オランダの大学

                                       文教大学教育研究所紀要 第3号 1994年

1 はじめに

 私は1992年9月から1993年8月まで、オランダに海外研修の奇怪を得て、オランダの教育について体験する機会を得た。常々私は、教育研究においては、生活感覚のレベルでの理解が不可欠で、特に外国の教育を研究する場合に、単に資料を使用しての研究に限界を感じていた。歴史研究の場合には、生活感覚を共有することは不可能であるが、現在の教育を研究する場合には、やはり、最大限実際に生活と教育そのものを体験することができれば、資料等だけではななかなか分からないことに触れることができると考え、2人の娘たちを現地の学校に入れた。私の文教大学での担当科目が「国際教育論」であるので、全く言葉を理解しない段階で入学した娘の体験は、非常に貴重なものであった。(1)
 又私自身も、研究の機会を与えてくれたライデン大学の講義に出てみた。
 本稿はこの体験を踏まえたものを中心とした考察である。
 オランダ人にとって、オランダの教育は非常に誇りに思う社会的制度である。ライデン大学の日本学科の学生で、日本で働きたいという希望をもっている若者がいたが、しかし、それも子どもが生まれて、小学校に入学する年齢までだ。というのは、教育は日本で受けさせたくない、と言っていた。これは、日本をよく知るかなり多くのオランダ人の共通した感覚であるように思われる。
 日本人で、日本の教育に誇りを持ち、外国に暮らしても、日本の教育がすばらしいから、教育は日本に帰って受けさせたい、と思う大人はどれだけいるだろうか。もちろん、海外赴任している日本人の子どもの多くは、日本式の教育を海外でも受け、受験期にあると、父親一人を残しても日本に帰ってくる。しかし、それは、日本の教育がすばらしいと考えているからではないだろう。
 オランダ人はナショナリズムの感情が比較的少ない国民であるように感じたが、、いくつかのに社会システムについては、愛着をもっていて、教育はその代表的なものである。 オランダ人の好きな言葉に、「紙が地球を創ったが、オランダを創ったのはオランダ人だ」というのがある。周知のように、オランダは国土の40%が埋立地であり、人口の多くは埋立地に住んでいる。通常は住めない土地である。オランダ人は、人為的に創られた土地に、人間が住みやすいように創った環境の中に住んでいる。家屋も厳重な建築規制の下に建てられ、一度建てられた建築物は、建てかえることは難しい。また、森や運河、牧草地、そして、都市は計画的に設定され、人口密度が非常に高い国であるにも関わらず、実際には、人口稠密な印象は受けない。ひろびろとした空間の中に、豊かな生活を営んでいる。
 国土そのものを人為的に創った国民であるから、そうした社会を成立させる基本になる教育について、非常に原則的に組織されていることは、用意に想像できるだろう。


