今日は「文教大学を知る」ということです。
これは日本の大学教育の権威である先生が、このように自分の大学について講義をすることが、とても教育効果があるということを書いている文章を読んで、去年からやってみています。やってみると、なかなかよかったという人が多いので、今年もやるということです。文教大学は、大学になったのは戦後です。戦前、どういう形で始まったからということ、裁縫女学校と幼稚園です。場所は、荏原郡大崎というところで、だいたい今旗の台校舎があるところです。みなさん、行ったことがあまりないと思いますが、付属から来た人は、そこに付属高校と中学があります。小学校と幼稚園は別の場所にあります。つまり、裁縫学校から始まったのが、1927年です。28年に財団法人になりました。今は私立学校は学校法人という形態ですが、これは戦後制度ができたので、戦後は学校法人はありませんでした。学校法人にしたのは、教育水準をあげるために、条件を厳しくしたのです。それで戦後は私立学校を設置するのが難しくなったのですが、戦前は、やさしかったのです。そのかわり、きちんとした評価を受けることもまた難しかったと言えます。
一年間は法人ですらなかった。塾みたいなものでしょう。法人になったときに、馬田先生という方が、理事長で、実業学校として設立された。今でいえば、専門学校に近いといえるでしょう。立正学園ということでわかるように、立正という日蓮宗が主に使う言葉ですので、日蓮宗の精神で作られた学校です。戦後しばらく立正学園といいました。大学も最初は立正女子大学だったのです。立正大学という大学がありますが、我が校が作られたときから、立正大学にさまざまな援助を受けて発展してきたといえます。兄弟校という関係ではありませんが、それに近いものがあります。戦後文教大学というように名称変更したのは、共学化するとか、あるいは教育学部を設置したことが、大きな理由だと思います。
1930年に高等師範部を設置して、先生を要請することに拡大したけれども、要するに、戦前は幼稚園と裁縫学校だと考えていいです。
(写真をみる)
こじんまりしていて、いかにも昔風の校舎です。図書館に原本がありますので、ぜひ読みたい人は、図書館で借り出してください。
では、設置当時の日本はどういう時代であったのか。27年に設置されたのですが、これから戦争体制になるという時代でした。1925年に普通選挙法が制定されましたが、あわせて、治安維持法が制定された。思想を弾圧する法律です。最近大分はやっているようですが、小林多喜二の「蟹工船」ですが、あの小林多喜二は、この治安維持法で捕まって拷問をうけ、その最中に死んでしまったという人です。そういう思想統制をもとに、1931年、つまり、立正学園が作られて4年後に満州事変が置きました。満州事変は、15年戦争、つまり、1945年に戦争が終わるまで、日本はずっと戦争をしていたわけです。立正学園は、つくられて直ぐに戦争体制になって、そのなかで、子ども時代を過ごしたという感じですね。あとの写真でそれがよくわかります。
時代が遡りますが、1918年に大学令ができます。それまで大学は、国立系だけだったのです。帝国大学と、官立大学だけが大学として認められていたのです。正確にいうと、慶応や早稲田も大学ではなかった。しかし、このときに、私立大学を認めることになりまして、立正大学が大学として認可されました。その立正大学の援助をうけつつ、我が校が展開したわけです。
この大学令でわかるように、戦争準備だけではありませんが、社会が発展してきて、国民の教育水準の向上が必要であるといことになって、大学を増やそうという政策の一環として、大学よりは、ワンランクしたの学校になりますが、我が校の最初の形が作られたわけです。
そして、直ぐに戦争になるのですが、戦争中は、どうしていたのかということです。みなさんは、戦争中に日本の学校が何をやっていたのかは、基本的な知識として知っておいてほしいのですが、戦争中は授業はまともにやっていないのが、通常です。男の大人は戦争にとられてしまいますので、働き手がいないわけです。まず女性が労働者として駆り出される。それだけでは足りなくなって、子どもも働きなさいということになります。農業をやる人もいなくなるし、農地が足りなくなって、校庭が畑になってしまいます。それからどんどん軍需物資を作る必要から、工場が足りなくなる。それで、校舎を工場として提供してくれ、ということが、かなり広範囲で行われて、しかも、戦争が末期になってくると、子どもたちが疎開します。東京にいた小学生や中学生は、地方に移る。そうすると、東京中の学校には、生徒がいなくなるわけです。そうすると、校庭は畑になり、校舎は工場のように利用されることが、戦争が終わるまで続きました。立正学園は、品川電気という企業に、工場として施設を提供した。残っている人たちは、働くか軍事訓練。そういう写真がたくさんあります。
