終章 まとめと今後の課題

(1)学校制度をめぐる概念

<統一学校運動とは何だったのか>

 以上、統一学校運動の展開と理論の分析をした。統一学校運動の課題は、肯定する立場でも、また批判する立場でも、今日に引き続いている。西ドイツではナチス教育への批判から、第二次世界大戦後、ワイマールの学校制度が大幅に復活したが、それ故に統一学校運動の問題状況が再現された。(1)
 イギリスでの総合制学校(コンプリヘンシブスクール)を求める運動は、明らかに統一学校運動の批判的継承であった。西ドイツのゲザムトシューレやフランスの中等教育コレージュについても同様であろう。
 現時点で考えてみれば、これらの動向は統一学校運動の課題が1960年代までかかって実現されたのだとみることができる。統一学校運動は現代を迎えて、教育を社会の要請に適応させるための支配階級の運動であった。
 社会の要請とは
 1.工業が重化学工業中心となり、ますます労働者の基本的な知識が不可欠のものとなり、国民の教育水準の全般的な向上が必要だったこと。
 2.社会主義国家ソビエトの出現に対抗して、国民の一体観を育成するために、国民が出発点において、共に学ぶことが求められたこと。
 3.福祉国家体制への移行に応じて、管理層の増大とともに、エリート選抜の底辺の拡大の必要性に迫られたこと。
 4.民族独立の動向に対応して、先進国においても国家意識を育成することが求められたこと。
 5.普通選挙が各先進国に行き渡り、平等な権利をもった公民が、形式的に民主主義の主体として登場し、公民を体制に取り込みつつ、社会としては民主主義の原則を制度的に保証する必要があったこと。
 このために先進国で取り組まれた「統一学校運動」は、ほほ共通して次のような成果をもたらした。
 1.小学校には大体国民の多くが共に通う制度ができた。もちろん通常の小学校からは区別された初等クラス、予備学校へ通う子どももいたが、大勢として統一的小学校が定着していったことは否定できない。
 2.前期中等学校と小学校後の初等学校が、次第にカリキュラム的にも、社会的資格の点でも、接近していった。
 3.中等学校への進学が、選抜試験によって決められるようになっていった。
 4.中等学校の無償化が実現する方向にむかった。
 一方統一学校運動がめざしながら、実現しなかったことには、次のようなことがあった。
 1.教員の地位・養成の統一
 2.前期中等教育の義務化
 3.宗教教授・一般教養なども含めた核としての教養の統一
 更に統一学校運動自体のもっている欠陥もあった。それは統一した初等学校の上級を能力主義的、差別的に編成することであった。統一学校運動は支配階級の運動であったけれども、当然のことがならそれに留まらない社会的広がりをもった。「統一学校」というスローガンは大多数の国民に支持される要素をもっていたからである。したがって、より広い国民の声が政治に反映されるようになった第二次大戦後、これらの要求は次第に実現の方向に向うことになる。
 逆に「統一学校」という理念は、より良い教育を、より長期間にわたって受けたい、子どもに受けさせたいという要求を国民の多くに生み出した。そのことが統一学校運動の当事者の意図を越えて、教育の様々な教育問題を生んだ。いわば教育の発展によって新たに生じた問題である。統一学校運動がもっていた本質的欠陥が、その時点で前面に現れたのである。

