第四章 体制的j統一学校論
第二節 シュプランガーの統一学校論
(1)はじめに
ケルシェンシュタイナーのように人間の真の主体性、自由を認めない論理は早晩崩壊せざるをえないものであろう。歴史的にナチスが登場したという事情はその崩壊を早めはしたが、ナチスの出現がなければ継続したとは考えられない。結局、国家の絶対性と指導・被指導の固定、そしてその範囲での自発性という矛盾した論理は、階級矛盾の反映であって、安定した支配を生むものでもなかった。
戦後西ドイツの公教育や学校における権利・義務関係の概念は大きな変化を経てきた。概略的に見れば、特別権力関係論から、パルトナーシャフト論による学校共同体論、そして生徒をも主体として認める生徒共同決定思想へと展開してきている。(1)
もちろんこうした展開が直線的に実現しているとは考えられないが、未来の国民たる生徒が、真に民主主義的な主体として成長するためには、未来の能力を獲得させる学校こそが、生徒自身の民主主義的主体性を学校管理・自治の中に認め、事実として保障していかなければならない。そうした教育学的論理が次第に承認されてきたということであろう。
もっとも生徒の参加・自治を認めることは、直ちに生徒の民主主義的力量を育てることにはならない。学校がより効率的に生徒を管理するものにもなりうるのであり、パルトナーシャフト論はそうした意図をもっていたと、秋池は指摘している。この二つの境界はきわめて不明確であり、理論的解決だけではなく、実践的な解決と社会そのものの民主主義を実現することが不可欠であろう。
ケルシェンシュタイナー流の公教育論は、特別権力関係論に基づいた営造物理論と同種の特性をもっており、戦後ドイツでは主流ではなくなっている。ヘッケル(Hans Heckel)にみられるような、「教育の自由」を主体とする制度改革・法理論、(2) そして先にみた生徒共同決定論が主潮となっている。こうした論理を戦前において準備した思想家の一人が、シュプランガーだったといえる。
ケルシェンシュタイナーは、個人の有機体における地位の獲得を、個人の存在価値及び個人の自由の問題として論じた。しかし、現実には個人は階級的属性を帯びて存在しており、国家と個人の意思は、更に階級の意思を媒介として関係していた。したがって、「公民教育論」が体制安定の武器になるには、労働者を体制の構成部分として位置づけることが必要であった。更に個々人が階級対立の激しい社会の中で、積極的に国家を支持する感情を育成するには、国民の主体性をより積極的に承認することが必要であった。第一の課題に対して応えたのが社会民主党であり、第二の課題に対して重要な意味を持ったのがシュプランガーであった。
つまり「教育の自由・自律性」「公共性」を重要な論点としてもったシュプランガーが今日のいわゆる「福祉国家」的教育論を、統一学校運動の時期に既に萌芽的に示していたと考えることができる。シュプランガーの統一学校論を独自に分析する意味はここにある。言いかえれば、本節での課題は学校制度論において「公共性」と「教育の自由」が「福祉国家論」の中でどのような構造を示すかということを、その発生段階で明らかにすることにある。
<註>
- 秋池宏美「生徒の人権保障と学校の民主主義 現代西ドイツにおける生徒共同責任法制改革の検討(1)」東京大学教育学部教育行政学科紀要5 1986のまとめによる。
- H.Heckel "Schulrechtskunde" 1957 市川須美子「西ドイツ教育法学の形成」『法律時報』1976.6-9 持田栄一「現代ドイツ公教育の基本構造そこにおける教育権の保障」東大教育学部紀要10 1968
(2)ワイマール体制の成立とシュプランガーの政治認識
<シュプランガーの政治認識>
ベルリンで革命が起きた直後の1918年11月10日、シュプランガーはライプチッヒからケルシェンシュタイナーに、革命について自分の感想を書き送った。
ドイツ民族は燃え尽きた家の前に立っています。その処理など、もはや話になりません。再建にしても同様です。今まで知らないほどの不幸の中で、私達はファウストのように運命に震えおののいています。(1)
この後、彼は大学の自由を断固守ること、教育学を混乱させないことを報告したが、12月16日には、より具体的な革命へのコメントを寄せている。
政治的状況については、私には極めて明瞭である。しかも悲しむべき明瞭さだ。社会主義はまだまだ遂行能力を獲得していないのです。知的にも経済的にも。私がいま体験している前触れは、理念の手助けとなるよりは、信用を失わせるものでありましょう。確かにそれは悲劇で民衆の品性の欠如と政治的・道徳的破綻によって、更に拡大されるだろう。(2)
正しくシュプランガーは、ドイツ革命をドイツ民族にとっての悲劇とみたのであって、彼は失われた倫理の再生を教育に期待するのである。
こうした革命観を抱く前提として、シュプランガー自身が革命思想、あるいは進歩史観に批判的であったことをみておく必要がある。(3) その端的な例は彼のルンー評価である。シュプランガーがルソーにみた積極的奉ものは「文化の健全化」であった。「ルソーは文化を問題化し、それによって文化を救い、文化に対して新しい目標、倫理的な力を新鮮な源泉から給しようとしたのである。」(4) と書きながら、ルソーを過去に逃避するロマン主義者と評するのである。(5) そして、現存批判の論理的虚構としての「自然Natur」の概念について、そこに社会批判をみるのではなく、Natur の担い手を下層市民や農民にみた、と指摘しながらも、「心理学的」な合法則性としての「規範概念」に収敏させてしまう。そうしてルソーはシュプランガーにおいてはドイツ人文主義の先駆者として位置づけられる。(6) こうしてフランス革命を準備したルソーの社会思想や公民教育論は必要な論点として位置づけられないだけではなく、「ルソーの政策やその政策の福音から革命が勝手に取り出したものも、種々の点で誤った像であったり、根本的な誤解であったりした。」とまで否定されているのである。(7)
このような、今日において革命的思想家として評価されている者への消極的評価は、第一次大戦後も変わらなかった。コメニウスについてシュプランガーは次のように書いている。
全ての者に全てのことを教えようとしたことから、コメニウスを統一学校の父と呼ぶことは事実できよう。しかし、全ての点にあらわれる独特の時代的衣装を見過ごすべきではない。コメニウスはあの練金術の同時代人なのである。(8)
<註>
- G.Kerschensteiner ── E.Spranger; Briefwechsel 1912-1931" 1966 s140 このような見方が、保守的な知識人の申で一般的であったことは確かであるが、ザウペは「変革(Umwälzung)」と呼び、ここから国民国家が生まれ、身分的学校ではなく統一学校の要求が生まれたと書いている。ザウペの政治的な立場は正確にはわからないが、少なくとも「政治的な対処」によって統一学校が歪められたと批判しているので、当時の一般的な保守的知識人と対立していたとは思えない。そのザウペが11月革命を否定的にはみていなかったわけである。Saupe a.a.O. s9-10
- シュプランガーからケルシェンシュタイナーへの手紙1918.12.16 a.a.O. s143 篠原一のいうように、革命のリーダーシップが欠如していたし、大衆は政治的に訓練されていなかった、ということは事実であろう。しかし、激動の社会では大衆は急激に成長するのであって、ドイツ革命においてはやはり、R.ルクセンブルグやK.リープクネヒトの暗殺という条件抜きに考えることはできない。シュプランガーも大衆の成長という視点を十分もっていたとは言えない。篠原一『ドイツ革命史序説』岩波書店参照