(写真をみる。)
救助訓練、銃剣をつかった訓練。10代後半の女子生徒はこういう訓練を毎日やったのです。実際的な訓練もしました。
消化訓練。薙刀。
農業。校庭ではなく、これは近所の農場で手伝いをするということです。
こういう時代があったということです。
戦後の回復期
東京は90%が焼失しました。焼失というのは、不幸なことですが、都市改造にはチャンスなのです。この時期も東京大改革を考える人たちもいたのですが、実際には、そうなりませんでした。前の所有関係が不明確になってしまったので、取った者勝ちという状況がありまして、その時期にたくさんの人たちが囲い込んでしまったので、雑然として都市になってしまったのです。それは別のことですが、品川電気に貸していた施設を返して貰って、学校を再建することになりました。戦後学制が変わりましたので、裁縫学校から、中学校と高校に申請して、見取られることになりました。合わせて、馬田先生が亡くなりまして、小野先生が運営の責任者になりました。
でも、あいかわらずの校舎でした。建て替えもありました。
文教学園は、幼稚園が出発でしたので、幼稚園はとても大事なのです。みなさんは、新入生として、入ってきて12号館が最初から建っていましたが、去年までは、12号館というのは、ほんとうに小さな小屋みたいなものだったんですよ。そこには、美術と大学院の一部が入っていたのですが、その昔は幼稚園だったのです。越谷キャンパスは、出来たときには、児童科があって、そこで幼稚園の先生を養成していたのです。それで幼稚園の校舎があったのです。幼稚園がなくなって、美術棟になっていたのですが、昨年すべて壊して、今の12号館になったのです。そのあと、みなさんが入学したのです。みなさんが入ってきたときには、まだ完成していない状態でした。
ここから、戦後の動きが少しずつ始まってくることになりましたが、それまでは、幼稚園と中学と高校だったのです。ぜひ、大学らしいものを作りたいと考えた。まずは短大を作ろう、それから小学校を作ろうということになりました。そういう総合学園にしようということで、石橋湛山という人が、中心になって、いろいろな人に呼びかけてくれて、相当多額の寄付金が集まったと言われています。これは、今の事務の人のお父さんが、政治家の有力者と親しく、石橋湛山に頼んでくれたのだそうです。そうしたら動いてくれて、そうとう大物の人たちが協力してくれたのです。
みなさん、この中で何人知っていますか?
石橋湛山、吉田茂、片山哲、芦田均、鳩山一郎、一万打直人、安井誠一郎、池田勇人、大野晩陸、五島慶太、永田雅一、西尾末広。
少なくとも、みなさんのお父さん以上の年代の人がこの名前をみれば、びっくり仰天しますよ。みなさんのお父さん、お母さんにぜひこの名前をみせてください。おじいちゃん、おばあちゃんであれば、なお結構です。内閣総理大臣や財界の大物ばかりです。できたら調べてください。
彼らの寄付運動のおかけで、安定した形で出発することができたのです。石橋湛山というひとは、満州事変にまっこうから反対して、にらまれてたいひとです。戦争体制になると、みんな軍部に迎合する感じだったのですが、石橋湛山はそういうことがなかった。それで戦後非常に尊敬されて、総理大臣になりました。
こういう力で、立正女子短大ができたのです。これは、今の旗の台校舎に作られました。そして児童、英文、栄養などが増設されてきたのです。どんどん大きくなったということです。
当時の短大の様子です。(写真)
この時代はすべて旗の台でした。短大ができると、通常は四大がほしいという感情ができる。しかし、四大を作るには、旗の台では狭すぎる。そのためには広大な土地が必要です。東京にはなかなかない。
そして、当時たまたま、東武伊勢崎線と営団地下鉄日比谷線がつながることになった。みなさんにとっては、何々線と何々線がつながっているのを、当たり前と思っているかも知れませんが、昔は、線が違えばまったく別ですから、つながっているということはなかったのです。もちろん、同じ会社であれば、名前が違う路線がつながっていることはあったとしても、別の会社がつながっているということは、まったくなかったのです。線が違えば乗り換える必要があったのです。それが、営団と東武が相互乗り入れをするという画期的な時代になったのです。そうすると、営団地下鉄と東武線がつながっているということは、都心から越谷まで乗り継ぎなしにくることが可能になった。通学が可能であることは、とても大切なことですから。
