序章 統一学校運動研究の課題と方法
(1)現代における教育改革の課題
<現在の教育改革の性格>
現代は教育改革の時代である。
世界中いたる所で、教育改革の模索が続けられている。日本は文部省直属の中央教育審議会(以下中教審)を休会させてまで、内閣直属の「臨時教育審議会」(以下臨教審)を発足させて、1987年に答申を出した。そして、1991年には中教審の答申である。
制度としての教育が国力の構成要素であり、国民国家の競争のために、国民教育が利用されるようになって、教育改革は常に時代の関心の対象となった。特に、教育が社会の要請に対応しないことが、明瞭になっているときには、教育改革が切実な問題になってきた。現代資本主義社会は「不断の変革」の時代であるから、当然教育改革も「不断」のものとならざるをえない。
しかし、現在は戦後米ソの冷戦構造の変化、東欧社会主義の崩壊、ソビエト連邦の動揺、来るべき統一ECの成立など、政治的な激変が続いており、教育改革も今後ますます大きく論議されることは疑いない。
したがって、この世界の変化に対応して、どのような教育改革が望まれているかを、正確に分析することが必要である。
政府はこの20年間、1971年と1991年の二度の中教審答申と、1987年臨教審答申という、学校制度全般にわたる三度の答申を出している。既に多くの論議が成されているが、この三つの答申を比較すると、政府、あるいは支配層が、教育に対して」賞してもっている要求と、社会の変化に応じて変化させてきた要求が浮彫りにされる。
71答申は、次のようなものであった。
(初等中等教育)
- 学校体系の区切りを変える先導的試行
- 4,5歳児から小学校低学年の一貫した教育
- 多様な、そして、能力別のコースをもった中高一貫の学校
- 中高の区切りを変えた様々な学校
- 中等教育と前期高等教育を含んだ学校
- 学校段階の特徴に応じた教育課程
- 初等前期の基礎と、それ以上における個人の能力・適性に応じた分化
- 多様なコースの適切な選択に対する指導の徹底
- 個人の特性に応じた教育方法の改善
- 公教育の質的水準の維持向上と教育の機会均等
- 私学の公共性確保と経済負担の軽減
- 勤労者の修学条件の改善
- 幼稚園教育の積極的な普及充実
- 特殊教育の積極的な拡充整備
- 学校内の管理組織と教育行政体制の整備
- 校長の指導と校内管理組織の確立
- 公立学校と私立学校に関する地方教育行政の一元化
- 教育施策に対する国民の要望を反映させる工夫
- 教員の養成確保と地位の向上
- 初等教員の目的養成、中等教員の開放
- 性新任教員の現職教育と試補制度
- 社会人の教員招致のための検定制度
- 高度の専門性をもつ教員の優遇措置と、教員養成の大学院教員給与の改善
(高等教育)
- 高等教育の多様化
- 教育課程・方法の改善
- 高等教育の開放と資格認定制度
- 再教育や単位認定による資格認定
- 学士や学位の簡素化
- 教育組織と研究組織の機能的分化
- 管理運営体制の合理化
- 国の財政援助方式と受益者負担と奨学制度の改善
- 大学入試制度の改善
- 調査書の重視
- 広域テスト
- 論文や面接の総合的な判定
87年臨教審である。
- 生涯学習体制の整備(学歴社会の弊害の是正と評価の多元化、家庭・学校・社会の諸機能の活性化と連携、スポーツの振興、生涯学習基盤の整備)
- 高等教育の多様化と改革(高等教育の個性化・高度化、大学入学者選抜制度の改革、大学入学資格の自由化・弾力化、学術研究の積極的振興、大学審議会の創設、高等教育財政、大学の組織と運営、大学の設置形態)
- 初等中等教育の充実(教育内容の改善、教科書制度の改革、教員の資質向上、教育条件の改善、後期中等教育の構造の柔軟化、就学前の教育の振興及び障害者教育の振興、開かれた学校と管理・運営の確立)
- 国際化への対応(帰国子女・海外子女教育への対応と国際的に開かれた学校、留学生受入れ体制の整備・充実、外国語教育の見直し、日本語教育の充実、国際的視野における高等教育の在り方、主体性の確立と相対化)
- 情報化への対応
- 教育行財政の改革(基準・認可制度の改革、地方分権の推進、塾など民間教育産業への対応、教育費・教育財政の在り方)
- 文部行政(政策官庁としての機能の強化、生涯学習体系への移行への組織的対応、許認可行政と指導助言の見直し、教育委員会の活性化、私学行政の推進)
- 秋期入学への移行の整備
次に中教審91答申である。
この答申は、現状の問題分析に大きな部分をさき、具体的な提言は少ない。
(高等学校)
- 多様な形態での普通教育と職業教育との相互浸透
- 新しいタイプの高校や単位制高校の奨励
- 高等専門学校分野の拡大
- 教育内容・方法の多様化(選択制の拡大、単位制の活用、高校間の連携、著しい能力をもった中等段階の生徒に対して大学水準の教育をうけさせる)
- 学校・学科間の移動を容易にする(飛び級は実施しない)
- 個性的な教育に対する行政の積極的な支援をする
(入試制度)
- 大学入試の改善(多元的な評価方法、多峰型のシステム、情報の公開)
- 国公私立の大学、高校の間の協議機関の設置
- 編入学定員の設定
- 高校入試の改善(複数の尺度による選抜、受験機会の複数化)
71答申の基本は、教育の国家管理と学校制度の多様化であった。(1)そして、それは個別的にはかなり実施されてきた。そして、87臨教審、91答申となるにしたがって、具体的提言が少なくなり、歴史及ぴ現状分析に大きなスペースをさくようになった。そのことの意味は何だろうか。
特に国家管理に関わる部分が目立って少なくなってきた。それは、国家管理がすみずみまで浸透し、新たに管理を徹底させる制度的部分が少なくなったこともあるが、国家管理の弊害が、政策立案者にも否定できない程になってきたことが原因であろう。
また臨教審が言っているように、「追い付き型」の方法が通用しなくなったためもあるだろうが、より基本的には80年代後半に顕著になった世界の激変が、「社会の要請に教育を合せる」意図で改革を実施する彼等にとって、土台となる「社会」が混沌としたことが歴史分析に多くをさかせた原因であろう。
しかし、そのためにとりわけ91答申は国家主導の改革を求める人々に対して、大きな失望を与えることになった。ここでは多く、それぞれの組織に委ねるスタイルをとっている。これは「国民の教育権」論の立場が求めてきたものとも言えないことはない。中教審はそれを認めたのだろうか。もちろんそう考えるのは早計だろう。「混沌」に至るプロセスに関する臨教審や中教審の歴史認識を認めるわけにはいかないからである。
中教審91答申はこれまでの日本の教育が、平等と効率性をともにバランスをとって追及してきたと認識した。教育全体をみれば、その認識は決して誤りではないが、しかし、人的能力政策以来、一貫した政策の流れは、効率性の追及に偏していたことは疑いない。その際、平等の追及は、効率性を追及する政策に反対する人々によってなされてきたのである。
しかし、ここでは答申の具体的な細目の検討ではなく、71答申が土台にした60年代の教育がその後大きく変化したことによって生じた、理論的な課題を整理することにしたい。
<註>
- 答申の文章は、『内外教育』(時事通信社)の資料によった。
<高度成長後におきた教育現象>
1970年代以降、日本の教育が著しく変ったことは否定のしようがない。
高度成長が終焉したときに、教育界では大学紛争・学校紛争が激しくおきていた。そして、その後、学校は校内暴力、いじめ、登校拒否へと休むことなく、荒廃の道を歩みつづけることになった。
高度成長が始る頃の教育の現実と、現在とではなんと変ってしまったことか。学校や地域の雰囲気、子どもの学習形態、学習時間、遊びの形態や時間、塾やおけいこごと、親子関係等々。
ではどのように変化したのか。
1 小学校からの人々の分断が進行した。戦後改革によって、学校が多少なりとも社会階層の平等化の機能(所得再分配機能)をもったが、再び学校は社会的階層及び格差を拡大再生産する機能が主要なものに転化した。これは高度成長期の人口移動が、ひとまず落着きをみせ、都市型のエリートの再生産の過程に入ったことによる。
