第六章 階級的及び国民的統一学校論
第一節 ドイツ共産党の批判的統一学校論
(1)はじめに
第一次大戦を契機として社会民主主義政党が、体制内に取り込まれ、教育政策の分野においても、ワイマールの学校妥協やイギリスのハドーレポートに見られるように、労働者政党が積極的に体制的政策の作成に携わっていった。もちろんこのことは見方を変えれば、労働者政党が政策担当の主体的力量を獲得したのだとも言える。しかし、1922年の労働党の文書とハドーレポート、社会民主党の政策と学校妥協を見れば、本来目指していものとは、かなり異なった政策しか実現できなかったことも否定できない。
とりわけ大きな意味をもったことは、実現した統一学校運動の要求は、決して労働者階級の教育機会を飛躍的に高めはしなかったし、むしろ労働者の進学を抑制する傾向の方が高かったことである。また、次第に学校が「選抜機構」になっていき、今日の学校制度の最大の問題である、入試問題を出現させたことである。結局「統一学校運動」の要求が実現したからといって、それで国民の多くがより良い教育を教授できるわけではないことが、統一学校運動の進展とともに明瞭になってきたのである。
もちろん既にこのことは当時批判されていた。そこで次に階級的論理に基づいて「統一学校運動」を批判したドイツ共産党(Komuunistische Partei Deutschland 以下KPD)を扱うことによって、こうした事態がどのように考察されたかをみよう。
SPDとKPDが分裂するのは11月革命後であるが、周知のようにSPD内に三つの潮流が形成されるのは、19世紀末からのことであった。そして、マンハイム党大会で中央派のH.シュルツと左派のツェトキンによって教育改革案がはじめて定式化されたことは既に繰り返し紹介したが、第一次大戦開始後、H.シュルツ等多数派が、現実政策の中ではマンハイム党大会のテーゼを裏切っていく中で、KPDに結集していった人々はこのテーゼを擁護していくことになる。しかし、マンハイム党大会のテーゼそのものが、実は先に分析したようにあいまいなものであり、それがKPDの政策に影響した。
ところで、KPDの教育理論を分析することは今日極めて困難が大きい。まず第一に、それはKPDがワイマール期を通じて政策的揺れが大きく、かつ頻繁であったため統一的把握が容易でないことにある。又このことと関連してKPDは地域的な機関誌紙を多くもっており、指導者争い、路線論争ともからんで人的位置と理論を整理することが困難なことである。(1) SPDの場合もそうであったが、教育学研究においては政治的路線と教育政策が必ずしも対応しないという事情が加わる。
KPDは創立大会から、かなり基本的な路線論争を激しく闘わせながら出発した。(2)
そして、べ一ム(W.Böhm)によれば、1918年のKPDは教育の機能について共通認識が形成されておらず、ローザ=ルクセンブルクに代表される、特別の社会主義的教育形態はいらないとする考えと、カール=リープクネヒトに代表される社会主義的改革が必要であるとする考えが対立しており、しかも二人の暗殺という事情もあって充分討議されることもなかったという。(3)
更に次のような事情が加わる。これまでのKPDの研究には特有の欠陥があった。大戦間の社会主義運動はスターリンの抑圧的な政策によって、大きく影響を受けた。他の社会科学分野ではこの点は、比較的分析の際に考慮されているが、教育学の分野では殆ど無視されたままである。
ごく最近のブハーリン再評価によって、ブハーリンが政治的には復権していくことになるであろうが、これまで教育学の分野でブハーリンを積極的に扱った論文はない。しかし、KPDの教育政策形成の上で常に高い評価を得てきたツェトキンは、終始変わらぬブハーリン派であったと言われている。(4) そしてツェトキンの論理には明瞭にブハーリンを支持するものが認められる。一言でいえば「均衡論的発想」である。
マルクス主義教育理論の中では、一般政治面でのブハーリン否定・無視と、教育政策面でのツェトキンヘの高い評価が、これまでの通例であった。しかし、これは総合的な評価としては矛盾したものである。KPDの教育政策を分析するには、今やこのことが無視できない。社会主義理論の未解決の論争点がここに含まれているからである。
<註>
- USPDとの関係は教育政策上困難な事情がある。1920年以降USPDとKPDは合同するが、通常KPDの教育イデオローグとされるツェトキン、ノイバウアはUSPDに籍を置いた期問が長い。しかし、本論文は歴史的事実を掘り起こすことを目的とするのではなく、SPDの多数派と異なる階級的論理を析出することを意図しているので、乱暴ではあるが、1920年の合同を重視して、USPDとKPDの人的動向については考慮の外においた。その詳しい動向はO.ブレヒトハイム『ワイマール共和国期のドイツ共産党追補新版』高田繭邦訳ペリカン社
- 例えば次のような対立があったとされている。
1.名称問題 R.ルクセンブルグはボルシェビキと西欧社会主義の架け橋を務めるという意識から「社会党」を主張し、多数派はボルシェビキとの連帯を誇示するために「共産党」という名称を主張した。
2.国民議会選挙への参加問題 P.レヴィやR.ルクセンブルグの参加の主張はオットー=リューレの阻止派の反対で、ボイコット論が強くなった。
ヘルマン=ウェーバー『ブレヒトハイム ワイマール共和国期のドイツ共産党』の解説序文高田爾郎訳
- Winfrie Böhm a.a.O. s190
- コーエン『ブハーリンとボルシェビキ革命』塩川伸明記未来社 p344
(2)統一学校運動批判の論理
<KPD教育政策の基本的性質>
マンハイム党大会でツェトキンは、「労働者階級と家庭教育」という題の演説を行った。体調を崩しており、途中で退場しなければならなくなり、その時演説は後日完全な形で出版されることが申し合わされたが、実行されなかった。このことが当時のSPD指導者の態度をよく表している。(1)
ツェトキンは、最も大切なことは「子どもを社会主義的世界観の精神で教育する」ということであり、(2) 公共の教育と家庭の教育は互いに補いあうものである、という。そして基本的に大切なのは、公共の教育である。
多数の家庭が教育能力を失っているため、今日プロレタリアートのあいだで際だっている障害にだけ目を向けるならば、わたしたちは今後これらすべての障害を取り除くこと、婦人を家庭に引き戻し教育をもっぱら家庭の仕事にしておくことをめざさなければならないかもしれません。しかし、教育の目標はたんに人格を教育することだけでなく、公衆との関連を自覚した人格を育てること、つまり、社会に負い、社会のおかげを受けている事柄を自覚できる人格を教育することでなければなりません。私たちが公共の教育を必要とするわけは、社会に必要な社会的美徳の根っこであるようなあらゆる気持ちをもっとも感じやすい幼児のうちから子どもの心に育ててやるためなのです。(3)
しかし、資本主義国における公共の教育であるから、社会主義的教育がおこなわれることは期待できない。そこで家庭に、学校にすこしでも社会主義的教育をさせるように、働きかけるという課題と、家庭内において社会主義的世界観を育てるという課題がある。そのような意味で家庭教育は公共の教育の補充なのである。
では社会主義的教育とは何なのか。
