ドイツで 2003.6.29

ドイツに来た
 今はドイツにいる。シュトックハイムという非常に小さな村で、バイエルン地方の北西部の端にあり、チューリンゲンとの境にある。チューリンゲンというのは、東西で分かれている時代には、東に属していたので、東ドイツとの境ということになる。ここの人によると、500メートルいくと旧東ドイツであるという。そこがどこであるのか、厳密にはいまだに分からないのだが、あそこがそうだろうというところがある。
 ここに来るときに、スウェーデンから来たのだが、まずメルンというスウェーデンの一番南の方の大きな都市から、デンマークに高速でわたり、そこから、コペンハーゲンのある島の南端からドイツに渡るフェリーに乗ってドイツに行った。このフェリーはオランダからドイツを通ってデンマークに行くときにも、利用したものだ。約1時間。
 もっとも、フェリーにほんの数分で乗り遅れてしまったので、次のが来るまで、約40分ほど待たされた。ヘルジンガーほどには頻繁にフェリーがない。やはり、デンマークはドイツとではなく、スウェーデンとの関係が強いということなのだろうか。
 ドイツの北端のようなところに着くのだが、そこから、ハンブルグの近くを通って、7号という高速をずっと南下、途中、ヒルデハイムというところに一泊することになった。ここは、古い大学町ということで、なかなかホテルが見つからなかったのだが、結局最初にここにしようかといって、通りすぎたところにしたのだが、それが非常に安くてりっぱなホテルだったので、満足した。そして、その日がなんの日だったかわからないのだが、祭(たぶん大学の修了の日?)で、遅くまでカフェーがあいていて、たくさんの人が飲んでいるので、我々もドイツのビールということで、ずいぶんと飲んだ。
 やはりドイツのビールはおいしい。
 そして、翌日、7号を更に下り、カールスルーエを過ぎて、4号にはいって、エルフルト、ゴータなどという、社会主義の歴史からみると懐かしい町を通って、枚マールだ高速を抜け、85号という自動車道路をずっと南下して、シュトックハイムに入ったわけだ。この85号というのが、チューリンゲンからバイエルンにまっすく南下して抜ける道で、シュトックハイムのある部分は、ちょうどバイエルンがチューリンゲンに半島のように突き出す形で、入り込んでいる地域なので、東ドイツに半分囲まれているような地形になっている。だから、ずんと旧東部分を通って、旧西地区に入るわけで、その相違は、10年前にも非常に強く感じたのだが、今でも旧東部分と西部分とでは、かなりの相違がある。つまり経済的格差が建築物の清潔感に歴然と現れているのである。

 何故このような格差が生じてしまったのだろうか。もともと、西部分は工業地域を含んでいたという相違はあるが、東部分もなんといっても、ベルリンなどの首都を抱えていたわけであるし、またドレスデンやライプチッヒなどの歴史のある有名な都市を含んでおり、出発の時点で既に西が優位であったとは言えない。
 つまり、明確に東西の分裂の時代にこの格差が生じ、そして、統合された今でも、基礎的な格差がいまだに残っているということなのだ。

 先日テレビで1953年におきたゼネラルストライキの問題をさかんに放映していた。これは日本ではほとんど知られていないので、まったく知らなかったのだが、1952年ころからベルリンを中心とした労働者が経済的な不満について、表明するようになり、53年に至ってゼネラルストライキを組織したのだが、ソ連が軍隊をもって介入し、4000名ほどが逮捕され、1000名くらいが有罪となり、そして、20名は死刑判決を受けたという事件で、ちょうど50周年ということなので、犠牲者を忍ぶ式典が開かれ、シュレーダー首相なども列席して、行われた。それも含めてさかにんテレビで放映されたわけである。
 しかし、非常に驚いたのは、ストライキをしたことに対して、大量の処刑をもって弾圧するというのは、近代的な国家では考えられないことであり、その政治的なまずさは、その後の東ドイツの停滞を象徴するように思われるのである。この事件についてはよく分からないので、もっと調べてみようと思う。

