子どもの信教の自由 学校教育と宗教二世問題

 統一教会をめぐって二世信者の問題がクローズアップされているが、もちろん、これは統一教会だけの問題ではない。むしろ、教育との関わりについては、エホバの証人などのほうが、これまで問題になっていた。しかし、その問題の認識の方向は、統一教会とは違っていた。 
 これまでの学校教育におけるエホバの証人の問題のされ方は、信教の自由を守る立場からだった。有名な事件としては、神戸高専で、体育の剣道の授業を拒否したエホバの証人の生徒たちが、言及留め置き、そして翌年退学になった事件である。剣道の授業を強制するのは、憲法で保障された信教の自由を侵すものだ、として提訴し、一審では原告が敗訴したが、二審、最高裁は、原告の主張を認めた。剣道の授業が、高専で学ぶ上で必須とはいえず、退学というのは、学校の裁量権の逸脱であるとした。つまり、ここでは信教の自由を認めた形である。

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教科書選定不正から考える3 社会科教科書

 今回は社会科の教科書について考えてみよう。
 以前にも、社会科だけではないが、新しい形の教科書について考えたことがある。「デジタル教科書に必要なこと」
 
 定型的な教科書が、社会科にとってはむしろマイナスになっている理由は、いくつかある。
 社会科の教科書は、常に政治的な争いの対象となってきた。そして、教科書訴訟という裁判ざたまで起き、しかもかなり長期に渡った。社会に様々な対立がある以上、社会を学ぶ教科においては、その対立が持ち込まれることは避けられない。どのようにそうした対立を、教育のなかで扱うのが適切なのか、その点についても、また対立があるのが実情である。

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教科書選択の不正から考える2 国語教科書は不要

 具体的な教科について考えてみよう。
 極端にいえば、算数(数学)と理科以外の教科書は、原則不要だと考える。特に、国語と社会は、教科書なる印刷物はないほうがよい。国語を例にとって、現在の教科書制度が、いかに学びを歪めているかをあげてみる。
 国語の教科書には、有名な文豪の文学作品や、優れた論文や説明文が掲載されていると、一般には思われている。それは間違いないが、実は、少なからぬ書き換えが行われているのである。どうして、そんなことが許されるのか。

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教科書選択の不正から考える1

毎日新聞が、精力的に、教科書選定に関する不正行為について報道している。
 要するに、4年に1度の教科書選定の際に、賄賂を贈ったり、接待する不正行為があったということだ。教科書を選定する委員を聞き出す、委員に働きかけるという選定そのものにかかわる点と、教科書作成過程に、現場の教師たちに意見を聴取するかたちで謝礼をするなど、いろいろな手口がある。
 しかし、現場の教師に意見を聞いて、その謝礼をするなどということは、別におかしなことでもないし、禁止するようなことなのかという考えのひともいるだろう。そして、教科書選定にかかわる不正行為は、今に始まったことではなく、現在の教科書検定・制定制度ができて以来、ずっと起きていることである。また、検定制度のないアメリカなどでは、別の教科書をめぐるトラブルがある。国民教育制度のなかで、決められた教科書がある限り、なんらかの形で、世間から批判されるような事態が起きることは不可避なのかも知れない。しかし、だからといって、放置してよいことではない。

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半旗にしないと処分の可能性という山口県教委

 山口県教育委員会が、国葬当日に国旗と県旗を、通知に反して、半旗にしていなかった県立学校の校長は処分の対象になりうるという認識を示したと、朝日新聞が報道している。しかし、実に奇妙な内容だ。
 教委は、各校が半旗にしたかどうかは調べる予定がないといい、永岡文科相は、調査しないから処分はされないと述べている。もちろん、処分されないとしても、その権限を示したことは、実に重大な問題だ。今は調査をしないといっていても、もちろん、半旗にすべきだという住民や政治家たちがいるから、彼らが運動して調査させる可能性はある。そうすると、その力に押されて調査が行われ、処分せざるをえない状況がつくられることになる。また、永岡文科相は、半旗を義務づけないという内閣の方針があるにもかかわらず、それについて触れるのではなく(触れていて記事に書かれていないだけの可能性もあるが)、調査しないのだから、処分もされないので、問題ないなどと逃げている。こういう場当たり的なことしかいわない文科相や教委が、現場をよい方向にリードすることは、まずしないのである。 “半旗にしないと処分の可能性という山口県教委” の続きを読む

背の順並びは差別?