それから越谷市がそれまで中学があったようですが、廃止するので、その跡地をどこかが買ってくれないかと探していて、そこで利害が一致して、越谷市から土地を購入して、そこに立正女子大が作られました。当時は家政学部だけの大学でした。このときも、立正女子大という名称だったのです。それまでは小野先生が理事長だったのですが、これを景気に、小尾虎男がやってきました。彼は前は東京都の教育長だった人です。彼が、それまでの見学の精神である「立正精神」では、多少狭すぎる、宗教色も好ましくないとういことで、「人間愛」という言葉をモットーに変えたのです。
東京都で「学校群」入試を始めた人です。そして、長く理事長と学長を兼任してやっていました。
(写真)
買収したころの土地
まわりはずっと水田だったのです。今でも4号バイパスの方には、田んぼもありますが、ずっと減ってしまいました。越谷というのは、水田に適した土地なんですね。川がたくさんあって、平坦ですから。でも、水田はだいぶ減ってしまいました。
(1号館と4号館だけの写真)
(昔の学内寮 今は9号館)守衛さんがいる建物です。
(昔の図書館 時計台)正門を入って正面の建物です。11号館というと思います。
この授業をやり始めて、どうして時計台を壊してしまったのか、という質問がよく出てくるのですが、これは住民との話し合いの妥協でそうなったということです。この地域は、住民運動がさかんなところで、権利意識が高いのです。それはいいことだと思うのですが、何か新しい建物をつくるときには、住民の了解が必要なのです。昔は、建物制限がこの地域ではきつかったので、3号館を建てるときに、とても大変だったのです。古い建物は、みんな4階以下ですね。図書館を考えてみるとわかるように、図書館は地下2階ですね。すごくお金のかかる建て方をしています。普通なら、地上4階で建てるはずです。しかし、建物の高さ制限があったので、わざわざ2階分を地下にしたのです。かなりお金がかかったはずです。それで、3号館を建てるときに、住民に納得してもらうために、そんな高い建物を建てるなら、あの時計台を壊せという要求があって、それに従わざるをえなかったということのようです。また、当時はかなり時間が狂っていたそうなんですが、狂っている時計は目障りだというようなこともあったそうです。時計台って、大学の象徴的意味がありますから、かなり泣く泣く壊したようです。
今とは、大分違いますね。当時は、3号館のところに、体育館があって、その左に食堂がありました。体育館を壊して、3号館をつくり、そして、その脇に食堂をつくって、体育館は別の場所に作ったわけです。そして、当初はでず端はなかったのです。新越谷駅もなかったのです。
武蔵野線で来る人は、新越谷で乗り換えてくると思いますが、その駅がなかったらどうしますか。当時は蒲生まで歩いたそうです。しかし、でず橋はないので、神明橋、あの結婚式場があるところですが、あそこまで歩いて、それから土手沿いに大学まで来たようです。昔の人は、ずいぶん歩いたのですね。新越谷駅をつくってもらって、それからでず橋を作ってもらった。
川に橋を作るというのは、かなり大変なのです。江戸時代に、川に橋をかけずに、あるいてわたるということがあったのですが、その伝統かどうかはわかりませんが、今でも川に橋を作るのは簡単ではありません。
とにかく、北越谷から簡単に来られるようになったのですね。
でず橋については、こんなエピソードがあります。以前は木の橋で、受験生が一斉に試験が終わって、帰ろうとしたときに、かなりの人数が一斉にわたったもので橋が揺れて、発火しそうになったのだそうです。それで、入試のときには、帰るときに、号館毎に分けて帰すようにしたということが、言い伝えとして残っています。また、それあと、今のような頑丈な橋に作り替えたようです。
こうした立正女子大から、次第に発展してきたのです。
