週刊朝日12月27日号の記事「NHK「安楽死」番組に波紋…

 週刊朝日12月27日号の記事「NHK「安楽死」番組に波紋…障害者支援団体が問題視する点とは?」が今日(20日)にウェブ版として掲載されている。これは、NHKスペシャルの「彼女は安楽死を選んだ」に対して、障害者や難病患者の自立的生活を推進する団体「日本自立生活センターJCIL」が、障害者や難病患者の尊厳や生命を脅かすと声明を出しただけではなく、放送倫理・番組向上機構BPOに調査・審議の依頼をしたことをきっかけとした記事である。
 私は、この番組を当日見ていなかったので、後日の再放送のときに録画してあったものを、この記事を読んで、見てみた。実は、今回のような「安楽死」の実際が放映されたあと、同じ病気の患者の団体が抗議をしたということは、以前にもあった。オランダで、発病から安楽死を実行した過程を詳細に描いた番組が、TBSで放映されたのだが、ALS患者の安楽死だったので、ALS患者からの抗議だった。TBSは、そうした抗議を受けて、半年後に、安楽死した夫の妻にインタビューをして、その模様を放送した。抗議の趣旨は、今回と同じように、このドキュメントビデオは、ALS患者は安楽死しなさいというメッセージだということだった。ちなみに、オランダ人にこの番組のことを聞いたところ、実際にオランダで最初に放送されたわけだが、別に特別な反響はなかった、ごく普通に受け取られたということだった。 “週刊朝日12月27日号の記事「NHK「安楽死」番組に波紋…” の続きを読む

免許更新制10年 その効果は?

 12月9日の神戸新聞に「教員免許更新制10年 資質の向上、乏しい効果」と題する記事が掲載されている。もう10年になるのかという感じだ。私は最近は全く関わっていないが、大学でやらなければならないことになった最初からしばらく担当していた。記事の趣旨は、最初の文章につきている。

 「かつては一度取得すれば終身有効だった教員免許に、10年に1度の「更新制」が導入されてから10年が過ぎた。目的は教員としての資質を高めることにあったが、導入以降も体罰やわいせつ行為などで懲戒処分を受ける教員数は高止まりし、大きな変化は見られない。神戸市立東須磨小学校の教員間暴行・暴言問題でも教員の質が問われる中、専門家からは効果を疑問視する声が出ている。(堀内達成)」

 ちゃんと署名がしてある記事だ。
 私の印象では、大学全体として、当初から反対であった。正直嫌々やってたと、私は感じているし、また、私自身がそうだった。何故か。それはいろいろな理由がある。教師よりももっと専門性の高い職業があるのに、免許更新のために講習を受けなければならないものは、ほとんどない。医師にしても、看護師にしても、永久免許である。弁護士などもそうだ。それなのに、何故教師が、という疑問は、誰でもいだくだろう。しかも、義務として課せられるのに、受講者自身が費用を負担しなければならない。当然、大学は慈善事業をしているわけではないから、ある程度の利益を出す必要がある。終身の免許を発行しておいて、途中から、期限付きだなどと制度を変更してしまうのは、乱暴なやり方ではないか。 “免許更新制10年 その効果は?” の続きを読む

読書ノート『リベラリズムの終わり その限界と未来』萱野稔人

 題名は固そうな本だが、実に柔らかいというか、哲学の書物の割りには、どんどん読める本である。本の主題は、リベラリズムとは、他人に迷惑をかけなければ、そして個人の自発的な行為であれば、それを認めるという立場であるにもかかわらず、世のリベラリストが、切実な要求をする人がいるにもかかわらず、沈黙してしまうという例をだしつつ、まずは、リベラリズムの限界、矛盾を示す。
 まず、同性婚を合法と認める国が多くなり、アメリカの最高裁でも合法と認める判決が出た。その判決をみて、あるモルモン教徒が、一夫多妻制が合法であることを認めさせるために、二人目の妻(まだ正式に結婚が認められていない)との結婚を正式に認める申請のための訴訟を起こした。ところが、世の中のリベラリストたちは、同性婚のときとは異なって賛意を示さなかったという。この場合も、自発的な意志であり、他人に迷惑をかけているわけではないのだから、リベラリズムの立場からは容認すべきであるのに、そうなっていない。そして、同様な例として、知らずに惹かれあい、年の差結婚していたカップルが実は父娘であることが、わかり、近親婚の罪で有罪となったり、同様に、結婚後兄妹であることが分かって、実刑判決を受けた例についても、リベラリストは沈黙している。それは、矛盾ではないかと、萱野氏は主張するわけである。 “読書ノート『リベラリズムの終わり その限界と未来』萱野稔人” の続きを読む

