一人一人がストレス無く中学校生活に適応できるために教員ができること・役割について考察していきたい。

 

「中1ギャップを軽減する学級づくり」ー春学期ー

1 はじめに 

私は昨年の人間科学基礎演習で「中学生の不登校」の実態を理解するため研究をしていたが以下のことが明らかになった。文部科学省による2011年度の「児童生徒の問題行動調査」では、「不登校の数は小学6年では7522人なのに対し、中学1年では2万1895人と約3倍に跳ね上がる。これが中3になると更に増え、4万人弱に達すると予測できる」と示されていた。また同様に平成22年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」では不登校になったきっかけに注目し、小学生では上位3位に「不安など情緒的混乱」、「無気力」、「親子関係をめぐる問題」が挙げられる。本人や家庭に関わる問題が多いのに対し、中学生では「不安など情緒的混乱」、「無気力」の他に「いじめを除く友人関係をめぐる問題」が上位3位に含まれる。その他にも「学業の不振」や「教師との関係をめぐる問題」等も報告されている。よって、中学生になると学校に関する問題が不登校と関係していることから、不登校とは特定の子ども達に特定の問題があって起こるのではなく、どの子供にも起こる可能性があるものとして注目しなければならないのではないか。同様に子ども達の小学校から中学校への環境変化に対する不安・悩みを理解し迅速に対処することで生徒がより快適に学校生活を送ることや不登校・いじめを未然に防ぐことが可能となるのではないか。

 

2 研究の動機 

そこで今回は「中1ギャップ」に視点を当て、その特徴や学生の心理に理解を深めることでよりよい学級づくりを考察していきたい。「中1ギャップ」とは小学生が新中1生となった際に学校生活や授業のやり方が今までとまったく違うため、新しい環境になじめないことから不登校となったり、いじめが急増したりするなど、様々な問題が出てくる現象のことである(Benesse教育サイトより参照)。学級担任制から教科担任制への移行に伴う学習面でのつまずき、部活動が始まることによる生活リズムの変化や先輩後輩といった上下関係の難しさが原因となってくるのではないか。その他にも心身共に成長する子ども自身のとまどい、違う学校から集まってきた子ども達との間で為される友人関係の不安等も挙げられる。このような新しい環境のもとで学校生活を送る子ども達は不安や悩みを抱え、大きなギャップに苦しんでいると考えられる。このような多様な生徒に対して柔軟に対応が行き届いていない現代の学校教育に問題がある。そのため、このような問題に対して教員は個に応じてどのような支援が求められるのか、また教師の働きかけにより学級全体でどう改善していくべきか考える必要がある。今回は、友人関係・学習面・部活動の3点に絞って研究していこうと思う。

 

 

3 研究方法 

中1ギャップをテーマとして調べるにあたり、主に大学生(10人前後)を対象に当時を振り返ってもらいインタビュー調査をしたいと考えている。インタビューの内容としては、「中1ギャップを感じていたか否か」、「原因は何か(友人関係・学習・部活動等)」、「どのようなクラス環境を望んでいたか」等を伺いたいと思う。また今年度中学へ入学した知人の子どもも数人いるため今の学級の印象についても話を聞きたいと思う。可能であれば母校の中学校の教員にも調査を協力してもらい、対応策や考えを伺いしたいとも思う。他にも現代における教育の問題や青少年の心理を扱うため2000年以降の文献を対象とし研究を進めていく。

 

※現在の状況 

春学期においては『教室内カースト』(鈴木翔 公文社2013,4,5)と『桐島、部活やめるってよ』(朝井リョウ 集英社 2012,4,25)の2つの文献を中心に扱い、グループで現代における小中学生の友人関係を討論して情報を共有した。以下は、中学生の友人関係についてまとめたものである。クラス内の友人関係を理解するためスクールカーストを取り上げた。鈴木翔の『教室内カースト』の文献と映画『桐島、部活やめるってよ』から次のことがわかった。先ず始めに生徒間の格差は、体育会系部活が上位に、文化部系部活は下位に位置することである。映画ではバレー部が上位のカーストとして取り上げられ、グループ内の討論でも野球部やサッカー部、バスケ部等といった体育会系の部活が上位であり、結果を残している部活であることがわかった。(しかし吹奏部といった文化部系部活動の方が上位に位置する場合も考えられるため、部活動だけで判断するのではなくその学校の特徴も踏まえることが必要である。)次に、部活以外にもイケメンや運動のできる者・面白い者は上位カーストで、地味で目立たない者は下位カーストを占めることがわかった。つまり中学生の人間関係には外見やその人が持つ雰囲気・キャラクターが非常に重要であることが伺える。ある女子のトップグループ(カースト上位)は制服に着方や髪型、持ち物、歩き方、喋り方等見た目から一瞬でわかる。また学生はその格差(カースト)を前提にコミュニケーションをとり、カーストが上位な者同士・下位な者同士でまとまる。このようにして上位の物と下位の者が直接的にコミュニケーションをとっている様子はみられないことも特徴的だ。最後に、カースト上位の者は学校生活を生き生きと過ごし、下位の者は対抗心自体はあるが直接的に言えず葛藤を抱えるとされている。しかし実際は下位の者は勿論上位の者も不満やコンプレックスを感じているため、同じ学校生活や出来事でも学生一人一人によって見え方も感じ方も異なることがわかる。

これらのことから学生は容姿や対人能力、ファッションセンス、運動能力、学力等で学校内における身分が決まってしまうことがわかった。また各登場人物はそれぞれ悩みを抱え、友人にさえも隠したまま互いに表面的に関わることも伺えた。このスクールカーストという考え方は中学生にも当てはまり、中1の時点である程度一人一人の立ち位置が確立してしまうのではないか。つまり中1の第一印象や入部した部活動によって友人関係や学級内での役割が決まってしまうと考える。小学校には存在しなかった人気ヒエラルキーに加え中学校での生活の変化や学習面での悩みを一気に抱え込むことで「中1ギャップ」をひきおこしてしまうと予測できる。

 