<註>

  1. 西ドイツの戦後初期の宗派学校をめぐる動向については、宮田光雄『西ドイツの精神構造』岩波書店参照


<公共性・公教育>

 統一学校運動の中で、公教育を否定した意見はなかった。批判勢力においてもそれは少数派であった。
 ケルシェンシュタイナーなど、国家による統合の手段として統一学校を主張する者が、公教育を前提にすることは当然のことである。ではKPDのように、ワイマール国家による統合を拒否する勢力は、如何なる理由で公教育を積極的に位置づけるのか。
 堀尾が分析しているように、労働者の自己教育思想の発展としての公教育思想が、労働運動に継承されたわけだが、ゴドウィンとは多少異なった意味で、公教育を否定したドゥンカーのような論者もいた。国家によって組織された国民教育制度が、強力に国民を国家に統合するからである。
 それに対して、ツェトキンは「公共の教育」を認める。ツェトキンの「公共の教育」は国家によって管理された教育、学校教育のことであるが、しかし、人間の教育がそれに包接されないことはいうまでもない。ツェトキンは私的教育によって補完されることを不可欠の条件とした。ツェトキンが公教育を認めるのは基本的に二つの理由による。
 「公共の教育」には二つの段階のカテゴリーがある。集団そして国家である。人間の発達が「類的存在」として、集団によって保障されるという、発達の要請が第一である。ワロンは、個人の発達はそもそもの最初から「社会的」なものだと主張したが、そうした教育を全国民レベルで組織することは、やはり国家しか当面ありえない、集団はまた二重の意味をもっている。いま述べた「発達」という側面と、生活の協同性の側面である。この場合「公共性」は目的概念であるとともに、方法概念である。
 第二に、全ての社会主義者が主張したように、国民すべてを対象とする教育の費用は公費を充てるべきという理由である。それは理念的かつ実際的要求であった。公費による教育は、共同利害である教育を、国民全体として支えることで社会を支えるものである。したがって、公費は協同性の表現形態である。
 しかし、貨幣は「人と人との関係」を媒介するものでありながら、その関係性を隠してしまう。公費によって運営されていることは、多くの人々の協同事業でありながら、公費はそこから超越した公権力の事業として見えることになる。協同性を支える意思疎通の形態は、当然小さな範囲を要請するが、国民教育制度を支える公費は大きな範囲を要請するという矛盾が解決されなければならない。(1)
 統一学校の主張は、全てある特定の世界観を前提にしており、その世界観を軸にした学校の教育内容を構想した。もちろんそれが直接対立の原因になったドイツと、宗教教授は学校外で行うことを原則としていたフランスとは状況が異なる。
 しかし、世界観の問題が統一学校運動の最大の障害になったことは疑いなく、また「公共性」の対立概念であった。
 西欧の国家はキリスト教を前提としており、学校も同様であった。フランスのように学校は世俗化されていても、それは国民の多くがカトリックという宗派を受け入れていたからで、国家や学校が完全に世俗化されていたからではない。統一学校運動の中では、今日の日本のように国家が教育内容を規定するというよづな問題は殆ど議論されていない。それは一つには国家が細かく教育内容を決定して、そうした基準で教科書が作られていたというわけでなかったからであり、一つにはキリスト教という共通の理念がかなり行き渡っていたからである。
 社会主義者が国家による教育を、積極的に位置づけるのは、第一に、国家による教育が、宗教からの解放を意味するからであり、第二に、大戦間の議論ではあまり現れないが、親権の乱用を国家が規制することを求めたからである。
 大戦間の社会主義者が主張したのは、新たな「世界観学校」てあった。そして「世界観学校」はワイマール憲法でも容認されている。きわめて少数であるが、社会主義的世界観を基礎にした私立学校も設立されている。つまりキリスト教が最終的には、公的形態を代表していた。これが70年代のヨーロッパ、多民族国家となった社会では、もはやそのまま妥当しないことは明確である。
 社会主義の「世界観」は科学的であり、宗教は科学に反するものである、という前提があった。しかし、「科学性」の保証が権力によってなされることはありえないとすれば、国家によって保持される「世界観学校」は、その世界観をもたない者にとっては、他の宗教と同じである。少なくとも大戦問の社会主義者の主張する「世界観学校」は、宗教と決定的に異なる形態を、教育的形態において見いだしたわけではなかった。
 しかし、一方世界観を前提にしない、教育内容の決定がありえないことも事実であろう。歴史の教育を世界観を前提せずに行うことは困難である。結局、優秀な労働者の子どもが、一元化された教育制度にのって、労働者階級を脱出していくというのは、教育制度が支配階級の世界観によって、支配されている現状を克服できないからである。
 統一学校運動と国家観の転換は不可分の関係である。19世紀末の国民教育制度の創設が既に、教育によって国民の意識形成を、国家が主体になって行うことであったから、統一学校によってはじめて、国民の内面形成を国家が直接行うようになったのではないが、統一学校はそれを一層強力に実施するようになった。
 普通選挙の実施が大きな契機となって、国家論の変化があったことは既にみた。ケルシェンシュタイナーの論理は資本の価値意識を、国家憲恩として国民に内面化させることを意図しており、「私」は「公」に吸収される。
 シュプランガーやデュギーは「私」を保持しつつ、「公」の私への介入を正当化する。そうした事態の裏返しとして、ルソーの一般意思論が復権しつつあった。教育はここでとりわけ重要な意味をもつのである。政治的理論としては結局抽象的な分析にならざるをえないが、国民の意思形成は、教育という行為を通じて実効性をもって実現できるからである。期間は短いが、ナチスはその「成功例」として際だったものである。つまり、それがいかに不合理なものであっても、短期的には、ある特定の意思を全体意思として、形成することができる。
 では世界観の相対化、寛容を基本に考える場合、全体意思・一般意恩の形成はどのように考えるべきか。
 このことは有機体説の問題にも関連する。
 ケルシェンシュタイナーを典型とする国家有機体説は、これまで民主主義の側からは、人間を国家に従属させる論理として、当然誤りであるとして退けられてきた。しかし、その論理が最終的に批判されたとは言い難い。
 有機体説をいかなる論理として理解するかにも関わるが、「人間は属している社会の中で、ある部分、例えば職業を分担することによって、自己を実現し、幸福になることができる」という論理について言えば、当時の社会主義者も同じように考えていた。ただ前提になっている共同体の性質が異なるだけであった。
 周知のように20世紀に入り、伝統的な共同体が崩壊し、様々な共同体論が現れた。その多くは、自然発生的な共同体感情を伴う「共同体」の復権を願望していた。ナチスが「血と土」をスローガンとする共同組織を強制的に形成し、成功したのは、こうした感情を吸い上げることできたからである。

