第二節 ランジュバン・ワロンの統一学校論と教養論
(1)はじめに
統一学校の主張が国民の統一的精神、あるいは国民的一体感を形成しようとする限り、国民全てが学ぶべき共通の教育内容(統一の核)を構想しなければならなかったことは既に繰り返し述べた。しかし一方、学校教育を国民の向上の一手段とする改革要因から帰結する教育内容の向上を、全ての国民のものとするには、大きな困難が伴うばかりでなく、体制的統一学校論からみれば、むしろ危険なものですらあった。したがって多くの統一学校論者は、「統一の核」を道徳あるいは「共に学ぶ」という「場」に求めたのである。それらの論では国民全体の知的向上は、ほとんど位置づけておらず、考える技術の発展は、もつぱらエリートが担うものと前提されていた。それは19世紀末からの「一般教養の崩壊」という声と表裏のものであった。
一方、社会主義意識を核とする改革を主張したKPDの主張も、結局「統一の核」というより、教育論の相違を強調する結果に陥らざるをえない論理をもっていた。
以上のような様々な統一学校論を検討した結果、次のような課題が明らかになったと考えられる。
第一に、統一学校論が真に国民全体が学ぶべき教育内容の創造と結合しなければならないこと。
第二に、それらが実際に全ての国民が修得しうる方法と形態を発見しなければならないこと。
第三に、その内容が発展した科学技術の土台となり、それに接続するものであることである。
これらの課題に正面から取り組んだのがランジュバンとワロンであった。
周知のように、ランジュバンとワロンは今日の高度に発達した資本主義国において、今なお規範的地位を保っている「ランジュバン・ワロン計画」の中心的作成者である。我が国においては日教組教育制度検討委員会の改革案「日本の教育をどう改めるべきか」が、「ランジュバン・ワロン計画」の原則を一つの重要な柱としていることは容易にみてとれるし、(1) フランスにおいても、社共共同綱領の教育の部分、共産党の改革案パランジュバン・ワロン計画」を土台としている。(2) 本節は二人の統一学校論を分析するものであるが、同時に「ランジュバン・ワロン計画」)の形成史の一部を明らかにすることにもなろう。
<註>
- 「ランジュバン・ワロン計画」の根幹に教養論があることは周知のとおりである。例えば志摩陽伍「国民的教養論の課題」『科学と思想』新日本出版1982 No.43 しかし、今日の日本の「国民的教養論」は主体の問題として国民的教養を取り扱っているが、ランジュバンとワロンの思想はそこに留まらない。
- 'Propostion français pour une Réforme démocratique de l'enseignement' in "L'école et la nation" 1970.1-2 p3
(2)ランジュバンの統一学校論
<フランス統一学校運動の成果>
フランス統一学校運動の具体的な成果をもう一度整理しておこう。
1.小学校と中等学校付設の初等クラスのカリキュラムを共通のものにしたこと。
2.中等学校・高等小学校の授業料を無償にしたこと。
3.テストによる奨学金支給。
4.中等学校への入学試験の実施。
こうした措置はそれまで社会的地位や経済力の欠如によって進学を阻まれていた人に、中等学校への進学の可能性を、わずかではあったが開いたことは間違いない。しかし、世界恐慌による経済の落ち込み、保守化によって運動自体が沈静化するとともに、成果そのものについても批判が生じていた。
ワロンは1930年代に次のように書いている。
大いに語られた統一学校はいっそう能力ある子供を次第に選抜し、不適切な子供を除去する結果にならざるをえなかった。だから、統一学校は意図に反して、教育の特権を保持する階級を作ったのだ。改革を失敗させたり変質させたりする方向へ向かうのは、問題の技術的困難よりもむしろ、それらの階級間の対立であるように思われる。(1)
ワロンがここで述べているように、1920年代のフランスの統一学校運動は、教育問題に現象した階級闘争であった。政治的には急進社会党が中心であり、フランス共産党は1920年代を通じて否定的な姿勢をとり続けたのであるが、第一次大戦以降生じた社会構造の変化に対応する様々な施策の一つとして、変化した社会を担う人材を作りだす教育が社会の重要な社会問題となったのである。したがって、体制的な統一学校運動を包括的に規定すれば、近代的な工業の発展にみあう労働力とエリートを得るためにブルジョアジーによる学校体系の民主化運動であるが、(2) 彼等が支配階級である限り、伝統的な支配層養成機関との妥協、あるいはその積極的利用が必要であり、そのため重点の置き方の相違によって様々な統一学校案が生まれたのであった。(3)
1924年に成立した左翼連合政府の文相アルベール(F.Albert) によって作られた「統一学校委員会(Commission pour l'école unique)」は、統一学校に対する議論を全社会的に拡大させたが、そうした中で大きく三つの原則が形成された。
第一に、義務教育の統一を前提に、中等段階を初等教育に組み込み、14歳までの初等義務教育と、14歳以上の任意の中等教育という段階区分にする案であり、ポール=ラピー(P.Lapie)を代表とする当時の最もラディカルな再編案であった。(4) それは、義務教育を初等教育としながらも、実質的に中等学校の前期段階の内容を含ませることを意図しているからである。こうした案から中等教育を義務とする案が出て来る。
第二に、小学校後の学校を大学に接続する長期の中等学校と、職業につくための短期の中間的教育機関とに分ける案である。第一の案は画一的学校を作るという批判の下に主張され、中等学校・初等学校・技術学校に分岐させるM.ダラデイエ(M.Daladier)の案がその代表的なものであった。(5) この案は制度論としてはエリート選抜という目的によっていた。そしていわゆる「三分岐制」の学校制度の原型となるものであった。
第三の案は更に現状維持的なものであって、統一学校の意味を、学校の組織的関連付けという程度に矮小化し、したがって改革を他の学校への移行を保障する手段のみに押し込めようとした。(6) 端的にいえば統一学校に原則的に反対なのであるが、「教育の機会均等」を高く掲げた統一学校運動が、様々な主張を含みながらも、原則自体は社会的世論となったことによって、(7) 統一学校を否定できなくなった保守層の一つの対応といえよう。(8)
<註>
- H・ワロン『応用心理学の原理』滝沢武久訳 明治図書 p103-104
- 9世紀末以降の経済体制の変化によって市民革命の時代とはその意味が異なってくるが、当時としての開明的経営層、主に重化学工業の経営層とその代弁者によって支持されたと概略的にいうことができる。
- 大坂治「大戦間フランスにおける統一学校論研究序説 ── 統一学校の理念の検討を中心に(1)」『筑波大学教育学研究収録3』が22の例について論点を表にまとめている。
- P.Lapie 'Esquisse d'une réforme générale de notre enseignement national' in "Revue Pédagogique" 1922 "Revue Française" 1926