以上が春学期に行ったことである。

環境としての人間「スクールカースト」~春学期に行ったこと~

ゼミテーマ【環境としての人間】として私は「スクールカーストの現状と緩和へ」を個人テーマに設定し、研究を進めることにした。 何故スクールカーストに焦点を当てたかというと、自分自身が高校一年生時、クラス内での権力序列に気付いたというのがそもそもの始まりである。私自身、新学期早々は権力の高いグループに所属していた。俗にいう「イケてるグループ」である。しかし、ある友人とのケンカをきっかけにして階級でいうと「普通のグループ」になってしまったのである。その際に、何か言いたくても言い出せない抑圧された空気感が生徒間の中に確かに存在していた。私はそんな空気感の中で何がこのような状況にさせてしまっているのか、あるいは人間関係にこういうもの(抑圧された空気感)がつきものだろうかといった素朴の疑問を抱いた。当時は、特にイジメという認識もなく、騒いで問題視することはなかったが、大学に入り、教育社会学を学ぶにつれて当時の状況は何が原因だったのか、原因があるとすれば、どのように対応することができるのか、再度気になり、この「スクールカースト」を研究対象にした。 そもそも「スクールカースト」という言葉はインドの伝統的な身分制度になぞらえて「カースト」。さらに学校特有のものであるから「スクールカースト」ということになる。そしてそれは、生徒間での「人気や『モテ』を軸とした序列」を意味するものである。     この「スクールカースト」を研究するにあたり、研究文献としてこの春学期は鈴木翔さん著:本田由紀さん解説の「教室内カースト」という文献を読むことからスタートした。 また、朝井リョウさん著の「桐島、部活やめるってよ」という文庫本は最近の学校内での人間関係が鮮明に描かれているものであり、同じく研究文献として取り上げた。そして実際に映画化された「桐島、部活やめるってよ」を見て、「スクールカースト」の現状を調べた。   ○映画から窺えたもの   部活動によって階級制度が存在する。この映画では運動部が文化部よりも権力を持っていた。特にバレー部は全国大会進出が期待されるほどの実績ある部活であり、校内皆から一目置かれていた。それに比べ、映画部は文化部の中でも下級に属し、校内皆から冷めた視線を浴びる部活であった。しかし、映画部は独自の価値観を貫いた結果かどうかは定かではないが制作した映画がコンクールの一次審査を突破したことが映画部部員にとって自信に繋がったのは確かであろう。そうした自信が同じ文化部である吹奏楽部に場所取り交渉をするまでに繋がったのだと推測できる。   運動神経・カップルは権力関係を強化する一要因である。何をするにしても「できる人間は上へ」「できない人間は下へ」となってしまうのは映画からも窺えることである。 映画内で登場する“宏樹”はその典型的な人物であろう。野球を過去にしていながらサッカーもバスケもこなせる人間はクラスからの尊敬の眼差しを浴びる。それに加え、宏樹には彼女がいる。異性と付き合うことはすなわち「できる人間」として扱われ、権力関係をさらに強化する元凶になっていると考えられる。   「スクールカースト上部ほど自分の考えに芯がない?!」「スクールカースト下部ほど自分の信念がある?!」これは私がこの映画を見て、最も感じたことである。映画からわかるように、桐島が部活をやめることを知った周りの人物は四六時中桐島が学校にすら来ないことに振り回される。特に桐島の彼女は自分宛てに連絡が来ないことを不満に感じ、周りの人間にその不満をぶつけ周囲の人間関係を悪化させる原因を作ってしまっている。また、宏樹は野球部主将や映画部の前田(神木隆之介)と会話する中で彼らは信念をもって生きていることを理解し、自分はただなんとなく生きていることに強く心を打たれ涙を流すシーンが最後にあった。これらのことからカースト上部にいる人間ほど上部にいる人間関係の中でなんとなく満足感を得ていて、生きるということに芯をもっていないのではないかと感じた。   映画では上記したことが窺えた。よってスクールカーストで上に所属するかしないかでは学校生活の景色が違う一方で両者の考え方も異なっていることがわかる。   さらに文献を読み進め、「スクールカースト」では大きくなにが問題なのだろうか。 ○一つにイジメの元凶になっているということである。 イジメの定義が2006年に「一定の人間関係のあるものから心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの、なお、起こった場所は問わない」と再定義されたことを受け、「スクールカースト」そのものが精神的苦痛を感じさせるものであるとすれば、いじめになるのではないかという見解も存在する。いじめになるのかどうかはさておき、スクールカーストが一つにいじめの土台になってしまっていることやいじめとの境界線が非常にあいまいになってしまっていることは、学校教育を考える上では決して好ましいことではない。 ○二つにスクールカーストにより、個人の将来性が左右されてしまうのではないかという懸念である。 文献からはスクールカーストの上部ほど、自己主張ができ、学校生活を円滑に過ごすことができる傾向にあるとされていた。しかし一方で、下部は自己主張する機会がスクールカーストの抑圧された空気感によって圧倒的に少なくなってしまう。よって、自分の意見は通らず、自分自身に自信を持てなくなってしまう傾向にあるとされる。 これらの問題点を考えると、学校教育に従事しようとするものとしては決して好ましい状況ではないと思うのだ。私はこの自身の経験に加え、こういった現状があることを踏まえると、どうにかこの「スクールカースト」の構造をなくすことはできないかと考えた。 そこで、「スクールカーストをなくすことはできないか」のヒントを得るためにインタビューを行った。   ○インタビュー対象 自らを振り返ることができることを想定して大学生 ○インタビュー方法 スクールカーストがあったのかという事実確認からはいり、どんな状態であったかの深く聞く。その際には特に質問をあらかじめ設定して聞くことはしない。 そして、スクールカーストがあれば、どうしたらなくせると思うか、あるいはスクールカーストのような序列関係がなかったとするならば、それがどのような状況だったかを語ってもらう。   ○春学期のインタビューから窺えたこと   ・まさにスクールカーストの状況が中学ではあって他人の顔色を窺いながら生活していたかな。なんでそうしていたかというと、本音で思ったことを全部言っちゃうと周りから「なにいきがってんだよ」って言われそうで、グループから省かれそうでさ。スクールカーストは自然とできちゃうものだから、なくすのはちょっと難しいと思う。 (大学三年生女) ・おれの中学はそんな状況なかった気がするけどな。それは俺がクラスの人気者でグループでは上にいたからなー。あんまわからなかったのはそれせいかも。でも高校に行ったら、自分よりも人気者がいて、そいつのいうことにはなぜか説得力があってみんな自然とついていくような感じだった。ただ、そいつがちょっと偉ぶっているというか、自分でも(権力あることを)気づいているみたいで、取り仕切っている感は何となく嫌だったかな。(大学三年生)   といったようなインタビューであった。 春学期行ったことは以上である。

夏休みにおこなったことー「都会と田舎の子どものちがい」ー

私はこの夏休み、ゼミの課題として、自分のテーマである「都会と田舎の子どものちがい」についてのインタビューを行った。

インタビューの内容は次の通りである。

1.あなたが思う都会と田舎の定義とは。

2.あなたは自分のことを都会出身者だと思うか、それとも田舎出身者だと思うか。

3.あなたが昔過ごしていた(あるいは今現在も過ごしている)環境に満足していたか。

どんなことに満足していたか。不満だった場合はどういった事に対して不満だったか。

4.その環境がもっとこうだったらと思うことはあったか。それはどのようなことか。

5.もしあなたが自分が過ごした環境でない場所で育ったとしたら(田舎で過ごした場合は都会)、今とは異なった自分になっていたと思うか。

6.あなたは都会出身者と田舎出身者とで、性格や価値観の違いは生まれると思うか。また、そういった経験をしたことはあるか。

7.あなたは都会の子どもと田舎の子どもで違いはあると思うか。

8.都会の親と田舎の親の違いはあると思うか。

9.あなたは将来、都会と田舎のどちらで家庭を持ちたいか。

以上がインタビューの内容である。

次にインタビューの回答例を述べていきたい。

今回のインタビューには16人の方々が協力してくれた。

1.都会の定義については、交通が便利、ビルが多い、山がない、競争が激しいといった意見が出た。また、矢印の指向が中へが都会、人が住み着くのが都会と答えてくれる人がいた。一方、田舎の定義については、自然が多い、山が多い、交通が不便、知り合いが多い、人がマイペース、昔住んでたところが田舎、といったような意見だった。また、矢印の指向が外へが田舎、人が流出していくのが田舎といった意見もあった。

2.インタビューはすべて地元で行ったので、協力してくれた方々はすべて田舎出身者である。

3.「自分が子どものころに過ごしていた地域に満足していたか」について聞いたところ、ほとんどの人が満足していたと答えた。自然が好きだし、思い切り遊ぶことのできる公園もあった。子どものころはお金を使った遊び(カラオケやショッピングなど)というものを知らなかったので、そもそも不満はなかったという。

4.「住んでいた環境がもっとこうだったらと思うことはあったか」という質問に対しては、多くの人が、電車がないのが不便だと答えた。どこかに買い物費行くためには、車で行くしかない。だから買い物に行くときはいつも親と一緒だったという。他には、坂が多いので自転車で移動するのが嫌だった、家の近くに大きなショッピングモールがほしかったといったことを話してくれた。また中には、友達もいるし思いっきり遊ぶ場所もあったので不満などなかったという人もいた。

5.「もしあなたが自分が過ごした環境でない場所で育ったとしたら」今とは異なった自分になっていたと思うかという質問に対しては、すべての人が異なった自分になっていたと答えてくれた。もし都会で過ごして大人になっていたら、便利すぎて苦労を知らなかった。人と接する機会は多いだろうが、関係は浅いものが多く、本当の友達も少ないと思う。季節の変わりに鈍感で、心が豊かでない。そのほかには、ギャルになっていた、今より親切ではなかったと思うといった意見があった。

6.「あなたは都会出身者と田舎出身者とで性格や価値観の違いは生まれるか」という質問に対しては、ほとんどの人があると思うと答えてくれた。多くの人は金銭感覚が違うと答えた。どこかで休憩するときに、田舎では公園とかで休むが、都会の人たちはお金を出してファミレスやカフェで休むことが多い。そもそも田舎にファミレスやカフェなんてないので、都会に出たとき驚いた、と答えてくれる人がいた。その他には、田舎は競争を知らない子が多く、将来も地元で暮らしていけばいいと考えている子が多い。一方都会の子は、常に競争を強いられており、周りがすごいから自分も頑張らなくてはというように、自分に余裕がない子が多い。また、都会の子は将来を常に考えていて息苦しい、人が冷たいイメージがある、と答えてくれる人もいた。

7.「あなたは都会の子どもと田舎の子どもで違いはあると思うか」について聞いたところ、あると答えた人と、ないと答えた人はちょうど半分くらいだった。まずあると答えた人は、都会の子どもは学校に行くとき大人たちと混じって電車などに乗っていることから、田舎の子どもと比べるとしっかりしているイメージがある。都会の子は田舎のこと比べると、友達間での接し方が強いと答えてくれる子もいた。また、田舎の子どもは人懐っこいが、都会の子は興味がないものには全く興味を示さず、休み時間も友達と遊ばず本を読んでいる子が多いという意見も出た。一方ないと答えてくれた人は、今は昔と比べてもだいぶ近くなってきている、遊びの違いは都会と田舎であるとは思うが、携帯を使ってゲームをする姿は都会でも田舎でもよく目にするという。また最近では、田舎の子も外で遊ぶ姿をあまり見なくなってきたという。