蔵書の始末とデジタル化

 文系の研究者はだれでもそうだと思うが、本が商売道具である。だからたくさんの本をもっている。当然私のその一人だ。商売道具だから捨てることはできない。単に趣味で本を読んでいるならば、読んだあと売ったり、捨てたり、あげたりしても構わない。しかし、研究のためにもっている本は、読んだあとも、いつ参照するかわからないので、保存しておく必要がある。それでどんどん増えてしまうのだ。幸い、大学に勤めているので、個室の研究室がある。そこに、家におさまらない本を多数置いておいた。しかも、悪いことに、私の父がまた大変な蔵書家で、わざわざ本を置いておくために借りていた別宅を引き上げるというので、お前が引き取れ、と言われ、何度もワゴン車を往復させて、家と研究室に運び込んだ。その頃、私の研究室は、たてに4列の本棚が並んでおり、かなりの収用力があったために、なんとか納まった。運び込んだといっても、本棚には前後2列に並べ、どの本がどこにあるのか探すことが困難な状況になっているほどだ。
 この状態が、私にとって、とんでもない事態を引き起こした。東日本大震災で、3列分の本棚が倒れてしまい、本が床になげだされてしまったのである。 “蔵書の始末とデジタル化” の続きを読む

「普通に死ぬ」のもなかなか難しい2

 前回は、死去に伴う「死の認定」で振り回された話だったが、今回は、死後の身辺整理の話だ。父は、老人ホームに入居して生活していたわけだが、ほとんどの人はここで死を迎える。ただ、ホスピスのような施設ではなく、普通に近い生活をしている人たちもいるし、父のように、あまりに高齢になっているために、歩行能力がほとんどなくなって、寝たきり状態になっている者もいる。そして、100歳以上の人も何人かいるような施設である。雰囲気はとてもよく、2,3回食堂につきあったが、90歳を超えた人たちが多いにもかかわらず、あったかい雰囲気があって、断片的ではあるがコミュニケーションもある。おそらく多くの入居者は、人生の残りはここで生活するのだという意識だろうと思う。父の場合もそうだった。だから、それぞれの部屋には、生活に必要なものがほぼ揃っている。自宅あるいは借家に一人暮しだったが、自分で食事を作ったり、掃除洗濯することが難しくなって、住んでいるところを引き払い、持ち込める最大限の荷物をもって入居した人も少なくないだろう。父の場合は、兄夫婦と同居していて、そこに家もあったから、すべてを持ち込んだわけではないが、帰ることはないという意識で、施設に入居したから、それなりの荷物がある。
 今回のテーマは、こうした荷物をどう処理するかという問題だ。 “「普通に死ぬ」のもなかなか難しい2” の続きを読む

首里城火災でなんとなくすっきりしないこと

 私自身沖縄を訪れたことがないので、他のひとほどの入れ込みがないのだが、完成して間もなく消失というのは、なんとも残念なことだ。また、ごく最近完成した建築物なのに、これほど簡単に焼失してしまうのが不思議だ。火災後、既にさまざまな動きがある。それがどうもすっきりしないのだ。
 まず、火災が起きて、なんとも早い時期に、沖縄知事が官邸を訪問して、協力を要請し、官房長官が最大限の協力を約束した。そして、間もなく再建に関わる援助をする旨の閣議決定までされた。
 他方、こうしたことに敏感に反応するyahooニュースの書き込み、例によって大量だが、納得できる書き込みもあるが、そうでないものも多い。だいたい次のような内容がほとんどである。
・管理が国から県に移った直後に起きたのだから、県の責任であり、県が再建するにせよ負担すべきである。
・県がイベントなどを許可したことが、背景にある。
・洪水などの災害のほうが問題で、自然災害への援助に予算を使うべきで、再建などする必要がない。 
 大体このような意見が圧倒的であった。しかし、フェイク的要素もある。イベントは、県に管理が移管する前から行われていたので、県の管理になったことが原因ではなく、しかも、イベントを行っている業者は、かなり電気などに気をつけているという指摘もある。窪田順生氏によれば、火災の真の原因は、入場料が低く抑えられているために、防災などに充分な費用をかけられないことにある。海外ではこうした重要な観光施設では、入場料が日本の3倍程度であり、そのために充分な防災設備が設置されているという。今回問題になった、スプリンクラーが設置されていなかったというのも、木造だから無理だというのは間違いで、木造でも可能だと窪田氏は主張している。確かに、何故あのような建築物に絶対必要なスプリンクラーが設置されていなかったのか疑問であるが、これは、当初からの設計上の問題だから、おそらく、入場料の多少によるものとも思われない。しかし、こうした原因に関する議論は、今後、今回の火災原因の究明と合わせて、しっかり議論していくべきものだろう。

 私がすっきりしないのは、民間の意見では、かならずしも再建が必要という方向に傾いているわけでもないのに、政治的に再建を当然視し、政府は調査であろうが、予算をつける意思決定までしていることである。 “首里城火災でなんとなくすっきりしないこと” の続きを読む