- 進歩史観については長尾十三二『近代ヨーロッパの教育と政治』第二
帝政の教授達は「非政治的」であることを原則にしていたので、1918年の革命に際して、全く精神的準備ができていなかった、とベンダースキーは評価している。ジョーゼフ.W.ベンダースキー『カール・シュミット論』1983 お茶の水書房 p16 シュプランガーも例外ではなかったと言うべきだろう。
- Spranger 'Jean Jacques Rousseau' 1908 in "Gesamelte Schriften" herausgegeben von H.W.Bahr No11 s41 シュプランガー『文化と教育』村井実・長井和夫訳 p56
- Spranger a.a.O. s42 同上 p59
- Spranger a.a.O. s58 同上 p82-85 但し宗教的懐疑論者としてのルソーはドイツ人文主義と無縁だといっている。Spranger a.a.O. s42
- Spranger a.a.O. s62 同上 p88 シュプランガーの前半の同時代人であるフランスの法学者デュギーは、ルソーをカント・へ一ゲルに至る絶対主義国家観の先駆者であり、直接影響を与えた者と評価している。後述するように、この時代のルソー評価はむしろ革命思想の系譜ではなかった。20世紀における国家論の転換とルソー評価の転換の関連が問題となるで
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- Spranger a.a.O. s58 同上 p82 但し宗教的懐疑論者としてのルソーはドイツ人文主義と無縁だといっている。B.Sprangera.a.0.s427E.Sprarera,a.0.s62同上p88シュプランガーの前半の同時代人であるフランスの法学者デュギーは、ルソーをカント・へ一ゲルに至る絶対主義国家観の先駆者であり、直接影響を与えた者と評価している。後述するように、この時代のルソー評価はむしろ革命思想の系譜ではなかった。20世紀における国家論の転換とルソー評価の転換の関連が問題となるであろう。デュギー『法と国家』1925 岩波文庫参照
- Spranger 'Comenius" 1920 in "Gesamelte Schriften" a.a.O. s37
<シュプランガーの社会主義批判>
こうしたシュプランガーがドイツ革命に否定的であったことは当然であろうが、それは社会主義思想への批判と直接結びついていた。先述したケルシェンシュタイナーへの手紙でもみたが、シュプランガーは教育学の意義を問う中で、次のように社会主義者を批判している。
フランスの社会主義者フーリエや、イギリスの社会主義者オーウェンは早い時期に労働教育について考えたが、それは自由主義的なフレーベルが人間教育について行ったことと並べて考えられる。社会主義的に組織された経済が、全く新しい経済的教育体系なしには考えられないことは疑いないことである。しかし、こうした問題は個別的にもほとんど考えられていないように私には思われる。社会主義の政治家は、自由主義教育制度や抽象的平等の民主主義制度から借用したり、とても社会主義経済に至らないような道を歩んでいる。(1)
もちろんシュプランガーは社会主義の問題を、このように社会主義者の怠慢に帰着させて済ましているのではない。種々の論文で積極的にマルクス主義の批判を展開している。
第一に、社会民主主義が個人主義的民主主義としての平等思想に同化している、という批判である。シュプランガーによれば共同社会精神を体現することが、「生」の問題の究極的課題であり、それ故学校についていえば「学校を教授=学習共同体から全青年生活を包括する生活共同社会へ転化し、そこから真の生活学校を作りだすことにある。」(2) しかし、個人主義である民主主義にはそれが不可能である。シュプランガーは社会民主党(SPD)が1906年のマンハイム党大会で決定した「統一性(Einheitlichkeit)世俗性(Weltlichkeit)無償性(Entgeldlichkeit)」というスローガンを、(2) 民主主義化した自由主義と変わるところがないと指摘している。(4) 実際、マンハイム党大会は社会民主党が修正主義勢力によって主要な地位を占められた大会であったし、(5) ワイマール憲法制定に際してみせた社会民主党の妥協的態度は、シュプランガーの指摘の一面の正しさを裏付けるものである。ワイマール憲法は一貫して民主党のぺ一スで作業が進み、1919年4月の政府案では、統一学校の原則・正課としての宗教教授・8年の義務就学などを柱としており、社会民主党もそれに同意していた。しかし、6月にカトリック勢力との妥協によって、教育権者の要請がある場合には宗派学校を設置する一方、世俗学校も認める規定が挿入される。(7) そうして圧倒的な宗派学校が存続するのだが、社会民主党のH.シュルツは1921年に至って宗派性を固定、強化する法案を提出するのである。(7) しかし、だからといってシュプランガーのように自由主義的な民主主義と同一視することは誤りであろう。シュプランガーは民主主義原理は、宗教・教会に対して「普遍的キリスト教(allgemeine Christentum) 」あるいは「普遍的内在的人類宗教(Allgemeine immanenten Menschheitsreligion)」に向かう、と言っているが、(8) ここにも表現されているように、ブルジョア民主主義は国家と教会の分離、すなわち学校管理からの教会の排除を不可欠のものとして要請するが、学校の世俗性を絶対的に要請するわけではない。(9) 教育内容を含めての世俗性は社会民主党において唯物論的基礎から導かれるのであって、それ故ワイマール憲法の妥協も論理的緒論としては承認されなかったのである。
第二に、「徹底的学校改革者同盟(Bund der Entschiedener Schulreformer)」への批判である。エストライヒは「自由・平等・博愛」という三つのモチーフを同時に実現させるべく「弾力的統一学校(elastische Einheitsschule)」を主張するが、それは予言者的企図にすぎず、現実感覚も歴史感覚もない政党的空論だという。(10)「徹底的学校改革者同盟」は資本主義の高度に発達した大工業の労働形態においてではなく、手工的様式で労働教育を構想したという弱点をもっていたが、(11)シュプランガーの批判はむしろ、労働教育の最上の産物は畏敬の感情(Ehrfurchtsgefühl)であるという基盤からのものである。(12)つまりエストライヒにはこの感情、つまり共同社会精神を生み出すことができないという。(13)しかし、逆にシュプランガーはここで労働教育をその技術的基礎においては正当に捉えていないし、観念的におしこめているといえよう。観念の位置は異なるが、公民性の酒養を労働教育に求めたケルシェンシュタイナーと同じ基盤にある。
第三にマルクス主義への批判である。シュプランガーの批判は当時のマルクス主義の発展段階においてもなお、反批判の充分可能なものであると考えられるが、シュプランガー理論の構造理解のために整理しておこう。
彼はマルクス主義が問題としている貧困などの問題性白体は承認している。主観的意志によって問題が消滅するわけではないから。(14)しかし、マルクス主義は問題を解決しえないだけでなく、より悪化させる。マルクス主義は宗教的倫理性を拒否しており、それでは高い文化的内容を教育に適用することができない。(15)社会的存在が社会的意識を規定し、社会主義政党が指導するという論は一種の運命論(Fatalismus)であって、エ一トス(Ethos)の教育、ひいては教育可能性自体を否定することになる。(16)そして、権力的な国家観から独裁に至り、偉人(große Mann)への渇望を結果するというものである。(17)
