第三章 イギリス中等教育拡大運動の展開

第二節 ハドーレポートからスペンズレポートヘ

(1)はじめに


 1918年のフィッシャー法、そしてその実施法である1921年法制定後は、制定されながらも第二次大戦の勃発によって延期された1936年法を除いて、大きな法改正・制度改革は実施されなかった。しかし、第二次大戦後のイギリス教育を大きく左右した1944年教育法の内容は、フィッシャー法によって成立した教育行政組織を土台として、1920年代、1930年代に形成されてきたのである。
 二度の労働党内閣の成立も影響して、ハドーレポート(1926年、1931年)、スペンスレポート等教育改革をめぐる議論は活発になされていた。では、この時期の教育論議の特徴は何だったのか。
 第一に、今日の多様化政策の原形ともいうべき三分岐型学校体系が、学校の現実態として、又政策的合意として、次第に明確なものになり、政策文書として登場したことである。もっとも、政策的には後でみるように、初めは二分岐型の体系として構想されたのであるが、社会的背景の変化、あるいは社会的要請によって、三分岐型の構想に展開していくことになる。従って三分岐型学校体系の中には、二分岐型を要請する論理と、三分岐型を要請する論理とが滉在しているのであり、それをひとまず解きほぐすことが必要であろう。
 第二に、教育と産業との関係が大きく変化したことである。あるいは産業構造の変化自体が、教育への要求を変化させだともいえよう。ハドーレポートからスペンスレポートヘの移行の背景にはそれがあった。セントラルスクール、ジュニアテクニカルスクール等、様々な産業と密接な結びつきをもった学校が増加していった一方で、それらの学校のカリキュラムが、産業との結びつきを欠いたグラマースクールとの共通性をも増大させていったことが、そうした変化を学校の具体的姿として示している。この時期、知能テストが教育現場の中に少しずつ浸透し、根を下ろしていくのだが、社会の産業構造の変化を示す現象なのである。
 第三には、第二の点とも関わって、教育が経済的効率という観点から考えられ始めたことである。一貫して続いた財政難、更に恐慌が増大する教育費の支出を困難にしたし、失業問題が様々に教育問題に影響ビた。こうしたことは、教育の投資効果という思惟が広まることを促進した。
 第四に、ハドーレポートからスペンスレポートに至る政策作成は、基本的に資本家層と労働者階級の政党、団体の合作であり、ワイマールの「妥協」とは異なる性格をもっていることである。(1) ワイマールの「妥協」は、実際には一方の(宗派学校の支持者、つまり支配層)の勝利であり、論理的対立は残したままであり、そして、対立の内容が宗教教授という、近代原則では公的内容として処理できない問題であった。それ故、同じ性格の問題としてその後も繰り返されたのに対し、ハドーレポート、スペンスレポートは一つの論理の創出であって、従ってそれは新たな教育問題を生み出したのである。
 以上の視点に立って、具体的分析をしたい。

<註>
 
  1. 成田克矢はここをワイマールと同種の対立する二大階級の妥協の産物とみているが、同意できない。

(2)フィッシャー法の具体化


<フィッシャー法の実施状況>
 
 フィッシャー法の規定で最も重要なものは義務教育を14歳まてにすること、それに応じて児童労働を制限することであったが、それは全国的規定であった。その他にフィッシャー法は、地方教育当局に対して、公教育に関する諸計画を提出する義務を課した。そしてその計画は、継続学校、職業学校、カレッジ等の計画を含まなければならないこととされ、更に計画に対する承認権を教育庁(Board of Education)に与えることによって、小学校後の教育組織が、地方によって個々別々のものであるけれど全国的な繋がりをもって、改革が進められていく条件を形成した。(1) そこで、1921年初頭のタイムズ教育版の地方欄によって、地方教育当局の動きをみてみよう。
 表1は地方欄に報道された地方教育当局が取り組んでいる内容であるが、これでみるように、「教育計画の作成」という直接的議題以外にも、「教育方法の改善」「奨学金」「知能テスト」等教育改革に関する内容が多く取り上げられていることがわかる。

  表1 地方教育当局の取り組み
 ア 教師の給与   20  カ 教師の訓練  6  サ 知能テスト  1
 イ 教育計画の作成 19  キ 出席状況   5
 ウ 予算      11  ク 青年の失業  4
 エ 教育方法の改善  6  ケ 保健     3
 オ 奨学金      6  コ 児童の貧困  2