8.「都会の親と田舎の親の違いはあると思うか」という質問をしたところ、あると答えた人が多かった。田舎の親は伸び伸び子どもを育てているが、都会の親は自分の理想を子どもに押し付けがちであると答えてくれた。また、田舎の親は親同士がお互いをよく知っているし、子どものことも同じである。田舎では地域で子どもを育てることができる。しかし、都会の親は個人で子どもを育てているという。

9.「将来都会と田舎のどちらで家庭を持ちたいか」という質問に対しては、一人を除いて他全員が田舎で家庭を持ちたいと答えた。自然あふれる田舎で心豊かな子を育てたい。また、田舎は不便だが、その不便さも良さであるから子どもにもわかってほしいという人もいた。その他には、田舎ならではの伝統や祭りに携わり、一生をその地域の人たちと関わっていきたいからと答えてくれる人もいた。また、生まれ育った土地がいいから、都会は怖いから田舎で暮らしたいという人もいた。しかし、ほとんどの人が答えてくれたのだが、子どもには一旦都会に出てほしいと答えていた。その理由は、田舎にずっといただけでは、考えが狭くなってしまうから、選択肢が狭いままであるからということらしい。一方、都会で家庭を持ちたいと答えた人は、子どもが選べる将来が都会のほうが増えるため、都会で家庭を持ちたいと答えてくれた。

以上がインタビューをまとめた内容である。

今回自分のテーマについていろいろな人にインタビューをしてみて、自分では考え付かないような考えを他の人から聞けたのでとても勉強になった。なかでも一番驚き、その通りだなと感じたのは、「都会は矢印の指向が中へ、田舎は矢印の指向が外へ」という都会と田舎の定義である。都会の人びとはもっと中へを求めるが、田舎の人びとは新しいものを求めて外へ矢印を向ける人が多いように感じる。それに応じて、田舎の人口は流出していく。一概には言えないが、つまり人口が流出していくということは、その土地は田舎なのかもしれないと考えることができる。

5番目の質問の「もし自分が今とは異なった地域で育ったとしたら、今とは異なった自分になっていたか」についてだが、多くの人が「異なっていたと思う」と答えてくれた。また、6番目、7番目の質問の答えからしても、育つ環境というのは子どもにとって大きな影響を与えるということがわかる。その土地の伝統や価値観などが、そのまま子どもに伝われば都会と田舎の子どもは異なってくると思う。」交通量が少ないことや周りに自然があふれていることが特徴の田舎」と、「交通に不便はなく苦労はしないが周りに自然がないことが特徴の都会」とでは、そこに住む人たちの性格も価値観も異なってくるだろう。また、周りにそういった人たちが多ければ、それが子どもにも影響してしまう。これはインタビューの質問6である人が答えてくれた「田舎は競争が少ないが、都会は競争が多い」の内容でも同じことが言える。田舎では「競争が少ない、争い事があまりない、受験をしない、将来をあまり考えない」といった子が多い。しかし都会では「常に競争をする社会である、小学校から受験をする、将来のことを考えざるを得ない」という子が多いのが現実であろう。都会にそういった風潮があるのなら、親はそれを子どもに押し付け、個人で子どもを管理するようになってくる。一つの小さな影響を都会は大きな渦のような影響にしてしまうのではないかと私は思う。そしてその影響に一番敏感なのは子供ではなく親ではないだろうか。子どもは自ら競争するのではなく、最初は親に押し付けられて競争を覚えるのである。そういった流れが田舎には少なく、都会には多いということである。

今回は田舎出身者の人のみのインタビューになってしまったので、少し内容が偏ってしまっているかもしれない。今後の課題としては、都会についての文献を読み都会の特徴をつかみ、インタビューについても、都会出身者に対して行っていきたいと思う。

また今回、中学生に対してインタビューを行ったのだが、多くの中学生が「想像したことがない、経験したことがないのでわからない」といった回答が多かった。このことから、小学生も似たような回答が返ってくることが予想できるため、今後は小中学生に対してインタビューは行わないか、または、より分かりやすい内容を用意してインタビューをするかのどちらかにしようと思う。

春学期におこなったことー「都会と田舎の子どものちがい」ー

子供が成長していく環境として、人口や情報量の多い都会と、自然に囲まれた田舎とでは、どちらがよりよい環境なのだろうか。

都会の場合は、人工的な遊び場が多く交通網も発達しているため、簡単に好きな場所に移動し、自分の好きなことをすることができる。また、情報量が多いため、自分がほしい情報をすぐに手に入れることができる。学習の面でも、社会の中心で生活をしているため、自分の将来をイメージしやすく、塾なども充実している。

しかし、都会は人口や情報量が多いため、自分に関係ないものに無関心になりやすい。また田舎に比べると優秀な親が多く、その親からのプレッシャーも強いため、ストレスが溜まりやすいといった問題が生じる。都会では、外からの刺激が多いため、子どもは成長するかもしれないが、負担も大きいだろう。

一方、自然の多い田舎に住んでいたら、走り回れるような遊び場も多く、無駄な情報量も少ないので子どもは伸び伸びと育つことができる。また田舎は、人口が少ないので、他人と親密な関係を築くことができる。家庭では、祖父母と一緒に住む可能性が高いので、子どもが家で一人になることが少ない。親以外の大人と話す機会も増えるため、社交性も延ばすことができる。また、田舎は静かなところが多いので、子どもはリラックスができる。

しかし田舎の場合は、電車が通っていない場所が多いので、いろんな場面で親が送迎をしなければどこにも行けないという問題もある。それにより、遊びや趣味、スポーツなどにしても選択幅が少ないので、都会に比べると子供の個性を伸ばしにくい場面がある。都会と比べると田舎は刺激が少なく、社会の変化も乏しいということから、競争社会で生きていくために必要な要素は伸びにくいと考えられる。 以上のような都会と田舎の良いところと悪いところだけを見てみると、都会で育った子どもと田舎で育った子どもとでは、明らかに違った人間になってくるのではないかと私は考える。このことから私は、「都市と田舎の子どもの感性の違い」をテーマに研究を進めていきたい。

 

調査方法としては、主にインタビューで調査していきたいと思う。インタビュー先には、山村留学を経験した小学生高学年や中学生。さらに田舎から都会に出てきたと思われる私の友人や、同じ大学の人にもインタビューをしようと考えている。

インタビュー以外では、田舎と都会の子供についての文献を参照したい。

 

今回の研究を進めていくうえで、都会の定義を「人口が密集し、商工業が盛んでいろいろな文化的設備がある土地」とする。しかし、どのくらいの環境を都会とするのかは個人差があるので、インタビュー者と相談して判断していきたい。

また田舎とは、生まれ育った土地のことをいうこともあるが、本稿では都会から離れた所で、人口も少なく、田畑が多いのどかな場所を田舎と定義する。また都会同様に何をもって田舎と感じるのかも個人によって異なると思うので、これもインタビュー者と相談して決めたい。

 

春学期に行ったことは、主に、グループごとに文献を集めてきて読んでくることであった。

私は初めに田舎の特徴をつかみたいと考えていたので、春学期は田舎について書かれている文献を中心に読んでいった。その中でも、「山村留学」と「グリーンツーリズム」について書かれている文献が多かったので、この二つの内容いついて次に述べていこうと思う。

まずは「山村留学」について述べていこうと思う。

山村留学とは、都市部の子どもたちが、数か月間から数年間の長期にわたって家族のもとを離れ、農村漁村で生活し学ぶこと。また、そうした子どもたちの受け入れを目的として農山漁村で行われる教育支援事業のことである。

山村留学は、日本全国で急速に過疎化・少子化が進む中、都市部の子どもたちを受け入れて地域の活性化を図りたいと考える農山漁村と、豊かな自然や伝統文化、あるいは農村共同体の温かな人間関係に触れることなどを通して、子どもを健全に成長させたいと願う都市部保護者のニーズが合致した結果、各地に広まったのである。

現在、様々なメディアが普及することによって子どもの現実体験が希薄になっている問題や、特に都市部で家庭・地域の教育力が低下している問題が指摘されている。こうした問題を背景に、都市が急速に失いつつある体験・教育機能を、田舎の立場から提供する存在としての山村留学に寄せられる期待が、高まってきている。