学校を余力をもって無視し、義務教育でなければ学校など行かなくてもよい、という程に学校を相対化し、子どもの発達を他の教育機関に委ねられる層と、パートに出て、落ちこぼれさせまいと必死に努力する層。この断層を埋める「平等化機能」を現在の学校がもっていると期待する国民は、次第に少なくなっている。
学校の授業に関係する分野のほとんど全てに、私的教育機関が存在していて、学校はもはやそれらに対抗する教授力をもちにくくなっている。小学校は、何かを教え、練習する場ではなく、他で学んできた結果を競「コンクール」のような場所になった。
偏差値体制の成立はこのような状況と結び付いて成立した。
2 人々は公教育の中に属しながらも、他の私的な教育機関に属して、自己の欲する教育の内容を補完するようになった。
こうした現象は「ダブルスクール現象」といわれているが、公教育の中での私学の相対的向上も、これと不可分の関係にある。教育産業の巨大化や教育の商品化と呼ばれる現象が進行しているが、子どもや大人の生活が「個人化」されつつある事実と結び付いている。
そして、個人化が逆に商業的に組織された中でしか、何かを学べないようにさせている。
3 生涯教育政策が登場した。
本来教育機能は社会の中にあった。意図的な教育は少なかったにせよ。それが現代の開始とともに社会の中にある教育機能が拡大しはじめる。そして、国家がそれを公教育制度として管理するようになった。しかし、それは青年期の教育までであった。
70年代以降、それは生涯にわたる能力形成の観点からの再編成が志向された。
公的な教育制度中心から、再び私的な教育機能の見直し、また労働力政策の変化にともなう、職業訓練の在り方の変化が起きた。臨教審の答申はその問題意識を鮮明に表現している。
4 国民国家による公教育の組織が、困難になってきた。
60年代に多国籍企業の発展と、労働力の国際的移動があったが、これは人口移動が恒常化し、公教育が国民形成に目的を収赦させることを困難にしている。新興独立国家はもともと単一の文化による教育は不可能だが、先進国も多民族国家化しつつあり、多文化を前提にした教育に移行しなければならない状況が生れている。
<多様化政策への批判理論>
さて91答申の「効率化」という歴史分析の概念は、71答申の提起の用語では、「多様化」という概念に対応していると考えられる。実は、「社会の分化に対応した人材分配をするの学校教育の社会的機能である」という政策を、多様化政策と考えれば、多様化政策は60年代人的能力政策からの一貫した教育政策の基本であり、最も中心的な教育政策だった。
それは依然として、今日でも変化していない。
そこで、まず「多様化」に対する理論の検討をしておこう。
1960年代の最も重要な多様化批判の論者は、宮原誠一であった。
宮原の批判は、先進工業国では50年代後半から、60年代に入って技術革新が進み、その結果、これまでの專門家された技術より適応性のある一般的技術能力とでも呼ぶような能力が労働者に要請されるようになり、そうした能力を育成するということを軸に学校制度(後期中等教育)は統一化の方向に向っているというものであった。
「それは、教育と生産技術との関係という断面にかんするかぎりにおいては、社会体制の相違をこえて、20世紀半ばにおける工業諸国における一般的な動向であるとみてよいだろう。」(1)
そして、宮原は「共通課程」によって学校制度を、統一的にしていくことを提起したのである。実際、当時富山県の三七体制にみるように、多様化の弊害は顕著なものがあった。
ここで
分業批判→共通課程(国民的教養論)→地域の学校
という筋道の発想と、
分業容認(当然視)→職業に応じた課程→多様化
という筋道の発想とが対立していた。これは、多くの場合社会主義と資本主義に対する政治的立場と重なっていた。
いうまでもなく、政策の基本は後者であって、人的能力政策の登場以来、教育政策の基本は「国家による教育管理」と「多様化された高校教育」というテーマに収斂されていた。
多様化は、社会の分業体制に応じて、学校も多様にするということで捉えられていたが、また多様化を批判する論者も、その多様化認識それ自体は同じだった。
しかし、この認識では多様化の本質的批判は不可能である。
第一に多様化の本質認識が誤りであり、そのために、一多様化の矛盾による事態の推移を把握できない。
宮原は体制を越えて、と述べたが、一般的能力という点では確かに妥当するが、その一般的能力の具体的質は、社会体制によって大変大きく異なっていた。そして、それは必ずしも「一般的技術能力」ではなかった。
第二に共通課程と分化せざるをえない分化課程との関係の構想がないことである。実はこの関係こそ多様化政策の矛盾の根源なのだが、共通課程を分化課程に対置するのみでは、この矛盾を解き明かすことはできない。
1950年代の教育政策に対する最も有効な批判の方法概念を提起したのは、堀尾輝久であった。
堀尾の公教育論は批判すべき現状(現代)と古典的市民社会という論理的時代的二分法構造と、それを貫く方法概念としての「三重構造論」を柱としてなりたっている。
1950年代の国家の教育への不当な介入に対する対抗論理を構築することに、堀尾公教育論の目的があった。そして堀尾がとった方法はルソーが当時の貴族社会を批判した方法と、基本的に同じであった。つまり、批判すべき現実と、そこに至る過去を対比し、過去をあるべき状態が保持されていた状態として論理的に構成するという方法である。
堀尾の場合、現状は帝国主義・福祉国家段階の国家教育政策、つまり1950年代の日本の教育政策であり、自然状態は古典近代の思想とその継承である労働者階級の思想である。
国家の教育政策を批判することは、当然のことながら教育法に関わる批判に収飯する。法的な批判は、市民法がもつ民主的な性質を整理することによって可能であることは論を待たない。原則とその逸脱という二分法によって原則を復活させるのが、市民法の方法であって、堀尾公教育論はその教育政策批判としての応用に他ならない。
堀尾によれば、資本主義の教育組織は、支配階級の自已教育組織、支配階級による大衆教育組織、労働者階級の自己教育組織という三つの教育組織があるが、前二者が複線型学校体系として存立し、19世紀に国民教育制度として成立した大衆教育体系は、支配階級の大衆教育が制度化されたものと理解される。
そして、組織的な三重構造とともに、近代の教育思想についても三つの層があるとされる。
第一に、古典的市民社会の近代教育原則。
第二に、市民社会の思想家が同時に資本主義のイデオローグであることからくる大衆教育のイデオロギー。
第三に、労働者教育に継承される労働教育というものである。(2)
さて堀尾の整理する近代教育原則は次のようなものである。
- 子どもの権利の承認
- 親の子どもの教育に対する自然権
- 人間教育を重視
- 内面は私事とする
- 国家の教育に関する権限を限定
- 国家は内面に関わらない
- 自発性を尊重する教育
- 個人指導が理想
この原則は堀尾が自已の問題意識にそって整理したものであるが、ロック的原則である第8項目をのぞいて、コンドルセの理論に基づいている。
公教育を構想したコンドルセの原則の中に、個人指導を最良とする紳士教育論の原則を加えたのは、堀尾の問題意識に基づいている。
つまり、国家の教育介入に対して、単に親の私的教育権を復権させる形ではなく、また異なる公教育を対置するだけのことでもなく、親の教育権を包み込む新たな公教育の論理構成をすることにあったからである。
歴史的事実としては、こうした原則は支配階級の自己教育組織の中に、最も強く反映されている。個々の現実は必ずしもこのようなものではないし、現実の体系的思想としては、異なった教育形態を想定していた。しかし、これらの原則が広い意味での「教育の自由」を前提としているし、支配階級の自已教育組織においては、これらはかなり実現していたと考えてよい。教育の理想を求めた原則と、可能な限り高い教育を自分の子どもに求めることが可能な支配階級の教育は、それぞれの時代において相当な程度重なりあうものであろう。(3)