2 オランダの教育の自由と大学

 オランダ教育は、世界でもっとも自由な教育であると言われている。制度だけではなく、教育の内容に関しても、自由は徹底している。政府がある程度のガイドラインを示す場合でも、また、国家的な範囲での試験が実施される場合でも、それが、決定力をもたないように、慎重に配慮されている。
 オランダの教育の自由は、憲法によって保証されており、「学校設立の自由」「学校選択の自由」「教育内容・方法の自由」とから成っている。
 「学校設立の自由」については、一定の人数を集めれば、いかなる宗教的背景、いかなる教育理念であっても、国家の決めた科目の時間数をこなすことを条件に、公費助成がなされ、公立と私立の差はない。体育や芸術系の教科は市の共通施設などを使用するので、学校設立のための条件は高くはない。日本で学校を設立するには、文部省や知事の認可を得るまで、高い基準を満たさなければならず、かなりの資本投下が必要になる。しかし、オランダでは、極端に言えば、マンションの数室を借りて小学校を始めることも可能である。
 「学校選択の自由」に監視は、オランダにおける進学は、その学校類型の前の段階を修了していることだけが条件になっており、入学試験など存在しない。同一類型のどの学校を選択するかも、完全に親と子どもの権利である。
 一方、学校や教師は、非常に大綱的な基準の枠内で、どのように細かい教育内容を教え、いかなる方法をとるかは、学校の教師が決めることであり、そして、一端受け入れた生徒から、その学校類型に相応しくない生徒を退学させる権限を有している。
 つまり、学校選択の自由と学校の自由とは、そのようなバランスをとっているのである。
 さて、当然教育の自由については、各段階でその意味や現れ方が異なる。小学校や中等がについては、別に書いたので、ここでは大学について触れることにする。
 オランダの高等教育は、WOと略称されるWetenschapen Onderwijs (大学) と、高度で専門的な職業教育を行う高等専門学校 HBO とから成る。小学校の教師を要請する教員要請学校 (PABO)は後者である。
 大学の役割は3つある。教育・研究・知識の地域への還元である。地域への還元とは、代表的には病院の機能があげられるが、その他、公開講座、図書館の利用、諸施設の利用などがある。
 さて、基本的に大学は、学問的教育、つまり、学術研究の場である。高等専門学校のような職業教育を行う機関ではなく、原則として学者の要請機関である。しかし、実際には学者になれる者は少ない。
 課程は4年の前期とその後の4年の後期課程に分かれるが、前期の卒業論文は Doktrandus といって、修士相当の学位としている。以前は6年で書くことが原則であったが、1982年の法改正で4年で提出可能になった。しかし、修士相当の学位という位置づけを、長く保持することができるかは疑問である。
 後期は博士論文を書くための課程で、実際には決まったカリキュラムは存在しない。恵まれた者は、助手契約を結んで、最低限の学生指導をしながら給与を支給され、一方で研究を続けるスタイルをとる。4年で提出資格を得る。(参考までに、私が滞在中に博士論文の審査中であり、その後パスして出版した日本人研究者がいたので、博士論文について、詳細に聞くことができた。私の経験では、日本では、論文を提出して、事実上の結果が出るまで、1年以上かかり、その間、執筆者本人とは連絡がない。だから、論文について審査員と論議する場は、保証されていない。間違った読まれ方をしても、いわば問答無用である。しかし、オランダでは、5人の審査員が決定されると、執筆者が一人ずつ出向いて、論争をするのだそうだ。審査員が不十分であると認定した場合には、しばらく時間をかけて書き直し、それで了解を得ることもできる。そうして、論争しながらOKをとっていく。4人OKを取れれば、合格になるシステムになっているという。審査員がどうしてもオランダ国内にいない場合には、外国人に頼むが、その場合には、旅費や滞在費はすべて大学持ちで、審査のためにオランダに来て貰うそうである。どちらのやり方が明朗であり、若い研究者の成長にとって望ましいから、いうまでもない。日本でも、学位論文の改革が進んでいるが、質の問題ではなく、こうした審査過程の問題も改革していく必要があると思われた。)
 オランダには14の大学があり、1校が公立、3校が私立で、残りが国立大学である。アムステルダムのカトリック大学のよにう、宗派を冠している大学もある。もともと、私立と公立・国立の概念があいまいなので、その違いはほとんどない。
 大学への入学は、基本的にはVWOを卒業すると全国どこの大学にも入学することができる。また、高等専門学校(HBO)の卒業でも大学に編入することができる。
 オランダの高等教育の進学率は役30%であるが、大学進学率は6%であり、大学の概念も異なるが、極めて少ない。まだまだエリート教育機関としての地位を保持している。
 さて、私が所属したライデン大学は、オランダのもっとも古い大学であり、ヨーロッパ有数の歴史をもった大学である。その創立はオランダの独立戦争に由来する。スペインからの独立戦争で勇敢に闘った俳壇の市民に対して、オラニエ公がお礼をしたいという気持ちを表明したのに対して、市民が大学が欲しいと要求して建設されたと言われている。因みに、そのときに開設された講座は、ラテン語4、ヘブライ語1講座だったそうだが、その最古のヘブライ語の講座の現在の教授は、日本人である。
 最古の大学だけあって、古い建物を利用しており、漸次拡大していったために、古い学部の場合には、明確な大学としての区域がなく、通常の民家と同居している。
 