しかし山村留学は、幅広い効果が期待される一方で、確かな制度や、理論的に明確な裏付けを持たないまま各地の住民や自治体が、個別に手探りで事業をスタートさせるケースが少なくないため、それに伴う問題もいくつか生じている。その中でも最も大きな問題は、山村留学を受け入れた学校側が、「資金難」、「留学生の確保が困難」、「過疎・少子化で学校そのものがなくなる」などの理由から事業の継続を断念しているということである。このことから、山村留学を受け入れるということも困難なことがわかる。

また、山村留学というのは、都市で失われつつある体験・教育機能を、田舎の立場から提供するといったものなので、山村留学を受け入れる学校というのは地域的な偏りが大きい。

実際に山村留学で行う内容は、一日24時間、衣食住、健康管理、勉強、余暇活動など生活の全般にわたって子どもたちのサポートを行うものである。留学生の一日のスケジュールは決まっており、自分たちが生活する場の清掃や洗濯物の取り込み、ゴミ出しなども当番制で行っている。留学生たちは、初めはその生活に適用するために多くの時間が必要だが、いったん適用してしまえば、生活のリズムが整うため、好き嫌いがなくなる、体力が増す、勉強の習慣がつくなど、健康面や学習面に様々な好ましい影響が現れる。また、留学生たちの休日は、農作業、野外活動、地域の伝統行事などで予定が埋まっているので、休みの日に、「暇でやることがない」ということもない。こういった多彩な行事は、山村留学地の地域の住民によって支えられている。

山村留学が実際に子どもたちにどのような効果をもたらすのかというのは、はっきり示すことはできないが、研究者たちは「修業文集」の内容で分析を行った。修業文集とは、子どもたちが山村留学体験を振り返って心に残ったことを書くものである。その内容を見てみると、熱中するものに出会えた喜び、弱点を克服しようと挑戦してやり遂げた達成感、リーダーとしての責任を果たそうとしながらできない苦しみや、みんなの協力を得て責任を果たした充実感などが書かれている。このことを見ても、子どもたちは精神的に成長したということがわかる。

現在、「山村留学の効果を十分に高めるためには、少なくとも2年の留学期間が必要である」という共通認識が山村留学の関係者の中で形成されている。留学一年目は、新しい“田舎“の環境と留学センターのルールや人間関係に適応することによって生活のリズムを整え、それを基礎にして二年目で思い切り自分のやりたいことに打ち込むとともに、後輩たちの手本となってリーダーシップを発揮するのが最も好ましい留学体験のあり方だと考えられている。また、複数年の留学を経験してリーダーシップをとることができるようになった子どもが増えると、低学年の子どもや留学期間の短い子どもの留学生活への適応もより円滑に進むようになる。さらに、様々な行事における留学生全体としての体験の質も高くなることが経験的に認められている。このような認識は、山村留学センターの職員たちが山村留学を続けるために、試行錯誤を繰り返すことにより形成されたものである。

しかし、山村留学の今後の課題も存在する。第一は、小学生の時から継続して最長8年間におよぶ留学を経験する子どもが現れるなど、留学の長期化が生じているということである。長期の留学を経験して年齢も高くなった中学生に対しては、1〜2の留学を行う小学生とは異なり、より幅広い体験の選択肢を提供することが重要であるが、この点についての方向性は、現在のところは明確になっていない。

第二の問題は、山村留学を体験して生活のリズムが整ったにもかかわらず、山村留学を終えて地元に戻ると元の不規則な生活に戻ってしまうという事例がしばしば生じる点である。山村留学で規則的な生活を整えたのだから、それを地元でより効果的に生かしてもらうために、様々な取り組みが必要となってくる。

山村留学は、単に“都市“の子どもに“田舎“体験を提供するだけでなく、“田舎“に集った子どもたちの「自ら成長する力」や相互関係を効果的に活用して、サポートすることによって、“都市“が急速に失いつつある体験・教育機能を、質の高いレベルで提供することを目的としている。

以上が「山村留学」についての内容である。

次に「グリーンツーリズム」について述べていこうと思う。

現在、日本でサステーナブル・ツーリズム(持続可能な観光)として注目されているグリーンツーリズム(農山漁村滞在型観光)は、ニート青年を立ち直らせるオータナティブ教育として、また都会の子どもたちに自然や食べ物のありがたさなどを、体験を通して学ばせる食育として注目を集めている。

グリーンツーリズムが都市住民にもたらすものは、①「農」のあるライフスタイルの享受、②伝統行事や歴史・文化体験、③自然・景観体験、④心身のリフレッシュ、⑤特産物・食の体験、⑥農業・農村滞在体験、⑦子どもの情操・環境教育である。一方、農村住民側が得るものは、①「農」を生かしたライフスタイルの創造、②持続的な収入の確保、③快適な生活環境の創造、④多様な人材の交流、⑤地域資源の多面的価値発見と活用、⑥農業・農村の多面的機能の理解の促進、⑦女性や高齢者の社会役割の向上である。双方的には①自己実現、②個持続的交流、③個性的体験、④生身の親密な体験、⑤非日常性、⑥非効率性、⑦計算不可能な成果がもたらされる、といった内容である。

環境社会学者たちは、グリーンツーリズムで意味したものは、単なる緑地帯観光ではなく、「地上のすべての生命の尊重、資源の適正利用、多様さの(例えば農業や環境など)の捉え方、自己行動の律し方、問題へのアプローチの仕方、また一人ひとりの人生観やライフスタイルにも影響を与える考え方」である。グリーンツーリズムでは、「農」という一つのものを教育としてとらえている。つまり、ただの「観光」ではなく、グリーンツーリズムは「農」の体験を通して教育を行うというものである。

実際にグリーンツーリズムを体験した青少年たちは、「農」に触れることで命の尊さに気づいたり、食べ物のありがたさやおいしさに感謝することができた。また、農村という自然に囲まれた土地で農作業をして過ごすことにより、自分のことや家族のことをじっくりと考える時間ができたと話している。生きる意味をなくしていた少女は、日が暮れるまで体を動かし農作業を手伝うことにより、生きていることを実感し、農家の人に「ありがとう」と言われ、人間の温かさを知ったという。都会でずっと暮らしていれば、お金があれば何でも食べられる。しかし、実際に村で野菜がどのように作られているのかを知り、自分の手で苦労して作ることにより、食べることに感謝し、ご飯がおいしいと感じるのである。以上がグリーンツーリズムを実際に体験した青少年たちの声である。

都会の人々が、農村という自分たちが住んでいる地域とはかけ離れている場所で、自然を感じながら農業をすることで多くのことを学ぶことができる。そしてそれらは、都会で苦しんでいる若者たちへの助けに成り得るということが言えるだろう。

以上が「グリーンツーリズム」についての内容である。

今回、田舎についての文献を読むことで、「山村留学」と「グリーンツーリズム」についての理解が深まった。この二つの体験はどちらも都会で生活する人に対して行われている。都会では決して味わうことのできないことを、自然に囲まれた田舎の土地で体験することにより、都会の人びとは多くのことを学ぶことができる。これも一つの教育であると私は考える。そう考えると、元から田舎に住んでいる子どもたちの多くは、都会に住む子どもたちよりも、命の尊さや食物への感謝の気持ちを教育されていると言えるかもしれない。もちろん、都会に住む子供たちもそういったことは学べるであろうが、一つの体験を通してそういったことを学ぶという機会は、田舎に住む子供たちと比べるとどうしても少ないであろう。しかし、都会で子どもを育てていて「子どもに自然の豊かさや地域の伝統文化などを通して心豊かに育ってほしい」と思ったとしても、「山村留学」や「グリーンツーリズム」といった体験があるので、積極的にそういった体験を子どもにさせることが必要であると私は考える。それにより、子どもはもちろんだが田舎の人達からしても、その地域の発展などにつながるので、そういった体験活動というのはもっと多くの人が知るべきではないかと私は思う。

では逆に、都会でしか学べないことはあるのだろうか。このことを今後の課題とし、都会について書かれている文献を読み進めていこうと思う。

 

以上が春学期におこなった内容である。

環境としての人間ー 家庭と学校ー夏休みにおこなったこと

春学期に引き続き、本を読んで知識を深めること、友人へのインタビューに努めた。

文献を参考にしながらインタビューの質問を考えたり、インタビューの回答と文献を照らし合わせたりした。

まず、インタビューの内容をまとめておきたい。()内は、質問事項、回答を受けての感想である。

友人をAさんとする。

・小学生の頃、父親の仕事の都合上で海外で2年間過ごしている。日本人学校に通っていた。予め帰国すると分かっていたため、海外での暮らしに、あまり抵抗はなかったそう。

・英語も公用語、学校ではレベル別に分けられた英語の授業もあったらしい。海外に行く前に、単に入会したらもらえるぬいぐるみが欲しいがために始めた英語教室に通い続けたこと。お父さんも英語を話すことができる。(幼い頃から、これらの英語との密接なつながりが、Aさんの英語力へ強く影響しているのではないかと考える。)