さて以上シュプランガーの政治状況の認識を簡単にみたがなお二点を確認しておきたい。第一に、第一次大戦を戦後においても肯定的に評価していること。大戦は教育を非政治的方向に導き、真の法治国(Rechtsstaaat)に国民を導いた、と彼は評価している。(18)第二に、他の支配的イデオローグと同様に政党の分裂を国民及び教育にとっての危機と把握し、教育の政党からの自由を主張していることである。(19)
<註>
- Spranger "Die Bedeutung der wissenschaftlichen Pägogik für das Volksleben" 1920 in "Gesamelte Schriften" ノ s264
- Spranger 'Die drei Motive der Schulreform' in "Monatschrift für höheren Schule" 1921 s269 『文化と教育』b196
- の党大会については Karl Christ "Sozialdemokratie und Volkserziehung ── Die Bedeutung des Mannheiner Parteitags der SPD im Hahre 1906 für die Entwicklung der Bildungspolitik und Pägogik der deutschen Arbeiterbewegung vor dem Ersten Weltkrieg" 1975
- Spranger a.a.O. s265-
- 安世舟『ドイツ社会民主党史序説』 p158-165
- 当事者による詳しい報告として Max Quark 'Spranger' im "Die Neue Zeit" 1919-20
- Monumenta.ヒ Teil ネ s218-219
- Spranger a.a.O. s267
- したがって近代公教育の基本原理としては、伊藤秀夫・吉本二郎『教育制度論序説』のように「中立性」と呼ぶのが適当である。
- Spranger a.a.O. s271
- この点については第五章二節参照
- Spranger a.a.O. s270
- a.a.O. s271
- Spranger 'Das deutsche Biludungs der Gegenwart in geschichtes-philosophischer Belehrtung' 1926 in "Gesamelte Schriften"フ s55
- Spranger a.a.O. s55
- Spranger a.a.O. s55
- Spranger a.a.O. s61-62
- Spranger Spranger s266 このことの教育学的意味については五十嵐顕『民主教育と教育学』、藤沢法嘆『現代ドイツ政治教育史』が指摘している。
- Spranger a.a.O. s267
(3)シュプランガー統一学校論の特質と構造
<シュプランガーの統一学校論>
シュプランガーは統一学校自体には原則的な支持を寄せた。人は財産や親の地位によってではなく、本人の才能・奉仕・業績によって社会的価値評価がなされるべきだからである。そして、表面的には常にケルシェンシュタイナーの分化的統一学校(Differezierende Einheitsschule)の構想を支持していた。(1) しかし、それにもかかわらずシュプランガーはケルシェンシュタイナー的統一学校論についての批判的視点をもっていた。
ケルシェンシュタイナーは能力は先天的に決まっており、選別ということからのみみれば、初めから分化させた方が良いと考えていた。彼が統一学校を支持するのは階級分裂を助長しないで国民的一体感を作りだすためだけであるといってよかろう。(2) 19世紀末から知能心理学が急速に発展し、第一次大戦を契機として一層普及してきた。イギリスでは公的機関がその有効性を認定していた。(3)
しかし、シュプランガーは能力の先天性に同意しない。早期の才能がいつまでも続くのではないし、知能テストは人間の個性までは測定できないと考えた。(4) 更にシュプランガーは非凡な精神の持ち主を一階級から一階級へ向上させることに懐疑的ですらある。「才能ある者」の向上だけが問題にされているが、それは問題をあまりに表面的にとりあげていることだ、と彼は批判する。(5) そこで促進されるに値する一層広範な人々のために、理解力の発展、指導助言、経済的援助、試験及び資格という方法を提起する。(6) しかし、ここを踏み越える地点でシュプランガーは暖昧にならざるをえない。かれは種々の教育組織を諸階級の教育要求が成層化したものとみている。したがって「階級差廃止の要求は、新興階級が自己を確立しようとするための単なる形式にすぎないのであって、やがては又その新興階級が自已の特殊な類型を発展させることであろう。」と彼は考察する。(7) そこで彼は「民族共同体」内の精神的な階級分裂を調停しようとする努力に期待するのであるが、こうした立場から才能ある者の向上のみに満足することができないのは当然であろう。しかし、結局のところシュプランガーは「そもそも各階級はそれぞれ全体にとって不可欠のものであり、したがってあらゆる階級の内部に上昇がある」という、階級問の上昇という問題設定そのものに背をむけるような結論にいきつくのである。(8)
しかし、重要なことはここでシュプランガーが「公共性」という範疇でさきの4つの方法の提起を正当付け、「むしろ向上は慎重な方法で個性化され、また特殊な素質の多様性と職業の要求の多様性とに応じて正しく指導されなければならない」というように観察課程の考え方を提示していることである。(9)
ケルシェンシュタイナーにとって「公共性」は国家そのものであった。したがって、「公民教育」は国家へ奉仕する資質を育成することであったが、国家自体が「公共性」を具現していないシュプランガーにとっては、「公共性」自体が重層的なのである。
<註>
- Spranger 'Die drei Motive der Schulreform' s267
- Reichsshulkonferenz 1920 全国学校会議での発言
- Board of Education "Report of the Consultative Committee on Psychological Test of Education Capacity and their Possible Use in the Public System of Education 1924"
- Saupe a.a.O. s94
- Spranger 'Das Problem des Aufstieg' 1918 in "Kurtur und Erziehung" s192 『文化と教育』 p266
- a.a.O. s193-195 同上 p266-270
- Spranger "Die Bedeutung der wissenschaftlichen Pägogik für das Volksleben" し265
- Spranger 'Das Problem des Aufstieg' s197 『文化と教育』 p71
- Spranger a.a.O. s197 同上 p71
<シュプランガーの職業教育論>
そこで次にシュプランガーの職業教育について考えなければならない。
ケルシェンシュタイナーの労働教育論はそれが公民教育の方法概念であったことにその本質を有している。(1) 労働を通じて国家に奉仕しようという性向と能力を発達させよう、というのがその本旨である。(2)