さて古典近代の原則は現実の公教育としては、現実化せず、大衆支配の論理の現実化として、国民教育制度が19世紀末に生まれる。
堀尾は義務教育制度を成立させたものとして以下の点をあげている。
- 労働者の要求。これは非宗派教育とは異なる科学・世俗教育を求めた。
- 普通選挙による政治的要請
- 技術的・経済的要請
- NELの労使協調主義
- キリスト教社会主義。堕落の防止
- 帝国主義(4)
このことは国家原則の変更を意味し、国家の干渉を理論付ける国家論、新理想主義・新自由主義・帝国主義の国家論がそれであった。(5)
そして国民教育の原則は次のようなものであった。
- 国家による教育
- 人間形成から愛国的な国民・従順な公民の育成
- 中央集権的な教育行政
- 国家が中正の保持者になる
- 階梯的な一元化
- 国家に対する義務
- 義務を根拠とする無償
- 国家が道徳教師に
- 大衆文化による政治的文盲
- 教育の政治への従属(6)
堀尾によればこれらは、古典近代の原則からすれば、まがいものであり、支配階級の自已教育組織とは根本的に異なっていた。
こうして帝国主義時代に入って、教育制度は変化してくる。
堀尾はそれを社会立法・普通選挙・国民教育に代表される国家介入によってもたらされたとし、国民教育については、その本質を義務教育・体系的一元化・社会教育の拡充及び目的の変化として集約している。
さて、帝国主義時代に入って、大きな歴史的流れとしては、単線型学校体系の創出に向かうことになる。つまり、支配階級の自已教育と大衆教育が制度的には一つのものになってくるのである。(7)しかし、その二つは教育的には全く異なったものであり、本来同一の組織にはなりえない。当然のことながら、支配階級は自己教育の中に最良の教育を用意するが、大衆に真に優れた教育を保証することを、支配階級は常に恐れてきた。しかし、帝国主義競争という要請から国民教育の水準を全体的に向上させなければならない状況が生じたのである。
一方、労働者階級は民主主義を求める立場から、教育制度の一元化を求めた。支配階級によって無視された自已教育を復権させることを意図したものであった。
では帝国主義的な一元化と、労働者階級の要求する一元的教育組織とは制度論的にどのうように違うのか。統一学校運動はこの体系的一元化をめざす運動であって、初等教育体系と中等教育体系を一元化することは、堀尾のいう二重の機能を一つの制度の中に含み込むことになる。
ここで理解されるように、堀尾三重構造論が、多様化批判に対してもつ方法的意味は、一元化された制度に内在する二つの矛盾する要素を論理的に示したことである。
もっとも堀尾自身は、体系的一元化が進んだ時、「三重構造」がどのように展開するのか、必ずしも明示していない。中等教育機関がエリート養成機関から、エリート選抜機関へと変化する、ということに尽きている。
堀尾は人的能力政策の進行する時々に、多様化批判を行っている。しかし、堀尾は、三重構造論を、その後の中教審路線たる多様化批判に対して、貫徹して概念として使用していない。『教育の自由と権利』においては、「学校体系の多様化と、その能力主義的再編は、まさに労働力需要にみあった人づくり政策の必然的帰結」と書いて、多様化を労働力需要との関連で捉えているところに留っている。(8)
<註>
- 宮原誠一『青年期の教育』岩波新書 1966 p42
- 堀尾輝久『現代教育の思想と構造』岩波書店 1971 p73
- ただし、ドイツにおいては国家の手によって、支配階級の自己教育組織というべき大学が創設され、堀尾がまとめた古典近代の原則は、ドイツの教育思想では多少異なっていることは、考慮されるべきだろう。
- 堀尾前掲 p69-77
- 同上 p84
- 同上 p145-146
- 現実の義務教育制度が成立した時、堀尾のいう理念としては一元化だったとしても、複線型の学校制度であった。そして複線型学校を単線型学校体系に再編成するのに、ヨーロッパでは半世紀以上が必要であった。
- 堀尾『教育の自由と権利』青木書店 1975 p160
<能力主義批判>
堀尾の方法を意識したところから、多様化批判に一歩踏出したのは乾彰夫である。乾は高度成長以降の能力主義を整理した。乾はまず70年代に成立した「偏差値体制」が、人的能力政策が意図したことなのか否かを問題にしながら、能力主義を二つの概念に分けてみる。
1963年経済審議会の答申によって提起された能力主義は、「個々の具体的労働職業能力の質的違いをそれ相当に位置づける視点を含んだ、いわば多元的能力主義像であった。そして、60年代の後期中等教育多様化政策は、本来こうした多元的能力主義の上にのるものとして構想された」が、「60年代以降の現実の日本社会の展開、とりわけ「企業社会」の展開によって裏切られ」たとする。(1)
そして、実際に70年代に定着したのは、一般的抽象的人間能力を尺度とする「一元的能力主義」であったというのである。
乾が、多様化を支える能力主義に対して、二つの異なる能力主義を対比させたこと、それを日本的経営や労使関係、そして、学校と労働市場との関わりにおいて解き明かしたことは、大きな功績である。しかし、この二つの能力主義の関係認識は、大きな疑問を持たざるをえない。
二つの概念を乾は対立的に設定して、時代的な区分と結び付けているが、そもそも二つの概念が同時に、矛盾的に存在していると見るのが、歴史的にみて正当である。そして、人的能力政策の能力主義が、多元的能力主義だったとするのも、一面的であろう。乾も書いているように、「一般的抽象的人間能力」を尺度とする発想は、ハイ・タンレント論に登場しているのであり、乾はそれを例外とするが、(2)ハイ・タレント論こそ、63年答申の骨格のひとつだったのだから、それを例外とすることはできない。ハイ・タレントの能力構想こそ、能力主義の能力観の中心を占めている。
70年代以降の企業が、具体的労働能力より、一般的抽象的能力を求め、また大人や子どもがそうした発想に支配されたとすることも、無理があるのではないか。
更にヨーロッパ・アメリカが、多元的能力主義社会であるとするのも、肯定するわけにはいかない。一般的抽象的人間能力を測るために開発された「知能テスト」は、イギリスでもっとも多く利用されたのだし、またアメリカでの知能論争は、日本より一貫して大きなものだった。それに対して、日本では、知能テストはいかなる現場でも、重視されているとはいえない。
このような事実との相違が生じたのは、この二つの概念が異なるものであるが故に、同質の社会の同一時期では、一つの概念が機能するという前提に、乾がたっているからであろう。しかし、乾がこの概念設定で明らかにしようとした日本教育の激しい競争的性格は、この二つの概念が、矛盾的するものでありながら、同時に機能すると考えた方が、より正確に事態を分析することができる。
日本の教育が激しい競争的な性格をもっていることは、広く認識されている。それは現代において国家間の競争が、人材競争の意味合いをもってきたからである。日本の教育が世界的にみても、現代の教育制度的特質を顕著にもっていただけでなく、この競争的特質に偏重してもっていたことを示している。
現代社会は次のような理由からエリート選抜の底辺の拡大を目的として、学校制度の改革を実現した。
- 制限された学校制度では、有能な人材を確保できないこと
- 社会そのものが、人材を多く必要とする構造に変化したこと
そして、学校を舞台とした競争が生じた。
身分制社会ではもちろんのこと、産業資本社会のように、特定の地位の人間が、自己階級内で再生産される形態は、現代の人材の必要性に対応できなくなった。そして、人材を広く社会全体から選抜する体制に、徐々に移行したのである。
そこで現代社会では、人材の養成をめぐって、二つの力が働くことになる。
