ファースト1 2003.7.14

 この間ワイマールに行く機会があり、また、地元の近くの古い都市であるクローナッハというところで、野外劇のファウストを見た。これはとても興味深いものだったので、書いてみよう。
 私が今住んでいるのは、バイエルン州の東北の端のようなところで、お互いにバイエルンとテューリンゲンが突き出しているようなところにあたる。だから、少し行くとテューリンゲンになる。これはとても重要な意味をもっていて、バイエルンは元西ドイツ、テューリンゲンは元東ドイツであるので、国境だんだわけだ。そして、ワイマールには、85号という道路をまっすぐいって、2時間ほどのところにある。ちなみに、ここらの道路は高速や専用自動車道路でないと、市外部分に入ると速度を落とす義務があるのて、距離のわりに時間がかかる。だから、2時間といっても、そんなに遠くではない。ワイマールはテューリンゲンの州都にあたる中心地である。しかし、東ドイツの時代には、世界には開かれておらず、ほとんど訪れることは不可能であったので、あまり日本には知られない存在になってしまった。
 ワイマールは私にとって、今までは「ワイマール憲法」が制定され、ワイマール共和国、つまり大戦間ナチスが政権をとるまでのドイツの中心都市であった。そうした歴史が身近であった。しかし、実際にワイマールに来てみると、憲法よりもゲーテ、シラー、ヘルだーという詩人、古典は文学の拠点としての意味を、都市自体が押し出していた。また、音楽としてもリストがワイマールオペラ劇場の監督をしており、その間ワグナーのオペラをいくつか上演したということで有名でもあり、音楽院があるのだが、その名前はリスト音楽院という。つまり「芸術の町」という雰囲気を漂わせている。観光地としても、ゲーテが中心である。学生諸君にとって、「ゲーテ」という存在が身近なものだとは思えないが、少なくとも私が学生だったときには、まだまだ「ドイツ語」は大学における語学教育の中心であったために、ゲーテはかなり意識させられる存在であった。今は、第二外国語自体が必修ではなくなっているので、ドイツ語を勉強する人は非常に少ないし、また、時間数も限られているから、原書を読めるようになる人は、ほとんど皆無に近いだろう。少なくとも我が大学においては。
 また、一般に古典的な書物を読む雰囲気が乏しくなっているから、ますます遠のいている。もっとも、私がまだ人間科学科の一学科体制だったときに、生涯教育概論という授業をもっていて、それは必修科目でしかも通年の授業だったので、今とはかなり異なることをやっており、そのなかで最初の課題として、「ビルドゥングス・ロマン」を一冊読んで、レポートを書くという課題を毎年だしていた。最初の反応は、「ビルドゥングス・ロマン」って何?という決まったものだったが、みんな一生懸命読んでなかなかのレポートを書いてくれた。ビルドゥングというのは、ドイツ語で英語のビルディングにあたるが、人間の形成を意味する。昔は「教養小説」と訳されていたが、(というのは、ビルドゥングは教養という意味ももったいたので)幼いころから老年に至る生涯を小説化したもので、その間の成長を描くものなので、形成小説というのが、適切だろう。そして、最初の代表的なビルドゥングス・ロマンを書いたのが、ゲーテであるために、このころは、ゲーテを読む人も少なくなかった。もちろん、人間科学部の学生のことだ。
 興味のある人は、ゲーテの「ウ゛レヘルムマイスター」やロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を読んでみてほしい。ヨーロッパの最高峰の文学の一端に触れることができる。
 さて、何故ワイマールがゲーテの町なのかというと、ここのアウグストという領主がゲーテの文学を深く愛していたので、政治顧問として招待し、人生の重要な時期をワイマールの政治家として過ごしたからである。ゲーテは若いころから詩人、作家としての才能を開花させ、学生時代には既に有名であったのだが、父親がフランクフルトの市長であり、ゲーテにも法律方面に進むことを強く望んだので、ゲーテはいやいや法律関係の勉学をし、とりあえず法律的な仕事を生涯していたのである。ゲーテほどの天才が父親の意向にそって、嫌なことをするというのも、不思議なことではある。ただ、アウグストはゲーテを法律家として尊敬していたのではなく、あくまでも詩人・作家としてであるから、表向きの仕事は政治的な仕事であっても、創作のための最大限の配慮をされていた。そういう意味で、裕福な家庭に育ち、早くから才能を開花させ、尊敬を集めた一生を送ったという意味では、非常に幸福な天才であった。
 しかし、興味深いのは、ゲーテ最大の傑作である「ファウスト」は決して人間の幸福を表現しておらず、一見幸福に見える人の「不幸」を徹底的に追求している作品だということである。
 ファウストは古い伝説であるが、それをゲーテが若いころにフランクフルトで実際に見聞した、若い女性による「子殺し」事件と搦て再構成した戯曲である。
 ファウストは、優れた学者、博士であり、ありとあらゆる学問を極めたと自他ともに認めているが、それに対して虚しさを感じている。学問を極めて一体何になるのか、自分はそれで幸福になったのだろうか、と自問するわけである。そこに、悪魔のメフィストが現れ、ファウストの魂と何でも好きなものを交換しようと申し出る。そして、ファウストは「若さ」を手に入れる。