- E.Schulhof 'École unique. Conferences de l'écoles des hautes sociales' in "Revue Universitaire" 1926 K p42 ボァバンが紹介しているエリオの回答は「統一学校とは初等段階のカリキュラムを同一にすること、奨学金のテストを全ての者が受けられるようにすること、共通試験によって中等学校・現代学校・技術学校に分かれることだ」と述べている。
- 現状というのは1902年の改革の方向のことで、1923年に復古的なベラール改革があったことから、この主張も当時においては「革新的」であった。
- Henri Boivin 'L'école unique devant la presse' in "Revue Universitaire" 1925 ノ p323
- "Revue Universitaire" 1926 Jp239 1926年2月5日の会議の A.Lomont の発言
<デュルケムと統一学校>
さて、ランジュバンの統一学校論を検討する上で、第三の潮流は問題にする必要はないであろう。第二の潮流こそダラディエ、エリオにみられるように、社会的に大きな勢力によって支持されており、またそれ故ワロンによって批判された事態を生み出した理論であった。そしてこの第二の潮流が生まれてくる社会的歴史的背景を説明したのはデュルケムであり、この主張を理論的に支えたのはデュルケム学派の人々であったということができる。デュルケム学派の社会学者であり、デュルケムの『教育と社会学(Éducation et Sociologie)』の編集をしたP.フオコネ(Paul Fauconnet)は統一学校について次のように主張した。
統一学校という主張は第一次大戦以前からあるし、様々な国で主張されてもいる。しかし、「最近のこの運動の原因は、大戦以後とりわけ深くなったが、フランスを再生させるために、国民の全活力をより有効に引き出したいという欲求である。」ところが、実際の学校はもっぱら有用性や実用性を望む初等学校と、それと無関係な教育を独占する中等学校とに分裂している。教師も、教授法も、物的状況も正反対である。(1)
こうした認識に基づいて、フォコネは1.全教育段階での無償、2.義務就学を青年期に延長する、3.教育の各段階の関係の密接化、という統一学校理念を支持するのである。(2) その際フォコネが留意するのは、階級の融和(fusion des classes)であり、それ故保守層による社会的抵抗の不可避なことであった。
さて以上のフォコネの統一学校認識は、デュルケム理論の直接の延長上にある。もちろん統一学校運動が起こる直前に死去したデュルケムに統一学校についての論及は存在しない。教育を社会学として、つまり客観的に存在する教育を生成・発展する中で究明する態度を堅持したデュルケムには、教育制度の改革案も、制度全般には存在しない。しかし、フォコネが『教育と社会学』の序文でドイツ統一学校運動の代表的イデオローグであったケルシェンシュタイナーの中にデュルケム理論を認めているように、(3) デュルケムの論理は「統一学校」論に帰結する要素を明確にもっていた。それは概略的にまとめれば次のような論である。
第一に、近代社会は産業主義の進展を特徴としており、それは必然的に社会的分業を展開させる、
第二に、その結果として社会における「集合意識」が崩壊し、それが様々な社会的病理を生む。(4)
このような論理から導かれる対応は、分業をより効率的に行うための職業教育、職業団体の形成、集合意識の回復のための新たな共同体の形成、(5) そして、道徳教育である。これが教育制度論に導入されれば、統一された初等教育(小学校)、多様に分岐した初等後教育の構想となることは明瞭であろう。すなわち、統一学校という理念の下に職業的分化に対応した諸個人を創出する理念を、デュルケム学派が与えたということができる。
更にデュルケムは中等教育の歴史的研究の成果によって、統一学校に反対する伝統的中等教育保持の論理を崩壊させる。
中等教育の不可欠の要素は、特定の職業の準備教育ではなく、一般的・普遍的教育を施すことであるが、実はその限りで初等教育も同じなのである。(6) 初等教育も決して特定の職業塗備教育ではない。国力の充実という養成から、初等教育の向上も重要な課題になっており、予備学校と小学校のカリキュラムが、ほとんど同一のものになっている以上、中等教育の側から絶対的な特殊性を主張することは困難であった。第三の科学技術革命の時代において、ラテン語・ギリシャ語をそれまでのような地位にとどめておくことは、もはやできないことであろう。
<註>
- "Revue Universitaire"1926 p239 1926年2月5日の会議 Fauconnet 発言 ibid. p235-236
- ibid. p236
- フォコネ「教育学上のデュルケムの業績」デュルケム『教育と社会学』の序文 佐々木交賢訳 誠信書房 p13
- デュルケム『社会分業論』田原音和訳、青木書店、『自殺論』宮島喬訳、中央公論社、『道徳敦育論』麻生誠・山村健訳、明治図書。宮島喬『デュルケム社会理論の研究』東京大学出版会、小関藤一郎『デュルケムと近代社会』法政大学出版会参照
- 『自殺論』では「同種類の全ての労働者、あるいは同じ職能の全ての中間が結びついて形成する職業集団、ないしは同業組合」とされている。
- デュルケム『フランス教育思想史』小関藤一郎訳行路社参照
<ランジュバンの統一学校論>
ランジュバンが教育について発言を始めた時、目にした教育は言うまでもなくデュルケムのそれと同じであった。社会学者デュルケムが社会の分裂的危機から教育を見たのに対し、物理学者ランジュバンが物理学の危機を通して見たという相違はあるが、しかし、二人が共通に認識したのは、19世紀後半から社会の様々な職業的要請に従って設立されていた多くの初等・中等段階の学校の乱立、そして中等学校の教育課程の崩壊であった。しかも、ドレフュス事件をともに自らの問題として受けとめた二人にとって、(1) こうした社会的変化は、共和国の危機及び再生の課題として把握されていた。
しかし、デュルケムが「統一の契機」を集合意識という人格主体を超越した観念に求めたのに対して、ランジュバンは教養の再編を通して形成されるべき、現実諸関係の主体化されたものという「新たな絆」に求めた。この相違がデュルケムと根本的に異なる学校制度を構想させたのである。
ランジュバンが教育について初めて発言したのは、1904年のセント・ルイスの科学会議への出席の数カ月まえのことであったという。(2) 1902年のレイグ改革によって、人文的内容に偏していた中等学校の教育課程の中に現代的内容が取り入れられたが、ランジュバンはまだ不充分であることを批判した。