・海外では、夏に近所の友だちとプールで遊んだが、友だちというより家族と過ごす時間の方が多かったそうだ。

・(習い事は?)今までの習い事は英語教室と太鼓の2つだけ。(思いの外、少ないという印象を受けた。)兄弟揃って自分のやりたい事を少しやっただけで、あとは自由に遊んだり自分で勉強したりしていた。Aさんの始めた英語教室に関しても、お母さんは無理やりではなく、やりたいというものをやらせるようにしていた。お父さんも海外に行くかもと思っていたので丁度良いと感じたぐらいだったそう(親が習い事をさせるというより、子どもの意見を尊重していると伺える。)

・(勉強しなさいと言わない代わりに何か他の言葉がけはあったか。)「宿題した?」くらい。兄弟がいて、比べられることがあったから負けたくなくて自分から進んで勉強したと思う。(兄弟で競争することで、自ら勉強する姿勢ができいる。「勉強しなさい」「宿題しなさい」など叱る様子もあまり見受けられないように感じる。)

・(お手伝いはどんなことをしていたか?また、お手伝いを継続するために心がけていたことはあるか。)

お皿洗い・お風呂掃除・洗濯物たたみ・掃除機がけ等。手伝うとお小遣いが貯まって、その合計ポイントで月末にまとめてお小遣いをもらっていた。心がけは特にないが、小さい頃から自分で何かに取り組み、その代わりにお金をもらうといった、社会の仕組みを学んでいたのではないかと気づいた。(お手伝いをさせ、それをどう続けるようにするか工夫は大切だと思う。月ごとにポイントが貯まる工夫は、楽しみながら、また達成感も実感できる。Aさん自身、社会の仕組みを学んでいたことに気づいていて、その通りだと思った。)

・(お父さん、お母さんが何かに打ち込んでいた事はあったか?また、それに影響されて、自分んも好きになった事はあったか?)お父さんは反面教師だったかもしれない。お母さんは料理をしたり、ミシンをしたり結構家庭的なことをするのが好きそうだった。だから、お菓子作りや手芸をするのが好きになった。(Aさんの家庭的、器用なところはお母さんからの影響もあると分かった。子どもは親を見て育つともいえる。一方、見習いたくないなと思うことも、自分はこうなりたくない等、ある意味自分を変えるきっかけになり得るとも知った。)

 

伸びる子どもが育つ家庭環境・子育てとは …

文献やインタビューから考察する。

生活面

ある一冊の本で、アメリカ人のダイアナ・バウムリンド博士による「子育てスタイル」が紹介されていた。子育てを民主的タイプ、許容タイプ、独裁・権威主義タイプ、無関心タイプの4つの子育てスタイルに分けられている。民主的タイプは、子どもに対する受容度・サポート度と子どもへの要求度・コントロール度が高い。民主的タイプで育つ子どもは、社会的スキルや自尊感情が高く、優秀な学力、情緒の安定しやすいといった調査結果があるそうだ。民主的タイプの特性には、子どもの行動や達成感に関する親の期待度が高く、親が子どもの指導・監督する程度が強いことから、独裁・権力主義タイプにも当てはまる。だが、独裁・権力主義タイプに加えて、子どもに関するきまりや要求を決める際、子どもの意見や気持ちに耳を傾け、柔軟な姿勢でそれらを取り入れるということが特性のポイントである。日常生活における言動が、親だけ子どもだけの一方通行ではなく、親と子の双方な関係が大事だと改めて気づいた。どのタイプに比較的当てはまるか考え、バランスを保てるように、親は接し方を変えなくてはならないのかもしれない。  親が子どもの才能を望んでさせる一つに習い事がある。最終的な決定は「取り組む」子どもにある。本当に子どもがやってみたい、子どもの意欲が育てられる環境を整えることが親の役目である。  お手伝いに関して、ただやらせる、いつもお金を渡すだけでなく、家の人の役に立った、喜んでもらえたという実感が大切である。  食習慣も家族の絆を深める上で、とても重要である。家族みんなで囲む食事、語り合うことで、疲れがとれたり、変化に気付けたりする。幼い頃に、様々な味に親しむことも、好き嫌いをせずに何でも食べる子になるともいえる。  おじいちゃん・おばあちゃんがいることで親に余裕がもてる。兄弟がいることで、学校の悩みが打ち消される、人間関係を知る大事な勉強になり得る。  家族の良さや在り方を見直し、効果的でより良い家族との時間、関わり方を考えていかなければならないと思う。

勉強・学習面

勉強が面白い、もっと勉強したい、やればできるといった、勉強や学習に対する意欲や認識を変えることが学力向上につながる。しかし、成績を上げて親を喜ばせるため、宿題をしないとお母さんに叱られるから等、親の配慮や親との良い関係が目的となってはいないか。また、親も子どもへの強い期待あるいは強制的になっていないか。楽しさのない勉強は、単にこなしているにすぎず、長続きしない。「好きこそものの上手なれ」ということわざにある通り、好きな事、得意な科目ほど楽しく、頭にも入りやすい。勉強をやらされている感を子どもに持たせるより、「学ぶことは楽しい」と大人が伝えていく必要がある。読んだ本のほどんどに、「家庭の雰囲気・親自身が変わること」と述べられていた。子どもは親の言葉より「行動」で伝えることこそ、最も説得力があると分かった。親が家庭教師のようにつきっきりで勉強を教えなくても、勉強に意欲が持てるようになるとも知った。資格取得を目指した勉強、料理、ガーデニング、読書等の趣味に打ち込んで、楽しそうに勉強している姿を見せて示すことが大切である。たしかに、真剣に取り組む親の様子から影響を受け、子どもにも打ち込む姿勢が身につくと共感できる。しかし、例えば料理と学校の宿題とでは取り組む対象が異なり、集中力の継続できない、勉強とは別の事に気が散ってしまうともいえるだろう。そこで、友人Aさんのような兄弟、競争相手がいることでやる気につながると考えられる。もっとよくなりたい、一番になりたいと思う気持ち、競争意識も家庭学習をする上で良い要素だと思う。極端な偏見はせずに兄弟で競争させる、何分で解けるかなど時間との競争を与える、勉強時間を記録させて昨日の自分と比較させる等の競争心も、集中力を高めるといえる。同時に、自信を持たせることが大切である。子どもの意見を聞く、成果に褒める等の接し方、言葉がけによる違いも、子どもが自信を持てるか持てないかに関わってくる。「あなたは頭が悪いのだから、人一倍勉強しなくてはだめよ。」と叱ってばかりでは、プライドが否定され、頑張れる気は起きない。  Aさんお母さんは「宿題した?」と聞くくらいで、学校の宿題・勉強がノルマであったことが分かった。勉強嫌いになりにくく、基礎的な学力がきちんと身につく。  幼少期での玩具、読み聞かせ、遊び、小中学生でのリビング学習にも効果があると知った。  勉強面での集中力や意欲も、日頃の生活習慣で養われていくと考えられる。

 

反省点・課題

夏休みには、文献の要約が中心に取り組んだ。やはり、実践的な面には届かず、情報が少ないと感じられる。文献を再度まとめる事はもちろん、インタビュー調査は今後進めていく必要性を感じる。また、秋学期には、家庭と学校の「学校」に関しても、調査を始めなくてはならない。

 

参考文献

・子どもが育つ条件ー家族心理学から考えるー 著/柏木恵子 (岩波新書)

・勉強ができる子の育て方 著/江藤真紀(株 ディスカバァー・トゥエンティワン)

・子どものヤル気にさせる 親はここが違う! 著/松永暢史 (株式会社グラフ社)

・自立した子に育てる 著/中山み登り (朝日メディアインターナショナル株式会社)

・DAN教授の家族のこころゼミ 著/団士郎教授 校成出版社)

・「子どもの力」を信じて、伸ばす 著/中村佳子(三笠書房)

・海外で育つ子どもの心理と教育 著/栗原祐司 森真佐子(金子書房)

〔新装版]子どものほめ方・叱り方 伸びる力が育つ44のヒント 著/浜尾実(PHP研究所)

これらの文献は今後も参考にしていく。

春学期の調査まとめ「インクルーシブ教育」

春学期行った調査のまとめ

 

1.はじめに

今年度のゼミの共通テーマは「環境としての人間」というものである。まず、環境について考える。環境は、生物を取り巻く家庭・社会・自然などの外的な事の総体であり、狭義においてはその中で人や生物に何らかの影響を与えるものだけを指す場合もある。特に限定しない場合、人間を中心とする生物に関するおおざっぱな環境のことである場合が多い。環境は我々を取り巻き、我々に対して存在するだけでなく、我々やその生活と関わって、安息や仕事の条件となる。では、人間に適した環境とはどのようなものなのだろうか。私は、特別支援教育の視点から、障害を持った児童が快適に過ごせる環境について考えたい。

