363/628 GEC01342 WAKEI      オランダ通信23 大学教育再論
(19) 93/03/18 05:25      コメント数:1

オランダ通信23
 やっと講義が終わったので、今度は大学の講義にでて見ようと思って、先週から講義と演習のようなものに出始めました。1
大学のことは度々触れていますが、また触れることにします。
 繰り返すことになることもあるでしょうが。
 
 先日偶然ドイツの大学に留学している知り合いと、ライデン大学で会いました。夫婦でドイツに同じ時期に留学できるという幸運な留学で、夫人の方が日本文学の専門なので、ライデン大学の日本学科に視察に来たときに、偶然いて話したわけです。
 ドイツでは伝統的なエリ−ト大学が崩れかけているということを、聞いてはいましたが、進学率が36%なのだそうで、それは日本よりも高い数字になり、驚きました。オランダではまだ10%以下ですから、オランダのエリ−ト性はまだ高いと言えます。しかし、またエリ−ト性が逆に教育の質を低下させているというのが、私の観察です。

 私の出ている講義は、私を読んでくれたラトケ教授の日本現代史と現代政治で、日本の形式ではともに講義ですが、科目としては、後者は演習のようです。
 何しろ世界的な学者の講義ですので、えらくレベルが高く、学生はまったくついていけない感じです。それはもちろん教授もわかっていて、いつもいつも学生の不勉強を嘆いています。しかし、こちらでは、日本というのは、とても遠い国で、「サムライ」と「車」と「電気製品」の国なのです。少なくとも高校生から大学に入ってくる段階のヨ−ロッパ人にとっては、それ以上の感じがしません。もちろん大人になって、もっといろいろと日本と接点をもつことになれば、より深い理解になるでしょうが、高校段階では、歴史でも日本の歴史をきちんと習うことはあまりないそうです。なにしろ中国のことすらよく知らないわけなので、日本のことをよく知らないのは当然です。

 ところで、そういう感じで日本学科に入ると、まず言葉を習うわけですが、それ以外の基礎的な教養をつける講義は非常に貧弱なのです。
 というのは、こちらの大学というのは、「学問的教育施設」ということになっていて、制度の前提としては、研究者の養成機関になっています。それも非常に独立的な養成をずっとしてきたので、要するに独立した人格をもっている人が、自由に研究していく中で、研究者として育っていくという理念があるようです。
 だから、基礎教育というようなものがないのです。
 日本で言えば、ちょっとレベルの高い大学では、卒論指導をあまりやらないことが多い、というようなものでしょうか。それで、きちんとした卒論が書けるわけではないように、こちらでも、基礎知識があまりつかないままで、論文執筆ということになってしまいます。
 日本現代史の講義は、通年ですが、こちらは60分授業で、15回ほどでしょうか。60分といっても、アカデミッククォ−タ−という15分の遅れがあるので、実質的には40分くらいしかありません。それでもこうした基礎的な講義があるのは、1年と2年だけで、3年からは演習中心になるようです。
 他に経済と法律の講義があるようですが、同じようなものでしょう。
 ライデン大学は古典的な分野が中心なので、現代の日本理解は、2年間に4つか5つのこのような講義程度です。
 3年の演習(?)では、ラトケ教授が社会党のことを話していました。ときどき質問
するのですが、3回に1度くらい反応がある程度で、反応がないので、教授が結局話すという感じです。他の演習は知りませんが、どうも日本の大学のように、学生が調べてきたことを中心に行う授業は、それほどないようです。

 日本学科というのは、10年くらい前までは、学生が1学年に2、3人しかいなかったのだそうで、そういう時代には、これで十分だったのでしょう。なにしろ学生と教師の数が全体で同じくらいなのですから、授業は形式的なもので、もっと授業以外の交流によって、教育や研究指導がなされたのでしょう。しかし、現在は1学年で、100人近く入ってくるそうで、それは当然日本の「驚異的な経済発展」のためです。だから、学生の意識は現代に向いているのですが、教育は中々そうはならないし、また現代のことをできる人もまた少ない状態です。

