成績認定について

 2002年度から文教大学では正式の成績クレーム制度を制定し、自分の成績に不満や不信がある者について、クレームをつける機会を正規に与えています。それは当然のことですし、教員は自分がつけた成績について学生が理解できない場合には「説明責任」があると思います。ただし、それも成績をどのようにつけたかを明確にすることが前提になると思いますので、ここに私がつけた成績の原則についてあらかじめ説明しておきます。

 特にこれまで多少甘めにつけることがあったのが、今回からそうした甘めのつけ方をやめることにしたので、クレームが多いことを予想しておりますので、特にこういう方法で説明をしたいと考えたわけです。これまでは多少足りない場合は底上げしたりしていたのですが、今回の学生諸君のレポートはあまりに大学としてふさわしくないレポートが多かったので、私の授業中の指導も不十分だったことはあるかも知れませんが、こういうレポートを書いて単位がとれるのだという甘さを許すより、長い眼で見ればこういうレポートでは社会で通用しないということを学んだ方がいいと思い、基準の通りに評価することにしました。特に基準を厳しくしたというわけではありません。

 ここで説明するのは、大人数の講義についてであり、演習や少人数の講義については除外してあります。つまり、教育学、教育学概論、現代学校教育論、教育哲学についての説明です。

 レポートの提出については「形式」を決めましたが、それを守らなかった人が少なからずいました。もちろん最大限「検索」して拾いましたが、つかみきれなかった部分があるかも知れません。自分が正しい形式を守って提出したかも確認してください。なお以下の採点基準を踏まえても成績に納得のいかない人は、私が確認のために再度提出を求めることがあるかも知れませんので用意をしておいてください。(授業中に必ず保存しておくように指示しましたのでもっていると思います。)
 ただし、いずれの科目も、単純に加点してAA、A、などの評価をつけるのではなく、授業回数が毎年変わるので、若干の修正を行う。(最終的な回数で決める。)
 また、AAについては、単純に90点を超えたものにつけるのではなく、90点を超えたものの中で、特に優秀と評価できるレポートを複数回書いたとか、かなりたくさんの発言をしているというような、特別の場合のみ与えることにしている。

1 教育学・現代学校教育論は以下の通りです。

 ・レポート ホームページの掲示板に書かれたものを基本に採点してあります。(メールももちろんチェックしてあります。)

 ABCで採点し、それを点数化します。

   A 10点

   B  6点

   C  3点

 更に、発言10点 臨時の提出レポート6点で加点してあります。(現代学校教育論の試験点数は上記に加点してあります。)

2 教育学概論は

   試験 50点

   A   5点

   B   3点

   C   1点

   発言  5点

   臨時レポート 3点

3 それぞれABCの採点基準は以下の通りです。

 C 課題について単に自分の意見や感想を簡単に書いた程度のもの。話題が複数に渡っていてもひとつひとつの話題に対して、自分の意見や感想を書いただけのものを羅列しても、それはCと判定される。

 B Cのレベルから多少の事例や掘り下げた分析を行ったもの

 A Bのレベルから反対の見解や複数の事例をあげて比較検討をしたもの

 本当は学生諸君の書いたものを例にあげるとわかりやすいのですが、それは問題なので、例を私が作文しておきます。自分の書いたものと比較してみてください。

 たとえば、「一斉授業や個別授業」を扱った「授業論」について例を学生になったつもりで作文しておきましょう。

C 今日は一斉授業がいいか個別授業がいいかについての授業でした。私は一斉授業より個別授業のほうがいいと思います。個別授業だと生徒に応じたやり方が可能だけど、一斉授業だと画一的になってしまいます。また、一斉授業は先生が一方的に話をするだけで、生徒はそれを聞いているしかありません。生徒はみんな能力や興味が違うのだから、生徒に応じた授業がいいと思います。
 また今日は個性的な授業が紹介されました。なかでもシュタイナー教育に興味をもちました。しかし、8年も一人の先生が担任をするのは、その先生とあう生徒にはいいかも知れませんが、あわない生徒にとってはかなり苦痛になってしまいます。なのでやはり日本のように担任は2年くらいでかわったほうがいいと思います。