私は現在特別支援学校の教員になることを目指している。私の弟は自閉症という発達障害であり、弟のような障害を持った子どもたちが楽しく充実した学校生活を過ごすためにできることはないか、と考えたことが教員を目指すきっかけとなった。さらに、障害をもった子どもたちが快適な学校生活を送るための環境を作る1つの方法として、私は「インクルーシブ教育」が望ましいと考える。インクルーシブ教育(訳:包容する教育)とは、人間の多様性の尊重等の強化や、障害者が精神的および身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者とない者が共に学ぶ仕組みのことだ。2012年に文部科学省の初等中等教育文科会から「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)」が発表されており、以下のような考え方にもとづいて、特別支援教育を発展させる必要があるとされている。

  1. 医療、保健、福祉、労働等との連携を強化し、障害のある子どもの教育の充実を図ること。
  2. 障害のある子どもが、地域の同世代の子どもや人々の交流等により、可能な限り共に学ぶよう配慮すること。
  3. 次代を担う子どもに対し、学校において障害者理解を推進すること。

「インクルーシブ教育」について興味をもつきっかけとなったのは、あるデイサービス施設の合宿に参加したとき、施設の職員の方が健常の子どもと障害をもった子どもが生活をともにすると、障害をもつ子供は健常児の真似をして、生活力が上がると仰っていたのを聞いて、健常児も障害児も可能な限り関わる機会を増やしたほうがいいのではないか、と考えるようになったことだ。インクルージョン教育は今までに多く議論されてきたテーマであり、それだけメリットもデメリットも存在する。さきほどは、障害者側からのメリットを述べたが、健常児側からの視点でのメリットやデメリットも存在する。健常児と障害児が共に学校生活を過ごすことによって、健常児は障害に対して理解を深めることができ、思いやりや優しさが育つことが期待される。障害に対する偏見も減るのではないかと考えられる。逆に、障害児と生活を共にしたことによって差別的な考えが生まれてしまう児童もいる。障害児のお世話係りを任されたりなどしたことが負担になってしまい、障害に対して良い印象を持てなくなってしまったという例もある。

今までに述べたようにインクルーシブ教育は、メリット・デメリットが存在するため、良い結果だけを残すものではない。様々なメリット・デメリットを比較検討し、障害児・健常児にとって良いインクルーシブ教育の形とは何か、良い学校環境とは何かについて考え、研究していきたい。

 

2.インクルーシブ教育の成功例について

DINF(障碍者保健福祉研究情報システム)による国際調査から得られた重要な3つの所見。

インクルーシブ教育は有効であるが、その成功は依然としてその場限りのものである。

インクルーシブ教育は、重度の児童に対しても有効だ。親が子どもに期待を抱いて多様性を受容する教育や学校にアプローチしたとき、子どもが学校で個別のニーズと能力に応じた支援を受けるとき、教師が多様な生徒を指導できるようサポートされるとき、すべての子どもは学習し、成長することができる。多くの課題、問題がある中多くの事例がインクルーシブ教育の成功を実証してきた。しかし、学級および学校、地域社会、教育制度、そしてマクロな計画と政策が、インクルーシブ教育を全体的に推し進めるために一丸となって取り組んでいる例はごくわずかだ。「その場限り」というのは「事例だけ」という意味である。リソースや教育制度からの支援がないまま、インクルージョンを実現しようとする一人の教師や学校長の純然たる意志と献身によって達成されたものであることが多い。結果的に、必要な支援を受けながら普通教育を受けることができる障害児は少ない。

《成功例と言える事例》

◎武壮隆志・北村佳那子著「最重度・重複障害児 かなこちゃんの暮らし」明石書店

この本の中心人物である佳那子さんは、胎児期ウイルス感染による脳・脊髄膜炎の後遺症で、脳性まひ、小頭症、ノンレックス症候群(てんかん)などといった病名をあわせもっています。全面介助ですが、明るくおちゃめな女の子です。佳那子さんと触れ合うことを通じて子どもたちはいろいろなことを感じます。「障害って個性なんじゃないかなあ。」「障害っていう言葉がなくなったらいいのに。」「私は今まで障害についてよく理解しないまま差別していた。佳那子ちゃんと出会えてよかった。」「佳那子ちゃんへの見方を変えれば、佳那子ちゃんの気持ちも変わる。」「障害者だから、とか関係なく怒ったり笑ったり遊んだりするのが本当の友達」以上に述べたように佳那子さんに対するプラスの面での子どもたちの変化がわかります。きっと他の生徒には佳那子さんと接しても、障害に対してうまく関わりが持てない子もいるかと思います。しかし、障害に対して理解を深めた児童がいることも事実です。何と言っても、佳那子さん自身が通常学級での暮らしが充実していて楽しいということが本書から伝わってきます。読みやすいのでぜひ読んでみてください。

 

  1. ニュージーランドの障害児教育

ニュージーランドでは、特別な教育的ニーズのある子ども、健常の子どもなどすべての子どもたちが個人に適した環境で、ひとりひとりにあった教育を受けることを保障しようとしている。その結果、ニュージーランドにおいては、障害のある子どもたちの約96%が通常の学校で教育を受けており、インクルーシブ教育が進んでいる国の一つだといえる。(内訳 85%:通常学級、9%:特別学級と通常の学級、2%特別学級)ニュージーランドではSEN(Special Education Needs)のある子ども、健常な子どもなどすべての子どもたちが個人に適した環境下でひとりひとりにあった教育を受けることを保障しようとしている。ニュージーランド政府は、特別な教育的ニーズのある子どもたちに年間約283億円を投じている。このような政府によって保障された環境がひとりひとりの子どもたちが完全なインクルーシブ教育を受けることができる方向性を明示している。ニュージーランドのインクルーシブ教育は、障害のある子どもだけではなく、少数民族や、宗教的な違い、亡命者や難民、病弱の子どもたち、虐待を受けた子どもたち、他にも社会的に不利な立場にある子どもたちなど、非常に多様な背景にある子どもたちが置かれている不利な状況を改善することに焦点を当てているといえる。

 

 

4.理想的なインクルーシブ教育とは

まずは、インクルーシブ教育の定義について考える。先ほども述べたように、インクルーシブ教育とは、人間の多様性の尊重等の強化や、障害者が精神的および身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者とない者が共に学ぶ仕組みのことである。インクルーシブ教育は、多様性を尊重し、バリアを克服しようとする人々と社会にかかわるものである。機会均等の考えに基づいているが、単にみんなを等しく扱うものではなく、前もってある違いを補強するにすぎない。最大限にする等しい機会をもつようにすることだ。

定義が広いため、様々な教育システムをインクルーシブと称することができる。つまり、常に同じ学級で学習や学校生活をともにすることだけをインクルーシブとするのではなく、通級や交流も意味に含まれる。障害をもったこどもの中には、聴覚障害など、専門的に学習を行わなくてはならない場合などは通常学級で生活することは難しい。しかし、そのような場合でも、普段は聴覚障害に応じた特別な教育を受け、健常児との交流の時間を設けるなどの工夫が大切だと考える。

障害をもつ児童のような特別なニーズをもつ子どもへの支援だけではなく、「教師の目から隠れてしまいがちな子」「教師に要求が伝えられない消極的な子ども」もたくさんいるため、そのような子どもに対しての支援も考えたい。

インクルーシブ教育における効果の1つとして、子どもたち同士の助け合いが期待される。たとえば、机の配置がグループの形にするという考えである。これによって、友達同士の学習援助の機会が増える(アメリカに比べ日本は少ないといわれている)、支援者の役割の縮小にもつながる(フェードアウト論)、子ども同士をつないできく働きかけが重要。支援者に求められるなどの効果が得られると考える。

展望としては、障害をもった子ども、不登校など排除の圧力にさらされる子どもたいちが参加、達成、出席することが目標だといえる。

 

 

《参考》

・荒川 智「インクルーシブ教育入門」クリエイツかもがわ

・武壮隆志・北村佳那子著「最重度・重複障害児 かなこちゃんの暮らし」明石書店

・愛甲 悠二、池本喜代正「ニュージーランドにおけるインクルーシブ教育の支援体制及び基金に関する研究」宇都宮大学教育学部

 

