悠仁親王が筑波大付属に進学?

 文春オンライン2021.12.22に、「悠仁さまの進学先は『偏差値67』筑波大学付属校」という記事が配信された。題名だけで判断すると、筑波大付属に決定したかのようだが、記事を読むと、その可能性を示唆したような文章だ。お茶の水女子大のほうで、提携校進学への出願にゴーサインがだされたようだという、秋篠宮家関係者の談話が載せられ、筑波大学の学長を直撃したところ「可能性がある」という回答だったという。今このブログを書いている時点で、配信から50分程度経過しいてるが、コメントはまだついていない。(他のことをしていて、4時間経過したが、いまはコメントが5000近くついている。) 
 決定したのかどうかは、わからないが、その可能性があるという点で考えてみよう。
 ひとことでいえば、「合格おめでとう」と、本心から言ってくれる人など、ほとんどいないだろう。少なくとも、ずっと注目されているこの問題について考えてきた人であれば、肯定的に考えられる要素が、ほとんど思いつかないくらいである。

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川口市いじめ訴訟の判決が近くでることに

 毎日新聞に、川口でのいじめ訴訟の判決が近いことが報道され、詳しく経過も載っている。https://news.yahoo.co.jp/articles/9eff06731565e238c72201f265772371af756429
 読んでいて暗澹たる気持ちになってくる。もう大部前のことになるが、教員の免許更新講習で、教育法について担当したとき、教育裁判に触れ、訴訟になる学校での事件は、ほとんど例外なく、学校側の対応が不誠実である場合に起きる。起きたことが不幸であったとしたも、学校や教育委員会が被害者に誠実に対応すれば、訴訟にはまずならないと説明していた。民法の「信義誠実の原則」は、教育の事件については極めて重要なのだ。毎日新聞に紹介された事例は、いかに教育委員会や学校が、「信義誠実の原則」を踏みにじっているかの、端的な事例になっている。しかも、調べていくと、実はほぼ同じ時期に、もっと悲惨ないじめ事件が川口市の中学で起こっており、そちらは何度か自殺未遂があったあと、卒業後に自殺に至っている。何か、川口市の教育委員会には、特有の問題でもあるのだろうかと考えてしまう。しかも、両事件とも、サッカー部でのいじめが中心となっている。

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東京で学校選択制度見直しの動き

 毎日新聞に、東京の区内である程度普及している公立小中学校の学校選択制度の見直しが始まっているという報道があった。「見直し進む東京23区の学校選択制 この20年で起きた変化とは」(12月4日)
 学校選択の導入は、2000年前後の教育制度、行政の最も大きな争点のひとつだった。それぞれの政治的な立場のなかでも賛否がわかれ、議論は大変複雑なものになっていた。そして、東京周辺のいくつかの自治体で実施されたが、全国的に普及したとはいえない。私自身は、1980年代から学校選択の研究を重点的にしていて、そのためにオランダへの留学を2回に渡って行ったほどなので、この議論に積極的にかかわっただけではなく、東京のある区での審議会にも参加して提言を行った。
 そうして20年経過して、少しずつやめる方向になっているという。その理由として、毎日新聞が書いているのは

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国民の教育権論の再建 親の教育の自由1(持田栄一論)

 国民の教育権論のなかで、親の教育権が適切に位置づけられていないことは、これまで指摘されてきた。もちろん、まったく無視されていたわけではない。親の教育権は、民法に「親権」の内容として規定されているのだから、実定法上も位置づけられている権利である。
 民法上の親の教育権は、家庭における教育(しつけや塾、習い事等を含む)と、私立学校を選ぶ権利と考えられている。しかし、公立学校に対しては、保護する子女を就学させる義務があるだけで、何ら権利が規定されていない。そして、国民の教育権論としての問題は、そうした権利構造をほとんど改革しなければならない対象として設定していなかったことにある。
 そうした国民の教育権論に、最初に、親の教育権の立場から批判を加えたのは、持田栄一であった。(持田栄一『教育における親の復権』明治図書1973.9)
 親の教育権について論じた初期の文献であり、その意味で画期的であった。明確に、国民の教育権論が、親の教育権をないがしろにしていることを批判して、「復権」させようとしているが、持田がPTA会長をした経験から考えが始まっているので、結局は「参加論」になっていて、選択論等を含む親の教育権の総合的な考察にはなっていない。そして、基本的に、近代公教育の位置づけが、国民の教育権論とは異なっていた。

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国民の教育権論の再建6 教育権の基本的要素2 教育を受ける権利

 憲法に明記されている「教育を受ける権利」について考察しよう。
 憲法に規定されているのだから、この権利については、法的に存在していることは疑いない。条文を確認しておこう。
 
第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
② すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
 
 法的には、国民は教育を受ける権利はあるが、それは「能力に応じて、ひとしく」という限定かついている。子どもの教育を受ける権利については、保護者が法律の定めに従って、保護する子女に教育を受けさせることによって充足される。全体として国家がそれらを保障する義務がある。

