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(19) 92/11/28 04:45

オランダ通信3
オランダに来て、考えざるをえなかったことは、何故日本人はあそこまで教育熱心なのだろうか、という点です。もちろん部分的には日本人よりももっと教育熱心である人々は、世界中にたくさんいるでしょう。しかし、国民全体が、あれほどまでに教育熱心で、教育加熱状態にある国民は、他にいるのでしょうか。
 シンガポ−ルでは日本よりももっと、激しい受験競争があると言われています。小学校の4年くらいで第1次の選抜があり、そこで将来の人生の分岐があるので、小学校の低学年でも家で5時間くらい勉強するという報道を見たことがあります。しかし、広範の小学生が5時間勉強するかどうかは疑問のところだし、そこで脱落した生徒は、その後あまり勉強しないのではないかとも思うのです。それになんと言っても、人口の少ない国です。 日本のように世界で7番目の人口をもつ大きな国で、このような教育加熱が広範に見られるのは何故か、ということです。
 義務教育の前後5年くらいが、ほとんど義務教育と同じ位の就学率をもち、また義務教育の時期に、正規の学校教育以外の教育機関に、生徒の多数が通い、多額の費用と長い時間を費やしている、というような国は、殆どないと断言できるでしょう。

 高度に発達した産業国家である以上、ヨ−ロッパ各国も、特にオランダも教育が社会の根幹の制度であることは、日本と同様です。そして、教育によって、社会において必要とさる能力を身につけ、能力を証明することによって、仕事を得ていくことは、双方ともに違いがないはずです。
 そして、人々にとって魅力のある仕事が、限定されている以上、教育を通じた競争がないはずがありません。しかし、誰に聞いても、日本のようなダブルスク−ル現象はないようです。つまり競争の形態や考えかたが、日本とは大分違うようなのです。そこはまだよくわかりません。

 とりあえず、すぐにわかることは、日本の進学制度は、常に上が決めていくという点です。それに対して、オランダではほとんどが下、つまり自分が決めていくわけです。それは前回も書いた通りです。
 ここで思い出すのは、日本と西洋の思想面で共通性があると言われる、浄土真宗とカルビン派のことです。ちょっと確認のしようがないので、誰か詳しい人は教えて欲しいのですが、この二つが産業社会を担う人々を育てたが、それは、現在の仕事を現在の時点で確認することはできず、それは神のみが知っていて、現在一生懸命働けば、来世で必ず報われる、というような思想があったからだということを、以前読んだことがあります。大体浄土真宗がそういうようなものであるのかはわかりませんが、何故このことを思い出したかというと、日本の受験制度は、この浄土真宗の発想を現実化したようなところがあると思われるからです。現在一生懸命勉強していても、それが将来どうなるか、あるいはどのような成果があがっているかは、究極は知ることができず、しかし、受験という一度の機会において、上(神)から示される、従って、現在はとにかくがむしゃらに頑張ることしかない、というようなことです。
 しかし、オランダにいる限り、ヨ−ロッパの資本主義の精神を構成したはずのカルビン主義的な労働形態や、教育制度は微塵も感じることはできません。大体ウェ−バ−の言ったことは本当なのでしょうか。
 あるいはニ−チェの言ったように、「神は死んだ」から、ヨ−ロッパは変化したのでしょうか。
 とにかくオランダでは、人生は神によって決まるという雰囲気ではなく、自分で主体的に決めていく、学校も職業も、そして家庭の人生もです。ウェ−バ−が間違っていたのか、あるいはその後重大な変化があったのか。このことは、日本がヨ−ロッパのようになっていくのか、あるいはヨ−ロッパが日本的な要素を取り入れていかざるをえないのか、というような問題になってくると思われます。

 さて始めの問題に戻ります。
 オランダ(大体ヨ−ロッパは同じだと思いますが)は社会的資産が継続している社会であるのに対して、日本は再構成していかなければならない社会だということが、大きな原因になっているのではないか。
 私が今住んでいる住宅は、フラットと呼ばれる一種の長屋で、一戸が3階まである住居が横につながった状態で建てられています。そして、建てられたのは1936年です。もちろん最近もこういう形式の住居は建てられていますが、日本と比べるとずっと少なく、そして、私の住居は必ずしも古くはないのです。つまり、オランダでは一度建てた住宅は、滅多に壊すことはなく、ずっと長いこと住みつづけるわけです。都市に行くと、18世紀19世紀に建てられた建築は、少なくありません。そういう所で、実際に商業が営まれ、また住居として利用されているのです。
 ところが、日本では住宅は通常30年くらいでどんどん建て替えられるはずです。そして、住宅の値段でも、10年たった木造住宅では、家の値段はほとんどないはずです。(オランダではどうも土地の値段で家を買っていく、というようなことは、少なくとも私の近辺ではないようです。)
 つまり日本では家のような、もっとも恒久的な資産でも、30年単位で新しく作っていく必要がある。それに火事、地震、台風など根本的に資産を消滅させてしまうような事態がいつ起こるとも限らない。オランダでは家が消滅するようなことは、ほとんどないらしい。この違いはとても大きいかも知れない、などと考えています。

 つまりいいたいことは、日本では現在ある物が、決して永続的な物ではなく、いつでも無くなってしまうという意識があるし、またそれは歴史的にみて当然の意識でもある。教育というものは、永続的な財産ではなく、その人当人の、しかも一度受ければいいというのでもなく、これもまた常に受けつづけなければならないものでもある。こうした点が、日本人の労働過剰と教育過剰の基礎になっているのではないか、などと考えています。

 オランダでは継続的な資産が基礎になっているために、自分で獲得しなければならない部分はその追加部分だけです。しかも社会全体がそれほどがつがつしていないから、追加部分自体が多くはないわけです。したがって、労働も少ないし、教育によってよりよい労働を確保しなければならないなどという意識も、日本のようには、濃厚ではありません。 
 それに対して日本では、基本的には無から出発するという感じで、自分で獲得しなければならない、それには教育という資産が必要だという、そんな感じです。
 ちょっと具体的な例をあげての話ではないので、今後具体的な事例をあげて、書いていきたいと思っています。