〚秋学期の課題〛

・春学期は様々な現在あるインクルーシブ教育について調べたため、それを踏まえ理想的なインクルーシブ教育を追及し、どのような方法をとれば実現できるかを考える。

・小学校の先生方にインタビューを行う。

夏休みまとめ 環境としての人間

今回、私は、重度の知的障害を持つ生徒の給料を上げるために、学校で行うことができる教育方法はあるのかということを研究したいと思い、このテーマを選んだ。  一つ目になぜ、知的障害者かというと、知的障害者は障害者の中で一番人数が多いということが挙げられる。就業率はほかの障害の人よりも高いとされているが、年齢階層別就業率 の平均は半分程度である。20歳は7割であるが、年齢を重ねるごとに、就業率は少しずつ低くなる。この最初の七割を継続すると、いいのではないだろか、と考える。 二つ目に給料が一般的な企業でも低く、また、就労移行、生活介護などはさらに低いという現状がある。これは、一日の仕事の量、時間が少なめや販売を行っているところでは物が売りきれない、などが考えられる。  三つ目に、少しでもお金が増えれば、家族への金銭的負担が軽減されるのではないか、と考えられる。現在は、国や地方自治体により、障害者への金銭的援助は行われている。児童生徒であれば、学用品や給食費 などの金銭的援助、18歳以降は障害者年金などにより、お金が貰うことができる。また身体障害者であれば、車いすを購入するときの補助など、障害によって、その援助は異なっている。また、これは地方自治体によっても異なってくる。障害者はある市では、市営の交通機関は無料である、など、地方自治体の財政事情によって異なっている。  国の財政事情、地方自治体の財政事情、によって障害者への援助は変わってくる。このことから、高齢者が増えている今、障害者への援助はよくならない可能性が高い。また、金額も減ることはあっても、増えることはないと考えられる。しかし、今は消費税が上がる予定、また物価自体が上がってきているということを考えると、同じ金額を受け取っていても、手元に残る金額が少なくなるのではないか、と考えられる。そうすると、今の高齢者の一部は貧困に陥っているが、その下の世代は年金が貰えるかわからない、もらえても金額が低いと考えられ、現在障害児の親、若い障害者の親はほかの親よりも生活が困難になるのではないだろうか、と考えられる。  また障害者の平均寿命が延びている、ということが聞いたことある。以前は階段が上がれなくなる前に、なくなることが多かったが、いまは階段で上がるのが困難になる年齢まで生きるため、二階に住んでいた障害者が困っている、ということを聞いたことがある。 高齢者が増加、障害児が増加、高齢者で障害を持つ方が増えている、しかし、労働者人口が減る、ということから、今は成立していても20年後、40年後がどうなるかはわからないだろう。 四つ目に障害児の生まれる数が増えている、ということが挙げられる。高齢者出産により、染色体異常をもつ障害児が生まれる確率が高い、医療の進歩により、以前であれば生き延びることができなかった子供が生き延びることができるようになった。しかし、同時に障害を持つことがある、ということが考えられる。晩婚化、高齢出産は女性も大学を出る割合が高くなった、また給料が安いことから安定した生活を送るまで結婚しないなどにより、これからも続いてくだろうと考えられる。そうすると、これから障害児が増える可能性があると考えると、これから障害者にも社会でなにかできるように今から働きかけができるといいのではないか、と考える。また、今回例に挙げた高齢出産は割合が高くなる、というものであり、高齢出産だから必ずしも障害を持つ子どもが生まれるとは限らない。若くても、妊娠中の過度なストレスや食生活による妊娠中毒症、大気汚染など環境ホルモンの影響も原因 となる。しかしどの原因と挙げられるものも現代生活には非常に密接なものである。  障害者への給料、賃金は総じて安い。学校という教育の場であるが、仕事につなげるために、何か行えることはあるのだろうかということである。  この研究のために、生活介護の施設で働いている職員の方、また特別支援学校(知的障害)の学校での進路担当の教員の方へのアンケート、また教員の方へのアンケートを行った。 (1)施設・作業所側から ① 生活介護とは そもそも生活介護とは何か。厚生労働省の障害福祉サービスの内容ではこのように定められている。  障害者支援施設その他の以下に掲げる便宜を適切に供与することができる施設において、入浴、排せつ及び食事等の介護、創作的活動又は生産活動の機会の提供その他必要な援助を要する障害者であって、常時介護を要するものにつき、主として昼間において、入浴、排せつ及び食事等の介護、調理、洗濯及び掃除等の家事並びに生活等に関する相談及び助言その他の必要な日常生活上の支援、創作的活動又は生産活動の機会の提供その他の身体機能又は生活能力の向上のために必要な援助を行います。 【対象者】 地域や入所施設において、安定した生活を営むため、常時介護等の支援が必要な者として次に掲げる者 (1) 障害程度区分が区分3(障害者支援施設に入所する場合は区分4)以上である者 (2) 年齢が50歳以上の場合は、障害程度区分が区分2(障害者支援施設に入所する場合は区分3)以上である者 (3) 生活介護と施設入所支援との利用の組み合わせを希望する者であって、障害程度区分が区分4(50歳以上の者は区分3)より低い者で、指定特定相談支援事業者によるサービス等利用計画を作成する手続きを経た上で、利用の組み合わせが必要な場合に、市町村の判断で認められた者 [1] 障害者自立支援法の施行時の身体・知的の旧法施設(通所施設も含む。)の利用者(特定旧法受給者) [2] 法施行後に旧法施設に入所し、継続して入所している者 [3] 平成24年4月の改正児童福祉法の施行の際に障害児施設(指定医療機関を含む)に入所している者 [4] 新規の入所希望者(障害程度区分1以上の者) 生活介護は働くというよりも、日常生活の支援、身体機能、生活能力の向上というものである。給料、工賃をあげるのではなく、支援を行う場と考えると、この研究は間違っているのではないか、と考えたが、生活介護の場であっても、何らかの製作、販売を行う、ポスティングを行うなどにより、工賃を得ている、という場もある。 ② 生活介護の職員にアンケートを行った理由 知的障害者の就業形態で授産施設・作業所等が59.1%である。身体障害者は約6%、精神障害者は約37% と知的障害者と比べると、低い値ということから、生活介護などの授産施設・作業所には知的障害者が高い割合でいるのではないかと。   また重度の障害を持つ人の多くは生活介護に行くことが多いので、今回の研究対象である重度の知的障害者が多くいるのではないか、ということで、生活介護の授産施設・作業所等にアンケートを行った。 ③ アンケート結果 学校で行っている教育が就労の場で行っているかという質問に対し、多くの方がはい、と答えている。人とのかかわり方や挨拶などが身についている、支援方法が同じであれば、学校以外の場でも落ち着いて行動ができる、集団生活に慣れている、規則正しい生活を送るという点が挙げられ、学校の教育で身に付けたことが卒業後でも行えることが多く、高評価であった。しかし、就労の場ではあまり、という声も少ないがあった。  学校で行ってほしいというものではソーシャルスキルトレーニングを行い、地域社会に出ていく機会を増やす、またコミュニケーション能力やスムーズな行動の切り替えができる、自傷他害ではなく自己表現ができるようになるといいという声もあった。 工賃を上げるためには複数の作業ができること、商品の価値を上げることができるような商品、また職員がつきっきりではなく、一人でできる、社会の理解ということが挙げられた。 また、情報が少ない、ということが多くあげられた。障害者にいる身近な職員には、障害者の情報が十分に届いていないことが挙げられた。 ④ アンケート結果を受けて この生活介護の施設にいる障害の方が年齢層がわからないため、養護学校時代なのか、特別支援学校時代なのか、わからないという問題点がある。しかし、多くは生活習慣をしっかり身につけていることを望まれていることがわかった。生活習慣は障害の状態によって、個人差があるため、一定の水準をつける、ということは不可能であるため、非常に難しい問題である。同じ重度の知的障害判定されても、自傷がある子もいれば、強いこだわりを持つ子がいるなど、同じ状態の子はほとんどいないからである。そのため、職員の方が望まれていることは、限界があるのではないか、と考えられる。  また一つの意見であったが、社会の理解、というものがあった。障害に対する理解、というものは低い、といえる。今は共生社会が謳われていることもあり、特別支援学級を学校に併設する、またクラスに学習障害の児童生徒がいるなど、障害を持つ子どもはかなり身近にいるという社会である。知識として教えられるのではなく、実生活に何らかの困り感を持つ子とかかわりによって、これから障害者への理解は進まるのではないか、ということも考えられる。 しかしながら、障害者が働く作業所などを建設するとなると、地域住民からは反対されることが多いということが挙げられる。  NHKニュースおはよう日本では障害者ホームの設置に“壁”という特集が組まれていた。 反対する理由としては“女性の後を付け回したりしないか”“ギャーとか、動物的な声が聞こえる”“地価など、資産価値が下がる”。このような反対理由を掲げる人のほとんど障害者に身近に接したことがない人だという。反対運動は5年の間にだいたい60件あり、36件が設置断念、予定地変更となったという。  ケアホーム運営のNPO 秦靖枝さん「インターネットで、すごくいろいろ出る。 突然に突き飛ばすとか、叩くとか、噛みつく。 