先述したようにシュプランガーにも同じような主張がある。しかも労働がもたらす畏敬の感情を指摘した直前に、「この点労作学校の教育的な力をケルシェンシュタイナー程に深く認識した人はいない」と書いている。(3) しかし、それにもかかわらず二人の労働教育、職業教育には無視できない相違がある。
第一に、シュプランガーは「国家」をここに位置づけない。ケルシェンシュタイナーにとってあくまで、国家有機体の中に国民一人一人を分化させることが目的であるが、シュプランガーは「真正な共同社会精神は決して国家によって有機化されるものではない」と主張している。(4)
第二に、ケルシェンシュタイナーの労働教育論は、国民学校及び継統学校を対象としており、もっぱら知的職業につく中等学校の教育よりも低い位置づけを与えられていた。(5) しかし、シュプランガーにはこのような上下関係での規定はない。ケルシェンシュタイナーの中心的な教養が旧来の人文主義的なものであるのに対して、(6) シュプランガーはむしろ職業陶冶を媒介として教養概念の転換を考えるのである。
20世紀は、19世紀の自然科学の発達とそれに促進された実科系の学校(Realschule, Fachshule)の興隆という事態に直面し、(7) 一般陶冶と職業陶冶の再考という課題を提起されていた。イギリスのパブリックスクール改革及びグラマースクール改革、フランスのバカロレア改革等が継続的に行われており、ドイツでも実科学校の昇格運動が19世紀末に活発に行われた。統一学校運動は実にそこに発生地点があったのである。(8) 古典文化を中心とする一般陶冶概念は保持できなくなっていた。シュプランガーの次の陶冶概念はそうした課題に応えたものと考えることができよう。
陶冶(Bildung)は発達している精神の素質や生活領域に関係している全ての客観的な価値を、体験あるいは人々の感情や創造力の中に明確な客観的行為力として、自ら享受する人格の目的に応じて受け入れることである。
そして、職業陶冶については次のように規定している。
職業学校における職業陶冶は、狭い専門的知識においてではなく、第一に包括的な職業型(Berufstypus)に結合して職業理念と職業エ一トスとをともに発達させること。第二に近い職業への切り換えを可能にすること。第三に社会的精神的生活の全生活に放射する一般陶冶にその中心がおかれるように組織されなければならない。(9)
そして、このことが統一学校の新しい本質的中心であるとつけ加えている。(10)この陶冶概念は端的にケルシェンシュタイナー批判となる。ある学校類型についてなるべく一つの原則をたて、教授・教材がその集団特性に適合して組織される、というケルシェンシュタイナーの命題を「各学校はその特有の中心点に応じて一定の陶冶類型を発展させ、その類型を単に生徒の所与の個性的な心的構造に対してのみでなく、内的陶冶の有機的な過程に適合するようにしなければならない」(11)というように拡張する。つまりシュプランガーはここで文化の多面化、社会的価値の分裂、労働の奇形化(テーラーシステム)という事態に直面して、全的人間性を求めるのである。(12)
現代社会は不断に流動する社会である。職業構造そのものが急激に変化し、時と共に消滅・勃興を繰り返していく。そうした中で、先天的な能力を前提として、個人を職業にあてはめていく、というようなケルシェンシュタイナー的職業論は、もはや変化の時代には適合しない。シュプランガーの対応は、職業を現実の細分化された状況ではなく、より包括的にみた類型で考察する。
<註>
- 同趣旨の指摘、藤沢前掲参照
- ケルシェンシュタイナー『労働教育論』藤沢法暎訳 p48-49
- Spranger 'Die drei Motive der Schulreform' s270 『文化と教育』 p198
- Spranger a.a.O. s272 同上 p200
- ケルシェンシュタイナー前掲 p54
- 同上 p126
- 上山安敏『ウェーバーとその社会』1977 参照
- W.Rein "Enzykropädische Pägogik" s215
- Spranger 'Gedanke über Lehrerbildung' 1920 in "Gesamelte Schriften" ハ s31
- Spranger 'Allegemeinebildung und Berufsbildung' 1920 a.a.O. s24
- シュプランガー「基礎陶冶・職業陶冶・一般陶冶」『文化と教育』所収 p242-243
- Spranger a.a.O. s10-12
<人間類型論>
そうした類型的発想が、「生の諸形式(Lebensformen)」と結び付いていたことはいうまでもない。
第一次世界大戦前後は、思想史的にみて、人間の類型論がきわめてさかんな時代であった。クレッチマーの体型による類型論、シュテルンの能力による差異心理学、ユングの性格による類型論など様々な位相における人問類型論が現れた。シュプランガーやケルシェンシュタイナーもその例外ではない。
そして教育の分野にもそれは大きな意味を与えた。ルドルフ=シュタイナーが、伝統的な人間の気質の分類を教育にも適応し、フォルメンやオイリュトミーという独特な教育技術を生み出したのが、その代表的な例であろう。
これは如何なる意味をもっているのか。
市民革命によって、「人間の権利」が宣言されたが、その結果直ちに前時代の人間観が払拭されたのではない。中世においては、「貴族」や「農民」や「僧侶」がいるのであって、それに優先して「人間」がいるのではなかった。生まれ育つ「場」が全く異なっていれば、「同じ存在」としての意識が育つはずがないからである。
「人間の権利」を宣言したことは、一面において交通の発達や、職業の流動化と不可分にむすびついており、多面において理念として「人間」であることの共通意識を喚起したであろう。したがって、19世紀の社会は、マルクスが「階級」の定義を必要としなかった程、まだ社会の回想が強固であり、異質性への意識が強く残存していたと考えられる。
「統一学校」の最大の結果は、この「同じ人間」という意識を、文字どおりに育成したことである。
19世紀末に、先進資本主義国で義務教育制度ができ、第一次世界大戦後、統一学校がある程度実現したことによって、国民すべてが同じ席で勉学を始めるようになった。つまり、人生の初めに、一度「等質」の存在になる。そこから、建前としては、個性に応じて進路を決めていくことになる。そこで身分や社会的地位ではなく、人間の個性を測る必要に迫られたのである。シュテルンの差異心理学や、シュプランガーの類型論はそうした課題に答えたものである。
ただその答え方は一様ではない。人間を先天的に差のある存在として把握し、それを正確に測ることを目的とするものと、人間としての共通性を、前提として「個性」の発現としての差を把握する論理とは、相反するものであろう。ケルシェンシュタイナーは明確に前者であった。シュプランガーは後者にたっていた。
1923年の論文で彼は心性構造(Seelenstrukturtmk)を理論的、技術的、実際的、野心的、人間愛という類型に分け、(1) それらに適合的に分化した統一学校を主張する。(2) しかし、この類型化は能力によるものではなく、必ずしも序列をもって考えられていない。全的人間性という理念と結合して、シュプランガーの統一学校論は、分化とともに「結合」の契機を内包していたとみるべきであろう。先述した観察課程的発想と合わせて考えるならば、彼の統一学校論の中に第二次世界大戦後のゲザムトシューレの萌芽をみることは不当ではないであろう。
ここで教養について検討しておこう。人問の共通認識は、教養論として構成されなければならないからである。