ツェトキンはそれを明確に定義しているわけではないが、次の主張によって伺うことができる。
社会主義的世界観の精神による教育は、未成熟の子どもたちに綱領的公式の暗記を強いるようなやり方によってはおこなわれません。そうではなく、それらは、その目的にふさわしい精神陶冶によって、子どもたちが社会主義の理論を理解し社会主義的志操を身につけることができるようになることを求めるものなのです。この教育に含まれるものは、子どもたちを自然的・社会的生命およびその原動力の世界に導き入れ、彼らにあらゆる自然的・社会的存在の無限の連鎖の一環として人間をとらえさせること、子どもたちが自由を意欲し行使できるように教育すること、兄弟愛の気持ち・真理・自由・正義そして美しさを愛する気持ちを彼らのあいだに自覚し養い育てることなのです。その際、教育者本人の生きた模範による教育がもっとも重要な要素となります。党の同志たちがこの責任の重い任務を果たすことができるためには、彼らは自己の理論的で社会主義的な継統教育に心を配ることに熱心でなければなりません。また、厳しい自己訓練によって自らの性格形成に努めなければなりません。(4)
では、どのような方法で行うのか。
あらゆる自然の事物を子どもに観察させることによって、徐々に、自然界の外にある超感覚的ないっさいの影響をはねのけ、排除するように教えてやることです。換言すれば、事物そのものに内在する一定の自然法則にしたがって、生起する自然の過程を、すべての自然の出来事や自然現象の中に見て取る習慣を子どもにつけてやればよいのです。(5)
次に生産的労働に対する教育の意義である。
遊びから次第に創造的な活動の喜びを感じるように、注意深く教育を行っていくことが両親の重要な義務であるとする。(6)
ノイバウアーは、国民経済学校(Volkswirtschafschule)の要求の中で、国民経済・私経済・労働権・社会政策を核とすることを求めている。したがって、基本的には労働者的権利と経済の仕組みについての理解を求めている。(7)
次にドゥンカーの見解を見ておこう。
ケーテ・ドゥンカーはツェトキンと並んで、KPDの教育面での中心的理論家であった。
公共の教育を第一としたツェトキンに対し、ドゥンカーは家庭の教育を第一とする。それは労働者階級にとっての教育の必要性の認識の相違といえるかもしれない。
農村共同体の中では、共同体や家庭の労働に参加することによって、教育は自然に行われていたが、農村共同体の崩壊と都市の発達によって自然な教育の基盤が消滅したところに、ドゥンカーは労働者階級の意図的な教育の必要性が生じたと考える。したがって、本来的形に最も近い家庭こそが、第一の教育の場なのである。
まず第一に家庭を再び子育てのできる場としなければなりません。そのための方策としては次のことがあげられるでしょう。父母ともども子ども達のためにあけておく自由な時間を再び手にいれるために、夫や主婦の労働時間を短縮すること、子育ての場としてふさわしいような空間や和やかな雰囲気を確保するために、住宅を大々的に改良すること、男女の別なく子育てのための準備教育を施すこと、ただしこの場合には補習学校と関連付けて考えることもできるでしょう。また成長途上の少女の場合には、更に保育の実習を加える必要もあるでしょう。(8)
したがって、第一次的に責任を負うのは親である。
周知のように社会は個人を超越して存在しています。したがって、子どもを生むことはもはや親のたんなる私事ではありません。親はわが子の資質に対する責任を社会にたいして負っていますし、また自分達が生んだ子どもの資質に対する責任を子どもに対しても負っているのです。だから、社会主義的モラルの原則のもとでは刑法典に規定されてはいないけれど、胎児に対する犯罪ということも存在するのであります。(9)
一方、学校というものは、社会主義的教育を期待するには極めて不適当なところである。
それは一つの階級学校なのであって、善良なキリスト教徒、従順な臣下、おとなしい労働者を養成するように定められているのです。そのための前提はもちろん民衆を『臣民の浅知恵』にとどめておくことであります。そしてそのことを主に引き受けるのが宗教教授なのです。宗教教授は、聖書物語においてもまた公教要理の公会間答教授においても、原因と結果との自明な関係を至るところで偽造します。奇蹟によって破りえないような自然法則は一つもありません。しかもその上に健全な論理的思考能力をいじめぬきます。(10)
つまり、民衆学校には子どもを明せきな頭脳に教育するという目的は全くないということである。
では、ドゥンカーの場合、社会主義的人間像はどのようなものであろうか。
私たちが必要とするのは、健康でたくましく、頭脳明せきで階級意識があり、強い正義感と社会的感覚をもち、意志が堅固で団結して行動することのできる人間であります。そのような人問を育成すること、それが社会主義的教育の目標なのであります。(11)
そして共同体の中の人間像である。
私たちはロビンソン・クルーソーの孤島ををめざして、教育するのではありません。そうではなくて社会共同体をめざして、すなわち個人は当然その一員であるとともに、必要とならばそれにしたがわなければならないような社会共同体をめざして、子どもを教育するのであります。(12)
以上に見る限り、当時の社会主義教育とは、社会主義意識を形成することであり、その内容は、階級意識であった。ワイマール時代は第三の科学革命の時代であるが、KPDの教育意識にはそれはまだ反映されていなかった。
<註>
- この間の事情については、保田正毅・大崎功雄「ドイツ労働者階級と家庭教育 ── 第一次世界大戦前を中心に」ツェトキン・シュルツ他『家庭の教育』明治図書の解説論文に詳しい。ツェトキンが教育について、党で政策を述べるようになるのは、1904年の社会民主党婦人会議でのことであった。Luise dornemann "Clara Zetkin Leben und Wirken" 1979 s181
- ツェトキン「労働者階級と家庭教育」ツェトキン・シュルツ前掲 p95
- 同上 p102
- 同上 p95-96
- 同上 p105
- 同上 p106
- Neubauer 'Thüringer Landespolitik. Die Thüringer Volkswirtschaftsschule' a.a.O. s132-133
- ケーテ・ドゥンカー「社会主義的家庭教育論」1908 ツェトキン・シュルツ前掲 p169
- 同上 p174
- 同上 p197
- 同上 p179
- 同上 p206
<教育の階級性批判>
ツェトキンがH.シュルツとともに、マンハイム党大会の主報告者であったことに象徴されるように、KPDはSPDと同質の教育論をまだ多くもっていた。それは第一に、ブルジョア教育の把握に現れている。KPDは1919年3月に次のような声明を出した。
今日の社会において学校は、市民階級の支配の道具である。それは一方では『国民』を支配する力のある『主人』を教育し、他方上の者に進んで従う奴隷を訓練(abrichten)する、という目的をもっている。
理論的には、プロレタリアの子が中等学校に行くとしても、何ら妨げるものはない。しかし、実際にはそんなことは起こらない。何故なら労働者は普通授業料とか、衣服とか余分の支出など払えないし、14歳の子供の給料を諦めることなどできない。