不安感とか、分からないことに対する恐怖心、それが絶対、どんどん悪い方にエスカレートしていくのだと思う。」  このことから、健常者と言われる人たちへの障害に関する理解、知識、などが不足していると考えられ、そのような人をはじめとして、障害者が働く作業所で何かを買うということをする人は少ないのではないだろうか、と考えられる。工賃を上げるためには、障害児の教育も必要かもしれない。しかし、それよりも私たち、健常者と言われる人たちと障害者の双方の理解が必要なものなのではないだろうか、と考えられる。  また情報が少ないということから、学校側から貰う情報が十分でない、施設側での情報共有が不十分、また親などのかかわりが薄いため、情報を得られない、と考えられる。教育とは異なるが、情報が共有できるように、制度が整備されてきている。これが、しっかりと行われていく必要があると考える。 (2)特別支援学校側から ①特別支援学校について  今回は二校の特別支援学校にインタビュー、アンケートをお願いした。ともに知的障害児が通う学校であり、小学部から高等部まである学校である。  学校教育法施行令22条の3では、特別支援学校の対象となる障害の程度を定められている。 ① 知的発達の遅滞があり、他人との意思疎通が困難で日常生活を営むのに頻繁に援助を必要とする程度のもの ② 知的発達の遅滞の程度が前号に掲げる程度に達しないもののうち、社会生活への適応が著しく困難なもの しかしながら、学校によって、重度の児童生徒が多いところ、軽度の児童生徒が多いところなど学校で異なっている。今回インタビューした特別支援学校は、重度の知的障害児が多い学校、アンケートを行った特別支援学校は、軽度から重度までいるという学校である。 また生徒数はインタビューを行った特別支援学校は全学部合わせて120名程度、アンケートを行った特別支援学校は全学部合わせて200 名程度である。 ② インタビューまとめ 学校では日常生活で必要なことを身に付けるために、日常生活の指導で毎日行っている。あいさつや声掛け、順番を守るなどのマナー、まとまって歩くなどの集団行動は、毎日行い、定着させるということを行っている。また、日常生活とは別に、グループに分かれ、各目標に合わせて、日常生活から抽出したものを行っている。この目標は保護者との相談などにより決定している。  また授業でパズルをするなどのいろんな体験を行い、休み時間をひとりで過ごす時にできることを増やす、好きなことができる、卒業後の余暇活動に生かすようにしている、ということである。  また集中力を高めるために特性を探る、何であったら集中してくれるか、座っていてくれるか、ということを探している。  またつまづいていることを改善し、より安定するために行い、毎日できることが卒業後でもできるようにしていくことを日常生活の指導で行っている。  また、卒業後は進学、就労はほとんどおらず、多くが生活介護などであるということであった。生活介護では、いろんな活動を行っている、また制度上はどこでも行くことができる、ということである。しかし、一日のプログラムに乗れる人はプログラムがはっきりしているところ、その場の集団適応できるか、本人にあっているか、またどのように通うのか、ということを親、生徒などと何度も話し合って決めていく。例えば、バスで通えるのか、親の送迎か、施設側の送迎か、ということが挙げられる。このような環境によって条件を狭められてしまうことはあるが、基本的に本人や親などと相談し、適応できるところに行くこととしている。  つまり工賃などで、行き先決めて目標とするのではなく、卒業後どこで本人の力を活かせるのかということを判断しているという。そのため、高校二年、三年には体験、現場実習を行い、適応できるか、を見て折り合いがつくまで、本人に合う場所を見つけていく、ということである。  つまり、学校では就労にむけての教育は学校では行わない、ということであった。いかに、卒業後、適応できるか、そのために、日常生活を身に付けるのか、ということであった。また、障害の状態によって、さまざまである。自分で着脱できる子もいれば、難しい子もいる。その子に合わせて、日常生活の指導を行い、学校でその能力を最大限行っているということであった。  また高等部から日常生活の基礎からを身につけるのは困難である。小学部からの積み重ねの完成を高等部で行っているということである。  高等部では作業の時間がある。これは学校によって何を行うかは異なるが、この学校では農園、紙工芸、手工芸、工芸、環境に分かれている。農園では作物を育て、文化祭で販売を行う、また工芸品も販売を行っている。環境は缶をつぶすなど環境整備を行っている。これは実習につなげるためではなく、社会性、柔軟性を養うためで行っている。  また卒業後の作業所などとは、学校にもよるが、情報提供を行っている。しかし、職員まで届いているかまではわからない、という事だった。 ③ アンケートまとめ 掃除を行う、生活のゲームを行いルールを学ぶ、排泄、あいさつなど日常生活のことを定着するために行っている。まあ、そのようなことをとおして卒業後の進路のための土台作りを行っている、自分の意思を伝える、人とかかわる、待つ、情緒の安定コントロールをすることなどを行い、進路の幅を広げるようにしているということである。 また工賃を上げるためには、社会と障害者をつなぐコーディネーター的な人、環境がもっと増えないと、生活全体の自立度を上げるなどが挙げられた。  また工賃をあげるための教育は、いろんなことができるように、普段の生活がスムーズに勧められるような力をつける、ということが挙げられていたが、多くの教員の方はない、ということであった。 ④ インタビューアンケートを受けて 工賃を上げるための教育はあるのか、ということであったがそもそも教育の場ではそのようなことが考えられていないことがわかった。工賃はあくまで結果としてついてくるものであり、工賃のためになにかするということはないということであった。  しかし、この学校ででも児童生徒数は増えているが、作業所などはなかなか増えていないという現状を考えると、これから卒業後に適応できる作業所を探すということが、いまよりも困難になるのではないかと考えられる。  高等部では日常の生活の完成を目指しているということで、日常生活の定着を目指していると考えられる小学部にアンケートを行った。小学部であっても、日常生活の指導が卒業後にも適応できるように、という考えがあるのがわかった。小学部時代から毎日行うことで、定着したものが、その後の施設でも、行えているということが言われていた。卒業後にも適応できるように、というものは、しっかりと適応できている。ただ、情緒のコントロールなどは小学部から行っていても、卒業後までに身に付けられるかどうか、というのは難しいだろう。健常児と言われる子でも、コントロールをするのは難しいように考えられるので、これはできると理想、というものであると考える。  そして、ここでも挙げられたのが、社会とのことである。特別支援学校の児童生徒はそのまま作業所に行くことが多く、社会とのつながりが薄いと考えられる。 中間的なまとめ  工賃を上げるためには、ということで研究を始めたが、自分の浅はかなことがよく分かった。  工賃を上げる、ということは学校で行える教育法はとくにないのではないか、と考えられる。学校では、生活習慣を身につける、ということを行い、作業所などで、工賃を上げられるようにしていくのがいいのだろう。  また、障害児への教育を、というよりも、健常者と言われる人々への障害者などの理解を勧めることが必要だと考える。  これには、障害者が働ける場を増やすということが必要だからだ。今までは障害者は大人数をどこか郊外など人とは離れた生活を強いられていた。しかし、今は地域で暮らそうという考えがある。その証拠に、私の住んでいる地域には、住宅街の中に軽度の障害を持つ人々が働く作業所がある。しかし、これには反対運動がある。この状態では障害児が増えている現状に対応できないのではないか、と考えられる。障害児の理解をすること、そして、障害者の作業所を増やして、卒業後の行く先を増やすことと同時に、その作業所での買い物を行うようになると、工賃はあがるのではないだろうか、と考えた。

 

参考・引用文献

平成25年度版 障害者白書(全体版) 第一編 第1章 第4節 1.就業の状況(http://www8.cao.go.jp/shougai/whitepaper/h25hakusho/zenbun/h1_01_04_01.html

特別支援学校への就学奨励に関する法律第2条第1項

発達障害の総合情報 知的障害に関して 8割は原因不明の知的障害(http://www.vastra.org/19_2/19_2_1.html

厚生労働省 政策について 福祉・介護 障害者福祉 障害福祉サービス等 障害福祉サービスの内容(http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/service/naiyou.html

内閣府 平成25年度版 障害者白書(全体版) 第1編 第1章 第4節1.就業の状況 図表1-21 1-22 1-23 (http://www8.cao.go.jp/shougai/whitepaper/h25hakusho/zenbun/h1_01_04_01.ht

NHKニュースおはよう日本 特集まるごと「障害者ホームの設置に‟壁‟ 2014年1月26日(http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2014/01/0126.html

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