さてノールは教養について次のように書いている。
統一ある教養はふたたび歴史的諸勢力の対立のうちに打ち砕かれてしまい、その結果すでに19世紀の30年代にはこの教養の集中という問題が固有な課題として現れ、古典語中心のギムナジウムのほかに、キリスト教中心のギムナジウムあるいはドイツ語中心のギムナジウムが要求された。また同時に、人文主義的教養は民衆学校を高等中学校の統一を実現せず、教育を受けた者と受けなかった者との隔たりを以前よりいっそう大きくして、今日ではまさに実際に階級差を生み出したのだということが明らかになった。しかしまた人間に対する人問的評価や人格的な見方の衰退とともに、個々の魂の生きる権利に対する直覚から固有の力をえている教育もまた沈滞していかざるをえなかった。教育にはただ以前に形成された文化財、つまり客観的な知識の伝達ばかりが残されたのである。(3)
結局何度も指摘したように、統一学校運動は実科的な教養からの反撃であり、まずは平等化要求であった。ところでこうしたことから、統一学校模索の中で、教養への根本的な間い返しがなされたことは当然のことであった。
しかし、教養には二律背反がある。
教養は素材を溶かし込む精神的生のある形式を求めるが、しかし、この形式それ自体は素材の形式からのみ生ずる。すなわち教養は諸力の算出であるが、しかしこの諸力はその方向を自らがそれに奉仕する内実からのみ獲得するのである。(4)
教養には客観的な財という側面と、個人の生の過程という二側面がある。客観的財を伝達することを重視すれば、個人的生、個性の発達を軽視することになり、個性を重視すれば、客観的財を軽視することになるという矛盾である。(5)
しかし、今日の問題はこれに留まるものでない。つまり、客観的財自体の妥当性そのものが疑われている、というところにこそ、真の危機がある。それはクリークに端的に表現されている。(6)
この点についてのノールの解決策は「ソクラテス的解決」である。つまり、「創造的教育」と「倦むことのなき探求」である。制度としては民衆大学教育という形式に結び付くと言える。(7)
一方ノールはケルシェンシュタイナーについて次のように評価する。
ケルシェンシュタイナーが求めているのは、
1.単なる知性にではなく、子どもの全精神生活に応じるべきである。
2.子どもの受容性に向かうだけではなく、子どもの生産的・能動的諸能力を求めるべきである。
3.このような諸能力を空虚な場においてではなく、労働や職業において具体的な事物に即して発展させるべきである。
4.子どもの社会的欲求にも応じて、生徒達のアトム化や教師と生徒の抽象的関係を共同体や生き生きした交わりに置き換えるべきである
ということにある。(8)
つまり、ケルシェンシュタイナーが時代の進展に応じて教養の核となるもの、学校において教える核を変化させていくべきだ、としたことを評価するのであるが、客観的にはそれが個人のレベルで扱われている、と批判する。(9)
ケルシェンシュタイナーには、抽象的に国家という「善」があり、それに対する「個人」(内的善を求める)がある。したがって、客観的に教養の統一が考えられていない、というのである。
ここで次のような問題にぶつかる。
教養の統一とは何か。教養が客観的に統一される場合、社会の中で「精神的自由」はどのような位置をしめるのかという問題である。
ナチスは教養を民族・人種という生物学的概念で、きわめて簡単に集中した。そして、民族的統一を掲げたナチスが、自由を完膚なきまでに抑圧したことはノール自身が身にしみていたことである。
シュプランガーはノールの言う「二律背反」に、正面から取り組んだのだということができる。シュプランガーの職業陶冶論は、人間的共通性の形成を陶冶の課題としたものに他ならない。職業陶冶を一般教養に高めることによって、ノールの言う客観的財の形成を意図する。そして個人が一般教養を身に付けつつ、一つの職業に、能力によって拘束されることのないような職業陶冶を主張しているのである。そして、そうした中で発揮される個性として、人間類型論が位置づけられる。
しかし、それにも関わらず、シュプランガーは他の統一学校論者と一線を画している。
シュプランガーは国家による教養の統一を志向しない。また人間を類型的にみる限り、統一的教養も重要な概念ではないことになる。一般教養は決して国家によって統一された教養ではない。
つまり、シュプランガーは統一学校論について、明確にいくつかの批判的論点を保持していたのである。
<註>
- Spranger 'Berufgbildung und Allgemeinebildugn' 1923 in "Gesamelte Schriften" K s254 この四つの類型が‘Lebensformen’の理論的・経済的・美的・社会的・権力的・宗教的という類型を基礎にしていることはいうまでもない。
- a.a.O. s288
- ノール前掲 p85
- 同上 p173
- 同上 p174
- 同上 p176
- 同上 p178
- 同上 p134
- 同上 p186
<シュプランガーの統一学校論批判>
そこで次に、シュプランガーの統一学校論への批判的論点を見ておこう。
その第一は、教員養成の統一性を主張していないことである。シュプランガーによれば一般教育のための中等教育機関、専門教育のための教育大学(Pägogische Hochschule)が必要だが、(1) 教師の身分的地位は統一的でなくとも良く、それに応じて養成も各々の特色に応じた専門大学や養成所(Seminar)で行えばよい。(2) 「全国学校会議」での報告で、シュプランガーは国民学校教員は教育大学、中等教員は総合大学、技術・商業・農業・家政・図学・音楽教員は各々の専門大学、体育教員は教員養成所という養成案を示した。(3) このように分化した養成を構想するのは、初等中等教育における段階的、専門教育の類型的陶冶価値が異なる、ということによっている。(4) しかし、これのみではなく、当時の教師の運動の現状をも考慮に入れていると考えるのが妥当であろう。
第一次大戦後の学校改革は、ワイマール憲法や、予備学校の廃止(1920年4月28日法)を実現し、初等教員養成を主な目的とする新しい中等学校(deutsche Oberschule)を創設したが、それらに劣らず重要なことは、教師が各層毎であるが、集団的意志という形をとって学校体系への要求を掲げて運動を始めたことであった。1919年の初夏から各層の教員団体の集会や会議が頻繁に開かれ、それまで政党や労働者組織が主体であった改革論議はにわかに教員の参加によって豊富な内容をもつようになった。
しかし、第一章第一節に掲げた教員団体の要求の表にみられるように、教師の要求は統一されておらず、ある項目については敵対的ですらあった。教師自身が、階層・宗派・性別に分裂していたのである。こうした現実を前にして「教師の統一性」を主張することは現実的とは言い難い。教師の主体的形成の過程で、教師自身も一般陶冶と職業陶冶の全体的構造を理解し、要求の統一性が獲得されると考えたのであろう。(5)
第二に、宗教及び世界観の問題である。
周知のようにワイマール憲法はワイマール三党の妥協の産物であったから、論理的一貫性を欠き、その矛盾は世界観の教授に最も鮮明に現れていた。それは階級対立の反映であるとともに、個々の統一学校論者の内的矛盾の反映でもあった。ケルシェンシュタイナーが中心的イデオローグになりえた一つの原因は、彼がこの矛盾を超越していたからである。彼にとって国家こそ「最高かつ、最も完全な外的倫理的善」だから、(6) 宗教は彼の公民教育にとっては素材の一つにすぎなかった。したがって「宗派的分裂」という事態はケルシェンシュタイナーが論理的に解決しなければならない難問ではなかったのである。しかし、共同精神・倫理を求めながら国家が有機的に組織することを拒否するシュプランガーにとって、宗教は逃れることのできない課題であった。その課題はこう設定されるだろう。