3 高等教育の大衆化と経済的負担の矛盾

 オランダの高等教育も大衆化しつつあるが、学生は現在でも、厚い保護がなされている。生活費の支給や交通機関の利用援助(年間わずかな金額で無料パスが支給される。)などと、パートナーとの同居の場合(日本流にいとう同棲)住居手当ても支給される。
 このような制度ができたのは、大学への進学が親の経済力によって左右されることか防ぐためである。つた、大学生1年生の年齢である18歳からは、ヨーロッパでは成人する年齢であり、オランダ人は18歳になると親から独立する。多少の援助を受けても、住居も別々になるのが普通である。だから、たとえ親の言えから大学に通うことができても、下宿することになる。(2)
 週末には頻繁に親の家に帰り、一緒に過ごす習慣になっている。無料パスは、この週末帰省に役立っているわけで、無料パスを廃止すると、この家族形態にも、何らかの影響がでると見られる。
 つまり、大学生は「大人」であり、しかし、生活の糧を得るための労働についていないから、失業者と同じ境遇にある。
 それで、大学生には生活費や住居手当てが支給されるのである。
 1992年度で月額1000ギルダーだったが、その中から、2000ギルダーの授業料と60ギルダーの交通パス料金を支払うことるなる。(いずれも年額)
 もちろん、どんなに質素に生活しても、この金額で生活することはできないから、親から援助を受けるか、アルバイトをすることになるが、援助しない親もおり、また、原則としてアルバイトは禁止されている。(しかし、実際には普通に行われている。)
 さて、この援助は、オランダ経済には重い負担になってきた。
 財政負担の観点から、文部大臣のリッツェンはふたつの政策を提案した。
 ひとつは親の収入に応じた授業料の設定である。(3)
 親の収入に応じて学生への財政援助を区分しようというリッツェンの提案に対して、CDAとVVDは賛成で、PvdAは反対と、連合政府の政党はこの点で意見が分かれた。
 リッツェンはこれで5億ギルダー節約できると計算している。(オランダの大学でも、学生が納める費用は、親の経済力で決める、というのが、この奨学金支給以前の形態だったようだ。)
 ただ、次のような意見も根強くある。
 「オランダの教育は「平等」とう原則をとても大切にしている。大学に行くことで、お金がかかるとすると、貧しい人は大学に行けない。国家からの支給で大学の費用や生活費用を賄うことができれば、誰でも大学に行くことが可能になる、従って今回の親によりかかるような制度は間違いだ。」
 しかし、大学に進学する学生は、ほとんどが社会の上層の出身であることは疑いのないところで、貧しい親の子どもはあまりいない。もちろんだからといって、「平等の原則」を捨てていいわけではないだろうが、社会の仕組みとして、貧しい親の子どもは、大学には行きにくい状態があることは、間違いない。そうした現状で考えると、上層の親の子どもに、国家が生活費を支給することは、大学に行かない人たちにとっては、とても不愉快な制度なのではないかと思われないわけにはいかない面もある。
 ごき点について話をした2人の学生に、君たちは大学に行かない人たちに対して、この制度を維持しなければならない理由を、どのように説明するか、と聞いたところ、それはとても難しいと明確な答えはなかった。
 もうひとつの提案は、交通無料パスの廃止である。オランダは、学校にしても職場にしても、住んでいるところからごく近くにある。通勤通学で自転車を利用する者が、かなりいることでも、それはわかる。
 無料パスを制度化したときに、通学に交通機関を利用しない学生がかなりいかるから、60ギルダーの支払いで、終始がとんとんになると計算して、文部省と国鉄が協定を結んだのだが、旅行好きのオランダ人学生は、週末の帰省と休暇中の旅行に、無料パスをふるに利用したために、国鉄側では、大きな中路を負うことになった。それで、国鉄側からの値上げ提案に応じる形で、無料パス廃止が提案されたのだが、これは学生の大きな抵抗にあい、ハーグのデモが組織されたり、ライデン大学では学生が建物を占拠するに至った。
 1993年度は多少の妥協がなされたが、方向として、無料パスの段階的廃止に向かうことは間違いないだろう。
 財政切り下げの影響は教官にも現れている。教官は、教授・助教授・講師・助手に身分上分かれているが、給与はその身分に固定されており、原則として昇給しなければ、給与も上がらない。
 ところで、教授は高い経済条件を保証されているが、これも財政難から、教授職に給与の違うランクを設けて、安い給与の教授職を作ったのが、数年前である。
 