 ここで、日本ならば、いくらでも対応できるのに、オランダでは対応できないという事実があります。
 主に二つのことがあります。
 ひとつは、大学は厳格な質を保つために、教える者はそれに見合う学位をもっていなければならないのです。だから、日本企業にいる学識豊かな経営者(そういう人は少なくありません)に半年講義を頼むというわけにはいかないのです。
 「学位制度」という資格は、マイナスの要因にもなります。
 ふたつには、大学があまりにエリ−ト的であるために、「教養市場」なるものがないのです。たとえば、日本ではオランダ語を教えている大学が、いくつあるでしょうか。私の知る限り、関東では東京外語だけです。(もっと実はあるでしょうが)それでも、オランダ語の日本語で書かれた教科書は2種類あります。つまり、日本では大学の講義で使う教科書は、特別に英語にしようとするのでない限り、必ず日本語の本を使用することができます。なければ、出版社に掛け合って出版することが可能です。
 しかし、オランダではオランダ語の教科書を使用することは、とても少ないようです。日本学科の現代部門では、まず皆無でしょう。みな英語です。
 
 たびたびオランダ人は英語ができるということを書いていますが、それは日常会話の話であって、高度な学問的な水準に達しているわけではありません。従って、日本の大学で英語の本を教科書にするよりは、もちろん学生はきちんとこなすでしょうが、やはり不自由であることには違いないのです。しかし、だからオランダ語の教科書を、といっても、そういう本はないし、また出版してくれるような本屋はないでしょう。伝統があり、コンスタントに学生がいるような分野では、出版が可能でしょうが、にわかに増えたような日本学科では、だめです。
もちろん英語の本が豊富にあるわけでもないので、当然学生の知識は限られたものにな
ります。

 こうしてみると、日本の大学というのは、あまりに酷い大学も含めてたくさんあるために、それなりの力があるのだということを感じています。
 まず専任のスタッフがいなければ、他の大学の先生を頼めば、たいていの分野を賄うことができます。大学教師予備軍もたくさんいるので、条件が悪くても、一生懸命やってくれる若手の研究者に事欠きません。
 本を読まなくなったといっても、教科書にするという条件で、大学の教師が何人か集まれば、出版社はなんとか出してくれます。そして、大学卒業という人々がたくさんいるので、なんといっても、多少固い本をよむ人口がたくさんあります。
 オランダの出版事情を見ると、社会科学的な内容の本は、とても専門的な本しかないような気がします。それらは程度が高いのでしょうが、読む層は限られているでしょう。日本のビジネス書のようなものが、あまり見られません。これは、大学卒業の数が非常に少ないためであるように思われます。

 もとに戻すと、日本学科ですから、日本語の本はもちろんたくさんあります。新聞もあります。オランダでも日経と朝日は日刊で毎日出ています。もっとも7ギルダ−で、現在1ギルダ−66円、つまり、462円もするので、まず買いませんが。
 しかし、朝日新聞を読んでいる学生を見たことがありません。ラトケ教授もひとりも読まないと言っていました。
 新聞が読めるようになる学生は、いないのです。
 これは単に日本語が難しいということではなく、どうも大学の性質に原因があります。 
 日本の大学で、例えばドイツ語学科があるとすると、卒業論文はまずドイツ語です。日本語でいいとすれば、やはりレベルの問題があるでしょう。
 ところが修士論文になると日本語でいいはずです。
 これは修士論文は「研究」なのに対して、卒業論文は「教育」なので、「強制」を伴うのです。しかし、これは必要な強制でしょう。

 オランダの大学では、学士はなく、いきなり修士なので、「教育」を経ず、「研究論文」を書くことになります。従って、日本語で書くという経験を経なくても、1人前の研究者になっていくのです。
エリ−ト大学であることの、欠点がこれほど鮮明に現れる例は少ないと思われる程です。帰る前に、一度きちんと討議したと思っていますが。

 ただ、だからオランダの大学は水準が低いということではありません。
 日本の通常の大学では、まずかなわないいろいろな長所がたくさんあります。
 それはまたいずれ。