資本は知能の低い労働者と高い労働者が必要であって、それでここ10年来、学校改革が叫ばれるようになったのである。統一学校とか労働学校という社会主義的に書かれた要求が、戦争中ブルジョア連中の間で流行になったのだ。(1)
ここにはブルジョア教育は支配の道具であって、労働者に対して高い教育を保証するものではない、という認識がある。「統一学校・労働学校は資本主義社会では、決して実現しない。唯一共産主義社会でのみ実現する」(2) という主張を合わせれば、ブルジョア連中の流行は、決して本気で高い質の労働者を求めているのではない、という理解が読み取れる。
したがってブルジョア教育が主に宗教教育であり、道徳についての教育である、との把握も共通であった。
ブルジョア学校は、宗教的道徳的教育を必要とするのであり、決してそれを廃棄することはできない。ブルジョア社会での矛盾は極めて強いので、無条件に強力なイデオロギー的権威が必要であり、このイデオロギー的権威は宗教教授によって与えられ、道徳教授によって容易に与えられることを知っている。(3)
第二に、統一学校を社会主義教育の形態とみる点である。先に引用したように、KPDは統一学校は共産主義になってはじめて実現するとみていた。(4) 全国学校法案の提案に際して、ノイバウアは次のように述べていた。
これまで我々自身が擁護してきた統一学校という目的を除こう。それは我々の幻想である。統一学校は引き裂かれ、修復されることはない。(5)
さて、教育制度認識で大きな共通性をもちながら統一学校政策についてSPDとKPDが全く対立する立場に立つことになったのは何故であろうか。
教育認識についてみても、ツェトキンの認識は既に第一次大戦前から相違を示していた。1904年のブレーメンの婦人会議で、親の階級的経済的地位による区別のない普通義務小学校(obligatorische einheitliche Elememtarschule)に基礎を置く、無償の統一的学校体系を主張しながらも、(6) 「私は統一学校についてもあまり多くのことを期待しておりません。今日の経済体制が存続している限り、子供に対する初等学校の領域は、私的な教授によって補充されるのは止むを得ないでしょう」と述べている。(7)
統一学校は資本主義で全く実現しないというものではなく、ブルジョア的な意味では実施されるものであり、しかし、それにも関わらず教育問題を解決するものではなく、それ故私的解決にまかされることが残るということである。したがってここでは統一学校の資本主義的形態と、社会主義的形態との区分が予想されている。更に教育組織における公的制度と私的組織という機能分化を認めている。こうしたツェトキンの論理は、萌芽的ではあるが、移行形態としての統一学校という位置づけを示しているのである。
ではKPDは「統一学校運動」をどのように批判しているのか。
それはまず何よりも、ワイマールの統一学校政策は労働者が上級学校に行けるようにする政策ではない、ということにあった。
ワイマール憲法は146条で、公的学校制度を有機的に構成し、全ての者に共通な基礎学校の上に、中級・上級の学校制度がつくられることを規定したが、中等段階の学校の三類型を容認したものであり、しかも労働者が上級の学校にいくことを妨げる、とヘルンレは批判している。(8) 事実、当時中等学校の生徒は労働者階級出身者がわずかに4%であった。(9)
そして、ザウペが紹介している各州の改革は、ほとんど全てが労働者の特別に優れた子供を中間学校(Mittelschule)に入学させるというものであり、それが難しい農村では「上構学校(Aufbauschule)」を作るというものであった。(10)つまり当時進んでいた改革は経済的地位で進学が決められることはないとしながらも、その障害を取り除く施策はほとんどなされなかった。
このことは無償についての議論に端的に現れている。
改革教育学は、才能ある者の進学を保証するために無償を主張した。
H.シュルツはそれだけでは充分であると認めなかった。彼は才能ある者の進学のために補助が必要である、と主張した。しかし、実際にはそのような措置は採られなかった。(11)
憲法146条は次のように規定していた。
1.公立学校制度は、有機的にこれを構成しなければならない。すべての者に共通な基礎学校の上に、中級および上級の学校制度がつくられる。これをつくるについては、多種多様な生業に応ずべきであり、子を一定の学校に入学させるについては、その資質と性向とを標準とすべきであって、その両親の経済的および社会的地位、または宗教上の進行を標準とすべきではない。
ヘルンレは次のように憲法146条を総括している。
ドイツのブルジョアジーは世界大戦を通じて、あらゆる種類の職長・技師・化学者・管理者・役人を補充するのには、旧態依然たる同種支配では間に合わないことを認めたので、『能力ある者に自由な道を』という合言葉のもと新労働貴族培養のために数年来計画的なキャンペーンを行った。(12)
つまりKPDはブルジョアの改革は、ごく少数の優れた才能をもつ労働者の子供のみに道を開く改革であるとして、文字通り普遍的な基礎学校・中等教育の拡大を対置したのである。
事実、統一学校主張の全ての共通項であったギムナジウムの予備学校の廃止は引き延ばされた。1927年に予備学校の数は全国で男18校72学級、女177校683学級となっており、(13)1925年の法律で、基礎学校の3年修了が認められた。
労働者階級のための保障措置がなされなかったのは、戦後の経済的困難も大きかったが、憲法そのものの規定の中に要因があった。確かに憲法146条第3項は次のように規定していた。
資力の乏しい者の中級及び上級学校への進学については、ライヒ・ラント及び市町村によって公の資金が容易されなければならない。特に中級および上級の教育に適するとみられる子供の良心のために、教育の終了まで学資の補助が用意されなければならない。
しかし、この条文は次のように解釈されていた。
第一に、第120条の親の子供の教育に対する義務がここでも原則であること。
第二に、上級学校へ進学するに際しては、国民学校の教師の権限が決定的であること。
第三に、予備学校によって資力のある者のみに中等学校が独占されることについて楔をうちこんだものであること。(14)
この解釈には、公的補助が具体的にどのようになされるべきかという意識はみられない。
したがって、KPDの批判は子どもの状態を改善しないことには、教育の問題はエリートの問題に過ぎなくなるというものであった。KPD関係の全ての教育論者は、プロレタリアートの子どもの状態の改善を常に訴えている。(15)
教育の階級性とは一部の者しか進学できない学校体系を主に意味していた。
<註>
- 'Aus einer grundsätzlichen Stellungsnahme der KPD zur Schulfrage nach dem Scheitern der Novemberrevolution, Bügerliche und proletarische Schulreform' in "Jahrbuch für Erziehungs ── und Schulgeschichte" Jg8 1968 s171-173
- ibid.