4 市場原理と水準の維持の矛盾

 オランダの教育制度は、大学も含めて、入学は前段階の卒業資格で許可し、定員という概念で切ることはしないが、その学校の水準についていけないものは、退学させる方法で、水準を保っている。特に「水準」を極めて厳重に求められる大学では、途中でどんどん落第あるいは退学させてきた。しかし、現在大学の水準に関して、かなり危機的な状況が生じている。
 原因はいくつかある。
 まず、正規のVWOを経なくても、大学に進学できるバイパスを整備したために、大学の教育の前提になっている知識を習得さずに大学に来る者も少なくない。以前はVWO な在学しなかった者は、大学に行けなかったが、現在では、HAVOを卒業してから移行した場合には、VWOに2年しか在学しないし、あるいは、高等専門学校( HBO)を卒業していれば、大学に進学できる。この場合には、VWOではまったく学んでいない場合もある。 VWO しくけ最もスタンダードな古典コースでは、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、英語が必修だから、大学への入学時点で、既に5つの外国語を知っていることになる。理科や社会のレベルも非常に高い。こうした大学進学コースでの十分な教育を受けずに大学に入る学生が増加しているのである。
 第二に、大学の年限を6年から4年に短縮したことである。オランダの大学は、基本的に大学院大学であって、学生は3年まで授業を受けて、4年になると、論文執筆になって、ほとんど授業を受けなくなる。この波及効果として、以前は、6年かけて苦労して論文を書いていくのは、とても大変で、途中でどんどん辞めていったけれども、現在は4年なので、何とかなると学生が判断して辞めなくなった、と言う。
 因みに大学では、1年の修了試験を合格しないと、専門課程に進学できないのだが、それに合格すれば、後は個々の授業の問題で、学生として退学させる、ということは、成績上はできなくなる。何年いてもいい。ただ、奨学金が6年間なので、7年目になるとかなり苦しくなって、大抵辞める。逆に6年間は遊んでいても奨学金をもらえるので、まずやめない。日本のよゔち留年した場合の奨学金ストップもなく、また返還なしなのだから。
 第三に、大学としてもあまり難しくできない事情がある。他の学校類型と同じで、学校でも学生数が少なくなれば、廃止になる。大学としの廃止は考えられないが、学科単位では、廃止はそれほど珍しくない。もっともライデン大学だけは、国家の政策によって、非常に珍しい学科がたくさんあって、ここだけは、どんなに学生がすくな気も廃止しないようになっているらしい。
 私が親しくしていた日本人の留学生で、インド哲学を専攻している人がいたが、フローニンゲンとユトレヒト大学のインド哲学科が廃止されたので、少なくない大学院生がライデン大学に移籍してきて、紹介された。
 国家の大学への予算は、その大学のそれぞれの学科での人数に応じて支払われる。希望者が多く、在学生が多ければ、それだけ教師の定員も増えて、予算も多くなる。これは、明らかに、水準の低い学生を退学させることに対して、反対の作用をする。当然、どのような組織も、外からあまり見えない「水準」よりも、「予算」を求めるから、多少低い点をとっても、退学させることは少なくなってきた。学生は集まりにくなるから、どうしてもそんなに難しくできないのである。
 ライデン大学はエリート大学としての地位を保持するために、大抵点を70点(現在は60点)二する改革を考えているようだが、それもライデンだからできることだろう。
 