小尾学長は、東京都の教育長という要職をしてきた人ですから、教育界に大きな力をもっている、そのためか、全国で始めて私立大学に小学校教員の養成課程を設置しました。教育学部です。小学校教員の養成課程は、私立大学には、今でもほとんどないと思います。ほとんどは国立大学です。学科はあるかと思いますが、学部ではほとんどないはずです。小学校教員の養成は、非常にお金がかかるのです。教育学部は、学生と先生の比率で、もっとも恵まれている学部なんですが、それは法律で決まっているからです。各教科ごとの先生がいなければいけないとか、そういう規制が非常に強いのです。それで、私立大学は、普通小学校教員養成課程をつくらないので、我が大学で作れば成功するだろうと考えたのでしょう。当時は中等教員の養成課程もありました。つまり、教育学部の中に、初等課程と中等課程があって、国語・英語・家庭・美術・音楽という中等家庭があったのです。音楽と美術は、最近まで中等課程がありました。それが段階的に廃止されたのです。ただ、教育学部の免許が小学校・中学校・高校の免許をすべて取るという前提のカリキュラムになっているので、中等がないということの意味はあまりありませんが。
こういうことで、全国でめずらしい教育学部として、出発しましたので、非常に大きな話題になりました。僕が大学院のころに、毎年教員採用試験のころにあると、新聞に、文教大学の記事がでるのです。数年間続いたと思います。今年も教員採用試験の時期がやってきた、文教大学では〜〜という話です。小尾学長がそういう記事を書かせたということもあるかも知れません。非常に教員採用試験の合格率が高かったのです。一時期はずっと100%と言われていました。そんなに合格するのはすばらしい教育をやっているのに違いないという称賛と、受験勉強ばかりやっているに違いない、大学の教育は受験勉強と違うのに、本来の教育を忘れて、受験勉強に走っているのではないかという批判もありました。実際の教育が、受験対策であったかという事実問題とは別のところで、メディアでそうしたことかさかんに報道されたことは事実です。
とにかく、合格率が高かったために、文教大学の教育学部の名声が高くなったことは否定てきません。
これで教育学部と家政学部の二学部体制になったわけですが、家政学部というのは、石刻的に次第に人気が低迷してきます。これは国立大学でもそうで、全国の家政学部は学部名称を変更する動きが始まったのです。今家政学部ってないですよね。ありますか?ここの大学には家政学部があるよ、ということを知っている人いますか?
だいたいは生活科学部という名称になったのですが、文教大学では、家政学部として出発した大学ですから、当然その問題に直面することになりました。そこでは、方向性についていろいろな案があったようです。家政学部自体の改革、文学部にする、あるいは、教育学部に統合する。そういう案があったのですが、人間科学部にしようという案が出てきまして、その案が採用されたのです。ここには、人間科学部の学生が多いと思うのですが、家政学部時代からずっと中心的に担ってきた、水島先生という方がいまして、この人は本当に優れた臨床心理学者であったのですが、人間科学部になっても、20年近く学部長であったのです。その人が中心になって、人間科学部を構成して、私立大学としては始めて、国立も含めても、大阪大学の人間科学部に続く2番目の人間科学部であったということです。最近はあまり言わなくなりましたが、数年前までは、全国で私立としては始めての人間科学部であったということを、かなりアピールしていました。
自慢することかはわかりませんが。人間科学部というのは、通常心理学、社会学、教育学のみっつを含んだ学部ということになっています。ここも、心理学専修、社会学専修、教育学専修のみっつで出発をしました。1976年に、立正女子大では、女子しか入学できないし、大学は本来共学であるべきだということもあり、文教大学にして、共学にしたのです。立正大学という大学は既にありましたし、教育学部を作ったので、文教大学がいいのではないかということになったようです。
これでふたつの学部ですが、次に作られたのが情報学部でした。1980年のことです。この情報学部も日本の大学としては、非常に早い時期に作られた学部でした。当時情報学部はなかったようです。もちろん、情報化社会の到来が言われていましたので、情報がとても重要であると認識されつつあったのですが、学部としては作られていなかったのです。敷地が少し広かったという事情もあったようです。何か作った方が経営効率がいいと考えたわけです。その割には、情報学部というのは、機械がたくさん必要なので、あまり経営効率がいいとは言えないのですが、とにかく、時代の趨勢を考えて、情報学部をつくった。そして、作られたときには、越谷のここにあったのです。僕がこの大学にきたときには、情報学部がまだ2年生分くらいがいました。教職科目をやっていたので、情報学部の教職をとっている学生を教えたました。とてもよく勉強していましよ。当時は文教大学は越谷キャンパスしかあたませんでしたから。
次に湘南キャンパスです。湘南キャンパスに行ったことある人いますか?(2名挙手)
感想はありますか?