- Ernst Schneller "Schulpolischen Reden in Sachsischen Landtag Teil 2" herg. Karl Heinz Zieris s253 シュネラーについては、Barbel Splettstosser 'Das Wirken Ernsdt Schneller für die Herausbildung und Entwicklung kommunistischer Jugendweihen' in "Jahrbuch für Erziehungs ── und Schulgeschichte" 1982 シュプレットシュテーサーによれば、シュネラーはプロレタリアートの運動によって学ぶとして、学校はあまり重視していなかった。
- 1925年、1929年に同様の趣旨が再確認されている。'Kommunistische Partei Deutschlands. Proletarische Schulprogramm' Michael a.a.O. s131
- T. Neubauer 'Klare Schulpolitik 1921' in "Die Neue Erziehung der sozialistischen Gesellschaft" s110
- Clara Zetkin 'Die Schulfrage' in "Ausgewaählte Reden und Schriften" Bd 1 s259
- a.a.O. s260 ツェトキン『民主教育論』五十嵐顕訳 青木書店 p29 大戦前のツェトキンの教育論については大崎功雄「クララ・ツェトキンの家庭教育論の人格論的考察」『日本教育史学』13集所収1970
- ヘルンレ『プロレタリア教育の根本間題』五十嵐顕訳 明治図書 p70-71
- Schneller a.a.O. s264 これは1921年頃の統計。Geschichte der Erziehung は1926年に高等学校進学率は6.5%で、その内4%が労働者階級であるとしている。s586
- "Die Umstaltung des höheren Schulwesens insbesondere die Einführung der deutschen Oberschule und der Aufbarschule"
- 因みにルナチャルスキーはこの当時次のように主張していた。「遅進児に対する配慮は民主主義的な学校の第一の任務である。」『労働教育論』明治図書 p48
- ヘルンレ前掲 p80-81
- "Vierteljahrhefte zur Statistik der Deutschen Reich Schuljahr 1929/27"
- Victor Bredt "Der Geist der Deutschen Reichsverfassung" 1924 s307-308
- Neubauer 'Kampf gegen das Kinderelend. Aus der Rede in der 112. Sitzung am 27 Oktober' 'Gegen den Hungertod! Rede zur Begründung der kommunisitischen Interpellation, betreffend allgemeine Not' in "Die Neue Erziehung der sozialistischen Gesellschaft"
<宗派学校への批判>
次に宗派学校に対する批判をみてみよう。
宗派学校を認める法案をH.シュルツが議会に提出した時、議会でツェトキンは、階級社会の学校は、社会的地位によって垂直に分裂し、宗派によって水平に分裂している、とH.シュルツのかつての言葉によって批判している。(1) 宗派による分裂は、したがって階級社会の所産であり、統一学校を労働者階級の立場から実現するためには、その克服は絶対条件と認識されたのである。ケルシェンシュタイナーやナトルプ、シュプランガーは宗派学校に学校が分裂していることを望ましいこととはみなかった。しかし、統一学校運動の多くの論者達にとって、宗教は最も重要な教育内容の柱であり、彼等は「宗派混合学校」の支持者であった。
それ故それに対する批判は学校と宗教の徹底した分離であり、科学をもって代えることであった。そして、それは一部の学校に適用されることではなく、全学校制度に適用されなければならなかった。(2)
ヘルンレは次のように書いている。
(教会は)搾取と抑圧の制度を正当化したり、神聖化したりして、勤労大衆を従順と卑下と寡黙のままにとどめておく使命を帯びている。教会は発達した資本主義時代にあっては、はっきりとした反文化的分子である。いいかえれば、全ての科学・全ての真正の芸術・全てのプロレタリアの活動はこんにちでは無宗教的であり、反宗教的である。(3)
そして、宗派学校は教会の支配を認めることである。バイエルンにおけるコンコルダート、その一環として宗派学校を認める、という協定に対して、ノイバウアーは次のように反対している。
この規定は単に宗教教授を認める、というのでなく、信念(Glauben)あるいは良き倫理が問題になるすべての場合において、神父の監督を承認することになるのである。(4)
憲法の条項 ── 芸術・学問とその教授は自由である ── は資本主義社会では実現不可能であると、KPDは考えるが、(5) したがって、それが可能であるという立場にたっても、このコンコルダートは憲法の規定を犯すものだとしてその賛成者であるSPDをノイバウアーは、激しく議会で非難している。(6)
<註>
- ツェトキン前掲 p136(1922年の演説)
- Karl Heinz Zieris はシュネラーの演説の柱として、シュネラーのいう世俗性が世俗学校もつくるということではなく、全学校体系についていっていることを注意している。
- ヘルンレ前掲 p88
- T. Neubauer 'Zum Schutz der Reichsverfassung, gegen Verletzungen durch das bayrische Konkordat mit der katholischen Kirchen und die Vertrage mit den evangelischen Kirchen' a.a.O. s187
- a.a.O. s188
- a.a.O. s191
(3)KPDにおける「公共性」の位置
<宗教と世界観>
以上のような宗派学校批判は、同時に「宗教そのもの」に敬意をはらったH.シュルツヘの批判でもあり、宗教そのものの批判に導かれるものであった。「宗教問題は政治問題であって、中立はありえない」とシュネラーは述べている。(1) こうした認識からKPDは一つの戦略をとっていく。長くなるが1927年のKPD第四回大会の決議を引用しておこう。
党大会は、国家コンコルダートと国家学校法への反対闘争を重要な課題として認識する。そして、その解決のために党はプロレタリア大衆組織の結論を共通の行動に導かねばならない。
この闘いはしかし、孤立した文化闘争としてではなく、労働団体の全体的闘争と結合するのと同時に、社会主義的な代表的学校要求(例えば教材・給食の無償・児童労働の反対)と結合して闘われなければならない。
学校の教会化に反対する闘争は、世俗的な統一学校・生産学校のための闘争にならなければならない。
党大会は、とりわけ社会民主党側でとりくまれ、反動によって支持されている世俗的な特別学校に反対する。その設立は結局、全学校制度の統一性、世俗性のための闘いを放棄することにならざるをえない。個々の世俗学校を設立していくと、学校制度全体の世俗化に行き着く、などと考えるのは幻想であり、意図的な誤った指導である。部分的に特別学校にいれられたとしても、90%以上のプロレタリアの子は、無制限にキリスト教的、国家主義的な影響下にとどまっているのである。また世俗的な特別学校においても学校のブルジョア的性格が単に宗教教授を排除するということのみによっては変化するわけではない。
共産党は世俗的特別学校の新設に反対する。それにも関わらず、そのような学校が設立されこところでは、共産主義者は未来に設立されるべき学校のプロレタリア的階級性の安定のために以下の要求を掲げる。
教師は教会から出よ!
プロレタリア階級闘争のための教育を認識せよ!
世俗的特別学校が存在するところでは、共産主義者の子供・親・教師はこれらの学校と我々の要求の意味において、前進させなければならない。それ自身がブルジョア国家と矛盾するようなところまで。
学校の世俗性のための闘争を支えるために、党はこれまで以上に宣伝を強化する。
A.子供を宗教教授からぬけさせるように。
B.教会からぬけさせるために。
学校闘争の主要な課題は共産主義的な親・教師そして党によって導かれる共産主義父母協議会の活動的な親・青年・スパルタクス団、そして共産主義青年同盟によって担われる。(2)
KPDが「階級対階級」の戦術を採っている時期であるので、SPDへの批判が前面に出ているのであるが、それを捨象すればこの方針は二点にまとめることができる。