5 研究的施設と教育の矛盾

 半期日本史の授業とゼミに出てみた。担当は、ラトケ教授で、世界的な学者である。
 レベルが高く、学生はまったくついていけない感じだった。教授も学生の不勉強を嘆いていた。しかし、日本はとても遠い国で、「サムライ」と「車」と「電気製品」の国であり、少なくとも高校生から大学に入ってくる段階のヨーロッパ人にとっては、日本に対する正確な知識をもっている学生は稀である。
 日本学科に入ると、まず言葉を習うが、それ以外の基礎的な教養をつける講義は非常に貧弱である。大学は「学問的教育施設」だから、研究者の養成機関になっている。非常に独立的な養成をずっとしてきたので、要するに自立した人が、自由に研究していく中で、研究者として育っていくという理念が強い。
 基礎教育というようなものがあまり存在しない。基礎知識があまりつかないままで、論文執筆ということになってしまう。
 日本現代史の講義は通年だが、こちらは60分授業で、25回ほど。60分といっても、アカデミック・クォーターがあるので、実質的には40分くらいしかない。この授業でほとんど知識のない日本近代史の講義をやってしまう。
 他に経済と法律の講義があるが、同じようなものだろう。
 日本学科は、10年くらい前までは、学生が1学年に2、3人しかいなかったそうで、そういう時代にはこれで十分だったのだろう。学生と教師のスウェーデンが全体で同じくらいだから、授業は形式的なもので、もっと授業以外の交流によって、教育や研究指導がなされたはずである。しかし、現在は1学年で100人近く入ってくるので、「教育」が必要になっているが、体制がとれていない。
 現代日本の社会を理解する講義もあまり置かれていない。置くことも難しい。
 ここでは、日本ならば、いくらでも対応できるのに、オランダでは対応できないという事情がある。
 ひとつは、大学は厳格な質を保つために、教える者はそれに見合う学位をもっていなければならないので、日本企業にいる学識豊かな経営者(そういう人は少なくない)に半年講義を頼むというわけにもいかない。日本の大学なら、気軽に頼めるところである。
 「学位制度」は、マイナスの要因にもなるとう事例である。
 ふたつには、大学があまりにエリート的であるために、「教養市場」が極めて狭いことがあげられる。たとえば、日本ではオランダ語を教えている大学は、私の知る限り、関東では東京外語大だけである。それでも、日本語で書かれたオランダ語の教科書は2種類ある。日本では大学の講義で使う教科書は、特別に英語に使用とするのでない限り、必ず日本語の本を使用することができる。なければ、出版社に掛け合って出版することが可能である。
 しかし、オランダではオランダ語の教科書を使用するこは、とても少ない。日本学科の現代部門では、まずは皆無である。みな英語の本を使用する。
 オランダ人はよく英語ができるといっても、高度な学問的な水準に達しているわけではないから、やはり学生にとっては、不自由であることに違いない。しかし、だからといって、オランダ語の教科書はないし、また出版してくれるような本屋もないだろう。伝統があり、コンスタントに学生がいるような分野では、出版が可能だろうが、小さな学問分野では難しい。
 もちろん、英語の本が豊富にあるわけでもないので、当然学生の知識は限られたものになる。
 こうしてみると、日本の大学というのは、あまりに酷い大学も含めてたくさんあるために、それなりの教育力があるのだということを感じる。
 まず専任のスタッフがいなくても、他の大学の先生を頼めば、たいていの分野を賄うことができる。大学教師予備軍もたくさんいるので、条件が悪くても、一生懸命やってくれる若手の研究者に事欠かない。
 若者が、本を読まなくなったといっても、教科書にするという条件で、大学の教師が何人か集まれば、出版社はなんとか出してくれる。そして、大学卒業という人々がたくさんいるので、多少固い本を読む人口が一定量存在している。
 オランダの出版事情を見ると、社会科学的な内容の本は、とても専門的な本しかないような感じで、それらは程度が高いのだろうが、読む層は限られているはずである。
 新聞に読めるようになる学生は、ほとんどない。これは単に日本語が難しいということではなく、どうも大学の性質に原因がある。
 日本の大学で、例えばドイツ語学科では、卒業論文は、ドイツ語で書く必要がある。日本語でいいとすれば、やはりレベルの問題がある。ところが修士論文は日本語でいい。
 これは修士論文は「研究」なのに対して、卒業論文は「教育」なので、「強制」を伴うからである。オランダの大学では、学士はなく、いきなり修士なので、「教育」を経ず、「研究論文」を書くことになり、日本語で書く経験を経なくても、一人前の研究者になっていく。
 オランダ文部省が大学6年を4年に変えたり、受益者負担を提起していることは、大学を大衆化し、多くの労働者が大学卒である状況をつくることで、経済を活性化しようとしていると考えられる。しかし、そこで大きな矛盾につきあたっているのが現状であろう。
 