学生 きれいでした。
太田 越谷と比較すると、ケタ違いにきれいなところですから、文教大学の学生である時期に行った方がいいですよ。当初には、テレビでも何度も紹介されていました。僕自身が何度もテレビで放映されるのを見ましたから。今度新しくできた文教大学の湘南キャンパスはこんなに素敵です、というような感じの紹介でした。ある意味ではヨーロッパ風なんですね。映画の撮影などにも相当使われています。4、5年前だったでしょうか、越谷でも映画の撮影をしたいので、6号館を使わせてほしいという申し入れがあって、6号館で撮影をしたことがあるんです。けっこう話題になりましたね。何の映画かというと、「ジュオン」という映画で、ホラー映画風のもののようです。せっかく映画に撮られるのに、そういうのかって、みんな嘆いていましたが。
でも、湘南は、まったく逆でとてもきれいなのです。当時は、大学の拡張期で、多くの大学が都心では狭すぎるということで、都下や地方に別キャンパスをつくっていたのです。法政、青学、中央、等々。中央のように、全面的に移転した大学もありました。大学は広大なキャンパスがほしいということだったのです。
文教もいろいろな案があったようです。全面移転の案はなかったようですが、移転地として、湘南か千葉かという話になったのだそうです。はっきりいうと、この選択は間違っていた、と多くの人が、今は思っている。湘南にいったので、話題性が一時あったけれども、今湘南の各学部は受験生の確保で、非常に苦労している。このままでは、もたないと思われている。どうしたらよいのか、というのが、文教大学が抱えている最大の問題です。越谷の方はそんなに心配はありません。何故かというと、住宅調整区域であるのです。ここは建物を建てることができないのです。大学を作るというので、その部分だけ解除してもらったのだけど、そのまわりはまだ調整区域です。だから、学生のためのアパートなども建てることができないのです。もちろん、店もないから、バイトもできない。これでは、通常の学生に必要な要素が成立しないのです。こういう大学に、魅力を感じることはあまりあまりせん。
ともかく、情報学部が移転し、そして、旗の台にあった短大も移転しました。
(当時の写真をみる。)
山が造成して作られたのです。建物は立派です。この越谷もこんな感じなら、受験生が多少は増えるような気がしますね。越谷も最近は大学らしくなりましたが、3号館ができるまでは、1号館とか、4、6号館のような建物ばかりでした。6号館は、地震に耐えられないというので、この夏に補強工事をやるわけで、そういうところばかりですから、校舎としては、なさけない感じでしたね。昔ですが、受験生が受験の前に下見に来たときに、大学の前まできて、この校舎は大学ではないと思って、ずっと先まで行ったという話があります。最近は、大学っぽい感じもしますが、湘南は最初から大学らしい、しかもとてもみかけのいいキャンパスでした。
次に文学部です。
みなさんは、教師になりやすい時期に、今いますから、昔からそうだったと思っているかも知れませんが、10年ほど前までは、教師になるのは、かなり難しい時期があったのです。教育学部も、今は受験生が多いですが、教育学部ですら、受験生がすごく少なくて、先行きどうなるのか心配した時期があるのです。国立大学の教育学部が、どんどん縮小された時期です。初等はまだいいのだけど、中等課程はほんとうに受験生が少なくなってしまったのです。教育学部の中等の国語よりは、文学部の国文の方が、免許もとれるし、また、他の専門的な勉強もできるということで、人気がある。そして、受験生が少なくなったということと、情報学部が湘南に移転したために、多少施設があまってきたので、その跡地利用として、文学部を作ることにしたのです。教育学部の中等課程の一部を文学部に再編し、そこに中文を加えたということです。当時中国との交流が盛んになって、中国語の受容がでてくるだろうという話でした。
ここらまでは、比較的順調にきた話です。どんな組織でも、いい話ばかりではないですから、文教大学でも問題があったし、今でもあります。