1.学校と宗教の関係については、個別の世俗学校を設立していくというのは幻想であるだけでなく、全学校体系の世俗化の闘いを放棄するものである。
2.教師・子供を教会から脱退させる運動が必要である。
さて、この点を検討する前に確認しておくべきことがある。
第一に、一般の国民が宗派学校を拒否しておらず、宗教教授を望んでいたことは否定できないということ。ほとんどの父母協議会が宗派別に組織されていたことは既にみたが、1922年に行われた父母協議会の選挙で、SPD,USPD,KPDとブルジョア政党は1対2の割合で役員を獲得した。(3) 1919年、1920年、1924年の総選挙がいずれも2対3の割合であることを考えれば、世俗学校の支持が低かったことは明瞭である。SPDが宗派滉会学校に次第に方針を転換していく理由もここにあった。
第二に、宗教についてのレーニンの原則である。レーニンは三つの原則をたてた。
1.宗教と国家の完全な分離
2.宗教は労働者にとって私事ではない
3.しかし、宗教上の闘争を政治・経済的闘争を越えて、第一位の課題とすべきでない。(4)
ブルジョア民主主義にとって宗教は理念的には私事である。宗教は宗派に分かれているが故に、個々人の出題として処理される。したがって必ずしも学校における宗教教授を必要としない。フランス第三共和政において、学校が世俗化されたこと、ケルシェンシュタイナーにとって宗教は本質的でなかったことにそのことが示されている。宗教が私事であることから導かれる論理は、学校の国家管理にとどまる。
しかし、労働者にとって宗教は科学的思考を阻害するもであり、決して「私事」ではない。
問題はレーニンの第三の原則である。
KPDは学校をめぐって「宗教」の問題を終始一貫して第一義的闘争の課題とした。1920年代を通じて、ワイマールの学校妥協が常にまず初めに批判された。そのことによって階級的対立は宗教的対立におきかえられることになった。そして、このことはKPDの教育政策における「公共性」の位置づけに対して大きな意味をもった。国家と学校分離は宗教を私事とする具体策である。それは「公共性」を私事性によって破らないためである。しかし、労働者階級にとって「公」の内容が問題であろう。
<註>
- Schneller a.a.O. s274 T. Neubauer 'Zum Thüringer Einheitsschulegesetzentwurf. Rede in der 53 Sitzung auf 24 Januar 1922' a.a.O. s119-131 Kirche und Sozialismus' 1920 a.a.O. s67-69
- 'Beschluss des 11 Parteitags der KPD über die weltlichen Sonderschulen' in "Das porletatische Kind ── Zur Schulpolitik und Pägogik der KPD in der Weimar Republik" s192-193
- E. Hoernle 'Die Elternbeiratswahlen in Reich' in "Das proletatische Kind ── Zur Schulpolitik und Pägogik in der Weimar Republik" 1922.7 s156
- レーニン「社会主義と宗教」『レーニン全集10』大月書店 p70-74 「宗教に対する労働者党の態度について」『レーニン全集15』 p392-404
<組織された階級の意思>
シュプランガーにとって、「公共性」を形式的に保証するのは、全国民の公的組織過程であり、内容的に保証するのは政治教育であった。しかし、シュプランガーの政治教育がマルクス主義に対抗するためのものである限り、相対主義には批判的であり、そして、組織過程そのものの中に階級対立が持ち込まれた時、国家による組織を否定しない論理であった。
SPDはむしろシュプランガーとは逆に、相対主義を導入することによって「公共性」を保証しようとした。W.パウルゼン(Wilhelm Paulsen)は統一学校を社会主義的公共性(sozialistischen Öffentlichkeit)問題として把握した。(1) 相対主義を大胆にSPDに持ち込んだヒルファディンクは、「民主主義はしかし、その担い手が存在している時にのみ可能である。つまり政治的に行動能力をもち、教育を受け、責任感をもった組織された大衆が必要なのだ。」(2) しかし、そうした主体があれば、形式民主主義は実質を持ちうると考えるのである。(3)
レーニンの原則は、「公共性」が科学に裏付けられなければならないことを示している。労働者階級にとらて、宗教が私事でないことは、宗教が究極的には非科学的だからであり、相対主義は宗教を私事に留めるものである。しかし、かえって宗教をあからさまに攻撃することは、かえって宗教に道を開くものであるとして、レーニンは第三の原則を主張した。(4)
では、宗派学校の問題はいかなる性質をもつものであったろうか。
ツェトキンは憲法の第146条2項の「教育権者」について根底的な批判を加えていた。教育権者を親から子供へと転換させただけでなく、教育主体の問題に発展させている。
『教育権者の意思』つまり個々の親の意思という色あせたブルジョア的個人主義的な言葉は、われわれにとって基準ではない。われわれの基準は組織された階級の意思である。(5)
階級の意思としての学校についてノイバウアーは次のように言う。
単に宗教から解放されたという意味での『世俗学校』ではなくプロレタリアートの世界観学校が必要なのだ。(6)
「党学校だ」「貧民学校だ」「実現は難しい」という批判に対して、ノイバウアーは4点で世界観学校を擁護する。
1.自然や文化についてのブルジョア的偏見から解放される。
2.労働の喜びに満ちた教師による選択講義が可能になる。
3.プロレタリアートの世界観は社会(Gesellschaft)の酵素として働くのである。それによって、より広い公共性が確保される。
4.社会主義教師は実り豊かな活動をし、そうでない教師は改心するだろう。(7)
ノイバウアーは共産党の教師の任務として、ブルジョア的な管理に対抗して闘い、教会的・国家的・君主的・資本主義的教育方法をつくり変えていくことであるとしている。(8)
しかし、先にみたように「宗派学校」の要求は現実には個々の親の要求としてではなく、教会や保守党や父母協議会等々を通して、「組織された意思」として出されていた。
「宗派学校」はワイマールにおいて公立学校、すなわち国家的領域の問題であり、政治課題そのものとしても存在した。ビスマルクとの文化闘争でかえって強大になった中央党が組織をあげて、国家的問題に押しあげたからである。SPDもKPDも問題が設定されたことそのものによって、困難をつきつけられたのである。これはブルジョア民主主義を取り込むことによってのみ打開可能だった。
「公共性」の問題を考察するために、更に「政治と教育」の認識について検討する必要がある。
この点についてKPD内に二つの異なった思惟様式があった。
第一に、絶対的政治優先ともいうべき思惟である。F.ランゲは学校は政治的か否かと問うて、非政治的とするSPDを批判して次のように書いている。
二つの方向が互いに対立している。一方の側に非政治的学校の擁護者である社会民主党、他方に政治的学校の擁護者である共産主義者がいる。(9)
社会構造が闘う階級からなっている限り、自覚を呼び起こすよう努めるべきである。(10)
この考えは、共産主義教師の集会で次のように確認された。
共産主義教師は学校の外だけでなく、その内においても、教会・国家専制・資本主義の子供に対する影響に対抗して闘わなければならない。教師の解放闘争は同時にプロレタリアの子供の魂のための闘いである。(11)
第二に、政治と教育の問に一種の均衡を与えようとする思惟である。これは先述したツェトキンの様々な発言の中に読み取ることができる。
<註>
- W.Paulsen 'Die neue Erziehungsbewegung und unser Schul ── und Bildungsprogramm' in "Dei Gesellschaft" 1925 s526
- Rudorf Hilferding 'Realistischen Pazifismus' in "Dei Gesellschaft"1924 s111 ヒルファディンクの形式民主主義理解についてはW.コットシャルヒ『ヒルファディンク』保住敏彦、西尾共子訳ミネルバ書房