<註>

  1. 教育費が人の協同性を阻害するのではなく、助長する形態を創造する必要がある。バウチャー制度はそれを考える素材ではある。


<階級・平等・選抜>

 統一学校をめぐる運動は、階級闘争であると同時に、階級間の対立を緩和させようという政策でもあった。体制的統一学校運動にとって、例外的に優秀な労働者の子どもをすくい上げるための方策は、「教育の機会均等」であり、それを保証するのが選抜試験であった。試験は当時においては、極めて不平等なものであった。試験を受けることができるのも恵まれている者だったからである。しかし、その後進学率が上昇するにつれて、「機会均等」装置としての「選抜試験」が機能し始めた。今日の問題状況はその機能がほぼ完全に教育を規定していることによって生じている。
 教育の平等に反対する者は、統一学校に反対した。したがって、彼らは試験にも反対であった。自ら欲する教育は、自らの力(費用)で教育を提供し、受けることができなければならない。イギリスのパブリックスクールの多くは、文字どおりそれを実践した。
 しかし、フランスのカトリック勢力は、自ら欲する教育を主張しながら、公費で補助を受けようとした。「公費は全ての者にとって、権利があるのだから、国家の教育を受けたいものは、国家の教育を、カトリックの教育を受けたい者は、カトリックの教育を受けられるようにすべきだ」というのが、その論理であった。この論理は当時カトリックのエゴイズムという理解がなされたが、今日の時点では、私立学校の公的補助との関連で、必ずしも全く否定すべき論点ではない。
 階級協調の立場はもっと平等を積極的に位置づける。そこでは階級間の平等がありうるという前提に立つのである。その前提なしに「階級協調主義」は成立しない。それは基本的には、「機会均等」「奨学金」「生経費補助」であった。「生経費補助」は当時としては、急進的な要求であり、その意味で実現の困難な課題であったが、労働者の立場から「所得再分配」を提起したものであった。教育はその実現の重要な手段体系になる。
 平等を実現する手段として、当時まず考えられたことは選抜の改革であった。選抜は統一学校運動の鍵となる制度である。選抜の合理化によって機会均等を実現し、優秀な人材をエリートとして選び出すことができる。たとえ選抜によって多くの弊害が出ても、それが社会不安にならないかぎり問題ではない。
 そうした意味では選抜は、方法の問題ではなく、選抜の存在そのものが問題をはらんでいる。したがって、平等=試験という体制的統一学校論に対して、批判的な統一学校論を対置した論者は、選抜そのものを批判の対象にした。ゾレッティは明確に、早い段階での選抜を否定した。KPDやランジュバンは言うまでもない。
 しかし、社会機能として選抜を否定することはできないし、また、高等教育における専門教育への分化に際して、選抜を否定した者はない。したがって、ゾレッテイの論議は、中等段階での選抜を否定することであろう。イギリスのコンプリヘンシブスクールの基本的立場もそこにある。
 では何故、中等段階での選抜は否定されるのか。また高等教育や社会の機能として選抜を預ければ、問題は解決するのか。
 フランス統一学校運動では、職業指導の擁護と能力の多様性が強調された。職業指導は、個人の素質や個性に応じてなされるものであるが、選抜というのはある特定の分野の能力を前提にして、つまり、中等学校の選抜であれば、エリートに要請される能力の有無を試験するものである。したがって、中等学校の選抜は職業指導と両立しえないと考えられた。
 中等段階の選抜を否定する議論は次のようなものであった。
 1.国民としての不可欠の教育を修得するのは、中等教育水準の教育でなければならない。
 2.選抜は社会あるいは国家が行うものであり、普通教育たる中等教育では、社会及ぴ国家が選抜する必要性がない。
 中等教育を一部の者だけが受けられる状況では、選抜が必然であるが、それは「全ての者に中等教育を」保証することで、解決すべきことである。選抜の実施は、教育機会の拡大とともに進んだことは間違いなく、全体として進学者は確実に増加していった。義務教育制度が実施された後、落後者の問題をビネーが研究しなければならなかったように、中等段階の教育への進学者が増加するにしたがって、同じように水準の高い教育についていけない生徒が増加する。しかし、これは教育機会の拡大という、積極的な状況の中で生じた問題であることを忘れることはできない。
 ランジュバンの節で考察したように、全ての者が理解しうるように配列された教育課程の工夫と、教授方法の個々の教師の修得とによって解決しうる理論的かつ実践的な課題となる。
 選抜の問題を考察するために、ここで能力の先天性について、考えておく必要がある。かつては人間の自然的差異は、本質的であり、そうした自然的才能を伸ばすことが、「形式的平等」の次に来るものであると考えられた。統一学校運動の時代には、市民革命時の「タブラ・ラサ」のような、環境万能論はない。
 現代の始まりは又遺伝学の始まりでもあった。メンデルの先駆的な研究が評価されたのは、周知のように20世紀になってからである。したがって、統一学校運動の中では、人間の素質的な差が当然視されていた。知能テストやシュテルンの差異心理学もこの分脈の中で現れた。もっとも能力の先天性と遺伝は、教育における利用形態は異なる。単なる先天性の考えは知能テストに適用されたが、遺伝の考えは、人種排除の道具としてナチスに利用された。ナチスの遺伝に関する言明は、非科学的なものであったが、しかし、当時科学的に批判されたのでもなかった。今日遺伝と教育をめぐる問題は、再び重要な論点を持つに至っている。