B 「島」という詩について、ふたりの教師の授業が紹介された。ひとりの教師は詩について理解せず、また生徒についても理解していないために、つまりらない授業になってしまっている。もう一人の教師は詩を理解し、生徒のことも理解しているために、適切な発問をだしているので、掘り下げた授業になっているし、また生徒も興味をもっている。だから、教師が力があれば、一斉授業は効果があるが、そうでないと一斉授業はつまらないものになってしまう。このように、一斉授業を行うためには、教師に力がなければならない。
 ではどんな力が教師に必要なのだろうか。「島」を参考にして考えると、次のようなことがわかる。まずは「教材の深い理解」は当然として、それをどのように教えていくかを「構想する力」、そして、構想するだけではなく、それを生徒に伝え、考えさせるような「発問」を考えだす力が準備として必要だ。発問を考えるだけではなく、生徒がどんな反応をするかを予想する力、これは生徒の現状の正しい理解が必要だ。そして、実際に授業をしたときに、予想しない方向に進んでいくこともあるから、それに対する適応力も必要だ。
 実際の教師は力のある人が多いのだろうか。私の経験では多くない。しかし個別授業なら、作業は個々の生徒が行うのだから、授業をやる特別の技術などはいらない。そういうことから考えると、個別授業を主にするほうが、いいように思う。

A 一斉授業と個別授業のことを扱ったが、講義で扱ったように、教師の力量によって効果が違うだけではなく、これは学年や科目によっても効果が違うように思われる。また、なぜ一斉授業が広まっているかを考えると、経済的な効率ということもあるので、教育的効果だけでは考えられない。講義では、「島」という詩についての、ふたりの教師の授業が紹介された。ひとりの教師は詩について理解せず、また生徒についても理解していないために、つまりらない授業になってしまっている。もう一人の教師は詩を理解し、生徒のことも理解しているために、適切な発問をだしているので、掘り下げた授業になっているし、また生徒も興味をもっている。だから、教師が力があれば、一斉授業は効果があるが、そうでないと一斉授業はつまらないものになってしまう。このように、一斉授業を行うためには、教師に力がなければならない。しかし、教師に力があれば、人数が多いだけ、多様な考えがぶつかりあって、気づかなかった見方などに触れることができる。
 私が中学のときに習った社会の先生は、いつも教科書以外にプリントを作成していて、それを授業にうまく使っていた。例えば、エジプトのピラミッドを勉強するときには、大きな石を運んでいる様子を描いたイラストを、歴史の本からもってきて、ひとつの面が畳みくらいもある大きな石を運び上げる技術がよくわかった。またひとつのピラミッドにどれだけの石が使われているか、ピラミッドの大きなと石の大きさが示されている図を印刷して、みんなで計算したりした。こういうことから、当時の人々の様子や、技術について、教科書よりつっこんで学習したので、ときても印象に残っている。授業の形は一斉授業だったが、授業を構想する力をもった先生は、生徒一人一人が自習のように個別学習するより、ずっとたくさんのことを学ばせることができると思う。
 だから、国語や社会の授業などはうまくいけばとても面白い授業ができる。そういうことは個別授業では得られない。比較的高学年で国語や社会なとは一斉授業が適していると思う。しかし、数学などは多様な見方をぶつけあうよりは、しっかりと理解することが大切だし、また、個人の理解度がずいぶんと違いがあるから、一人一人の進度にあった内容を決めて学習できる個別学習の方があっているのではないか。講義で紹介された公文は私もやっていたが、自分の程度にあった課題を与えられるので、簡単すぎたり、また難しくてわからないということもなく、いつも楽しく勉強でしたし、また計算が特異になった。ただ、ひとつひとつ確認しながら少しずつ前に進んでいく数学のような科目や、漢字を覚えたりするのには適しているが、実験をやる理科とかなどにはむかないのではないだろうか。また、歴史の授業のように、年号や歴史的な事実を覚えればいいというのであれば、個別授業でもいいかも知れないが、歴史の深い解釈をしたりするのならば、やはり多くの人数で討論したり、資料を調べたりすることも必要だろう。いずれにせよ、一斉授業や個別授業はそれぞれよい点、悪い点があるので科目や生徒の状態に応じて使い分ければいいのではないだろうか。また、教師の力がないから、いつも個別授業がいいというのも疑問だ。教師たる以上一斉授業をうまくできるような力を身につけてくれないとこまると思う。そういう教師の評価や訓練も必要ではないだろうか。