 いくつかの具体例を紹介しておこう。デュースペリー(Dewsbury)では、フィッシャー法による計画を次のように立てた。
 1.幼児学校(nursery school)の充実
 2.16歳まで初等学校に留まっている子の教育の質的向上
 3.13歳から3年間の選択制ジュニアテクニカルスクールの設立
 4.大学への道の拡大
 5.医療の充実
 6.小学校の学級定員を40人から30人に減らす。(2)
 リッチモンド(Richmond)の教育委員会(Education Committee)では、小学校後の学級として、手工・家政クラス、工業重視のクラス(industrial biass)、遅れた子のクラスを設けることが討議された。(3) フィッシャー法に批判的な立場をとったマンチェスターでは地方教育当局と、実業界、財政専門家との話し合いがもたれ、児童労働と継統学校、中央学校の問題が論議された。(4)
 こうした中で、中等学校、中央学校の設立は苦しい予算の中でもスムーズに合意が得られて実現していくが、フィッシャー法制定時に大いにもめ、義務制の実施が七年間延期されていた継統学校については、各地で異なった対応がみられた。
 グロチェスターシアー(Gloucestgershire)では何人かの熱心な支持者があったが、財政上困難であるという雰囲気が支配し、(5) ケント(Kent)では、継続学校の準備という意味も持たせながら総合技術学校(Wllowich Polytechnic)の設立計画を立てた。(6) 一方、バス(Bath)では、青年は1日7,8時間働いており、継続学校に通ってもあまり利益がない、という理由で消極的な姿勢を見せ、(7) ウィルトシャー(Wiltshire)は教育庁の支持待ち、バーミンガムは、継続学校委員会が計画の中止を勧告するなど、(8) 全体的には消極的な傾向が目立っている。
 では、全体の傾向はどうだったのだろうか、日本の文部省の調べによれば、1920年から1921年の年度に、義務就学のために設置された継続学校は112校であり、52,000名が出席していたが、漸次減少していって、出席が任意となったり、学校そのものが廃止されていった。(9) そして、1932年段階では、昼の継続学校はLEA設立が50校で、生徒は男8,933人、女7,899人。LEA以外の設立校(例えば経営層の設立)が7校で男299人、女1,007人となっており、就学義務を保持していたのはラグビー(Rugby)のみであった。(10)

<註>

  1. ローンデスはこのことがハドーレポートに影響を与えたと分析している。G.A.N. Lowndes "The Silent Socail Revolution" 教育庁は、教育計画作成にあたって、1.全学校を国家的制度の部分として位置づけること、2.地方の教育要求に応えたり、発展させたりする、という二つの原則を強調している。したがってバラバラにならている学校形態を国家制度として整理していく一方、地方の実情にも合わせていく、という両者の調和を図ろうとしていたことがわかる。Board of Education "Memorandum as to schemes to be submitted by local education authorities under section 1 to 4 of the education act 1918 and suggestions for the arrangement of such shemes" 1919
  2. T.E.S.1921.1.27 本節でのT.E.S.の引用は特に断らない限り、Local Administration の欄である。
  3. T.E.S.1921.2.3
  4. T.E.S.1921.1.27
  5. T.E.S.1921.1.20
  6. ibid.
  7. T.E.S.1921.1.13
  8. T.E.S.1921.1.20
  9. 文部省『教育制度の調査』第八輯上 p52 ただし、1920年前後は継続学校に否定的であったが、次第に義務とすることが望まれるようになってきた、という分析もある。Herberd Ward "Notes for the Study of English from 1900-1930" 1931 p63
  10. 文部省、前掲 p53