6 国際化への対応

 これまで、大学の矛盾を中心二かがてきたが、オランダの大学が、日本野だを寄せつけない側面がある。それは大学が国際社会の中で活動していることである。
 ヨーロッパの大学は、その成立から国際的な存在だあった。学生が学びたいことを教えている大学に、「遊学」しながら移動したことはよく知られている。ドイツでは、制度してとはいまだにそれが残っている。オランダも、転校は可能である。
 教官の募集に関しても、国際公募が原則であり、公募の知らせは国際学会の機関誌に掲載される。ライデン大学の文科系の唯一の教授であった村岡教授は、オーストラリアのメルボルン大学の教授であり、一度もオランダで過ごしたことはなかったが、教授として採用された。私が滞在中に日本学科であった人事でも、オランダに滞在していない、一橋大学で学位を取得したインド人が採用された。
 教授原語も、オランダ語普通であるが、ヨーロッパの主要原語であれば、可能である。だから、オランダ語ができないスタッフは珍しくない。
 学生の留学もさかんだが、EU し んい 大胆な計画が進行中で、EU鳥 素にの大学生を短期間互いに交換して学ぶというものである。
 ひとつは、コメット計画である。
 コメット計画は1989年から加盟12カ国の学生1万人を半年から1年の期間、域内の他国の企業で勉強させようという計画である。
 もうひとつはEC委員会提案のエラスムス計画である。1992年から総数600万人のEC学生の1割に4年の在学期間中一度は域内の他国の大学で勉強する機会を与え、大学人の交流も活発にしようというもので、実際に行われている。実現にはコメット計画の約3倍の費用が要る。(4)
 実際、オランダの大学では、国際的な活動を保障するために、いくつかの制度や組織がある。
 まず、教授が招待状を書くと、それによって、ビザが発行され、オランダに滞在することができる。これはドイツの大学も同じようだが、日本の大学では考えられないことである。日本の大学であれば、少なくとも教授会の議を経ていることが、ビザ支給には必要なのではないだろうか。私もライデン大学のラトケ教授の招待状で、ライデン大学でのスタッフとしての待遇を受け、1年間の住民登録が可能になった。
 また、私の所属したライデン大学には、インターナショナル・センターという半ばボランティアの組織があって、外国から来る人々に、いろいろな便宜を図っていた。オランダ語の講座も開設されていた。外国からやってくる若い人たちは、そのオランダ語講座で合格すると、ライデン大学への入学が認められる仕組みになっていた。
 こうした国際的に人材を集めていることがオランダが小さい国であるにもかかわらず、多くの創造的な研究を生み出している基盤になっていると考えられる。
 

1 娘の体験については、太田礼子「オランダの子ども」『教育』国土社1994.7参照
2 親が子どもに援助をしないために、親子の間で訴訟になることもあるという。
3 'Plan Ritzen omstreden coalitie verdeeld over studiefinanciering' Algemeine Dagblad 1992.11.30
4 朝日86.4.19