ひとつは、人材選抜を徹底的に拡大し、出生の要素を最大限排除する力である。特にこの点では、現代の主要な組織である「株式会社」の在り方の理解と関わってくる。
現代では会社の主要な形態は、株式会社の形態をとっているが、さらに「所有と経営の分離」という事態が生じたとされている。資本家が経営者である社会では、彼等は自已の後継者を階級内部で再生産した。伝統的な身分学校と結びついて、閉鎖的な学校制度を維持し、その中で自分の子どもや後継者を養成したのである。ところが、「資本と経営の分離」が事実として進行するのならそれ自体問題であるが一階級内部の再生産機構としての学校は無用になり、むしろ阻害要因とさえなる。(3)
しかし、資本主義社会といえども、一旦支配的地位に就けば、万難を排してその地位を世襲させようとするだろう。
エリート学校が支配的な階層で占められている事実が、この傾向を示している。(4)
単なる分業に対応する多様化であれば、かくも激しい受験競争が生じるだろうか。学校が人材配分機構になり、教育機関を通じて職業の選択がなされるにせよ、日本の青年全体を巻きこむような受験競争は、こうした多様化認識では、説明できないのではないか。
一元的能力主義と多元的能力主義、あるいは一般的抽象的能力と具体的労働能力とは、社会の分業体制と階級性とに対応している。資本主義社会が、階級社会であり、また高度に分業の進んだ社会であるかぎり、この二つの概念は共存するものである。
しかし、ひとつの制度はひとつの制度理念をもたなければならない。堀尾の言う体系的一元化された制度では、一元化された制度理念をもつ必要がある。
<註>
- 乾彰夫『日本の教育と企業社会』大月書店 1990 p39
- 同上 p73
- 北原勇『現代資本主義における所有と決定』岩波書店 1984.3.31 p9
- 同上 p10
<公共性の問題>
70年代から80年代にかけて進行したダブルスクール現象や、臨教審の「自由化論」は、公教育の解体につながるという批判意識を呼起こした。(1)
したがって「公共性」概念をここで検討しておく。
複線型の体系では、それぞれの体系が固有の理念をもっており、それはおおざっぱな意味で階級的利害を反映していた。つまり私的な性格をもっていた。
しかし、ひとつの制度に統合する論理の中では、それは国家の制度であることも影響して、かならず「ひとつの理念」をもつべきであると構想される。つまり公的性格をもつべきとされるのである。
19世紀末期に先進資本主義国において成立した国民教育制度、つまり義務教育制度はそれまで、個人のことがらとされていた領域に国家権力が介入するという点で、社会国家構造の転換を意味するものであった。
国家が国民の生活に徐々に浸透し、また人間にとっては国家の中にある一定の位置を占めることが、人間としての存在観を生み、幸福になるという様々な理論が生まれた。むしろ多くの社会理論が多かれ少なかれそうした理論的傾向をもった。
堀尾はそうした構造の変化を理論づけた国家論として、理想主義国家論、実証主義をあげているが、これは一方で公共性の意味変化をもたらした。
「公共性」という概念は古来様々な意味で使用された。
いまごく常識的に「公共性」を定義して、「人間が社会的存在として生活する上で必要な共同資産及びその公開性」と言っておこう。近代において社会的に蓄積された教育制度は、それが公立学校であろうが、私的な教育組織であろうが、そうした「共同資産」であり、形式剛こは公開されていたという意味で「公共性」をもっていた。
複線型学校体系では、支配階級の自已教育組織は、公教育というより私生活圏に属することであり、多くの場合「教育の自由」が保証されていたとしても、多くの場合形式的には、誰にでも公開されていた。もちろん実質的には「授業料」という壁があったが。
しかし、国民教育制度は当初から、「公教育」と認識され、国家の介入はより強い形で現れた。(2)
国民教育制度は、国家権力によって組織され、それが公教育と等置されるようになった。その時、公教育は人間の育成から「公民」の育成へと目的を変化させたというのが、堀尾の把握であるが、はからずもその「公民」とは国家の構成員であった。ここにおいて概念の上で、公共性・公民・公教育の「公」は国家によって一致させられることになった。(3)
しかし、この過程で逆に教育の共同財産的性質は次第に薄れ、先にみたように私的競争の手段となってきた。公共性の「公開性」原則は、この段階で大きな意味をもつようになり、「選抜制度」の発達として現実化したが、それは私的競争を助長するものであった。
公教育が国家によって掌握された時、それは新たな制度の創出でありながら、支配階級の私的利害を代表したものであり、それに対する運動も、多くの場合国家によって無視された「公共性」の追求ではなく、労働者階級の私的権利を追求し、その集積として全体の権利が充足されると観念された。
つまり労働者の運動の中では、公共性概念は支配層の概念だった。
それに対して、マルクス主義者として比較的早くから、公共性について指摘していたのは、持田栄一であった。
持田の公教育本質論は、人権カテゴリーが軸になっていた。近代社会においては、法的には平等であるが、現実的には不平等であり、かつ多様化・階層化している。ここに教育制度の矛盾を求めている。
持田は義務教育制度について、次のようにまとめている。
- 能力の全面的開発のための基礎的・総合的教育が課題であるが、実相は労働力商品形成工場である。
- 形式的に機会平等だが、内実は資本主義の現実において見られる階層型の労働力要請に応じた形で多様化・階層化されている。
- 管理・経営が企業におけるそれと同じようになっている。
- 教育の「社会化」が教育を資本に従属させ、「国家」支配の下におく。(4)
そして、現代を迎え、科学が高度化するに従って、かつての部分人では役立たなくなり、全面的に発達した人材が労働力商品として要請され、その結果学制の実質上の単一化を「部分的」にはかるというのである。(5)
ここに見られる「公共性」の意味は、能力の全面開花と実質的平等と把握することができる。
しかし、教育制度の単一化は決して全面的に発達した人材養成を目的としていたわけではないし、まして実質的平等を志向していたわけでもない。つまり人権カテゴリーによって、公教育制度を把握する持田は、「形式的平等と実質的不平等」を「形式的単一と実質的多様化」という制度把握に結びつけるため、制度としての単線型学校体系が、実質的平等であり、社会主義への一歩であると捉えられるのである。
ところでかつての社会主義国家でも、学校体系は単線型とは言えないところが多く、更に理論的にも、必ずしも単線型を主張していなかった。例えば旧東ドイツのキーニッッは統一性と多様性について次のようにまとめていた。
- 統一性の原理は、全ての者に平等な教育と全面発達を保証するものである。
- 多様性には、統一性を破壊する資本主義的な多様性と、統一性に即応した社会主義的な多様性がある。後者は科学技術と社会の発展に応じて、専門家への準備を行うものである。
- 多様性は社会の分業に基づくものであり、一般教養の分化がそれを促進する。(6)
ここに見られる論理は、社会主義が進展するにしたがって、学校制度は多様な形になっていく、というものである。
社会主義国家の存在そのものが疑われている現在、教育の分野で「何故社会主義は敗北したか」を問う必要があるが、その一つは、社会主義の教育制度論が、資本主義国において、多様化の問題に取り組んでいるような、理論的緊張が欠けていたこと、そして、資本主義的多様化と社会主義的多様化の共通性と異質性が、明確に示されているわけではなく、安易な理論的優位性に寄りかかっていたことを指摘しておくべきだろう。
持田の論理の検討でわかることは、制度的平等が実質的な意味を持ちうるためには、それを可能とする内容の核が必要であり、その具体的な内容は何かを明らかにすること。そして「平等」という概念は、十分な概念であるか否かが問題となる。
乾が指摘した「一般的抽象的能力」の内容を問うことである言ってもよい。
<註>