1.価値観を具現しない近代国家を前提にしながら、共同社会精神をいかにして公的なものとして組織しうるか。
2.宗派的分裂及び世俗的世界観という相反する立場にたいしながら、いかに宗教的倫理性を共同精神として保持しうるか。
「近代社会は何といっても統一的な世界観というものをもっていないし、更に将来も決してもつことはないであろう」という近代原則をまずシュプランガーは承認する。(7) しかし、ドイツは1806年から1807年以来の悲惨な状況にある。したがってドイツの民族精神の強調という立場に彼も立っている。(8) だが、ドイツの悲劇は敗戦ということにとどまらない。先述したように政党間の争いに最大の危機がある、と彼は捉える。憲法自体にそれが直接的に反映している。そこで彼がまず求めるのは社会における自律的な、相互作用的な営為である。
それは第一に、「教育問題が階級闘争や権力の対立や経済的利害と直接結びつけられるのを防ぐこと」を課題としなければならない。そのために彼は「教育議会(Erziehungsparlament)」を考える。(9)
第二に、様々な思想的立場を「高次の統一の中で結合するように努める」ものでなければならない。ここでへ一ゲルに賛同するとともに、古典古代の価値を恒常的偉大さではなく、過去と現在が常に生き生きと結合していくことに見出している。(10)ここにシュプランガーの反自然法的思考をみることができる。
そして、第三に「既に存在する文化現象を把握理解し、それを系統的な概念の下で整理し、最後に価値付けと規範とによってそれをまとめあげる」という課題を科学的教育学が負わなければならない。(11)ここに先述した「生活共同学校」及び「青年運動」を結合することで、国家と社会という関係を除いて、第一の問題設定への解答が論理的には与えられることになろう。
<註>
- Spranger 'Gedanke über Lehrerbildung' 1920 s48-49
- Reichsshulkonferenz 1920 し261
- a.a.O. s261
- Spranger 'Gedanke über Lehrerbildung' 1920 s50-53
- このことをシュプランガーが述べているところは管見の限りないが、社会的価値の分裂を青年運動が、やがてそれを超えた共同精神を体現するだろうと期待した、その思惟様式から判断して、こう考えて誤りはないであろう。"Briefswechsel" s188
- Spranger 'Die Bedeutung der wissenschaftlichen Pägogik für das Volksleben' s267 『文化と教育』 p220
- Spranger a.a.O. s260 同上 p209
- Spranger 'Über Erziehung zum deutschen Volksbewußtsein' 1924 in "Volks, Staat, Erziehung" s57
- Spranger 'Die Bedeutung der wissenschaftlichen Pägogik für das Volksleben' s267 『文化と教育』 p220
- Spranger a.a.O. s268-270
- Spranger a.a.O. s269
(4)公共性及び教育の自由の構造
<シュプランガーと相対主義>
第二の問題設定は、より根本的に国家と社会の問題に関係している。
近代国家は一方で宗教を私事とし、他方で私教育の自由を保障したが、それによって教育は宗教宗派を核として組織された。(1) しかし、19世紀末以来国家自身が公教育の主体となったことによって、その構造が転換されねばならなくなった。このことは帝国主義時代の国家構造の変容という中で考えなければならないであろう。(2)
さて、国家が道徳教育を含む公教育の主体となったことで、それだけ「教育の自由」を制限せざるをえない。「自由な社会」を社会的理想としたナトルプ(P. Natorp)が統一学校論において教育の自由に対する国家介入を擁護するところに、そのことが典型的に表現されている。(3)
シュプランガーはこのことの当否というより、その有効性に懐疑的である。「国家の命令を受けた統一学校が共同社会精神を創造しうるであろうと信ずるのは妄想である。」(4)
その上複雑なことにワイマール共和国は「道徳教師」にすらなりえていない。シュプランガーは憲法の中に三つの異質の世界観上の思惟様式をみる。第一に、純粋な世俗的国家学校に帰結する「国家の民主的意志形成」、第二に宗派学校を擁護する「キリスト教の一定の歴史的特性の上にある世界観の保護」、第三に宗派混合学校を帰結する「一般的なキリスト教文化の啓蒙」である。(5)
しかも、憲法は教育権者の意志によって宗派学校を設置しなければならない、と規定しているから、シュプランガーはそこに国家学校の解消と教会学校への逆行をみる。(6) もし宗派的対立が激しくなければ、宗派混合学校で良しとしたであろうし、(7) あるいは宗教独自の活動による内的な倫理性の陶冶が安定していれば、それに任せることで済んだであろう。(8)
しかしマルクス主義者による世俗学校の運動がある限り、シュプランガーはそこで満足することはできない。キリスト教的国家道徳は共通のものだ、と彼は断言する。(9) そこで彼は国家が倫理あるいは世界観の担い手となることを現実から認めざるをえなくなる。シュプランガーが国家を問題にするときは、むしろここからM.ウェーバーの相対主義を批判する。相対主義では歴史を越えた概念構成が不可能であり、自分自身の価値を規定できないという。(10)
では彼は内面の自由を認めず、価値を外的に陶冶すればよいとするのか。もちろん否である。「ドイツにとって自由は政治的自立性や法的不可侵性以上のものを意味する。」(11)自由はシュプランガーにとって重要な価値である。
しかし、相対主義の批判と自由の擁護という一見矛盾する立場をシュプランガーはいかにして調和させるのか。それを明らかにするには、彼の国家認識と自由概念の特徴を把握する必要がある。
<註>
- 兼子仁の「私教育法体制」とはこの限りにおいて、私事の領域で宗教と教育が結合した体制ともいえるだろう。
- 河合秀和「ヨーロッパ帝国主義の成立」『講座世界歴史22』岩波書店
- P. Natorp "Die Einheitsschule" 1919 s11-12
- Spranger 'Die drei Motive der Schulreform' s273 『文化と教育』 p202
- Spranger 'Die wissenschaftlichen Grundlagen der Schulverfassungslehre und Schulpolitik' 1928 "Gesamelte Schriften" マ s150-151
- a.a.O. s153
- a.a.O. s152
- Spranger 'Das deutsche Bildungsideal der Gegenwart in geschichtphilosophis;cher Beleuchtung' 1926 in "Gesamelte Schriften" フ s72
- a.a.O. s73
- Spranger 'Von der deutschen Staatsphilosophie der Gegenwart' in "Gesamelte Schriften"フ s122-123