中等教育に物理学を導入するのは、教育上の目的(現実をわがものとするための精神の作業、知能の発達)、及び近代社会の増大する需要や工業のますます精密化する要求に対応するという実用上の目的があるが、中等学校における科学教育が、教義的(dogmatique)であると同時に断片的(fragmentaire)な性質の故に、二つの需要のどちらにも正確に応じるものになっていない、という。しかし、ここで重要なことは、ランジュバンが提示する「総合的でもっと生きた科学教育」にするための原則である。
教育とは行動に移る準備をさせることであるという考え方に同感の私は、科学に関しては一方は思弁的、他方は実践的、一方は精神を与え、他方は結果に関する教育というふうに判然と区別された教育を並行させることができるとは思いません。科学教育にその本来の性格と有用性とを保証する正確な均衡を保つことができなければ、視野を制限し、この二つの方面で損をすることになります。(3)
そして、「今日では有用でも、現今の工業の絶えまない急速な変化に応じて、明日は無用になるもろもろの事実を、結びあわせる絆」が必要だと述べている。ランジュバンはこのように教育について発言を始めた当初から、教養が有用性と精神の酒養という二つの目的をもつこと、科学的教養と人文的教養とを二つに分離するのではなく、均衡こそが必要であるという見解をもっていた。この主張は統一学校についての主張の柱となるものであった。
ランジュバンが提起する統一学校に関する原則は次のようなものである。
1.全ての者への平等な教育(Instruction)という基本原則については、全ての段階の無償を含み、短時日内に実現すべきである。
2.実現の微妙なことであるが、職業教育とあらゆる段階を通じて追求すべき一般教育を併置することについては、全ての課程(section)で、同じ原理に基づき、できるだけ共通に一般教育が与えられるべきである。
3.全ての段階で移行を保証する必要については、遅くなってからであっても誤った選択の入れ換えや職業指導などで修復の可能性を残すことが必要である。(4)
無償の原則と移行の保証は統一学校支持者全てに共通な認識であるから、第二の原則の中にランジュバンの特質があった。重要なことは、共通な内容の必要性についての理由が発達という視点から把握されていたことである。
当時中等学校で教授される共通教養・一般教養(Culture générale)は古典語を基礎にした人文学科のことであり、それは「人間性」あるいは「精神」を涵養する素材と考えられていた。もちろん統一学校の積極的な支持者は、そうした古臭い教養を批判し、より現代的な内容に再編していくことを主張した。デュルケムも統一的国家と学校をいかに作り上げていくか、という問題意識から、「人間」を核とする教育を、(5) 言語・科学・歴史を柱として提起している。(6)
しかし、そうした改革案も「中等学校」を念頭としている限り、全ての者にその理想とする教育を与えることは断念しており、せいぜい14歳までの義務就学を求める議論に終始し、義務教育の内容は改革されるべき教養とは別に構想された。(7)
ランジュバンは「科学の学習が最大限の教育的価値をかちうるためには、各年齢において、どのように科学の学習を指導しなくてはならないか」というシャートリエ(M.L.Chatelier)の提起を受けて、物理学学習についての一つの発達段階を設定する。
第一段階は10歳から12歳までで、見たり観察したりすることを学ぶ。ここでは物理学は「事物の課目(Lesson de choses)」である。第二段階は12歳から15歳ごろ。法則の概念を身につける段階である。第三段階は生徒に抽象的総合の感覚を与えることによって、科学生活の概念の漸次的発展の概念を与える段階である。(8) ところが小学校は子供を11歳乃至12歳で手放してしまうので、第一段階に限らざるをえず、大多数の子供は第二段階以降の物理学教授を受けることができない。一方中等学校の第一期(第六年級−第三年級)では物理学が教えられないので、事物の課目によって得たことが発展させられない、という状況がある。(9) そのため第二期以降導入される物理学教授が有効性を削減されざるをえない。そこでランジュバンは更に「科学的平等の原則」を踏まえて次のように主張するのである。
12歳から13歳の頃、言いかえれば我々のいう第二段階の初めころ、適性がはっきりと現れだしたときから、教育はこの適性を考慮にいれなければならないし、誰に対してもえこひいきのない同一の精神を保持しつつも、共通の部分だけに拘束されてはならず、また各課目について適性に恵まれた者の前進を恵まれない者の前進に合わせて抑えることのないようにしなくてはなりません。(10)
このようにしてランジュバンは18歳までの義務就学を主張し、(11)その中で全ての者に発達段階に即した教育を与えることによって、個性を開花させる科学教育を保証することが必要であることを示した。
<註>
- デュルケムとドレフュス事件については宮島前掲 p247 以下。ランジュバンについてはG.Cogniot op.cit. p12
- P.Langevin "La Pencée et L'Action"1947 p179-183 『科学教育論』竹内良和・新村猛訳 p109-112
- ibid. p109-112
- "Revue Universitaire"1926 p326
- デュルケム『フランス教育思想史』小関藤一郎訳 p338
- 同上 p341
- ラピーの構想は別というのではないが、この点不充分なものであった。
- P.Langevin 'Contribution de l'enseignement des science physiques à la culture générale' 1931 "Pour l'ere nouvelle" 1947 p180-181 『科学教育論』 p139-140
- ibid. p180 同上 p139
- ibid. p181 同上 p142
- "Revue Universitaire"1926 p326
(3)ランジュバンの教養論
<一般教養の変質>
先述したように統一学校運動は1920年代の末になって下火になり、獲得された個別的成果に対しても、批判が出されるようになった。ワロンの批判は統一学校の原則をより徹底して擁護する立場からなされたものである。(1) また、中産階級創出のための改革を主張していたビアールは、無償によって中等学校が全国民に開かれたわけではなく、ますます特権的地位を強めている、と批判していた。(1) 事実1932年に2.7%であった中等学校第六年級の労働者の子供は、36年に2,6%に減少している。(3)
結局こうした事態は中等学校の性質によるものであり、言いかえればワロンが述べたように、全学校体系をめぐる階級対立に起因していた。ドイツ統一学校運動の中では、ワイマール共和国が革命を経ていたために、宗教という衣装をまとってはいたが、直接党派性が問われたのに対し、第二章で既に述べたように、戦勝国フランスでは戦争による国民的一体感がある程度形成され、しかも「統一学校委員会」という一つのテーブルで論議がなされたこともあって、階級的対立は政治的形態ではなく、「教養」をめぐる文化的形態をとって現れることになった。統一学校論の第三の潮流は、中等学校とそれに体現させる「一般教養」を保持すること支持している。教養という側面からみる限り、保守的な統一学校反対論と同じであった。彼等の考えは次のベラール(Berard)の言葉に端的に表現されている。