- 例えば深山正光・山科三郎・佐貫浩『臨教審答申をどう読むか』労働旬報社 1985
- しかし、全ての点で国家が介入していたわけではなく、教育内容などは多くの場合、かなり自由であった。したがって、公教育=公権力による教育というような定義は歴史的事実に反する。相良惟一『教育学大事典』(第一法規)の解説参照
- ハーバーマスによれば、市民的公共性は「公衆として集合した私人たちの生活圏」であるが、これはむしろ私的生活圏に属することであり、今日の公概念と同じではなかった。「公共性」概念は、市民革命更に帝国主義を経て、変化してくる。ハーバーマス『公共性の構造転換』細谷貞男訳 未来社参照
- 持田栄一『学校の理論』国土社 1973 p115-117
- 同上 p138-145
- Werner Kienitz "Einheitlichkeit und Differenzierung im Bildungswesen" 1971
<教育の自由>
さて公共性にある意味で対立する概念が、「教育の自由」である。臨教審が「自由化論」を打出した時、それを公教育の解体とする批判があったことにも現れている。
「教育の自由」は価値観・世界観の問題であるとともに、経済的土台の問題であった。支配階級は自己の費用で、何等他の人々の制約を受けることなく自分の子弟に教育を与えることができた。しかし、労働者階級はそうした意味での「教育の自由」を主張することはできない。また教育が国家的に組織された大規模な学校制度の中で行われるようになると、支配階級でさえ自分で費用を賄うことはできなくなっていく。ここで「公共性」の意味転換とともに、「教育の自由」の意味転換も起きる。
牧は「教育の自由」を次のように整理していた。
- 教育を特定の階級から解放すること
- 学ぶ者の自由を基礎とする
- 教師の自由とともに、教師集団の自律を意味する
- 親の教育選択の自由を意味する
- 国民が一定の条件のもとで、学校を設置する自由
- 教育内容編成に国民が参加していくこと、教育を共同して創造していくことの国民の自由(1)
ここでは支配階級の自己教育の自由は、まったく歴史的意味を終焉させられている。そして教育の自由をめぐる様々な位相が、構造化されている。個々の要素を切り離して教育の自由を論じ、ある特定の要素を強調し、別の要素を否定することはできない。
しかし、にも拘らず古典的な意味での「教育の自由」が、形態を変えて日本で復活しているとも評価できる。タプル・スクール現象がそれである。
高度成長後、日本の教育をめぐる状況が大きく変化したことは、既に述べた。それは高度成長が作りだした条件によって生じたものである。
大学の大衆化に象徴されるように、教育を国民の多くがく自分の意思で、自分の費用で受けることができるようになった。もちろんそれは、教育の商品化や受験地獄という大変大きな弊害を伴っていたし、又深い理解の上で上級の教育を受けているのか、又社会の趨勢に押されたに過ぎないのではないか、という問題を提起することは可能だろう。多くの青年が大学に進学し、大学が拡大したことは、生涯教育の要となり、労働力政策の変更の基礎条件を作り出した。そして、教育全体を競争原理で支配する要ともなった。臨教審の描く競争によって組織された「生涯学習社会」の条件も大学の拡張が可能にしたものである。
しかし、それまで望んでも不可能だった上級の教育を、自分の費用で受けることができるようになったこと自体は、大きな意味をもっている。臨教審の「自由化論」がこうした事態の変化に対応した動きだったことは疑いない。
ではこの商品的形態をともなった「教育の自由」は何を提起しているのか。
国民が自分の意思で、自分の好む教育を、以前よりは自由に選択できるようになったとき、本質的に協同的なものである教育が、協同性を疎外する商品形態をとったそのメカニズムと意味が解明されなければならない。
つまりダブル・スクール現象に隠された教育における個人の分断化と協同性の関係が、問われる必要がある。
<註>
- 牧柾名『国民の教育権』青木教育叢書 p107-108
<何故統一学校運動なのか>
さて堀尾に戻ろう。堀尾の公教育論は、何よりも1950年代以降の国家の不当な教育への介入に対して「教育の自由」を擁護するためのものであった。
特別権力関係論に支配された教育行政は、歴史に類をみないような「教育荒廃」をもたらした。銘記すべきことはそうした荒廃が、誰も気付かない事態の進行だったのではなく、当時既に多くの教育関係者その他によって批判されていたことである。
しかし、教育に対し外から加えられる圧力、反教育的な力というものは、必ずしも国家からだけ出たのではなかった。特に60年代に進行したもう一つの政策、人的能力政策は教育と社会の関係を大きく変えることによって、教育に対する社会的なカを増大させたのである。多くの親や子供が受験競争に否応なく駆り立てられた。
しかし、これまで検討したように、そのような教育に対する社会的なカというものは、教育制度が国家的に統一され、国家教育制度が全社会的な広がりを持ち始めてから、既に生じていたと考えられる。
そして、これまでみたように、高度成長期以後、確実に教育は変化しつつある。しかし、その本質はまだ混沌としているように思われる。
更に、高度成長までの教育の制度的本質は、多様化批判に見られるように、まだ不十分なままであり、不十分な視点からの、現在の個性化批判がなされているのではないかと思われる。
そこで本論文は、高度成長までの教育が何だったのかを、改めて検証する課題に取組むものである。もちろんその理論的課題は、これまで述べた、何が現在の教育的課題を生んだかの析出にある。
さてこれまでの検討から明確なように、多様化の本質的な問題が、複線型の学校体系が一元化することによって生じたことと考えると、当然検討はその発生時代から始める必要がある。それは歴史学上「現代」の開始とともに、そして、制度論上は「統一学校運動」によって生じたのである。
では現代とはいかなる時代なのか。またいつをもって「現代」とするのか。
ここでは「現代」を、世界が政治・経済において緊密な関係のもとに結び付けられ、他の国から孤立して生活したり、他の状況の影響から逃れられることができなくなった時代として、「現代」を捉えることにする。
そうした状況は第一次世界大戦の結果決定的になった。
第一次世界大戦後の世界は、帝国主義と新興独立国、資本主義と社会主義、帝国主義国間の争いを含みながら、一方国際連盟による協調も進行する等、世界が一つの有機的結び付きの下に成立したのである。
現代はどのような特質をもった社会なのか。
1 第一次世界大戦後、全体として世界が政治・経済において緊密な関係のもとに結び付けられ、他の国から孤立して生活したり、その影響から逃れられなくなった。
ロシア革命、国際連盟の成立によって象徴される第一次世界大戦後の世界は、帝国主義と新興独立国、資本主義と社会主義、帝国主義国間の争いを含みながら、一方国際連盟による協調も進行する等、世界が一つの有機的結び付きの下に成立した。
2 政治的・軍事的にアメリカ及びソ連の覇権を軸とし、ベトナム戦争の敗北やアフガン侵攻の失敗によって、その覇権的地位が動揺した。
3 経済的には国家独占資本主義が、主導権を握った時代であり、アメリカの経済力がそれを支えた。アメリカの援助によるヨーロッパの復興から、ドルショックによるブレトンウッツ体制の停止までを、そうした時代として把握することができる。
4 社会的には、大衆が登場し、大衆が政治に影響を行使した。ナチスに代表される「大衆国家」の出現と、大衆運動の登場がこれを象徴する。
5 共同体が分解し、人々の生活の基礎、そして、労働力の再生産機能が家庭に拡散する一方、人々の生活の平均化、均質化がもたらされた。ナチスはそれを強制的に、政治的に推し進めようとしたが、産業の発展による消費生活の進展によって、徐々に人々は同じスタイルの生活をするようになった。
6 科学技術が社会の中で、重要な要素を占めるようになったが、その推進力は基本的には軍事技術であった。1980隼代以降、民事技術が科学技術の推進力になっていくが、これは明確に社会の変化を前提にしていた。