<教養の問題>

 統一学校、中でも中等段階までの統一、つまり、ハイウェイの実現はその核となる教育内容の構想にかかっている。
 支配階級の自己教育においては、少なくとも彼らの考える最も良質な教育を準備するはずである。そしてその中心には、支配階級の資質が占めている。
 一般教養と呼ばれるものは、こうした支配階級の資質が集約されたものであり、形式陶冶は最も広い範囲の教養を身につけるための方法意識であった。そして一般教養と形式陶冶は、現代に至るまでの支配階級の教育内容の核であった。
 一方労働者階級のためには、実用的な知識と特に道徳においては、市民としての守るべき道徳、服従の道徳が中心となって、道徳教育が行われていた。
 この道徳教育の面において、まず統一学校は矛盾に直面せざるをえない。資本主義社会は明らかに、知的能力を核としながらも、肉体的能力をも不可欠のものとする。一般教養や形式陶冶は、明確に精神労働と肉体労働の分離、そして肉体労働の軽蔑を前提にしていた。
 しかし、資本主義社会は科学技術を基礎にしており、高度な知的能力だけではなく、肉体的な健康・習熟性等も要求する。そしてマルクスのいうように「全面的可動性」を要請するのである。
 現代とともに盛んになった「有機体説」「知能テスト」「労働教育」は、こうした資本主義社会に不可欠な要素を分解し、別々の集団に分割するための道具である。しかし、それは当然科学技術や人間自身を否めずにはおかない。
 学問の基礎という意味で、学の普遍性を保証するとされた一般教養は、デュルケムが批判したように、市民革命の後、教育の近代化が主張され、「学校戦争」が手起きた時代には、個々の教師によって分化された内容が、個別に教えられ、その関連は殆ど消失していた。実質的に「一般性」は虚構になっていたのである。したがって、統一学校との関連で、教養は重要な変更を余儀なくされた。
 人文的教養は科学革命の影響をうけて、より自然科学的内容を含むものに再編されなければならない、と主張された。しかし、このことを最も強力に、過去の古い教養の欠点を清算することを含めて主張したのは、ランジュバンであって、体制的な統一学校運動のイデオローグではなかった。
 統一学校運動は、エリートのための高度な教養と、国民教化のための服従を受け入れるようなモラルとを共に容認せざるをえない。
 国民を文字どおり政治の主人公として育てていくことを、教育の課題とするとき、教養の変革が不可欠となる。
 かつてエリートにのみ要求された能力・教養を、また社会生活のなかで必要な教養を、全ての国民が事実として発達させなければならない。もちろんそれは民主主義社会の自治能力として、再編される必要がある。
 しかし、現代では更に国際社会という視野で教養を捉え直す必要がある。統一学校運動は明確に一種のナショナリズムの運動であった。したがって、ここから出て来るのはせいぜい、「国民の共通教養」という範囲である。国家的な差別を結果する教養は、現代の要請とは矛盾する。つまり、現在「一般教養」を再構成するなら、学問・主体・異文化を貫く普遍性を模索することが求められる。
 共通の土台になる教養は、ワロンが概念化した「労働を軸とする教養の転換」が必要であろう。