中等教育の本質は『理解することを理解する(apprendre á apprendre)』ことにあり、明白なものなのだ。ラテン・ギリシャ文化を学ぶことは、精神の形成(formation d'esprit)のためであり、代用不可能である。シーザーやベルギリウスをシェイクスピアにとって代えることができるだろうか。(4)
精神の形成という形式陶冶、及び古典文化の方が勝っているという認識の故に、現代に即応する必要を認めない主張である。(5) しかし、さすがにこのような主張は少なく、多くは多少とも現代の変化を念頭において、教養の再編が必要であることを認める。1920年代の前半「公教育高等審議会」の委員として教育政策に影響を与えたベルグソンは、古典語の学習は言語をさかのぼって考えることを通して、古代の文化を理解し、知性の形成を可能にする、という理由で古典教育を中核とする一般教養・中等教育を支持している。しかし、それは高度な知的職業人のための教育で、近代産業社会の士官の養成のためには、現代語を軸とする実科的中等学校をつくり、二つを厳密に区別すべきであるとしている。(6) この教養論は統一学校の第二の潮流に接近している。初等段階の統一と厳密に区別されるにせよ「移行」を認めれば、分岐型の学校制度論になる。しかし、デュルケムの教養論はこれとは全く異なるものであった。
かつて、なにごとに対しても没頭するなどということはせず、万事に興味を示し、何でも愛好し、全てを理解できる人物、文明のうちですぐれたものはこれを一身に集め、自らに凝縮する術を見出した人物、こういう人物を完全な人間であると考えた時代は既に過去のものとなってしまっている。かつてあれほど賞賛されたこの一般教養は、今日ではしまりのない印象しか与えぬ訓練という効果しかもっていない。(7)
デュルケムは旧い教養が現代社会に適応しえなくなっている、というばかりでなく、一般教養の名において与えられた中等学校での教育が、実は専門教師間の分業でしかなかった、という二重の意味で「一般教養」の崩壊を指摘する。(8) つまり新教育運動の指導者にとっては自明ではあったが、(9) 中等学校において一般教養が担われているという常識の虚構性をデュルケムも承認するのである。
ベルグソンにせよ、デュルケムにせよ ── 一般教養の一般性はデュルケムにとっては可能性の高くない将来の問題ではあったが、 ── 諸学の基礎となる、という意味であって、全ての国民が獲得する必要性と可能性がある、という意味は含んでいなかった。その点でともに当時の「一般性」の概念自体について疑いをはさむことはなかった。ただ、ベルグソンがその一般性を保持すべき少数の知的エリートと、社会の産業の要請に応ずる多数の中問的職業人を区分したのに対し、基本的には同じ構想であるにせによ、デュルケムは次第に職業教育の中にある科学的要素を中等学校中に取り込むことによって、統一的中等学校を提起する。(10)その統一の核が「人間」という伝統的用語ではあるが、伝統的教養への批判を経由していることはいうまでもない。
<註>
- 今日の研究の中でワロンと同趣旨の批判として次のようなものがある。Christian Eaudelot, Roger Establer "L'école capitaliste en France"1971
- F.Vial "Vues sur l'école unique" 1935 p19
- Talbott "The Reform in France 1918-1940" p172-173
- "Revue Universitaire"9126 J p427-428 1926年3月の会議の発言
- 急進社会党の教育論の代表者と評されるアランも同じ教養論を述べている。アラン『教養論』著作集7巻、白水社 p237
- ベルグソン「古典教育と教育改革」1922年。全集9白水社 p203
- デュルケム『社会分業論』 p44-45
- デュルケム『教育と社会学』 p146
- ワロンはランジュバン追悼の中で古い教養を土台から変えねばならないと述べている。H.Wallon 'Langevin Éducateur'"Le plan Langevin-Wallon de Réforme de L'Enseignement" 1964 p295
- デュルケム『フランス教育思想史』
<科学革命と一般教養>
ランジュバンが統一学校運動に積極的に参加していったとき、既に科学者の内から中等教育での一般教養が問題とされていた。科学アカデミーのJ.アダマール(Jacque Hadmard)は1922年の「中等教育と科学的精神」と題する論文で、教養の有用性とは自然との関係における実験的精神こそが土台であり、ギリシャ文化、べ一コン等の精神も彼等の生きた時代にはまさにそこに本質があった。(1) それ故今日なお形式的に古典文化を維持しようとする哲学は既に教養における有用性を失っており、今日有用性は科学的教養の中にこそある。(2)
フランス統一学校運動は、フランス革命の教育思想を受け継いでいるが、フランス革命はまた「科学革命(第二の科学革命)」をもたらしたのであり、(3) 代表的な数学者であったコンドルセは、その意味でも典型的な革命思想家であった。この第二の科学革命によって、科学の専門家は、閉鎖的なアカデミーから「教授」として、国家のエリートを育てる役割を担うようになり、また既成のパラダイムに挑戦する。(4)
ドイツにおいてもナポレオンとの戦争を契機として、近代的な大学が設立され、その結果、この二つの国では限られたエリートに対する教育組織として、自然科学の教育施設が地位を得た。
しかし、それは高等教育のことであり、中等教育にまで及ぶものではなかった。ランジュバンの課題は、第三の科学革命を迎えて、科学を中等教育に根付かせることでもあった。
さて教養の有用性という見地を確認した上で、それが知識の源泉であることをランジュバンは人間的価値へと発展させている。
私は科学が人間こ対して行うことのできる貢献の中で、まず二つの側面を強調したい。物質的な解放を与える可能性、他の一つは ── もっと私には重要と思われることは ── 精神を解放する可能性。前者は後者を準備する。(5)
科学が物質的・精神的人間解放を可能にするという主張は、有用性と結びつかない「しまりのない訓練」に堕した古典的一般教養への批判である。しかし、教養という個人に主体化された側面からみると、精神の解放こそがまず求められなければならない、という状況認識を含んでいた。ランジュバンがドレフュス事件やファシズムとの闘いの中で、一貫して社会主義の立場を守り続けたことはよく知られているが、それは教養によって支えられていたともいえる。