7 民族自決権の確認と、民族独立の時代である。旧植民地国の独立はほぼこの時代に集中している。しかし、従属論の登場や新国際経済秩序論の失敗などに象徴されるように、民族自決論は今新たな論理構成が求められている。
これらの社会的な特質は、いずれも教育の重要性を喚起することになり、したがって教育が大きな社会的意味をもつことになる。それは以下のような特質をもつ。
1 社会機能のあらゆる部分に教育機能が入り込むことになったこと。教育という行為が社会生活のすみずみにまで行き渡り、一方で教育制度としての自律的な営みも増大した。
2 教育が国力増強と国民統合の重要な基礎であることが、政策的に強調された。その結果社会のあらゆる面にまで浸透した教育を、国家的社会的に、統一的な視点から把握する必要が生じたのである。
3 社会が分化している限り、教育も分化せざるをえない。教育制度は、国民の統合と分化という矛盾した機能を包含することになった。これは制度的には、初等段階をひとつの学校類型としてまとめ、中等以降を分化させる体系を成立させた。
4 工業の量的質的な拡大によって、世襲的には補充できない様々な職種が現れ、そうした職業につく上で、教育が有力な手段になってきた。それが国民の間の進学要求を増大させた。
5 今世紀に入っての科学革命の影響を受けて、自然科学が次第に教育の中で比重を増した。そして、工業を中心とする国力の競争が、自然科学教育を拡充させた。
以上のような課題に取り組んだのが、先進国に共通に現れた統一学校運動であった。この点をふまえて以下統一学校運動の検討に入ることにする。
(2)統一学校運動の評価と前史
<統一学校運動のこれまでの評価>
統一学校について、わが国では戦前文部省が詳細な追跡を行い、阿部重孝や皇至道などの教育制度研究者が研究していた。しかし、戦後になって研究者の関心は急速に低下し、漠然とした印象を残す程度になった。そして高校全入運動の中で教育の機会均等を求める運動として、引合いにだされたことがあった。それも詳細な検討を経たものではなかった。
そうした状況であったから、統一学校運動をめぐる評価は、必ずしも定まっているわけではなく、主体や継承すべき遺産について、評価は大きく分かれているといってよい。
梅根悟の評価は、教育運動の中での代表的なものである。
統一学校運動には、いろいろの理論的実践的根拠が付着しており、ドイツの場合、それはこの運動の有力な主張者であるデウスが掲げた標語、『一つの民族、一つの学校(Ein Volk, Eine Schule) 』が物語っているように、ドイツ流の民族主義や国家主義の立場からの主張によって、彩られ粉飾されているけれども、統一学校制度を現実に求めているのは、上級学校への進学の機会をはばまれている労働者大衆の子弟たちであった。統一学校運動は現実には、下からの教育の機会均等化運動であった。」(1)
すなわち、「統一学校運動」が「教育機会均等化運動」であり、その担い手は「労働者階級」であったとする。
次の成田克矢の見解もほぼ同趣旨であろう。
第一次大戦後の民主主義的思潮の高揚が、中等学校の大衆への開放を志向させる気運をつくり出したのである。(2)
戦前の阿部重孝も同様の立場である。阿部は統一学校の原則を次のように書いている。
世界戦争後に於ける中等教育改造問題の中で、各々の先っ注意すべき事は、ドイツが従来の貴族的・階級的学校組織を廃して、統一学校の理想を実現したことである。(3)
そして統一学校について次のように説明している。
1 統一的基礎の上に、それ以上の学校を有機的に建設すること。
2 全ての児童は同一の学校で基礎教育を始めるが、其後に於いては児童の能力と成績によって色々の道を執る可能性が与えられる。(4)
つまり、阿部にとっては統一学校とは、階級的学校を捨てて、社会的地位、世界観、宗教によって差別されないことであった。
以上のような評価は、統一学校運動を「教育機会均等」を求めるものと解するものである。もちろん「機会均等原則」をどのように理解するか、極めて大きな問題であるが、ここでは立ち入らないことにする。
一方、中野光は、ワイマールの教育体制がファシズムに道を開くものであったことを強調し、SPDがブルジョアジーと結んで統一学校の原則を裏切っていく過程を分析しているが、そこでは「統一学校」を国民統合の手段とみることになる。しかし、ここでは逆に、労働者階級の教育運動、学校の統一性を要求する闘いは無視され、「統一学校運動」の教育実践の側面ともいうべき「新教育」のみが取り上げられている。(5)
つまり、一方では、労働者階級の運動としての統一学校運動が強調され、他方では、帝国主義段階における支配層による、複線型学校体系の克服の試みとしての統一学校運動が強調されている。
このような評価の相違は、ドイツでも同様であり、東ドイツと西ドイツでは、やはり対象まで含めて異なった位置づけがなされていた。東西ドイツの教育学事典をみると、東ドイツは、ギュンターであり、西ドイツはシュタールであるが、ギュンターは、労働者階級の要求の発展として統一学校の歴史を捉え、東ドイツの「普遍的総合技術上級学校」によって実現されたとしており、シュタールは、ケルシェンシュタイナーやデウスを中心として「徹底的学校改革者同盟」の構想にその到達点を見出している。そして、ワイマール憲法の不充分性や戦後の西ドイツの学校制度はあまり問題とされていない。
学校の統一性をめぐって、階級闘争が激しく闘われ、それをいかなる立場で継承するか、ということで位置づけの相違があらわれのるであるが、今日の時点でその遺産を継承する場合、もう一度当時の論理的対立点を整理・分析することが、継承を豊かに行うために必要であるように思われる。
但し、確認しておかなければならないことは、第一次大戦後、「統一学校運動(Einheitsschulbewegung)」と称されていたのは、デウス、ケルシェンシュタイナー、ナトルプ、ラインなどをイデオローグとする運動であり、「ドイツ統一学校連盟」や「ドイツ教員連盟」「徹底的学校改革者同盟」を指していたのであり、多数派社会民主党まで含めて考えることができるが、ドイツ共産党は、「統一学校運動」の批判者であり、みずからは「学校の統一性(Einheitlichkeit der Schule)」を対置することで、統一学校を主張したことである。
第一次大戦後、こうした統一学校をめぐる対立、諸潮流は国際的にも社会主義勢力によって正確に把握されていた。エドキンテルンは、ドイツについて相対立する立場を峻別して捉え、ケルシェンシュタイナーの統一学校理論を鋭く批判していた。(6)
また、クルプスカヤは統一学校について次のように論じている。
社会的身分、地位によらず、誰にでも学校を開放するという統一学校は、それ自体民王的な学校制度である。――それでは何故ケルシェンシュタイナーのような民主主義に敵対する教育学者が、かくも熱心にこの制度を宣伝するのであろうか。
このようにクルプスカヤは問題を設定して、近代科学の発達によって、帝国主義がこの制度を要請するに至った、と書いている。
広範な層の、知的で熟練し、自立的な労働者をつくりだすという現在の帝国主義的要請が、最近の全ての学校改革の基礎である。(8)
更に「才能ある者は発見されるだけでなく、形成されなければならない」(9)という極めて重要な指摘を行っていたのである。この指摘は統一学校が論議され、実現されていく過程と、その社会的基底を考察する際、不可欠の示唆を与えるものである。
クルプスカヤがケルシェンシュタイナーのような人物が、何故統一学校を主張するのか、と問題にしたことは当然であり、正当なことであった。ケルシェンシュタイナーはウィルヘルムU世治下のドイツ帝国の賛美者であり、またテウスはドイツ教員組合の指導者であったが、その綱領は労働者階級の力で実現する、という認識を排除していた、とかつての東ドイツでは評価されていた。(10)