- 秋葉正文「ドイツ社会民主主義の社会化構想」『科学と思想』29号、新日本出版1978.7 秋葉氏は次のように書いている。「真の革命的主体がワイマール体制の国家権力の性格を民主主義的諸条件の意義と限界を踏まえて正しく対応すれば、社会主義への移行のために生かしたと考えられる潜在的諸契機(例えば資本の専制を一定制限し、民主的統制を行うという可能性をもあわせもつ、共同決定権やそれに基づく自治的経営管理組織等)が明らかに存在したと考えられる。」 p210 しかし、この価値的相対主義がワイマールにおける弱体さを促したことは否定できない。K.ミュラーは史的唯物論を教育目標の中心におきながらも、「新しい社会は新しい教育目的を求めるだけでなく、新しい人間自身の中にある目的をも、様々な方法で達成しようとするのである。」として、実際には史的唯物論の目的を抽象的にのみ提示し、それを教育内容に具体化する場面では様々な価値に多元化している。Karl Müller 'Neue Bildungsziele und neuer Staat' in "Dei Gesellschaft"1924 s468
ワイマールの相対主義の批判としてはゾンドハイマー『ワイマール共和国の政治思想』1968
- 五十嵐顕はツェトキンの解説で、レーニンの1.2の原則を述べているか、3の原則に触れていないのは不正確である。『マルクス主義の教育思想』1977 p152
- 'Der Wille der Erziehungsberechigten und die Aufgaben des Klassenbewuß Proletatiats' in "Das proletatische Kind ── Zur Schulpolitik und Pägogik in der Weimar Republik"1922.3 s145
- Neubauer 'Klare Schulpolitik' a.a.O. s108
- Neubauer a.a.O. s109
- Neubauer 'Leitsätze zur die Arbeit der kommunistischen Lehrer Angenommen auf der 1 Reichskonferenz in Braunschweig am 7.10.1921' a.a.O. s110
- Fritz Lange 'Soll die Schule politisch oder unpolitisch sein?' in "Das proletatische Kind ── Zur Schulpolitik und Pägogik in der Weimar Republik"1921.8 s119
- a.a.O. s122
- 'Leitsätze für die Arbeit der kommunistischen Lehrer Angenommen auf der 1 Reichskonferenz der kommunistischer Lehrer Deutschlands am 7 Oktober 1921.7' in "Das proletatische Kind ── Zur Schulpolitik und Pägogik in der Weimar Republik"1921.10 s123
<家庭教育>
この相違は家庭教育・青年運動にまで及んで位置づけの違いとなって現れた。ツェトキンはマンハイム党大会で家庭教育について次のように述べた。
学校が階級支配の道具である間は、すなわち人間をつくるのではなくして、資本主義的社会秩序のための巧みな生産用具とおとなしい部下をつくる間は、子供の家庭教育は、これまた子供と良心を学校のいざこざに巻き込むものとなります。しかし、両親が子供の小さい頃から、社会主義的世界観を体して感化を及ぼしているならば、子供が学校に入る頃には、社会主義的な感情と思想の一定のきそもちゃんとそなわっている。
しかし、もし教師が粗野なやり方で、学校で学んでいる子供の世界観を傷つけたり、また教師が乱暴に子供の思想や感情をブルジョア的ドグマのもとに屈伏させようとする場合、両親は教師の無作法と侵害に対してたたかう義務をもつものである。(1)
一方、ヘルンレは次のように書いでいる。
教育共同体としての家族は資本主義によって滅んだのである。(中略)最上の教育的意図でも、プロレタリア階級の物質的、精神的貧困がもたらす仮借のない結果のために、かれらの隷属と屈従のために挫折するであろう。われわれは家族の外にまた家族をこえて労働者階級を貧しい農民と新しい組織をつくらなければならない。(2)
二つの文章は、第一次大戦を間にはさんで20年間の開きがある。そして、ヘルンレは労働者階級の家庭と教育の現状について分析しているのに対し、ツェトキンは社会民主主義の任務として論じている。それにも関わらずツェトキンは資本主義社会の中で家族が崩壊する一方、プロレタリアの子供の場合、早く労働者になるためにブルジョアの子供より一層自立的になる、という発展的契機を見出しているのに対して、(3) ヘルンレは専ら家庭の外に教育を求めていく。
ツェトキンは学校教育に対するプロレタリアートの監督機関として「父母協議会」を位置づけるが、(4) ヘルンレは重視しない。(5)
父母協議会はKPDの一貫した政策であるから、(6) ツェトキンの考えが主要な根拠になっていたと考えられるが、ツェトキンにおいては、「父母協議会」は統一的学校制度を形成する一要素と考えられていた。(7) 統一学校とは国民・労働者の階級意思を不断に集約することを通して実現するからである。
先述したドゥンカーも考慮すると、KPDには、家庭教育を第一とし、公教育を幻想とするドゥンカー、両者の相互作用を積極的に位置づけるツェトキン、家庭教育を幻想とするヘルンレというように、家庭教育(=私教育)について三つの考えがあることがわかる。
こうしてみると、政治的学校の承認が学校改革への消極性を生み、均衡的思惟の中に積極性がみられる。
ツェトキンは周知のように婦人運動の分野で最も大きな貢献をしたが、社会主義においてはじめて婦人が解放されること、(8) 社会主義的婦人運動は、市民的権利の獲得に留まらず、婦人に社会主義的な世界観を形成しなければならないことを強調していた。(9) 文化の領域においても、「芸術とプロレタリアート」という論文の中で、資本主義が封建時代から発展して、芸術家にある程度の自由をもたらしはしたが、芸術家は資本主義的な生産に従属するようになり、統一的な国民全体、そして国民意思(einheitliche Volksganzen und Volkswillen)を表現せず、支配層の代弁者となった、と批判した。(10)
その結果としておこったペシミスティックなブルジョア芸術を乗り越えるのは、社会革命、そしてプロレタリアの新しい道徳精神、それによって生み出される社会主義的世界観による芸術のみである、としたのである。(11)
これらの点は第一次大戦後に書かれた「知識人の問題」という論文において維持された。ツェトキンの文化論は
1.資本主義では生産と支配のための知識人、及び科学・文化が支配階級によって利用されること。
2.それにのった知識人が堕落の危機にあること。
3.資本主義においては、知識人・プチブルはある程度自由であるが、不安定な位置に置かれること。
4.1の具体策として、国民教育制度が利用されること
というように要約されるであろう。(12)
教育問題における現状認識が同様の構造をもっていることは前に述べた。そして、ツェトキンが教育に対して期待したものは、「革命的な力が強くなり、資本主義を倒す意志も強くなる」ような教育であり、学校改革の課題もそこにあった。(13)
家庭教育・学校教育・青年運動も全でそこに目的をもつものでなければならなかったのである。(14)
<註>
- ツェトキン前掲 p62-63
- ヘルンレ前掲 p63-69
- ツェトキン前掲 p66
- 同上 p144-145
- Hoernle 'Elternbeiräte und Versuchsschule' in "Das proletatische Kind ── Zur Schulpolitik und Pägogik in der Weimar Republik"1922.10
- 'Leitsätze für die Arbeit auf dem Vereinigungsparteitage der KPD mit dem lenken Flügel der USPD im Dezember 1920' in "Quellen zur Geschichte der Erziehung" s385-386
- Zetkin 'Zur kommunistischen Schulpolitik' 1920.12.6 "Ausgewaählte Reden und Schriften"ノ s310
- Zetkin 'Nur mit der proletatischen Frau wird der Sozialismus siegen?' 1896 "Ausgewaählte Reden und Schriften"ネ s110
- Zetkin 'Der Kampf das Frauenwahlrecht soll die Proletatierin zum klassenbewußtsein politischen Leben erwecken' 1907 a.a.O. s346
- Zetkin 'Kunst und proletariat' 1911 a.a.O.