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国民の教育権論の再建5 学校設立の自由

 日本の法体系では「私立学校設立の自由」が認められており、それによって、学校を作って独自の教育をしたい者は、そのことが可能になっている。形式的にはそうである。しかし、実質的には自由ではない。私立学校を設立するためには、多くの認可事項をクリアしなければならないし、設置者負担主義原則があるから、学校の設立・維持にかかる費用をすべて負担しなければならない。かつて、不登校になった子どもたちのための学校を設立しようと運動したひとたちがいた。そして、寄付を募り、私のところにも依頼状が来たが、過疎地域の土地代の安いところにつくる計画でも、なかなか資金は集まらなかった。何十億もかかる。まして、市街地に学校をつくろうと思ったら、よほど大きな組織でない限り、不可能である。こうした現状は、形式的権利はあるが、実質的権利はないに等しいというべきなのである。そして、国民の教育権論の立場からすると、公立学校が主戦場だから、私立学校設立の実質的な自由などは、ほとんど議論されていない。
 さて、独自の理念に基づく学校をつくることが、容易に行われることがよいのか、あるいは日本のように、かなり高い基準を満たさなければならないほうがいいのか、それは人によって考えかたが違う。日本のような厳しい認可主義であれば、存在する私立学校の水準は保障されている。

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国民の教育権論の再建4 教育権の基本要素1

 少しずつ、国民の教育権論の再建に関する論考を積み上げているが、今回は、最初の権利論の出発について考えてみる。
 
 教育権論は、当然教育法学の最も重要な根幹であるが、いくつもの立場があり、それを正確に自覚しなければならない。
 まずは、法学としての立場である。権利論だから、ここでは法社会学的立場は除くことにする。すると、
1 憲法解釈に基礎を置く教育権論
2 現行法令に基づく教育権論
3 憲法を超えた理念的教育権論
の3つの立場を区別することになる。多くの国民の教育権論は1の観点から議論しているように思われる。もちろん、1と2を含む解釈が求められるが、現在の日本の法の実態として、憲法と他の教育法令に大きな原理的な差があると、国民の教育権論の立場からは理解しているから、1と2が区別されることになる。

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国民の教育権論の再建3 批判されてきた弱点1

 国民の教育権論は、実は当初から決定的な弱点があったが、1950年代、政府文部省が、戦後の民主主義的な改革を否定し、国家統制を強めようという施策を次々と打ち出したことに対して、教育運動として抵抗する勢力にとって、その勢いを鼓舞し、正当化する議論として、強い影響力をもった。
 しかし、いわゆる勤評闘争で、保護者や地域住民の支持を訴えに入った教師たちに、「あなたたち教師は、子どもを評価しているではないか、なぜ教師は評価されてはいけないのか」という疑問が寄せられたという。おそらく、そのように言われた教師たちは返答に詰まったのではないだろうか。

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国民の教育権論の再建2 堀尾論の検討2 自由権と社会権

 国民の教育権論の再検討として、今回は、自由権と社会権の関係、そして、学習権を認めることは、具体的にどのようになるのかという点を考察する。
 
 教育権を論じるときに、教育の自由や教育を受ける権利(就学権)を並列して論じているが、しかし、「教育の自由」は、当然自由権に属し、教育を受ける権利と国家による保障は社会権に属する。自由権は国家の不干渉を求める権利であり、社会権は国家の関与を求める権利である。従って、「教育の自由」と「教育を受ける権利」は、並列して成立する概念ではない。教育を受ける権利は、国家が学校を建設し、教師を養成して、子どもの教育を保障することである。
 他方、教育の自由は、その範囲は広く、最大限で考えれば、「学校設立の自由」「教育内容制定の自由」「教師の教授の自由」「親・子どもの学校選択の自由」等を含む。そして、これらを並列しているだけでは、実は、「教育の自由」は現実的な権利にはならない領域が多いのである。並列ではなく構造化が重要になる。
 例として「学校設立の自由」を考えてみよう。現在、日本も含めて、ほとんどの先進国では、私立学校を設立する自由が認められている。しかし、日本では、学校教育法に規定された一条校としての私立学校を設立するためには、極めて厳しい設立基準があり、一般の人が学校を設立することは不可能といってよい。そうすると、実態としては、学校設立の「自由」は存在しないに等しい。今、教育的理想に燃えて、その実現のために学校を作って、教育活動に邁進したいと思っても、そんなことは事実上できないのである。それは、私立学校を選ぶ権利としての学校選択の自由があるといっても、十分に多様な私立学校があるわけではない。むしろ、高校以上になると、ある部分では、公立の学校にいけないから私学にいかざるをえないという側面もある。

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国民の教育権論の再建2 堀尾論の検討1

 「教育の私事性」論の崩壊について書いてきたが、本家である堀尾輝久氏の論で、見ておこう。 
 簡単に私の問題意識を整理しておくと、国民の教育権論が破綻したのは、「私事性の委託として、教師の専門性が位置づけられる」というが、「委託」を抽象的にしか位置づけなかったこと、そして、実際に文科省から「委託」の具体的な提起(学校選択)されたとき、反対したことによって、論理としても「委託論」を棄ててしまい、私事性論が成立しなくなった。従って、国民の教育権論を再構成するためには、「委託」を具体的な制度構想をともなった論理を構築する必要があるということである。
 今回は、堀尾氏の論を直接検討することで、氏の私事性論の弱点を示したい。
 対象としたのは、『人権としての教育』(岩波書店)の主に第一章で、「国民の学習権」という題がついている。本の初出は1991年だが、この論文は1986年7月で、国民教育研究所編『国民教育』68号に掲載されたものである。

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