 今ここにテキストがないので、詳しいことは書けないのだが、とにかく、若さを手に入れたファウストは、若く美しいグレートヒェンに恋をし、愛し合うようになるが、母親に隠れて会うために渡した睡眠薬を、グレートヒェンは間違った量の薬を母親に飲ませて死なせてしまう。それを知ったグレートヒェンの兄が怒ってファウストに立ち向かうが、メフィヒトが返り討ちにし、そしてファウストとメフィストは逃げる。しかし、既にグレートヒェンはファウストの子どもを妊娠していた。絶望したグレートヒェンはその幼い子どもを殺してしまう。そうして死刑になるのだが、その間メフィストはファウストを饗宴に誘い出し、その悲劇の進行から目をそらさせる。そうして最後の瞬間にファウストはグレートヒェンを見放してしまい、メフィストの勝ちとなるところで、一部は終了する。
 このあと、ゲーテは生涯をかけて二部の完成のために努力するのだが、最終的にファウストに救いをもたらす結末を容易するのだが、この一部は悲劇として終わるので、それだけ考えさせる要素が多い。
 さて、この公演だが、なかなか興味深いものという側面と、少々がっかりした側面があった。ファウストという戯曲は、ドラマであると同時に歌あり、踊りありの総合芸術という側面が強い。有名なシュタイナー学校を創設したシュタイナーは「オイリュオトミー」という新しい舞踏分野を開拓し、今でもシュタイナー学校の重要な教育内容を形成しているが、シュタイナーはオイリュトミーを最終的にはファウストをより自分の理想に近い形で上演するために考案したのだった。
 だから、ファウストを上演するときには、踊りや音楽をどうするのかが、大きなポイントになり、最近はポップス調の音楽をいれるような上演がけっこうはやっている。これも新しい試みなのだろうが、今回の上演は、そういう面で不満足なものだった。舞台は即席の野外のものだったので、木が何本が植わっている草の上で行われ、声はマイクで拾われてスピーカーから流れたから、よく聞こえたが、歌の場面は少ないだけではなく、伴奏もマイクもなしなので、実に味気ないものだった。踊りは一度だけ、素朴な伝統的な踊りを数名で踊っていたが、子どものやるフォークダンスのようなものだった。
 グレートヒェンが糸をつむぎながら歌う場面は、シューベルトが作曲した歌で有名だが、この場面も簡単な歌を短く、マイクなしで歌って、歌わないわけにはいかないな、というのでやった、という程度のものだった。
 では、劇そのものはどうかというと、興味深いと思ったのは、悪魔のメフィストを女性が演じたことだ。そして、女性が演じたが故の面白さも十分にあった。この上演ではメフィストは終始出ずっぱりで、最後のカーテンコールは一番最後、つまり主人公として扱われていた。そういう意味ではかなり斬新なのだろう。
 ファウストで一番有名なセリフは、メフィストがファウストの学生に言う「理論は灰色で、実践こそ緑」という言葉なのだが、それを、学生がファウストに問いかけると、メフィストがファウストに覆いかぶされるような形になって、いかにもファウストが答えたかのように、メフィストが答えるという演出をしていた。これはなるほどと思った。このセリフは、いかにも、実践が大切だというように、多くの人たちに「引用」されるのだが、それは間違っている。あくまでも悪魔メフィストのセリフなのであって、この線でメフィストと契約したファウストは悲劇に遭遇するのだから、非常に複雑な文脈で使用されているのである。
 全体として、総合芸術的な要素よりは、演劇としての分かりやすさをねらったようで、原作には多分ないと思われるグレートヒェンが子どもを水につけて殺す場面をながながと見せたり、死刑になって首を群衆が高く掲げると、黒子に引かれてグレートヒェンの魂がファウストを見ながら、下界に行くというような場面になっていたり、そういう意味で「筋」を理解するのには、よく配慮されていたように思った。ドイツ語だから、もちろんあまりわからないので、そういう意味では分かりやすかった。
 解説を読むと、確かに分かりやすくするために、省略をしたり、あるいは新しい場面を追加したりということが書いてあり、また、セリフも現代風にアレンジしてあるようなことも書かれている。
 しかし、本来4時間はたっぷりかかる劇を1時間半でやったわけだから、相当な省略があり、もっと完全版もみたいと思っている。

 さて「ファウスト」の魅力とはなんだろうか。
 最も強く惹きつけるのは、人間の中にある相剋した人格の葛藤が描かれていること、自分の意図したことが、違った方向に進んでいくことの難しさを考えさせるからであろう。
 まったく違った話しだが、ギリシャ神話とギリシャ悲劇に有名な「エディプス」という作品がある。神の御告げで、自分が父親を殺し母親と結婚することになると教えられたエティプスが、それを避けるためにわざわざ家を出るが、後年敵と戦うことになり、勝利して相手を倒すが、それが父親であったことがわかり、更にまた後年愛し合って結婚した相手が母親であることが分かるという物語だ。つまり典型的に自分が避けようとして努力していることに、落ち込んでいくという運命を描いたのだが、愛し合っているのに結局、母親と子どもを殺してしまうことにあるグレートヒェンと、同じことを考えさせる。これは、ファウストが最初に思い悩んでいること、つまり、知識を増やせば人間幸福を得られるのか、という問題へのひとつの解答としての結末となっている。
 思い悩んでいるファウストに、メフィヒトが入り込んでくるのだが、もちろんこれは、ファウストの中になるふたつの相剋する人格を、別々の人物に当てはめていると考えられるだろう。このような手法は、いろいろな作品に見られる。トルストイの「戦争と平和」には、アンドレイとピエールという二人の非常に性格の異なる友人が登場するが、これはトルストイが自分の人格の両極端をそれぞれの人物に当てはめたのだと言われている。
 日本の私小説は自分をそのまま描くという伝統があり、自分を分析的に二つの人格に分けて衝突させるという手法は、あまり取られないようだが、この手法は、臨床心理学などにとっても、多いに参考になるち違いないと思った。