今日の状況(ビシー政府下のファシズム支配)の下では、何よりも知性の、そしてモラルの解放が必要である。(6) モラルは科学という土台に支えられてこそ、より豊かで高潔になり、社会における真に人間的な個人を確立する。したがってそのモラルは世俗的なモラルである。科学の解放と世俗性の理念の発展は密接に結びついており、モラルもまた科学によってこそ支えられるからである。ランジュバンは自身の科学研究と社会活動の経験に加えて、科学の発展の歴史の中でそのことを検証している。(7) そして、この歴史的検証という方法は、教育における科学史の重要性を認識させるものでもあった。すなわち、科学による物質的解放が精神の解放を準備すると同時に、人間的価値に基づいたモラルが、科学の人間的な在り方を準備する。歴史はその二つの方向を結びつけるものであった。
ランジュバンはこの歴史的方法を人間的モラルの生成という視点からばかりでなく、教養を全ての国民に与える可能性の環として位置づけている。生徒が興味をもって学習に取り組めるようにするためばかりでなく、教育者も、また研究者も教養主義に陥らないために歴史的見地が必要である。(8) 更にこの歴史的見地こそが、自然科学と人文科学を結ぶ一つの環となっている。「理科の教育からは一般教養という見地での有効性が失われ、一般教養はほとんど全く文化の教育に任されている」(9) という重大な現状に対して、「精神の解放と人権の肯定において科学が演じた役割を認識して、大革命」が努力した「科学教育を一般教養に取り入れ、近代的人文科目をつくりあげる」絆として、ランジュバンは位置づける。(10)
<註>
- Jacques Hadamard 'L'Enseignement Secondaire et l'Esprit Scientifque' in "Revue de France" 1922 Tome 2 p533
- ibid. p538 リセの教師のミケラールは次のように書いている。「教養というのは、個人・社会が実践の知識を得ることに利益があり、内的な生命や有用な価値、そして行動的なエネルギーとなるものである。しかし、ギリシャ・ラテン文化のみでは経験や思考が不可能である。」Miquelard "L'Éducation" 1924-25 p328 Marcel Braunschvig 'L'Enseignement dans les Humanités Modernes' in ’"L'Éducation" 1924-25 も同趣旨
- 佐々木力『科学革命の歴史構造(上)』岩波書店1985 p247
- 同上 p280
- P.Langevin 'Science et Laicïte' 1931 in "Pour l'ere nouvelle" 1947 p197-199 この点がベルグソン・アラン等の教養論と根本的に対立する点である。M.アーノルド、『教養と無秩序』も同様。アーノルドに典型的にみられるように、宗教にモラルを求める教養論は、必然的にエリートの教養論になる。
- P.Langevin (Valeru Éducative de l(Histoire des science' 1926 in "Pour l'ere nouvelle" 1947 p184 『科学教育論』 p120-121
- P.Langevin 'Contribution de l'enseignement des science physiques à la culture générale' 1931 "Pour l'ere nouvelle" 1947 p182 同上 p147
- ibid. p182 同上 p132
<ランジュバンの職業と教養論>
では、教養の有効性を承認したランジュバンは、職業と教養をどのように位置づけるのか。「一般教養とは職業的専門化とは独立に、子供を現実との接触に準備させる一切のもの」(1) という言葉や、「職業は人を分ける」という周知の言葉によって想像させるように、必ずしも教養と職業を対立的に捉えていたわけではない。ランジュバンは統一学校についての会議で次のように述べたことがある。
教育において、全ての人に与えられる共通の精神や、学業が行われる方法は人生の準備をするものであるから、ものごとを処理し、人と付き合い、法に従って行動することを人やものごとと接することで可能にしていくという考えによって定められなければならない。科学や技術、文学や道徳との接触も考慮されなければならない。しかし、古典的人文主義はあまりに狭い主観的な概念である。(2)
職業は人生の主要な柱であるから、この考えには職業と教養の積極的関係がみられる。ランジュバンの職業についてより詳しくみるために、国際新教育連盟の1932年ニース大会の議論に触れておこう、ニース大会は、53カ国1600人が参加し、カトリックとボルシェビキが席を並べるというきわめて象徴的な大会であり、社会変革と教育、教養の内実、国際連帯を主なテーマとして掲げた。(3) 教養をめぐっては二つの意見の対置があった。一つは教養と職業の関係をめぐるランジュバンとワロンの視角の相違であり、一つは教養に社会的結合の契機を認めるか否かのブッシュ(Bouchet)とカザミアン(Cazamian)の対立である。(4)
「一般教養の問題」と題するランジュバンの報告は、社会的進化の中で教養はいかなる役割を果たすか、という全体テーマに取り組んだものであるが、注意すべきはここでランジュバンが念頭においている問題を孕んだ社会的進化とは、デュルケムが問題とし、ランジュバンが教育問題を論じ始めたときとは質を異にしていたことである。ニース大会が掲げた国際連帯というテーマがファシズムの危険に対して向けられていたことはいうまでもないが、物理学者であったランジュバンは、次におこる大戦が人類を破滅させるかも知れない可能性をはっきり認識していた。そこで教養は二つの課題を負うことになる。先にみた二つの人間的価値というモラルは、人類の危機に直面して「平和」という価値を人々の中に根づかせる。言いかえれば国際的な友愛を実現しなければならない。
一方個人に即してみた場合、「一般教養は人間の活動の様々な形態に導くもの」であり、「職業はしばしば人を分ける(séparer)ものだが、一般教養は人を関係付け、結びつける。」しかしそれ故、人の解放にとって教養のみが必要なのではない。職業と教養は相互補完的な関係であり、教養は職業を準備させるものである。しかもこの二つは動態的なものである。したがって現実の職業が人をしばしば分け隔てるというこの指摘は、職業が一般教養に支えられる時点では、人間の多様な個性が実現するという志向をもっているのである。それには教養が職業の土台となっていない問題とともに、教養そのものが分裂しており、現代的な「一般教養」へと総合しなければならないという認識を含んでいる。(5) 軍事科学における科学技術の過度の進展と、教育における科学の遅れを、「科学と技術の進歩がまだ一般教養の構成要素になっていない」事態の克服を通して解決しなければならない。
ランジュバンの主張は分裂した教養の統一を実現することで、社会と国家の連帯を実現すべきだということにあった。(6) そして、その中で伝統的な人文主義における「人間性」はより切実な「価値」として、再発見・再構成されるのである。
<註>
- P.Langevin ibid. p212 同上 p133
- "Revue Universitaire"1926 ネ p326-327