しかも、彼等は決してただ単に「統一学校運動」を『粉飾』したり、あるいは高所から論じていたのではなく、運動を担った中心人物なのである。
いうまでもなく、エドキンテルンやクルプスカヤの叙述は、労働者階級の側からの統一学校を求める意図で書かれている。
また、逆の立場からであるが、戦前日本の文部省も「統一学校運動」を体制的改革として理解しており、労働者階級の運動とは決して考えていなかった。(11)
以上のようにみてくるなら、統一学校を求める運動について、労働者階級の運動であったと一面的に規定することは、誤りであるばかりでなく、それでは、労働者階級が当時何を問題とし、何を求めていたかを正しく把握することはできないであろう。統一学校をめぐる諸階級の理論、運動を動態的に把握することが不可欠なのである。
1970年代も後半になり、講談社から『世界教育史体系』が刊行され始めると、多少状況が変化した。統一学校運動はこの企画の中で大きな位置を占めて叙述されている。したがって、統一学校運動を巡る事実が再び研究者の記憶によみがえったといえる。しかし、梅根編集ということからくる制約であろうか、先の評価問題が解決されるような研究がなされてはいない。つまり、現在の多様化を巡る理論的問題を解明するのではなく、個別的な運動の状況が叙述される域を脱していない。この問題が現代社会の変化と共に生じたものである限り、社会の変化と大きな教育政策の変化との関連の中で、多様な側面が究明されなければならないのである。
<註>
- 梅根悟『世界教育史』p416
- 成田克矢「学校の成立と発展」小学館教育学全集13『学校と教師』所収 p60
- 阿部重孝『阿部重孝著作集7』 p106
- 同上 p88
- 中野光「ワイマール共和制下の教育とナチスによる教育の変革」『近代教ダ育史皿』
堀尾の評価も基本的にこの立場にたっている。
19世紀末以降のフランスにおける中等教育改革の問題、ドイツにおけるアインハイトシューレの問題等も、それぞれの国状に応じたユニークな問題をかかえてはいても、それが国家の政策にくみこまれたときには、中等教育を大衆へ開放しつつ、ビエラルヒッシュな社会秩序を維持するという体制の要求に利用された点で共通しているといえよう。」堀尾前掲 p105
- 'Das Problem der Einheitsschule' in "Die Lehrer-Internationale" Jg.4 1926 s11−13
- N.K.Krupskaya 'Zur Frage der Einheitsschule' in "Jahrbuch für Erziehungs- und Schulgeschichte" 1972 s257
- a.a.O. s258
- a.a.O. s259
- K.G&ounl;nther "Geschichte der Erziehung" 1969 s422
- 文部省教育調査部「独逸に於ける統一学校思想」『教育調査彙報』第八巻第四号昭和10年4月
<前史>
次に、対象を分析する前に、前史の概略を整理しておきたい。
「統一学校」理念は、コメニウスにまで遡ることもできるが、公教育の場面で主張されたのは、フランス革命であった。(1) 統一学校の父としてコンドルセがフランスで言われるのは、自然なことである。しかし、フランス革命では純粋に理念として主張されたに過ぎない。
教育運動や労働運動の中で、組織的に主張されたのは、1848年の革命の年に、アイゼナッハにおいて「普遍的ドイツ教員会議(Allgemeine Deutschen Lehrerversammlung)」で、「幼稚園から大学までの統一性」を主張したのが始まりである。アイゼナッハの宣言は次のようなものである。
- 様々なドイツの学校の全ての教師の団結
- ドイツ国民的一宗教倫理的な国民教育を促進するために、秩序のある学校教育制度をつくり、発達させること。
- 未来の学校制度は、「幼稚園から大学まで統一的に分岐し、共通の人間的一民族的基礎にたったドイツ国民学校が、他の国家組織と等しい権利と義務を有するものとして、全国家組織の中に導入される」としていた。(2)
ドイツにおいてはフィヒテの国民学校(Nationalschule) が一つの源流であるとされている。(3)
しかし、いわゆる「統一学校運動」として活発な動きが始まったのは、1886年に「ドイツ統一学校連盟(Deutschen Einheitsschulverein)」が設立されて以降のことである。「ドイツ統一学校連盟」は「実科ギムナジウム(Realgymnasium)」の教員を中心として作られ、いわゆる「学校戦争」の中で、実科ギムナジウムとギムナジウムを統一的な学校制度の一環とすることを主張した。(4)
そのスローガンは次のようなものであった。
全てにギリシャ語を教えることを保持しつつ、ギムナジウムと実科ギムナジウムを内的に統一する。(5)
ただし、この時点でも中等学校の統一について、三種類の中等学校を平等にするという案(ラテン語・英語を必修、フランス語・ギリシャ語を選択という形での平等化 Budde の主張)、下級段階だけ統一すればよいという意見があり、既に主張は多様であった。(6)
一方中等学校とは別の方面で、教育は確実に拡大してきた。小学校後の学校の増大と、そうした学校の水準を上げようという試みである。アントン・ジッキシガー(Anton Sikkinger)は1895年からマンハイムの視学になったが、そこでいわゆるマンハイムシステムを作った。それは、
- 普通学級(Normalklassen)
- 促進学級(Förderklassen)
- 優秀学級(klasse für besondere Begabten)
- 援助学級(Hilfsklasse)
という種類に分けるものであった。(7)
ハマンハイムシステムは、むしろビネーの知能テストがそうであったように、遅れた者に対する有効な授業を行うことを意図したものであったが、しかし、統一学校の案に取り入れられるにしたがって、3の優秀学級が広まることになった。それがドイツ上級学校に引き継がれていく。
一方19世紀末、統一的中間学校の主張もあらわれた。学校改革者同盟(Verein für Schulreform)のフリードリッヒ・ランゲが中心に主張した。(8)
その後ナトルプ、ラインなど教育学の大学関係者も加わり、「ドイツ統一学校連盟」の1887年の第一回大会で次のような内容の確認がなされた。
- 実科ギムナジウムとギムナジウムは学問的職業の準備教育として、統一学校の一環とする。
- 実科ギムナジウムは現代外国語を履修とし、ギリシア語を含まない。
- 教授計画と教授方法の改良が急務である。
- ギムナジウムと実科ギムナジウムの合併ではなく、いくつかのギムナジウムを創設する。
すなわち、「ドイツ統一学校連盟」の目標は、あくまでも中等学校の下級段階を統一的カリキュラムにしていくという水準での合意に留まっていた。国民全体の教育の平等という観点から、複線型学校体系を克服していくというところにはなかった(9)
それに対して、社会民主党は1904年のブレーメン会議で、世俗的・統一的学校をスローガンに加え、1906年のマンハイム党大会で、国民教育について論議が行われ、労働者階級の運動の中にも、統一学校の要求が自覚された。
そして、以上のような動向と共に、統一学校の問題は、教育関係者の最も主要な議論の一つとなり、当然教員組織も取り上げるようになった。
1906年のドイツ教員組合(DLV)の決議は次のようになっていた。
- 宗派混合学校(Simultanschule)においては、教育内容は全ての宗派の子どもが共通に教授されるが、宗教教授は宗派にしたがって、分かれて行われるものと理解される。
宗派混合学校の教師団体の構成は、可能な限り生徒の宗派のあり方に相応させるべきである。
- 宗派混合学校の導入の反対者によってもたれている宗教一倫理の関係は、経験によって誤りが証明されるだろう。というのは宗派混合学校は倫理・宗教教授を促進し、生徒に対し異質な信念の善を教え、宗教の義務に対して愛や忍耐を形成するからである。