 小学校での背の順で並ぶことに「差別だ」という声があがって、波紋を呼んでいるという。テレビ朝日が報じている。
 小学校教員の松尾英明氏が、その著書で指摘しているそうだ。テレビ朝日によれば、両論あるそうで、嫌だと思ったことはないという子どもの声と、背の順はいやだという子どもの声を紹介している。松尾氏は、「背の順」ではなく、「名簿順」を勧めている。少数が嫌な思いをしているなら、そのことに目を向けることが大事だとのこと。
 
 なるほどと思う反面、まったく違うことを、私は考えている。そもそも、並ぶことが必要かと思うのだ。並ぶというのは、おそらく、朝礼(昼礼)などのときだと思うが、そういう儀式そのものが不要だ。昔なら、確かに校長などが語りかけるときには、朝礼のように全員を校庭に集めて話をする必要があったが、今はほぼすべての学校に、テレビシステムやネットが各教室につながっている。校長が何か全員に伝えたいことがあれば、そのシステムを活用すればよいのだ。わざわざ時間をかけて、校庭に集める必要はない。時間の無駄ではないか。

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免許更新制度廃止の次に大事なこと

 教員の免許更新制度がなくなって、その後の研修の在り方だけではなく、大学がその分の収入がなくなることが論議されているという。
 忘れている人が多いと思うが、免許更新制度は、安倍一次内閣の置き土産のようなものだ。安倍氏は、いろいろな面で、公約を実現しなかったが、教育に関しては、かなりの「実績」をあげた。私からすれば、害のある「実績」ばかりだが。最大のものが「教育基本法」の改定であり、「道徳」の教科化だった。その他、全国学力テストの復活などもある。

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デジタル教科書に必要なこと

 2024年度から、文科省は小中の英語から、デジタル教科書を段階的に本格導入する方針を固めたそうだ。
「狙いは教育DX? デジタル教科書「本格導入」の先にあるもの」
 記事によると、デジタル教科書の導入によって、
・教育課程の在り方の見直し
・学校の役割、教職員配置や勤務の在り方の見直し
・子どもの状況に応じた多様な学びの場の確保
・教育支出の在り方の検討
が課題となるのだそうだ。これらが、本当に子どもの学習を促進するように見直されるのなら、大いにけっこうだが、そうなるのかどうかは、かなり疑問である。
 デジタル教科書の提言については、昨年6月にだされた「デジタル教科書の今後の在り方等に関する検討会議」の第一次報告によって示されている。しかし、この報告書を読む限りは、デジタル教科書とは、とうていいえないものをデジタル教科書と規定して、そこから活用方について検討がなされている。では、その規定とは何かというと
 「デジタル教科書は、平成30年の学校教育法等の一部改正等により制度化され、紙の教科書の内容の全部をそのまま記録した電磁的記録である」https://www.mext.go.jp/content/20210607-mxt_kyokasyo01-000015693_1.pdf
というのである。これでは、デジタル化されたテキストとしての意味がない。内容を紙で見るのではなく、画面で見るというに過ぎない。

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教科研『教育』を読む 小池由美子「学力崩壊を引き起こす国語新科目の迷走」

 しばらく続けていたラインによる「『教育』を読む会」を昨年廃止してしまったので、最近、あまり熱心に『教育』を読んでいなかった。そして、注目すべき文章も、私にはあまりなかったように感じていた。そして、最近は、どうも『教育』に載る文章には、疑問を感じることが多くなった。そのひとつが、10月号小池由美子氏の書いた、高校国語の新科目に対する批判の文章である。とくに、最初の見出しである「新科目における「論理」と「文学」の分断」という部分は、同意しがたいものである。この見出しに表現されているように、小池氏は、国語では、文学的文章と論理的文章を、含む国語教育がこれまでのあり方であったし、それは正しいという立場にたっている。以下の文章に小池氏の立場が鮮明に出ている。
 
 「国語で育成したい言語能力は、言語を技術的に扱うだけで育つものではない。思考力・判断力・表現力は言語をツールとして相互に絡み合って育成されていくものである。そこに介在する国語教材は論理だけ、あるいは文学だけで成り立つものではない。こうした狭隘な視野からは、言語能力を幅広く育成する観点が欠落しており、文学を語る資格もない。」

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アメリカでの教育上の対立 保守・リベラル対立図式では解決できない

 9月11日毎日新聞に「リベラルな学校教育を批判する「ママたち」急増 共和党も後押し」と題する記事が掲載された。
 コロナによるオンライン授業で、それまで見えなかった学校教育の部分が見えるようになり、あらたな親の組織による運動が発展しているという紹介記事だ。しかし、注意して読まないと、誤解をしてしまう部分が多い。
 紹介されている中心は、「マムズ・フォー・リバティMoms for Liberty」という団体だ。記事によると「人種や性に関するリベラルな教育内容を批判」していると同時に、もっとも主要な主張は「親の権利」だ。

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