- A.Ferriere 'En marge du Congres' in "Pour l'ere nouvelle"1932 p235
- ブッシュは一般教育が統合的教育になるという前提を否定したが、カザミアンはその個人主義的危険性を批判した。H.Bouchet (L'École active dans l'enseignement secondaire en France' op.cit. p49 M.L.Cazamian 'L'École active dans l'Enseignement secondaire en France' op.cit. p214-216 ブッシュのものは大会の報告ではなく、直前の機関誌に掲載されたものである。
- P.Langevin 'Le probleme de la culture générale' in "Pour l'ere nouvelle"1932 p239-245
- ここに至る制度的媒介として、教育の国民的計画(plan national)を提起している。 ibid. p243
<教養の獲得と平等>
さて、ランジュバンが述べたような現代の科学に裏付けられた教養を、統一学校によって全ての国民に実現することは本当に可能なのであろうか。この点を批判したのが、ビアールである。(1)
ビアールは統一学校の原則について、1.子供の平等(機会の均等。したがって無償を支持)、2.子供の最大限の発達、3.学校間の単純化と協調という原則をたて、この限りで統一学校を支持し、古典的教養によってそれを構成することにも反対である。(2) しかし、科学技術の進歩と複雑に対応していかなければならないエリートの教育と、単純な初等教育とは結局両立不可能である、という前提に立っている。(3)
科学が高度に発達すれば、それを理解できるのは、それだけ少数になるという意見は、おそらく多くの人の実感であったろうし、また今日においてもそうであろう。そしてこの問題が解決されない限り、「教育の平等」もまた実現しない。「競争の平等」になってしまうだろう。制度が全ての人に開かれるのに加えて、教育内容が、平等を保証するようなものに体系化・整備されること、また理解しやすい教授方法が生み出されることが、最低限必要であろう。
ランジュバンは、こうした平等の保証の問題について、二点で答えている。
第一に、「真の『科学』と高い『教養』の恵みに万人を浴させることは可能であるとともに必要であるという深い信念」(4) である。
第二に、それまでの科学の教養が教義的で、生徒に興味を起こさせないものであり、生徒の発達段階に即し、かつ現実生活と関わった内容にすることによって可能だ、ということである。ランジュバンは先述した第二段階の教育について、「私が個人的に確認したところでは、できるだけ広く実地作業に基礎をおいたそのような教育は、この年頃の子供では素晴らしい成功をおさめております」と自らの体験を述べている。(5) もちろん、ランジュバン自身、科学の最先端を全ての者が理解しうると言っているわけではなく、生活の準備であり、土台となる一般教養の獲得の可能性を述べているのである。
第一の信念は、このように述べられる限りでは万人の承認を得られるものではあるまい。しかし、それはランジュバンが全ての科学・社会・生活の基本と考えた「正義の原則」の教育への適応であった。学校で実際教えられている内容が不備である限り、それが理解できないことをもって生徒の能力の可能性を否定することはできない。この単純な原則をランジュバンは断固堅持するのである。
<註>
- ビアールは新しい中産階級の創出を意図していた。F.Vial "L'Enseignement secondaire et la Démocratie" 1901
- F.Vial "Vues sur l'école unique" 1935 p83
- ibid. p58
- P.Langevin "La pensée et la l'action"
- P.Langevin 'Contribution de l'enseignement des science physiques à la culture générale' 1931 "Pour l'ere nouvelle" 1947 p181 『科学教育論』 p140
(4)ワロンの教養論
<職業指導と教養>
以上ランジュバンの統一学校論と教養論を検討したことからわかるように、「ランジュバン・ワロン計画」の原則はほぼランジュバンの理論によって成り立っている。しかし、ワロンの理論的貢献も明瞭に認められる。ワロンが医者として出発し、とりわけ異常児の研究を土台として新教育運動に参加していった経歴は、ワロンの社会についての分析にも大きな特色を与えている。ワロンの統一学校運動批判の中に明瞭にみてとれるように、正当な目標を掲げた運動が現実の社会諸関係の中で生じる逸脱に対して鋭利な批判を加え、その対策を提起した。二一ス大会でワロンがランジュバンと逆の視角で教養と職業の関係を述べたことは前に書いた。その意味を確認しておく必要があろう。
ワロンが述べた、教養と職業の転倒とは、統一学校論・教養論という視角からみて、二つの意味をもっている。
まず職業指導である。職業指導はフランス統一学校運動の中で特別重要な意味をもっている。統一学校の父がコンドルセであるように、(1) 職業指導の父もコンドルセであったといえる。コンドルセは次のように述べていた。
その趣味や素質はある職業にむいておりながら、公教育の不備のために、その教養の貧しさの故に適職から全く締め出されたり、あるいはその職場で無能扱いをされ、厄介者にされてしまうような人達のために、そうした適職に就く途を開いてやることは、実際上の平等にとって有益なことである。それ故公権力はこれらの人々に、そうした知識を獲得する手段を確保し、容易にし、増すことをその義務の一つに加えなければならない。(2)
このように、職業指導は人の平等、職業選択の自由という基本的人権のコロラリーであるがゆえに、統一学校運動の中でも重要な課題として主張された。フォンテーニュ(Juline Fontegne)は「統一学校の支持者は、行政的に高い機能と自由を導く知性を重視している。機械の発達で知性が労働者にとってますます重要な者となってきている。それ故職業指導が不可欠となるだろう」と述べ、子供の権利を守ることを主張した。(3)
しかし、第一次大戦を経過した段階では職業指導はむしろ支配層にとって、労働者の選抜として重要な意味をもってきていた。ワロンはまず指導と選抜を概念として峻別する。1930年の著書では次のように書いている。
選抜と指導とは手続きの上で部分的に類似しているものの、観点は正反対だ。選抜は一定の作業にとって必要な人間を選ぶことであり、指導は各人の能力にふさわしい作業の種類を選ぶことである。(4)