国際社会論ノート 慰安婦問題を考える1

 国際社会論で初めて慰安婦問題を取り上げた。これまでも取り上げようとはしたが、難しい点が多数あるので避けてきたのだが、最後の講義であるし、史上最も険悪な日韓関係という状況でもあるので、取り上げてみた。既に講義はしたが、考えれば考えるほど難しいと思う。どういう立場にせよ、積極的に関わっている人たちは、強烈な信念をもっているのだろう、考える枠組みが強固になっており、そのために、議論が噛み合わないまでになっている。
 端的な例は、慰安婦問題など存在しないという立場に近い、日本のある人たちは、「半島で軍隊が強制連行したか否か」が唯一の問題であると設定している。そして、「強制連行」の唯一の吉田清治証言が、でっち上げであったことが明らかになった以上、慰安婦問題そのものが存在しないのだと主張する。他方、慰安婦は性奴隷であったとする人は、吉田証言が虚偽であったとしても、実際の慰安婦は奴隷的状態に置かれていたのだし、国家が関与したことは明らかなのだから、謝罪・賠償すべきであるとする。この最も距離のある主張の間には、一つ一つ論点を検証して、どちらが正しいかという議論そのものが成立しないような構造になっている。慰安婦問題が政治的問題になればなるほど、このふたつの立場が前面に出てくることになり、政治的対立として現われる。 “国際社会論ノート 慰安婦問題を考える1” の続きを読む

歌舞伎の人材リクルート 世襲制度では無理

 MSNのサイトに、女性セブンの記事が掲載されていた。歌舞伎の人手不足に関する話題で、「海老蔵、ブログ経由の弟子が廃業か 人材確保の困難さ示す」という記事だ。(2019.10.25)
 歌舞伎役者にどうしてもなりたかったA君の母親が、海老蔵のブログにコメントを書いたことがきっかけで、海老蔵に弟子入りすることができた。入門前から、海老蔵ファンの間で話題となる「逸材」だったそうだ。記事によると、一般家庭の子どもが歌舞伎役者になるためには、独立行政法人「日本芸術文化振興会」で、中卒から23歳以下を対象にした2年間の研修を修了するか、直接、歌舞伎役者の弟子になるという2通りの道があるのだそうだ。更に、小さい子どもの場合には、4~10歳を対象にした「歌舞伎スクール寺子屋」を修了すれば、幹部俳優の楽屋に預けられる「部屋子」になる道がある。11歳だったA君は、どちらも該当しなかったので、母親が捨て身の策に出たというわけだ。そして、海老蔵自身が、非常にA君をかっていて、ブログでも紹介していたという。しかし、結局、歌舞伎の道を諦めて、辞めた。 “歌舞伎の人材リクルート 世襲制度では無理” の続きを読む

教育実習生への叱責 「怒るべきとき」ってあるのか

 昨日18日の読売新聞に、「 他の教員らの前で「こんなことも出来ないのか」…教育実習の男性、抑うつ状態に」と題する記事が出ている。日頃教育実習生を送り出している側として、似たような事例に遭遇することがある。もちろん、大多数の実習生は、よいアドバイスを受けて、最初はうまくできない授業も、少しずつ自信がもてるように成長するものだ。しかし、たまに、指導の教員とうまくいかず、納得ができないまま帰ってくるものもいる。
 普通、優秀な教員が実習生を指導するものだろう。だから、自分なりのやり方をもっているし、つたない実習生の授業が歯がゆく感じる場合が多いはずである。しかし、なかには、自信過剰だからか、自分のやり方をむやみに押しつける指導の教員がいる。教え方は、多様性があるはずだから、実習生の考えも尊重しながら、指導してほしいと思うのだが。それはまだよい。一番送り出し側としてこまるのは、実習生がうまくできないことを、子どもたちの前であげつらったり、あるいは、途中で授業を取り上げて、自分で始めてしまう教員がいることである。 “教育実習生への叱責 「怒るべきとき」ってあるのか” の続きを読む

透析中止の福生病院を家族が提訴

 昨年8月に大分話題になった福生病院での透析患者の死に関して、遺族が病院を提訴すると報道されている。この問題については、何度か、このブログで意見を書いたが、新しい段階になったので、再度この提訴について考えてみる。
 起きたことを整理すると、透析治療をしていた40代の女性患者が、腕の血管のシャント(分路)がつまったために、それまでの透析が不可能になり、かかりつけの病院から、福生病院に相談にきた。そこで、病院は、首から管をいれて透析を続けるか、透析をやめて治療中止するかというふたつの選択を示した。女性はシャントが詰まったら、透析を継続しないという気持ちをもっていたために、中止を申し入れ、病院は文書で確認をした。これが8月9日。そして、中止をしたので、帰宅をした。しかし、そのうち苦痛が甚だしくなったので、やはり透析を再開したいと考えて、福生病院にいったところ、文書があるということで、病院側は、透析再開をしなかった。女性は夫にも訴えたが、夫がたまたま仕事で遅くなり、病院に駆けつけたときには、亡くなっていたということだった。再度の入院が14日、死亡が16日である。 “透析中止の福生病院を家族が提訴” の続きを読む