- 宗派混合学校の制度の問題は、宗教的というより、国民的・社会的・教授学的なものである。宗派混合学校を通して我が民族の国民的な統一が、最も適切に表現され、宗派同権国家、共同体の忠実な姿であり、その本質や要求に即応したものである。
- 諸宗派が混在して住んでいる全ての地域では、宗派混合学校が教授的にも優れたものである。
a 十分に発達した学校制度である。
b 少ない財政で少ない宗派の子どもによりよい教育が可能である。
c 最も近い学校に通うので、学校の楳健を充足するのが容易である。
- 宗派混合学校を認可していない全ての郡で、少なくとも宗派学校と同等に扱うように要求する。
- 宗派混合学校には、宗派を取り混ぜた教師養成機関と、国家により行われる専門的な学校監督が前提となる。(10)
また1914年「ドイツ教員連盟」はキール大会において以下のような要求を宣言した。
ドイツ教員連盟は、組織的に分岐した国民的統一学校(National Einheitsschule)を要求する。それは、統一的な教師層を不可分の前提とし、分岐する場合は、社会的・宗派的なことがらを顧慮しない。(11)
尚、この時ケルシェンシュタイナーが統一学校についての講演を行った。
こうして統一学校をめぐる問題は、戦後大きな問題となったのである。
もっとも、ドイツ教員組合の中でも要求が一致していたのではない。ザウペはキール大会では、宗教に関して対立があったとしている。(12)
統一学校の要求は地域的な教員組織によっても、掲げられていた。ケーニヒスベルクの教員集会の決議は以下の通りである。
- 予備学校の廃止
- 4年間の国民学校(Volksschule)に全ての児童が通う
- 能力(Fähigkeit)と性向(Neigung)による進学 (13)
こうした統一学校の主張は、戦争によって一気に国民的な世論となった。国民的な統一性が痛感されたからである。そこから「一つの国民、一つの学校(Ein Volk, eine Schule)」というスローガンが生まれた。
統一学校の性質を、当時の理解において整理しておこう。
ザウペによれば、次のように整理される。
- 国民学校から大学までの、教育課程の統一性
- 親の社会的・経済的地位を顧慮しないこと
- 親の宗教を顧慮しないこと
- 国民学校での教育課程の相違の除去
- 教師の地位の統一性
- 全ドイツの学校行政の統一性
- 国民教育の内容的統一性(14)
またラインは次のように整理していた。
- 個々の部分が、内的に捉えられ、生き生きとした関係をもつこと
- 国民的文化の進歩に寄与すること、親の地位に依らないこと
- 共通基礎学校(Allgemeine Grundschule)を設立し、個人的才能による進学とそのための試験
- その上に三種類の学校が分岐する。(15)
クラスメーラーは次のように整理している。
統一学校は国民の生活条件であり、宗派的分裂のない学校が必要であるが、歴史的位置、教育的位置、社会政策的位置、経済的位置という4つの面から位置づけられる。
しかし、基本的には統一学校によって階級対立を減少させようという社会政策的な側面でクラスメーラーは統一学校を主要に意義付けている。(16)
ノールは基本的に教養の問題として捉える。
教養が実際的・社会的・人文的教養に分化してきたことに対し、教養の統一あるいは教養の平等を求める運動として実践されたのが「統一学校運動」になる。(17)もちろん様々な案がだされ、外国語やラテン語の問題、年数の問題など多岐にわたっているが、基本的には次のような要素を含んでいるとする。
- 民族統一を求める。したがって、階級的・宗派的差別を廃止する。
- 上から下まで統一的な精神で組織する。
- 平等であり、内的に統一された教員層。(18)
しかし、ノールは教養の二律背反的性格に、統一学校の困難性を見ていたに違いない。(19)
<註>
- Scheibe "Reformpädagogische Bewegung 1900−1932" 1974 s255
- Scheibe a.a.O. s258
- Scheibe a.a.O. s257
- 「学校戦争」とは古典(ギリシャ・ローマ文化)を全人的教養の中心とするギムナジウムや大学と、実学を取入れていこうとする実科学校の間の争いで、ギリシャ語、ラテン語、現代語の履修や大学入学資格をめぐって長い間争われた。結局、実科ギムナジウムや実科高等学校も大学入学資格を認められるようになるが、その後ドイツ上級学校、上構学校などが新しく問題になってくる。皇至道『独逸教育制度史』参照
- Saupe “Die Einheitsschule mit besonderer Berücksichtigung des Aufstieg der Begabten" 1919 s11
- Saupe a.a.O. s12
- A. Messer "Pädagogik der Gegenwart" 1925 s139
- Messer a.a.O. s144
- Rein "Enzykropädische Pädagogik"
- Scheibe a.a.O. s260−261
- Saupe a.a.O. s13
- Saupe a.a.O. s13
- Saupe a.a.O. s13
- Saupe a.a.O. s14
- Saupe a.a.O. s17
- W. Krassmöller "Nationale Erziehung" 1919 s11−17
- ノール『ドイツ新教育運動』平野正久・大久保管・山本雅弘訳明治図書 p162
- 同上 p172
- 同上 p173
(3)本書の構成
本書の構成について若干説明していおきたい。
本書は現代社会における教育制度の最大の問題である「統一性と多様性」について考察するための、統一学校運動についての研究であり、統一学校運動固有の歴史研究を意図したものではない。したがって、統一学校運動が行われたドイツ、フランス、そして同様の問題意識を中に含んだ中等学校拡大運動の行われたイギリスを対象とし、詳細な専門的歴史研究であることより、課題をできるだけ広い範囲で究明することを意図した。この三つの国の教育運動は、互いに意識しあいながら進められたものでありながら、それぞれの国の状況の差を反映して、運動自体が少しずつ異なった面をもっていた。つまり、共通性と異質性を合わせもっている。
統一学校運動は政策的な実行を伴う運動でありながら、大戦間には十分に実現しなかったため、思想的な意味も強くもった。
したがって、制度改革の事実を分析する第一部と思想分析を行う第二部とに分けた。
第一部は制度改革の事実史的分析になるので、国別に章を設定し、思想分析を行う第二部は、思想の階級的性格によって分類した。
第一部では、大戦後のそれぞれの国の固有の状況を考慮しながら、制度改革の実現過程を明らかにしようとした。各節に課題とまとめをおいたのも、そのためである。一方、先進国としての共通な課題もあり、当然同じ様な過程をとることも多かった。ここではそうした同様のできごとも、煩雑にならない範囲で、重複を厭わず書いた。
第二部では、堀尾の三重構造論が、現代において制度的に変化する形態に応じて、三つに分けた。統一学校というレベルでは、支配階級の自已教育組織と、支配階級による大衆教化組織は、制度的には一体化していく。したがって、思想的に見ても、その二つに分類されるのではなく、「統一学校」を支配階級の立場で論理付ける思想と、労働者階級の立場から論理付ける思想とが現れる。そして労働者階級の自己教育思想とが、対立することになる。
第一章第二節のナチスの政策分析の章が、量的にも質的にも他と比較して多くなっている。これはナチスの制度改革というものが、通常の制度改革と異なり、個々の有力者やイデオローグの分散した試みによって進行し、制度と思想が際だって癒着していること、またそうした中でナチスの教育思想を代表する人を特定することも困難である、という事情から、第二部に入る内容をも第一部に含みこませたからである。