ファウスト2 2003.7.14

今回二度目のヨーロッパ留学を決意したのは、前回10年前の留学で学校選択の問題を考えるためにオランダ研究を行い、その後の展開で、博士論文における「社会における統一化と多様性」の関係性の問題とがつながり始めたので、様々な個人の、あるいは社会の選択の場面を現場で考えてみたかったからである。
 私自身の一貫した問題意識は、個人は自己の個性にあった「場」(多分エリクソン流に言えばアイデンティティ)を社会の中に確保する、つまりその場を「選択」する。しかし、社会は分業体制に応じて、個人を「場」に当てはめていく。つまり、「選抜」をする。社会の構成が単純で身分制が支配している場合には、こうした選択及び選抜は行われない。生まれたときに社会における場は決まっているからである。
 しかし民主主義社会になって、生まれによって社会の場は規定されないことになり、個人の選択に委ねられることになった。そして、社会の構造が複雑になればなるほど、この選択と選抜の関係は複雑になる。そして、選択と選抜はまず調和することなく、不調和が生じることになる。つまり、ある「場」に多数の個人が選択を希望した場合に、その場につける者は限られる。また、社会の側で必要な場に選択をする個人が少ないという逆の場合もありうる。こうして、選択と選抜の問題は、学校や社会組織の機能を基本的に規定する要因となり、かつ問題を引き起こす。
 この場合、選択や選抜がどのような原理で行われるのが、社会にとって、また個人にとって望ましいのか、という「原理」の問題と、社会が選抜をする「技術」と個人が選択をする「条件」や「能力」の問題がある。
 この20年近く、私は学校選択の問題を考えてきた。そのきっかけは、「いじめ」問題を教育制度の問題として解決に近づける方法はないものかは思ったことだった。要するに、いじめを教師が解決できなければ、被害者たる生徒は逃げるしかない、学校選択制度が実施されており、自由に転校もできれば、とりあえず自殺はしなくてもすむのではないか、そして、そうして生徒が転校する体制があれば、教師はもっと真剣にいじめ問題に取り組むのではないか、という考えたわけである。そして、国全体として学校選択が可能になっており、また、学校選択を保障するために、自治体が学校を複数あるようにする義務を負っているオランダに注目したわけである。たしかに、オランダではいじめはあるが、いじめによる自殺というのは、聞いたことがないようだった。づまり、いじめが深刻化することを防ぐ「制度」があるわけだ。
 こうした問題意識が次第に発展し、そもそも「選択」というのは、人間にとっていかなる意味があるのかと考えてみると、「権利」の基本にある概念であることが容易にわかる。単純に言えば、権利とは、「こるあことを選択することができる、またしないこともできる」という状態である。「しないことができない」のであれば、それは「義務」である。
 日本では、教育を受ける権利があるが、受けないことはできないから、実質的には「義務」なのである。しかも、義務教育では通う学校を指定されるのだから、ますます「義務」性が強まっている。
 そうした「権利」「義務」性だけの問題だけではなく、そもそも選択するという行為は、条件が与えられれば、簡単にできるものなのだろうか、という問題が次にくる。
 義務教育でも学校を選択できるようにするという案は、最近はいくつかの自治体で実施されるようになってきたが、まだまだ反対論が多い。特に教師の間ではほとんどが反対論であると言えよう。反対の理由は、いろいろとあるが、選択を可能にするといっても、親は表面的な評判によって選択するのだから、かえって子どものためにならない、学校側がきちんと教育すれば、選択など不要だ、というのが「有力」な反対論である。これは直接的に「選択能力」を問題にしている。選択能力のない人間に選択させると悪い結果になるというわけである。
 これはおそらく二つの検討課題を提示する。
 選択能力のない人間には選択する権利はないのか。もし、ないとすると、選挙権そのものが無意味となる。選挙権というのは、選択能力を問題としない。すべての大人が、選択能力があるとはとうてい言えないから、選択能力のない者もある者も、平等に権利があるのが民主主義であるとすると、選択する権利は、選択能力とは別問題と考え必要がある。これが一点。
 次に、今仮に選択能力がないとしても、ではどうやったら選択能力は形成されるのか、という問題である。
 ある人たちは、「愚行権」という概念を措定した。つまり、人間は決してよりよい選択をしなければならないわけではなく、愚かな選択をする権利もあるのだ、というわけである。輸血を拒否する権利や予防注射を拒否する権利などが、愚行権で合理化される。
 しかし、本人が輸血を拒否するなら愚行権の範疇であろうが、子どもの手術で親が拒否するとしたら、愚行権では済まないだろう。
 確かに、愚行権の概念は、選択能力の有無を問題としない点で、民主主義的原理に合致するが、適切な概念とはとうてい思えない。
 選択の結果を常に修正できる条件が整っていることが大切なのではなかろうか。最初の段階で学校の選択を謝ったとしても、それが間違ったとわかった時点で、学校を変えることができれば、悪い結果をさけることができるし、そうした過程を通じて、選択能力が形成されることが十分に期待される。

 私が足立区で学校選択の委員会に関わったときに、学校選択には賛成した校長も、途中転校の権利は強く反対した。つまり、途中で生徒の移動があると、学校経営の計画がたたないというわけである。たしかに、そうだが、では何故オランダではそれが可能になっているのか。
 おそらく日本の場合にネックとなっているのは、厳密なクラスの人数管理である。基準が40人であるとすると、全体で41人いると2クラス編成で出発することになるが、4月にでも1人転校していなくなると、40人になるから、1クラスに戻さなければならない。こんなことはもちろん教育的に非常に問題である。人数が変更となって、基準を超えたとしても、学年途中であれば変更する必要はない、という規則になっていれば、校長たちもそれほどこだわらないのではないかと思った。
 
 どちらがいいのか。もちろん、途中転校も認めることが、子どもにとっての利益であろう。よく民主主義は選挙であるが、選挙民が主人公なのは、選挙のときだけだ、と言われるが、学校選択も、最初の選択だけが認められるのならば、選択可能にすることによるメリットはあまり現実化しない。選択を可能にするのは、親や子どもが学校の質を常に意識できるようにすることである。あるいは質を高めることを意識化といってもよい。