- a.a.O. s498
- Zetkin 'Die Intellektuellfrage' 1924 "Ausgewaählte Reden und Schriften"ハ s9-34
- Zetkin 'Zur Kommunistische Schulpolitik' 1920 a.a.O. s310
- a.a.O. s311
<青年運動>
しかし、青年運動の分野ではヘルンレもより積極的であった。
ドイツでは、社会主義青年運動は当初は迫りくる帝国主義戦争に対する反対運動の一つの柱として、K.リープクネヒトを中心として主張されたものであった。マンハイム党大会で拒否されながら、リープクネヒトは実行していった。(1) ヘルンレ、ツェトキンはリープクネヒトの意思を継ぎ、青年教育及び青年運動に対して、特別重要な意義を認めていた。ツェトキンは「プロレタリア青年運動は言葉の最も広い意味で国民教育」であり、「計画的な国民教育制度の一環にならなければならない」と断言した。(2) 又ヘルンレは社会主義教育は青年運動によって完全になる、と書いている。(3)
彼等の青年運動論は、H.シュルツと二点において決定的に異なっている。
まず、H.シュルツは原則的には18歳までの全ての青年の全日制への就学義務を学校改革構想において示しながら、具体的政策としては14歳までの全日制義就学(憲法の規定)以後は、労働に就く者に対して定時制継続学校を示していたに過ぎない。先述した通り、継続学校はあまり実効性がなかったから、多くの労働青年は教育の機会を奪われていた。(4) しかし、H.シュルツは青年運動に自己教育運動としての意義を与えられていないから、労働青年の教育を保証する制度構想がないのであった。
これに対し、「国民教育制度の一環」として構想された青年教育は、通学している子供に対しては、学校教育に求め難い要素を学校外教育(Bildung außerhalb der Schule)として、労働青年に対しては彼等の主たる教育の場として考えられていた。(5) このことは社会主義的教育の原則として述べられていると同時に、資本主義社会に於ける労働青年に教育を保証する現実的運動でもあった。(6)
第二には、青年運動・青年教育に期待された内容である、ここではヘルンレとツェトキンの間にも相違が現れる。
H.シュルツについては、既に述べたようにスポーツとゲームであった。
ヘルンレは次のように書いている。
社会主義的青年運動の任務は大部分は革命的政党の諸任務と合致する。だがそれはこれを越えて進む。社会主義的青年同盟はたんに闘争組織であるばかりでなく、同時に教育共同体でもある。その政治的煽動と行動は新しい権力の地位を獲得するのに奉仕するだけではなく、同時に新しい人間の形成に奉仕する。(7)
しかし、ヘルンレにとって教育共同体としての青年組織は、闘うことそのことが教育的要素をもつとされたのであって、科学や技術を学ぶことではないとされた。(8) そしてこの発想は一貫してKPDの中にはあった。1927年の党大会で決められて設立されたマルクス主義労働者学校(MASCH)は、教材をあくまで政治的に選択し、自然科学はみせかけ(Aushängeschilder)として置いた。(9)
ツェトキンは青年組織の積極的任務として、資本主義社会においては、1.身体の損傷に反対の闘争をすること、2.衛生のための運動をすること、3.自己教育を行うこと、(文化財を形成すること)4.社会主義的世界観を形成すること、等をあげている。そして、これらを遂行する組織のもつ「自治」が教育力をもっとされたのである。(10)
さて、ヘルンレの論理は青年運動を階級闘争の主体とする論に導かれる。(11)
我々は子供を階級闘争に導くことを欲している。子供の中に階級意識を養い、プロレタリア的革命的な行為の自然な行為へと導くために、我々は注意深く観察した上で、その手段や方法を講じなければならない。(12)
そして、このことをSPDの青年運動との決定的な相違としたのである。
ここでレーニンの青年運動論を確認しておこう。レーニンの理論はヘルンレとツェトキンの分岐点を示している。
レーニンのたてた原則は次の三点にまとめることができる。
第一に、学校が政治の外にたつことができるという認識はブルジョア的欺瞞である。(13)
第二に、しかしながら粗雑な政治と教育の結びつけば誤りである。(14)
第三に、政治と教育の結合とは結論的にいって、「共産主義的人間」を育成することである。(15)
レーニンにおいて特徴的なことは、公的な教育組織と私的なそれとの、また学校と学校外教育との原則的区別が存在しない、ということである。それは第一に、プロレタリアの権力下の原則であること、第二に、革命以前に初等義務教育が極めて貧弱であり、更にその結果として文盲率が極めて高かった故に、子供から大人までの学習を公私の区別なくあらゆる場で組織しなければならなかったという歴史的事情を考慮しなければならない。(16)しかし、いずれにせよ公と私の未分化の理論は「公共性」の軽視へと展開する。スバトコフスキーの理論はその典型であろう。「教育は社会的現象であり、階級社会にあっては階級闘争の一形態」であり、「他の人々の行動を占有することを目的としてそれらの人々の形成を占有するためにおこなわれるところの人々の行為である。」(17)というスバトコフスキーの教育の定義は、公的教育制度における民主主義の形式的側面を捨象する議論であった。(18)
ツェトキンも究極的には共産主義的な人間の育成を志向しているのであるが、以上見てきたように、公的教育制度と私的教育組織に異なった原則を適用し、政治と教育の間に均衡を保持しようとしたのである。
<註>
- 安世丹 前掲 p190 安氏によるとリープクネヒトは1904年イェーナ大会以来、入営前の青年に、軍隊での可能な反戦活動を教える集会を提案してきたが、マンハイム党大会で決定的に拒否されるや、ツェトキンと共に独自にこれを開催した。
- ツェトキン前掲 p82-83
- Hoernle "Sozialistische Jugenderziehung und sozialistische Jugendbewegung"1919 s5 ただし、ラカーは共産主義的青年運動は、青年運動としては社会的勢力が弱く、最高時でも3万人を越えることはなかったとしている。ラカー前掲b96
- 事実この点のH.シュルツの叙述は極めて矛盾している。18歳まで中等段階の学校への義務就学なら、18歳までの継続教育は必要ないはずである。
- 'Schulprogramm der Freien Sozialistischen Jugend Deutschlands(Entwurf)' in "Quellen zur Geschichte der Erziehung" s383
- ツェトキンはドイツの継続教育が労働者に一定の初歩技術の訓練を確保し、利潤を促進しようという目標を出ていないと批判している。前掲 p90
- Hoernle a.a.O. s18
- ibid. p22-23 ギュンターは闘いの教育(Kampferziehung)がヘルンレの中心であったとしている。ギュンターはこれを肯定的に評価しているのであるが、たぶんに問題があろう。Karl Heinz Günther 'Problem der kommunistische Erziehung in Werk Edwin Hoernle' in "Jahrbuch für Erziehungs ── und Schulgeschichte" 1986
- Dietmar Müller 'Die Marxistische Arbeitershule (MASCH) 1927 bis 1933 einen neuer Typ von Erwachsennenbildungseinrichtungen' in "Jahrbuch für Erziehungs ── und Schulgeschichte" 1981 s63
1930年の課程をあげておこう。(時間数は省略する)
マルクス主義、ソ連、労働者の歴史、資本主義経済・資本主義国家、帝国主義・軍国主義・ファシズム、ドイツの経済と政治、社会的政策、労働組合、婦人労働者運動、労働者青年、法的問題、文化世界観問題、学校教育問題、報道、文学、劇場・映画・音楽・ラジオ、建築技術、自然科学、医学・衛生・性問題、スポーツ、組織方法、政治面・印刷、演説、速記術、討論である。Gabriele Gerhard Sonnenberg "Marxistische Arbeiterbildung in der Weimarer Zeit (MASCH)" 1976 s100
- ツェトキン前掲 p98-108
- 竹内真一『青年運動の歴史と理論』 p127 小山孝直「ヴァイマール期ドイツ共産主義少年運動と教育家エドウィン・ヘルンレのかかわり」『教育運動研究』8 1978.8 p60