<教育の自由>

 「教育の自由」は常に統一学校運動のなかで中心的に議論されたことであった。単純にまとめれば、統一学校の支持者は「教育の自由」に反対し、「教育の自由」論者は統一学校に反対だった。
 カトリックのプイヨは当然として、シュプランガーなども、統一学校への批判的な分だけ、「教育の自由」を支持した。
 それに対して、ナトルプは明確に国家の介入を支持して、「教育の自由」を否定した。イギリスのパブリックスクールでは費用を階級的に調達することによって、自律性を得た。ところが階級的であるといっても、必ずしも経済的に裕福な者ばかりであったのではない。パブリックスクールでは、そうしたとき階級内部で費用の問題を解決したのである。
 また労働者階級は、その経済的貧困のために教育も受けられない状況を、回避するために「生経費補助」を要求した。そこでは「教育の自由」はむしろ退けられるべき概念であった。
 一方、精神の自由は経済的な自由と不可分のものであり、精神的自由としての教育の自由と、経済的自由、私立学校設立の自由とを厳格に区別することはできない。
 さて自己の望む教育を、他に拘束されずに行うことのできることを「教育の自由」としても、公教育のなかでは、教育共同体において、教育像が異なる事態が、日常的に生じるようになった。
 ナチスは古典的な意味での「教育の自由」を完全に抹殺した。国民のすべては「国民学校」に通学することを義務づけられ、私的な教育を認めなかった。教育内容についても、完全にナチスのイギオロギーで統制しようとし、そのために教師を統制することに全力をかたむけた。ナチスの教師は基本的に国家に絡めとられた。教師の給与の国家補助が制度化されたフィッシャー法も、国家統制の下地をあたえたことは間違いない。親は様々な領域に分れ、職業・地域・生活形態等多様である。当然のことながら教師よりは把握することが難しい。
 教師は歴史的には国家の政策に、概して忠実である。従って、教師の教育権を国家の教育権に対立する形で定式化することは、歴史的には、正当な定式であることが検証されない。
 親はどうだろうか。義務教育が子どもを労働力として活用し、教育を受けさせなかった親の権利を制限するものであったが、現在の日本の親は、例外的存在はあるにせよ、むしろ過剰な教育を子どもに強制する傾向にある。そのとき、再び逆の親権の制限が必要なのか、義務教育という形態での権利保証そのものが、過剰な教育をもたらすのか。
 教師が国家によって管理され、子どもに対して逆に管理的になっているという事態を迎えて、親と子どもの権利を復権させなければならないことは否定できない。親の側に選択権を留保することは、教育の理念から当然であろう。
 しかし一方、親が選択権を行使することは、学校を日常的な紛争状態にする可能性をもつ。現実に親の教育要求は多様であり、多くの場合対立的でさえあるからである。受験指導を望む親、体罰を望む親、制服を望む親とそれらを非教育的として否定する親の対立は、しばしば非和解的である。
 教育の水準向上そのものが、教育競争を過熱させ、意思に反して競争に巻き込まれる事態が一般化している。こうした事態の、人間的な制御が可能にならなければ、教育の自由は実現しない。こうして「教育の自由」の問題は、習熟性の問題に帰って来る。個人だけではなく、集団的能力の習熟性を獲得したときに、「教育の自由」は真に人間の発達の保障となる。
 また教育の自由に関して、次の2点を確認しておく。
 第一に、ヨーロッパでは義務教育制度を成立させた後でも、ナチスを除いて、国家が教育内容を詳細に決める政策はとられなかった。しかし、国家が教育に介入する場面は着実に増大していった。イギリスで何度か出されたレポートや、各国で増加した奨学金テスト、そして教師を国家が次第に掌握していく傾向。こうした間接的な形態で教育内容の統制が徐々に進行したと考えられる。
 第二に親の関わりが意図的に追求されたことである。義務教育が子どもを労働力として活用し、教育を受けさせなかった親の権利を制限するものであったが、現代においては、親は子どもを賃金の稼ぎ手としてより、学校にいって社会的地位を上昇することを、次第に期待するようになる。

(2)戦後把握の問題(略)