国際学部の設置が次になります。最初から、国際学部が作られました。湘南キャンパスはふたつの学部ではもったいない。それで何か作りたい。それでいろいろな議論があったようですが、国際学部がいいのではないか。ところが、これまで文教大学がつくってきた学部は、文学部は伝統的なものですが、伝統的ではないか他の学部は、時代を先取りしたような学部設定をしてきたのです。教育学部、人間科学部、情報学部、みんなそうです。ところが、国際学部というのは、率直にいって、時期遅れだったのです。そのために、設立当初からさまざまなハンディがあり、今でも苦労しています。
最初に訪れた文教学園の最も厳しい状況は、情報専門学校がつぶれたことでした。みなさんは、こんな学校が、文教学園の中にあったことを知らないですよね。
旗の台の短期大学が湘南キャンパスに移転したために、その跡地利用でできた専門学校でした。
短大が移転したあと、跡地利用に関しては、ふたつの選択肢がありました。付属中学と付属高校があったので、付属の施設を拡大することにして、そのスタータスを高めるという方法と、別の何かを作るという方法です。僕は、このときには入ったばかりでしたので、事情はわかりませんが、情報学部を作ったので、そういう人材は多いので、うまくいくと思われたのでしょうし、また、情報化時代ですから、当初はたくさんの応募があったのです。しかし、それは2、3年のことで、みるみるうちに応募者が減少して、最後は数名しか応募がなかったのです。結局、その数名の学生が卒業するまで、面倒をみる必要があるので、大変な財政負担だったと思います。これをめぐって、内紛もありました。
今は、事務所もありますが、ほとんどは付属の中学と高校で使用していますから、最初からそうすればよかったのかも知れません。
ただ、どうして、うまくいかなかったかというひとつの理由に、情報専門学校が、女子校だったということがあります。付属は女子校ですから、そこに共学の専門学校を併設することに抵抗があったのです。でも、情報専門学校に女子しか入れないというのは、いかにも、おかしいですよね。コンピューターを扱う初期ですから、当然男子に興味ももつ人が多かったのです。そういう意味で、女子に限定したのも、経営上不利を抱え込んだことになります。作ってからつぶれるまで、本当に短い期間でした。
その後起きた課題は、短大の人気低下でした。第二次ベビーブームが大学や短大に押し寄せたときに、全国の大学が過剰な応募者を引き受ける時期がありました。今とは全く逆です。希望者が多く、定員が足りない。なんとか引き受けないと浪人があふれてしまうので、社会問題になるという危惧があったのです。文教大学としては、全体として多めの学生を受け入れましたが、最も割合として多くを引き受けたのが短大だったのです。ですから、当時の短大は、大きな黒字を出しました。その黒字で、越谷の3号館が建設されたのです。しかし、短大の低下で、どんどん短大が縮小していきます。
当初4つの学科があったのですが、3つははっきりつぶしました。そして、その定員を他の学部にまわして、臨床心理学科や心理教育課程ができたのです。
湘南にいた先生が越谷に何人も移ってきました。そういう先生がよくいうのは、短大が迷惑をかけているということで冷たい目で見られるけど、文教大学が発展したときに、一番財政的に貢献したのは短大だ、ということです。それは事実なのです。ただ、時代の変化によって、短大が苦境に陥って、維持できなくなってきたのです。
今度は多少の発展ですが、それまで四大までありましたが、大学院はありませんでした。短大があると、四大がほしくなる。四大があると大学院がほしくなる。これは、大学の生理とでもいうのでしょうか。あまり、感心しないなと思っているのですが、文教大学に大学院を作りたい。