- Hoernle 'Das Kind im Klassenkampf' in "Das proletatische Kind ── Zur Schulpolitik und Pägogik in der Weimar Republik"1922.2-3 s45
- レーニン「県および郡国民教育部政治教育課ロシア会議での演説」『レーニン全集31巻』 p366-368
- レーニン「国際主義的教員第二回全ロシア大会での演説」『レーニン全集28巻』 p440
- レーニン「青年同盟の任務」『レーニン全集31巻』 p285-286 「ロシア共産党(ボ)綱領草案」『レーニン全集29巻』 p118
- かつて五十嵐と矢川との間にレーニンの教育論における倫理をめぐって論争がなされたことがあった。「倫理」そのものについては、ここではさておき両者ともこの歴史的条件を考慮に入れないで学校教育について論じている。五十嵐はレーニンの教育論から二つの教育について学んでいるが、その内容には変化がある、「社会的教育」と「青少年の教育」(「レーニン教育論とソビエト教育学」1963)、「学校教育(支配階級による大衆教育)」と「変革主体形成の教育(労働者階級の自己教育)」(「レーニンにおける教育と倫理」1973、ともに『マルクス主義の教育思想』所収)というように教育的カテゴリーとしての分類と、領域的な分類を使いわけているので、ただ五十嵐氏の理論的展開という点からみるならば、「教育の自由」を積極的に位置づける志向がみられのである。しかしながら「教育の自由」は公的に組織された教育と私的に組織されている運動としての教育とでは、その具体的内容が異ならなければならない。また、文盲率の克服が、しばしばロシア革命による教育改革の重要な成果として言われる。例えば村山士朗『ロシア革命と教育改革』労働旬報社も、文盲克服の過程を克明に分析し、社会主義教育の特質として扱っている。しかし、文盲の克服は、先進資本主義国はもっと早く達成しており、決して社会主義によってはじめて達成されたわけではない。日本で言えば、明治政府の課題であった。兵隊が命令書を読むことができなければこまるので、文盲克服は切実な課題だった。分析されなければならないのは、文盲克服の方法であろう。もちろん村山が分析しているのは、社会主義がとったその方法である。多くの住民が動員され、互いに教えあうことによって、短時日の内に文盲は解消する。しかし、それは本当に社会主義的な方法であったのか、革命時の一時的な勢いであったのか、自明のことではないように思われる。もしそれが社会主義的な方法であったとするなら、そうした「無償労働」が「社会主義的方法」ということになるのか。「無償労働」は国家による「動員」でもありうるし、(ナチスのラントヤール)また「協同性」の具体的形態でもありうる。それはどこで区別されるのか。そうした究明こそが必要であろう。
- スバトコフスキー「マルクス・レーニン主義教育学の方法的基礎」スバトコフスキー・メディンスキー『マルクス主義教育学の方法論』所収、明治図書、倉内史朗・鈴木秀一訳 p28
- スバトコフスキーのこの教育論が、スターリンの第一次五カ年計画以後の政策と結びついていることは周知のことであるが、クラーク撲滅の政治的論理と同一の基盤にあることがみのがせない。
(4)KPDの統一学校構想
KPDは体制的統合の手段としての統一学校運動には反対した。その際「統一学校は資本主義では幻想である」と必ず言われた。しかし、革命情勢が終息し、更にKPDが何度かの武装蜂起に敗北し、統一学校が時の権力によっては実現しないことが明らかになった時点で、KPDは統一学校に対する積極的な位置づけをするようになる。しかし、統一学校は統一的理念をもつと同時に、国家的制度であることを求める。したがって体制的統一学校論は論理としての体系性・一貫性をもちうるが、体制そのものを否定する立場からは、将来の問題とする以外、論理の一貫性を保持出来ない。国家は明確にキリスト教的理念を前提し、その原則で制度を形作っているのに対して、異なった理念を対置させながら、その国家的制度を調整する論理を提出しなければならない。
結局KPDは限定的な意味で、「移行形態としての統一学校」を支持していくようになる。その転換は主要には、ソビエトでの「単一労働学校」の政策からの影響によってなされた。(1)
評価の転換は、1921年ルールにおける統一学校の試みについてのノイバウアの評価に現れている。
ノイバウアーはルールにおけるヤコビ(Jaccobi)の実践をドイツにおける唯一の統一学校の実践として位置づけ、それを高く評価する。そして次のような原則を確認している。
1.統一学校には社会主義的な共同体・教師共同体が必要である。
2.統一学校の徹底には、全学校体系の集権化(Zentralisation)が必要である。
3.統一学校は子どもの様々な可能性を発達させる新しい教育方法が必要である。それは労働教育である。
4.資本主義的な搾取がある限り、統一学校は無意味なおしゃべりである。資本主義的な統一学校改革としての、ベルリンの英才学校については、選抜によって英才のみを対象とするのは、統一学校をむしろ裏切るものである。
5.統一学校は教師の統一的な養成によってのみ可能となる。
6.統一学校は全教育組織の変革である。(2)
1921年10月7日、共産主義者の教師が公的教育の中でも子供に社会主義的影響を与えることを確認し、「世俗的統一労働学校」がスローガンに加えられた。(3) そして、1922年KPDはブルジョア民主主義的統一学校を社会主義的教育制度への移行形態として、マルクス・レーニン主義と関係付けた。(4) そして、1925年統一学校の学校構想を示すのである。(5)
1927年には次のような構想に具体化された。
そして、1929年プロイセン議会に提出されたKPDの学校政策は概略次のようなものであった。
1.幼稚園から清算大学までの国家による肉体的・精神的教育(Ausbildung)に対する労働者の要求を充たすこと。
2.これまでの階級的=身分的学校でなく、世俗的統一労働学校を。
3.学校は4つの段階に分かれ、第三段階まで義務である。
4.生徒の物的必要は国家によって保証される。
5.学校施設の基本は、学校ホーム(Schulheim)であって教授施設(Unterrichtsanstalt)ではない。衣食保健が保証される。
6.子供の宗派からの分離。
7.学校と教会は完全に分離する。
8.全教授・教育の世界観的社会革命的基礎はマルクス主義である。
9.体罰の禁止
10.全教授施設は共同の施設とする。
ll.全実科・理論教育の基礎は社会化された生産(vergesellschaftete Produktion)である。
12.実科的・精神的労働が結合される。
13.労働学校の方法的基礎は、固定的年齢・学級ではなく、弾力性のある労働グループである。
14.生産大学への入学許可は、生産専門学校・職業団体からの推薦による。
15.教師の養成は大学において行う。(6)
ともあれ、統一学校運動を否定し、他方望ましい統一的学校は社会主義においてのみ実現するという断絶論から、移行形態としての統一学校という構想がうまれたのであるが、それは、資本主義という階級社会において、労働者階級の要求を「公共性」の中に組み入れていく、という考えによっていた。
<註>
- Gert Geißler 'Der Einfluß der ersten deutschsprachig vorliegenden sowjetischen pägogischen Publikationen auf die Schulkonzeption der revolutionären deutschen Arbeiterbewegung1917-1923' in "Jahrbuch für Erziehungs ── und Schulgeschichte" 1985 s96-97 しかし、これらの影響は必ずしもすんなりと受け入れられたわけではない。
- T. Neubauer 'Aus der Praxis einer Einheitsschule' 1921 a.a.O. s95-98
- "Quellen zur Geschichte der Erziehung" s389-390 尚正確な日付は不明であるが、「ドイツ自由社会主義青年同盟」が1919年、学校綱領を出し、ここでは8−14歳の基礎学校、14歳−18歳の専門学校、それ以外の大学という単線型の体系が提示されている。専門学校では、「理論的」と「実科的」は区別されていない。ガイスラーによれば、単一労働学校令の影響はまずこの綱領に現れた。Geißler a.a.O. s97
- Monumenta.ヒ s51
- Michael a.a.O. s131
- 'Proletatisches Schulprogram ── Die Schulforderung der Kommunistischer Partei' in "Das proletatische Kind ── Zur Schulpolitik und Pägogik in der Weimar Republik"1929.4