選抜は合理化の論理であるが、個人のための指導も適切な労働力を提供するので、社会経済にとっても大切なものである。しかし、「指導は労働者の全運命について明示し、その全人格に直面しなければならないので、選抜の基準だけにしがみつくことはできない」のであり、出身・遺伝・環境・教育等様々な要因を知る必要がある。(5) このようにワロンは様々な調査方法を検討しているが、問題の困難性を強調しながらも職業指導の可能性について信頼していた。しかし、2年後の二一ス大会の報告は、それがあまりに楽観的であることを反省するのである。「職業指導は間違った道を進むのを避けるために極めて有効であるが、個々人の個性・各人の本性とその人が社会の中で果たすべき任務との間の対応関係を定める真の力をもたないという困難に常に直面」する。それは、技術の急速な変化によって個人がそれぞれ社会の中で妥当な地位を見出す予定調和はありえないばかりでなく、技術の発達がかえって労働を過酷にしているからである。(6)
<註>
- F.Vial op.cit. p61
- コンドルセ『公教育の原理』 p13
- "Revue Universitaire" 1926 p237 1926年1月29日の会議での発言。
- ワロン『応用心理学の原理』松島均訳、明治図書 p119 現在では、「指導」という概念は、指導される生徒が主体的に選ぶ「選択」という概念と、併せて考慮されることが重要であろう。
- 同上
- Henri Wallon 'Culture générale et orientation professionelle' in "Pour l'ere nouvelle"1932 p246 『ワロン・ピアジェ教育論』竹内良知訳、明治図書 p13-16 二一ス大会については、堀尾「世界の教育運動と子ども観・発達観」『岩波講座子どもの発達と教育2』に詳しい分析がある。
<試験制度>
さて、職業指導と関連して大きな問題がもう一つ発生していた。それは入学試験制度である。それまでフランスは試験制度が極めて発達した国であったが、高等専門学校(Grandes école)等例外を除いて、バカロレア等にみられるように、修了試験・資格試験であった。進学についてみれば、正規の学習を修めたことを試験によって認定されれば、上級の学校に進学する権利を得た。しかし、中等学校の開放とともに事態は変わっていた。初めに奨学金を支給する選抜試験が1926年に始められ、1933年に入学試験が制度化された。能力がありながら経済力のないため進学出来ない者に道を開くことは何人も反対のないところであったので、(1) これらの措置は段階的に、財政の許す範囲で実施された。しかし、これは一方で教育における能力主義の実施であった。つまり、認定試験が殆どであった教育界に競争試験が導入されたのである。これは更にジャン=ゼイ改革へも大きく影響した。
中等学校の入試は、常に「指導」と結びついていた。いうまでもなくそれは職業指導という発想、行為の影響であったが、中等学校への指導は学校選択の指導に限定されていた。ジャン=ゼイの指導学級はこの意味の指導を一学年の学級で行おうとしたものである。そこにテストが大きな力を振るったのは当然のなりゆきであろう。
ここで確認しておくべきことは、ワロンのテストに対する原則であろう。いうまでもなくワロンはテスト自体を否定はしない。テストのもつ限定的意義を踏まえ、常に知性によってテストを発展させていくことによって、テストの有効性は存在する。しかし、「方法の成功や外見上の安易さによって引き起こきれた熱狂が、この根本の真理を忘れさせるとき、この有用な研究はすみやかに愚行の雑然とした堆積の下に埋没させられるのだ。」(2) テストは現実に学校に統制を及ぼしており、(3) 優秀児の選抜に利用されている。(4) それはテストの問題であるとともに学校制度の問題でもあろう。
個人にとってふさわしい進路を選ばせる「指導」が、現実には中等学校にとって必要な生徒を選抜する機能しか果たさない。テストが優秀児の選抜を志向する限りそれは必然的な結果であっれ心理学はそこでは「教育度量衡学」(5) に堕していた。解決策はテストが度量衡学であることをやめることであり、「指導」と「選抜」を統一した ── 「指導」に重点をおくことは当然であろう ── 制度が必要であろう。1年の「指導学級」は短すぎるのであり、長期の「観察指導期」が構想されねばならなかったのである。
さてワロンは、周知のように子どもの発達が、初めから「社会的」なものであることを主張した。もちろんそれは、教育制度論として言われたものではなく、まして統一学校運動の関連で提起されたものでもない。しかし、この認識は教育制度のありかたについても、重要な意味を与えるものである。
選抜やテストは、 ── ワロンにならって言えば、教育度量衡学から抜け出さない限り、人を分けていくものである。つまり、そのような人間関係は、常に「個別化」される方向にある。もし、発達が社会的なものであるなら、そうしたあり方は、発達の疎外形態に他ならない。
ワロンの発達論は、この時点で統一学校論と結び付いたわけではないが、選抜の一機構となる「統一学校」への根本的批判の概念を準備するものであった。「ランジュバン・ワロン計画」及びその後の教育理論の発展の中で、果たされなければならない課題として、提起されたのである。
<註>
- もっとも頑迷な保守主義者は、授業料を払って良い教育を受けるのは親の権限だという理由で無償化に反対した者もいる。V.Bouillot 'Les classes élémentarire et école unique' in "Revue Universitaire"1924
- ワロン『応用心理学の原理』 p50
- 同上 p105
- 同上 p103
- Pieron 'Les Méthodes de Mesure' in "Bulletin de la Société Française de Pédagogie"1938.1-2 No66 p7-8
<教養とモラル>
さて、残された問題はモラルである。ランジュバンはモラルを含んだ教養を主張した。
デュルケムの道徳教育論のモチーフが社会の紐帯、集合意識の崩壊に対する社会的統合の意識を新たに創出することにあったことは先にみた。デュルケムはそれを「規律の精神」「社会集団への愛着」「意志の自律性」の三要素で表現したが、問題は社会的に定立した道徳をいかに自発的なものとして内面化するかにあった。デュルケムの道徳論を繰り返し批判したピアジェもこの前提は共有していた。ピアジェのデュルケム批判は、強制と協力を区別せず、結局は道徳観念の発達を強制に帰着させている、という点にあるが、(1) ワロンもこの点で同じ立場にあるといえよう。
規律の伝統的な概念は、形式的・集団的規律であり、子供に静かさ・従順・受動性を獲得させようとするものであるが、子供に不可欠な協力・知識への好奇心・知的創意の発達を妨げる。(2) 集団はたんなる寄せ集めではなく、協力に基づかねばならない。(3) 子供には能動性が必要だからである。(4) デュルケムは伝統的理念としての「集合的表象」を子供の中に合体させることを目的としているのであり、(5) 伝統的規律の欠陥を克服していないのである。