当時、文教大学の中に、一番大学院を作る条件があったのは人間科学部の臨床心理系統だったのです。それは、いじめ問題などで、スクールカウンセラーが必要であるという話がでていた。心の問題を扱う専門家が必要だということで、いくつかの学会が協力して、臨床心理士が必要であり、それを養成する大学院が必要だということになりました。それで、臨床心理士を養成する大学院が必要となったのです。文教の人間科学部は、非常に臨床心理学が強かったのです。水島先生も、臨床心理学の世界で日本を代表する一人でしたから、ここに最初の大学院を作ろうということになりました。大学院を作るのは、その大学の最初の大学院の場合には、非常に厳しいのです。教員がほんとうに大学レベルの力をもっているのか、詳細にチェックをするのです。いろいろな事情があり、4年もかかって、大学の認可につなげました。その後の設置は比較的楽になるようで、今では5学部に大学院があります。
最後に文教大学が抱える問題について。
どんな組織でも100%うまくいっている組織なんてないということは分かっていると思いますが、文教大学もその例外ではありません。
ただ、僕自身思うのですが、お金や権力をめぐる醜い不祥事は、今の文教大学には、ほとんどないといってよいと思います。
何故かというと、財政的に非常にオープンです。また、はっきりいって、お金がないということもあります。お金があるから、不祥事になるので、たかることもできるわけですが、お金がなければ、たかりようがないですね。
じゃ、どうしてお金がないのか、というと、最大の理由は、「安定学部がない」ということです。安定学部というのは、学生がたくさんいて、教員が少ない学部という意味です。代表的には法学部、経済学部です。私立大学で経営が安定している大学というのは、だいたいにおいて、法学部と経済学部が強い大学です。慶応も早稲田もそうですね。慶応の経済とか、早稲田の政経は、学生がたくさんいて、教員が少ないので、財政的に豊になり、そこであがった余剰金を、慶応でいえば、医学部に、早稲田なら理工学部で使って、そこで業績をうんで名声を高めるというシステムです。しかし、文教大学には、法学部もないし、経済学部もないし、また、経営学部もないのです。文教大学が出来たころには、新しい学部として、法学部や経済学部を既に認めなくなっていたのです。文部科学省というのは、新しい分野には、特定の分野しか認めないという行政をやっていた時期が非常に長いのです。今なら、認めるかも知れませんが、今つくって、学生が来る保障はまったくありませんから、今は考えない。また、文教はかつて女子大であったことも影響しています。女子大は、学費を高くして、教員と学生の比率を教員が多めにするという伝統があります。マンモス大学に比較して、文教は学費が高いと思うのですが、そういう理由によるのです。マンモス大学は、1000人くらいの教室の授業などもあり、卒業するまで先生と話したことがない学生などもたくさんいます。
それに対して文教大学は、少人数の授業がたくさんあり、教員と学生の関係も緊密ですから、恵まれた教育環境にあると思いますが、しかし、経営的には苦しくなってしまう。このことこそが、文教大学の大きな問題であるわけです。ただ、まだ定員割れはしていませんから、なんとか頑張っているということになるでしょう。
そういう中にも、湘南の問題がある。これは、ひとえに不便なところにあるということです。不便なところに作って、時間がたっているのに、交通アクセスをよくするとか、調整区域を解除させるとか、そういう政治的働きかけが弱かったということになるでしょう。いろいろとやってはみたのでしょうが、今のところ、格段の成果というのは、まだないというのが実情です。
文教大学にもいくつかの不祥事がありました。(ここでは省略)
3つの場所に事務機構があるので、事務が分かれている。教員は、動きませんから、3つあってもいいのですが、事務は転勤があります。文教大学に採用されて、越谷が職場だから、近所に家を購入したとします。しかし、湘南に転勤になれば、2時間以上かかりますから、通勤で非常な時間の無駄になってしまう。でも、事務の人は、こういう不便を抱えているのですが、これは、組織としては、大きな損失になるのです。こういう問題がある。
自分がいる場について知ることは、とても大事だと思うのです。
あまり愉快ではないこともありますが、自分の場について知って、有意義な学生生活を送ってほしいと思います。