- Spranger 'Über Erziehung zum deutschen Volksbewußtsein' 1924 in "Volks, Staat, Erziehung" s67
<デュギー>
20世紀に入り国家論がさかんに議論されたが、ごく大雑把に1920年代の国家論の潮流を脇分けすると次のようになるだろう。
1.国家有機体説。教育の分野ではケルシェンシュタイナーに代表されるが政治学の分野では衰退している。
2.1にとって代わったといえる全体主義的国家論。近代民主主義の否定を通じて「具体的秩序の思想」「独裁論」を主張するカール:シュミットに代表される。(1)
3.相対主義的国家論。相対主義といっても論者は独自の価値観をもつので様々な立場があるが、H.ケルゼン、M.ウェーバーなどが代表であろう。(2)
4.社会主義的多元論。ハロルド=ラスキを代表とするがSPD中央派も含む。(3)
5.マルクス主義国家論。レーニン。
6.機能主義的国家論。レオン=デュギー。
シュプランガーは基本的に第三の潮流に入ると考えられるが、価値的立場を明確にしている点で特徴をもっている。(4)
さて堀尾によって国家の介入を理論付けたとされるデュギーについて、ここで考えておきたい。
デュギーの問題意識は、堀尾も指摘しているように、国家が積極的に今日社会権として理解されていることに、関わることを正当化することであった。
エスマンを批判してデュギーは次のように書いている。
エスマン氏にとっては、個人権による主権の制限は、個人の利益のために或る実定的なる給付を遂行すべき国家の義務を創設するまでには至っていない。国家は個人の権利の侵害となるべきことをなさざる義務を有する。国家はその権利を保証し、保護する義務を有する、だが個人はそれ以上の何ものかを国家に要求することは出来ない。したがって、エスマン氏は、国家による扶助の個人的権利、教育の権利亦は雇用の権利を認めていないのである。(5)
つまり、デュギーは扶助・教育権等を国家の正当な活動であるということを、証明するために、国家理論史を検討する。
デュギーの最も強い批判は、個人主義的・形而上学的理論に対して向けられている。
これはフランス革命の人権宣言に代表されるもので、まず人としての権利を想定し、国家はその権利を侵害することはできない、という点に要点がある。
デュギーは演線的論理として見事なものであるとしながら、そもそも前提が成立せず、科学の検証に耐えないとする。
権利とは人と人、つまり、社会を前提として成立する概念であり、社会から孤立した人を論理的に措定し、社会や国家の権利・権限に先立つものとすることはできないということ。そして、いかなる未開人においても、人は社会的な存在であったということ。こうして前提が成り立たない限り、個人主義的・形而上学的理論は成立しない。(6)
デュギーは個人の権利を不当な国家の介入から擁護する点で、この理論に共感しながら、むしろこの論理が、国家の無条件的な主権を容認せざるをえなくなることを危倶するのである。(7)
このことはルソー問題を考えるのに重要である。
デュギーは、ルソーを絶対主義の国家論者と位置づけている。
デュギーによれば、ルソーは個人の権利と国家の無制限な権利(=国家主権)が両立するということを証明したのであって、(8) その意味で絶対主義的国家論者だった。
ルソーの前提は、共同意思を個人自ら直接決定し、代表者によって決定されることがないこと、そして共同意思の形式において決定することであり、そのように決定された意思(=国家の法)は無条件に正しく、個人に命令することができる。(9)
しかし、それは個人が自発的に服従したのである。
デュギーはこれを端的に詭弁であるという。(10)
こうして詭弁によってルソーは、個人の権利ではなく、国家の無制限の主権、国家の神格化をもたらす、と批判する。(11)
ルソーがこのように絶対主義的な思想家として扱われていたのは、当時までむしろ普通のことであった。シュプランガーの理解も当時の常識に従っていたのである。この理解が変化したのは、国家そのものの変化と、教育においては「労働教育」の自覚による。
デュギーの結論は次のようなものである。
社会的連帯の理論に於て我々は古い国家概念に対する完全なる駁論を見いだす、我々は亦ドイツ的概念に対する駁論を述べることもできるのである。(12)
支配者の意思は公共役務の概念は主権のそれに置き換えられるに至る。国家はもはや命令する主権的権力ではない。それは、個人が公共役務を創造し処置するために用いるところの、統制権力を有する個人の集団である。故に公共役務の概念は近代公法の基本的概念となるのである。(13)
国家論の転換に重要な意味をもたらしたのは、国家を倫理的な存在とする考えであり、それは有機体説に支えられた。
デュギーはゲルバーの次のような言葉を引用する。
国家が共同的善の倫理的実現に向けられた人民の全ての力を保護し、及びこれを表現する限り、それは、法的秩序として認められた最高の法的人格である。(14)
ルソー評価という点で、大戦間は明確に過渡期であった。デュギーにとってのルソーは、多数の名によ名国家意思の強制を正当化する絶対主義者であった。この点についてはシュプランガーも同様の立場にたっている。
大戦間は多くの国で普通選挙が実施され、全ての国民が政治への権利を平等に獲得したのであるが、しかし、そのことによって国民の意思が政治に反映されないことが、やがて明確になった。むしろ国民の名において、支配階級は私的利害を押し付けることができるようになった。
ルソーの一般意思は、個々の集合的意思と全体意思の関連を、深く究明しようとしたところから生まれた概念である。普通選挙がそれだけでは決して国民全体の意思表示を意味しないことが明らかになった時、ルソーの一般意思が見直されはじめたと言えよう。
ルソー見直しの、もう一つの契機は労働教育論であった。その代表的な例がクルプスカヤであることは、言うまでもない。(15)19世紀末以来の科学技術の発展を反映したケルシェンシュタイナーらの労働教育に対して、人問の全面的発達という視点からの労働教育を唱えた先駆者として、クルプスカヤはルソーを再発見する。またルソーの労働教育論は、社会変革を想定した人問論でもあった。
「私の息子に職業をですって!」と訪ねる母にルソーは言う。
あなたは御子息を貴族とか、侯爵とか、大公とか、そんなものにしかなれないようにしようとしていらっしゃる。そして多分いつかは、御子息はあらずもがなの人間にしかなれないようにしていらっしゃる。ところが、私は失うことがありえないような地位を、どんな時代にも恥ずかしくないような地位を彼に与えたいと思っているのです。私は彼を人間の状態に引き上げたいと思っているのです。(16)
デュギーの国家論は、限定された国家の活動を是認するという目的に貫かれていたが故に、こうしたルソーの徹底した意思形成の思考を受け入れることはできなかった。
<註>
- カール=シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923 『政治神学』1922
- ハンス=ケルゼン『社会主義と国家』11923 ウェーバー『支配の社会学』1921
- ラスキ『政治学網要』1925 "Introduction to politcs" 1931
- この整理には田口富久治・田中浩『国家思想史(下)』を参考にしたが、本書は6については触れていない。
- レオン・デュギー『法と国家』1917-1918 堀眞琴訳岩波文庫 p179
- 同上 p39-41
- 同上 p42
- 同上 p47
- 同上 p46
- 同上 p54
- 同上 p63
- 同上 p278
- 同上 p279