この子供の発達の側面からの批判に加えて、ワロンは選抜の問題をモラルの面からも分析する。ワロンの職業指導論が、統一学校を社会的選抜の機構とする理論への批判であることは既にみた。デュルケム学派の理論が、職業分化に対応した個人を創出することを志向する限り、個人にとって働く外的強制が、自律性を損なうことは避けられない。指導の概念ぬきには克服できない問題なのである。しかし、ワロンは更に進んで指導そのもののもつ矛盾に直面して、それを職業と教養の関係の転倒によって打ち破ろうとした。その転倒はモラルの内容の転換でもあった。
人々を互いに統一すべきものが教養であるとしても、古代においても教養は奴隷制の上にあったし、(6) 今日でも科学こそ、知識人と肉体労働者の区別をつくりだしている。(7) 1920年代の統一学校運動はこの問題をむしろ深刻化させたとワロンが批判したことは先述した通りである。
しかし、それは今日までの教養の質に規定されているとワロンは考える。「一般教養」にある伝統主義、古典主義こそ、他人に対する優越を目的としているのである。(8) 伝統主義の教養がそのように人を分け隔てるばかりでなく、主張者の意に反して教養を阻害することを、ラテン語をやるとかえってフランス語を忘れるという経験によって暴露している。(9) そこでワロンはソビエトの実験に学んで、職業を出発とする教養を提起する。ワロンがソビエト訪問で学んだことは、学校における子供の能動性、工場労働者の学習、知識人の労働者からの登用であり、とりわけその登用の際の原則を重視している。
彼等は知的能力にしたがって選ばれるばかりでなく、他人のために献身し、共同大義のために献身する資質にもしたがって選ばれるのであります。はじめに陶冶の統一(unité de formation)であることは皆さんがおわかりのとおりであります。それこそがおそらく人間を互いに一つに結びつける或る国、或る環境の人々だけでなく、地上の全ての人々、全ての時代の全ての人々をも一つに結びつけるあるものの根源であります。(10)
このようにワロンは教養の質の点検とともに、社会による選抜と教育による指導の矛盾を動態的に解決していく試みとして、職業に基づく教養、陶冶の統一を主張した。これはデュルケム理論の二段階の否定であった。
<註>
- ピアジェ「子供における道徳観念の発達」『ワロン・ピアジェ教育論』小関前掲書参照
- H.Wallon 'Discipline et Troubles du caractére' in "Tulletin de laSociété Française de Pédagogie"
- ワロン『児童における性格の起源』久保田正人訳、明治図書 p93 『ワロン・ピアジェ教育論』 p56
- ワロン「学校における印刷」『ワロン・ピアジェ教育論』 p59
- H.Wallon 'Philogophie de l'enseignement en France' in "L'activité philosophique contemporaine en France e Etats-Unis" ed. M.Farber 1950 p341
- H.Wallon 'Culture générale et orientation professionelle' in "Pour l'ere nouvelle" 1932 No80 p249 『ワロン.ピアジェ教育論』 p23
- ibid. p250 同上 p27
- ibid. p250 同上 p26
- ibid. p249 同上 p24 フランス語はラテン語から派生したので、フランス語を理解する上で、ラテン語学習が不可欠だというのが、ラテン語が必要だという根拠付けであった。
- ibid. p25 同上 p31
(5)まとめ
以上、ランジュバンとワロンの統一学校論と教養論を通して、「ランジュバン・ワロン計画」の形成史をみてきた。それは19世紀から20世紀にかけて生じた社会的危機 ── それは資本主義国が帝国主義段階に入ったことで起こったが、この時期に教育も現代に連なる問題を生じさせた ── 科学の危機に対する克服の努力の中で形成されてきた。
当然このような事態に他の様々な理論的試みがなされていた。何よりもまず社会的な危機に立ち向かう主体が問題であり、教養論は主体の問題と不可分であった。
ビアールは民主主義の担い手には知性が要求されるという理由から、大衆ではなく中産階級に期待し、教育の目的は諸個人(individu)を人間(personne)に変えることだとした。このような立場から、ランジュバンの統一学校論を神話・空想と批判し、先端の科学技術を支えるエリートこそ新しい社会の中心であり、統一学校はそうしたエリートを作りだすための機関であると位置づけた。しかし、ビアールによって退けられた大衆がファシズムの尖兵として反抗した時、逆にビアールの民主主義は無力であることが歴史によって証明された。文相ジャン=ゼイの時に、ビアールが教育政策の場から身をひいたことは象徴的である。
デュルケムの理論は資本主義の展開を見通した改良的性質をもっており、とくに社会の危機の克服の一つを教育に求めた点で、支配層による改革の方向を、長期の視野で示したといえる。しかし、究極的にデュルケムの理論は社会側から個人を選別する制度に帰着するのであり、選別が制度化されるほど、デュルケムの志向した道徳の自律性は阻害されざるをえない、という矛盾から逃れることはできない。
それに対してランジュバンは主体を全ての国民に求め、人文主義の伝統の最良の部分 ── 人間的価値 ── を科学の発展に即して作りかえ、個人の発達に応じた教育によって全ての者が一般教養を身につけることが必要であり、可能であることを主張した。そして、一般教養を身につけた時初めて、個人の職業選択が社会の一方的な選抜に終わらない保証がなされるのである。
ワロンはランジュバンの理論を踏まえて、それが社会の中で動態的に作用するための対策をデュルケム論の二段階の批判を通じて明らかにした。
第一に、選抜による自律性の阻害に対して、個人にとって望ましい職業を選択させる「職業指導」を実質的に機能させること(進路指導期)。しかし、それは社会分業とのずれに常に直面せざるをえない。そこで、第二に、職業と教養の関係の転倒が求められるのである。その意味するところは陶冶の統一、つまりランジュバンによって再生された「人間的価値」の観点から、選抜や指導がなされるということであり、将来的には、社会と学校の関係が相互に選抜・指導を行い、新しい形態になるということであった。
最後に「人間的価値」を実現する一般教養の一般性の概念についてまとめておこう。
ランジュバンとワロンは一般教養について教養概念の内的要素だけでなく、その歴史的現実性についての新たな規定を行ったのである。二人は二つの点で教養の一般性概念を拡張した。
第一に、国民全体が人間として生きていく上で必要だ、という点。第二に、訓育(éducation)と陶冶(instruction)という従来の二分法からすれば、後者の要素であった一般教養をモラルをも含めた陶冶の統一として捉え直すことである。しかし、同時に精神の訓練という伝統的概念を否定したのではなく、むしろこの拡張された形態においてこそ正しく機能すると理解したのである。
そして、この教養概念の土台にあったのは民衆こそ科学・歴史の進歩の源泉であるという深い確信であった。