 ソ連や中国は社会主義革命が起きたときに、高度に発展した経済体制をもっていなかったわけだから、ある程度「割引」が可能であるが、ただ、東ドイツだけは、既に高度に発達した経済体制をもって社会主義社会に突入し、少なくとも社会主義陣営の中で、優等生と言われた実績があるのだから、このように、統合されて10年間も間を縮めることができないだけではなく、ますます開いてしまうような体制となった「原因」は、冷静に分析される必要があろう。

 ストライキをした人たちを罰するというのは、もちろん、基本的な人権が認められていないというだけではない。人権を認めない「政治」あるいは「政治家」の意識の質の問題がある。
 いかなる政治体制であっても、人々の、少なくとも消極的な支持がないと、その政治体制は長く続かないということは、政治学の常識である。そして、ぞんな政治体制であっても、すべての人が満足することはなく、どんなに優れた政治体制、社会体制であっても、少数の不満をもつ者がいる。そうした不満が、表面にでるのがよいのか、あるいは、出ないのがよいのか。それこそ、その政治的体制の質を表現するものだろう。

 私がオランダに注目するのは、こうした不満が表面に出る方がよいのだ、という強い政治的信念があるからである。それは特に麻薬問題に現れている。不満が表面化することを、極端に嫌うということは、その政治体制が自身の体制に対して自信がないことを示している。それは人の問題としてではなく、体制の問題としてもそうである。民主主義が多数決をとるということは、少数意見があることを、最初から前提にしていることを示している。意見の相違があることを、最初から前提しているのが、民主主義であるということは、民主主義は、政治体制として安定していることである。事実、民主主義が強固になって、それが倒れた事例は、今のところ存在しない。ワイマールとか、チリなどは民主主義が強固だったとは到底いえないであろう。

 もちろん、民主主義の中にあるファシズムというのも、現代の大きなテーマであるから、絶対とは言えないだろうが、少なくとも歴史的にはそういうことが言える。

 次に、そうした不満をどのように対処するのか、という問題がある。不満をもつだけの人間と、不満を表明する人間とは、どのように違うのだろうか。少なくとも言えることは、表明する人間の方が、活動的であり、多くの場合優れた資質をもっているということである。ストライキを起こす、そしてリーダーになるということは、その人が優れた人材であるこどう示す。逆に言えば、そうした人材を処刑するということは、優れた人材をその社会の中で活用できないということに他ならない。これは二重の不利益をその社会にもたらす。第一に、優れた人材を活用できないという、極めて単純な側面と、第二に、優れた資質をもつと、その社会で阻害されるという意識を人々の間に広め、その結果として、人材がそもそも育たないという結果をもたらす。人材を育てる社会システムというものがあるとすれば、人材を活用することは、その第一歩であることは、誰も否定しないだろう。

 53年に社会主義ドイツが、ストライキのリーダーを処刑したことは、社会主義ドイツが、人材の活用を拒否したことに他ならない。そうした社会が停滞さぜるをえないことは、歴史的に疑いない。

 オランダでもうしひとつ注目すべきであるのは、政治的な圧殺が、歴史的にほとんどなかったという点である。フォルタインの暗殺が300年ぶりであるということにもよく現れている。逆にいうと、オランダは今危険な時期なのかも知れない。

 何故フォルタインが1991年の夏の段階で、翌年の総選挙に出馬を表明し、コックが必ず引退する、我々が勝利するというような宣言をすることができたのか、単なるはったりではなかったわけであるから、その根拠はなんだったのだろうか、と考えていたが、ひとつの解答があった。
 それは1991年の9月に国連人権委員会の報告書が出されたのであるが、もちろん、その内容は既に少なくとも数カ月前から話題になっていただろうし、また、フォルタインのような人物はその背景も理解していただろう。オランダに対する人権委員会の報告はふたつに絞られている。ひとつは安楽死であり、ひとつは、スレベニカでのモスラム虐殺事件に対するオランダ軍の関与についての調査要請である。つまり、オランダ軍は調査されるべき問題があると国連が表明したわけである。そして、結果として、コックは責任をとって、次の総選挙にでないことを表明して、引退。フォルタインの予言は当たっただけではなく、フォルタインが暗殺されたにもかかわらず、フォルタイン党は圧勝したのである。
 しかし、この暗殺に対するオランダ軍の対応は、それほど問題だったのだろうか。むろし、フォルタインは、その後の内閣の対応に問題があることを、理解していたのだろう。