- 同上 p185
- クルプスカヤ『国民教育と民主主義』五十嵐顕他訳 明治図書参照
- ルソー『エミール』平岡昇訳河出書房『世界の大思想17』 p200
<自已実現としての自由>
シュプランガーに戻ろう。
シュプランガーの国家有機体説への評価は既に述べたとおりである。
国家はヤヌスの顔であり、法(Recht)と権力(Macht)という二つの側面をもっている。ケルゼンの法実証主義(国家とは妥当する法である)では、逆に法形成のプロセスを分析できない、という弱点をもつし、しかも囲い地に留まる国家などない、と彼は批判する。ここでかれは国家の権力性を容認するのだが、その限りでカール=シュミットを評価する。(1) しかし、シュミットに対しては倫理性のない権力は安定しないという批判を投げかける。つまり二つは相互依存的なものである、と彼は主張するのである。(2)
ではどうやってそれを実現するのか。シュプランガーはルソーの「一般意思論」をやはり虚構として退ける。(2) ドイツ革命を前にした時、民衆の政治が政治主体として登場することに、嫌悪感を抑えることができなかったシュプランガーは、デュギーと同様にルソーを全体主義者とみなしていた。
結局彼が期待するのは、政治の対立を克服する規範の獲得と、それを実現する政治教育なのである。
シュプランガーは政治教育の原理を次のように措定する。
1.国家のための教育はまず第一に、超個人的な権力調整への意思形成である。国家は住民の、統一的に結合された最高集合的確カだから。
2.政治教育の第二のモメントは、法意思・法意識の形成である。その際法秩序の尊厳及び品位が大切なことはいうまでもない。
3.法はその生活関係が常に新しい法形態に準じて生成する法団体から生まれる。
4.国家国民は共通の労働世界が最も強く結びつける。
5.最も重要なモメントは国家エ一トスの陶冶である。(4)
そして、これら全体を貫くのは、国民意識・郷土理念・国民共同体を媒介とする全体(Ganzen)への奉仕のための教育なのである。(5) このようにみていくと、ケルシェンシュタイナーとの交流からの影響を認めなければならないであろう。(6) しかも、シュプランガーが示している規範内容は、権力意思・法意思・国民信義・大地への信義・共同の文化労働の陶冶及び全ての倫理的感性・責任感を国家エ一トスに表現する、というものである。(7)
ここでシュプランガーは大きな矛盾にぶつかることになる。相対主義の国家論を前提にしながら、政治教育は国家意識の形成を目的として、更に国家によって実施されなければならない。
そこでシュプランガーは国家の内的存在でありながら、国家権力からは相対的に独立した機構を考え、「教育の自由」の概念を導入する。つまり、自律的な概念の運動及び個人・集団の運動に主体を求めるのである。シュプランガーが青年運動を重視する一つの理由はここにある。先述した「教育議会」の構想はそれを制度面で保障しようとするものである。
しかし、国家に対する排他的な自由までシュプランガーは認めない。(8)
ここで二つの自由概念として論議されていることを想起しなければならない。「からの自由」という解放の原理と「への自由」という自己実現の原理は、今日なお自由をめぐる活発な議論を引き起こしているが、「国家権力からの教育的価値の自由」という一般的「教育の自由」に対して、明らかにへ一ゲルの「自由とは必然の洞察である」という自由論を念頭におきながら、シュプランガーは「自由とは義務の認識である」という命題をたてる。(9) しかも「国家は義務理念の最高の顕現である。」のだから、(10)国家的義務を認識し遂行することが自由の実現となるのである。
ここにおいて相対主義批判と自由の擁護を調和させようとした論理をみることができるだろう。しかし、更に指摘したいのはこの論理が「公共性」について課題を提起していることである。「公共性」は旧い共同体的規制から人問を解放し、個人を法的平等(形式的平等)の下におくこと含んでいたが、市民法的自由権の下では、教育においては形式的原理としての機会均等原則を意味していた。しかし、独占化が進み、市民法の形式自体が維持できなくなるに及んで「公共性」はその意味を転換せざるをえなくなった。独占の私的利害を守るために、国家が登場する。
しかし、それが「公共性」として規定される限り、論理的には全国民の利益を包みこまなければならない。また国家が主体となる限り「自由」を制限せざるをえない。この矛盾をシュプランガーは解かなければならない。
二つの自由概念とは違う意味で、「教育の自由」は歴史的に二つの系譜を持っている。一つは19世紀フランスに主にみられる「私教育の自由」、つまり「家庭教育の自由」「学校設立の自由」であり、ギゾー法がその典型である。他の一つは「教育的価値の権力からの自由」、つまり「教授の自由」「教育内容の自由」等である。特に前者は教育の私事性原則と呼ばれているが、近代国家における公私の分裂を止揚するという時の教育体制の在り方は、「教育的価値の自由」を保持しながら、私教育という私的な形態ではなく、全国民の公的な組織過程を媒介とするのでなければならない。そして、この全国民の公的組織過程こそ、教育の公共性の内実を規定するのである。
ケルシェンシュタイナーの統一学校論は「第二の教育の自由」を否定し、他方宗派問題に関わらないように、私事性原則は否定しない。国家有機体説はあくまで、国家が主体となって選別し、国家理念の陶冶を行うのであって、ここには「公共性」概念は欠如している。あるのはせいぜい、政党の争いから中立な国家という中立性概念であろう。
しかし、シュプランガーには価値及び集団の相互作用による統一的価値形成という構想があることをみた。しかもできるだけ多くの人の向上が考慮されるべきだとし、「公共性」の名の下に経済的保障をしていた。すなわち、国家に至る倫理の陶冶という限定内であるが、シュプランガーは私事を公共性の内に取り込むである。もちろん、彼がそれを理念の枠内で構想し、社会の物質的基礎及び技術的基礎、そして社会構造のレベルで把握していないという限界は私的しておく必要はあろう。しかし、そうした把握はいかなる「公共性」と「教育の自由」の結合を示すか、ということは別の対象に即した課題である。ここでは、以上のような意味でシュプランガーが福祉国家教育政策の原形を示していたこと、その鍵概念は「自己実現原理としての自由概念である」という二点を確認しておきたい。
<註>
- Spranger 'Von der deutschen Staatphilosophie der Gegenwart' s116-119
- a.a.O. s120
- a.a.O. s120
- Spranger 'Problem der politischen Volkserziehung' 1928 in "Volk, Staat, Erziehung" s82-88
- a.a.O. s77
- 松岡信義「シュプランガーとケルシェンシュタイナー」『シュプランガードイツ教育史』明治図書所収の解説論文。なお国家のための教育という主張は、大戦中にみられるが、戦前にはあまり見られないようである。Spranger 'Das humanistische und das politische Bildungsideal im heutigen Deutschland' 1926
- Spranger 'Problem der politischen Volkserziehung' 1928 in "Vols, Staat, Erziehung" s82
- a.a.O. s81
- Spranger 'Über Erziehung zum deutschen Volksbewußtsein' s67
- a.a.O. s70