<継続学校の状況>
 
 そこで次に、継続学校に関していくつかの典型例を追ってみよう。
 第一にロンドンである。ロンドンは前節でみたようにフィッシャー法に基づいた総合的な計画を既に提出していた。大戦前から他に先がけて中央学校(Central School)を創設するなど、先進的な地区であった。継統学校についても、典型的な推移を示すことになる。1920年にロンドン市が作った計画は14歳一18歳を二つの段階に分け、14歳−I6歳は普通教育(general education)と広い関心に応える内容、16歳−18歳は職業的な比重を高めるというものであった。そして、その際次のような原則が確認された。
 1.例外を除いて、週4時間の授業を2回受ける。
 2.継続学校は職場の近くの学校に通う。
 3.14歳−16歳は普通教育、16歳−18歳は職業教育とする。
 4.通年授業をする。(1)
 そして、1921年から出席義務を実施する計画をたて、教育界や産業界の代表との協議が続けられた。この時点で大きな困難とされたことは、次のようなことであった。
 継続学校は始まる当初は15,000名の青年が対象となるが、義務制が実施されれば最大時12万人の大きな規模となる。しかし、それらの施設は、生徒は週2図それぞれ半日利用するだけであり、施設の有効な利用が難しいし、教員の有効な就業は更に困難である、という点である。(2) 結局ロンドンは、1921年7月には、15歳までの義務という措置をとり、更に1922年の選挙で、継続学校の存続を主張する派が敗れ、35校が閉鎖、11校が任意出席の学校に変えられることになった。(3) これはすぐにまわりに影響を与え、ウエストハム(West Ham)、スウィンドン(Swindon)、ストラットフォード(Stratford)でも同様の措置がとられた。(4)
 次にウォーウィクシャー(Warwickshire)のラグビーを採り上げてみよう。
 ウォーウィクシャーは1915年に既に教師養成のため中央学校(Rural Central School)を設立するなど教育に熱心であったが、(5) フィッシャー法の下で長く継続学校の義務制を実施した唯一の地区となった。ウォーウイクシャーラグビー地区では年43週、一週7時間半の継統学校出席が義務づけられており、60%から70%が通学するという実績を示したが、(6) ラグビーではいくつかの有利な条件があった。、1924年のタイムズは次のような情報を載せている。
 ラグビーの昼間継続学校は、スタチエトリー(Statutory Day Continuation School)がこの地方で残っているだけである。この学校は1920年4月にウォーウィクシャーの教育委員会によって始められたが、今日その価値は検討されるべきである。大経営者や、全てではないが多くのより小さな雇用主の強い援助が与えられてきた。町の世論は事実暖かく支持してきた。教育庁はこの学校を好意的に報告してきた。今645名の男女が出席し、平均出席率は92%である。(7)
 バーンタウンによれば、ラグビーでは校長会が支持し、産業界では熟練工の割合が高く、電気産業がさかんだったことも影響して、経営層が継続学校を支持し、多くは登校日も有給扱いにした。そして、当初新しい校舎を建てたことも存続に力があった。(8)
 次にマンチェスターである。前節でみたように綿工業の中心であるマンチェスターは安価な児童労働を求めていたために、フィッシャー法のハーフタイムシステムの廃止、継続学校の義務化に反対であり、フィッシャー法制定後も、継続学校に消極的な姿勢を取り続けた。しかし、マンチェスター市全体としては教育には熱意をもっていた。1917年のまだ戦争が続いていた頃、ランカシャー教師協会(Lancashire Teacher's Association)に次のような要求を提起している。
 1.義務免除の廃止
 2.義務就学年齢を15歳までに引き上げる
 3.40人学級とする
 4.カリキュラムの整理
 5.15歳以上の全日制継続学校の設置
 6.補助金制度の単純化
 7.無償席の拡大
 8.教師の質的向上のための施策
 9.給与の引き上げ
 10.視学の改善
 11.国民的審議会(National Coucil)の設置
 12.教師の行政への関与(9)
 1918年の教育関係者の会議では、継続学校の明確な規定を求めており、(10)一方タイムズ教育版の報じることろによれば、6月にはいくつかの企業が自分達の雇用者のために、継続学校を開校し、教師を好条件で集めてもいる。(11)更に、市立の学校でも(Blackley Municapla School)14歳から16歳半までの昼間の継続学校を始めていた。(12)他に二校夜間の継続学校が開かれていた。(13)しかし、一方で継続学校の増大に逆行する動きもマンチェスターには非常に強かった。それは児童青年労働に対する要求であった。1921年初頭に、マンチェスターの教育当局の間で最も大きな問題となっていたのは、小学生等の牛乳、新聞配達を禁止するかどうか、ということであった。(14)1921年4月のマンチェスター市議会(City Council)では、教育委員会から、12歳から14歳の児童の早朝配達禁止の提案が出されたが、意見として次のようなことが出された。
 「これらの仕事による早い時期の訓練は職業上のキャリアにとって大きな価値をもつ。」(Woollam)
 「早朝の仕事は健康によい。」(Gilgryst)
 「百万人以上の大人の失業があるときに、子供の労働を助長するのは適当でない。」(Daives)
 「早朝働く少年が学校生活から充分な利益をえることは不可能である。」(Fox)
 このような賛否両論が出される中で、結局38対21で教育委員会提案は否決されてしまうのである。(15)
 結局マンチェスターでは、継続学校の義務就学は実施されず、任意出席の学校として出発した。1921年段階で、100の会社、150の団体、2500名が14の学校で学んでおり、とりわけ電気・化学等の技術を中心に勉強をすすめ、この限りではうまく機能していると紹介されている。(16)
 以上みたように、個別的には継続学校が維持されていたが、義務制がとられたのはラグビーのみであり、又全国的な措置として、義務制を追求する政策は、フィッシャー法の規定にも関わらず、政府によって放棄された。そして、1922年にトー二一が中心となってまとめた労働党の『中等教育を全ての者に』が現れて以後、14歳までの初等教育の義務教育以後の教育の在り方については、論議の構造が変わることになった。
 では労働党は継続学校についてどう考えていたのか。労働党の性格からそれは一様のものではないが、トー二一の『中等教育を全ての者に』は次のように政策を掲げている。
 14歳から16歳までの定時制の継続学校は、現在の状況が改善されない限り、中等教育の制度の発展にとって、その代わりになりうるものとして認められるわけにはいかない。労働党が主張する政策は、既にいくつかの地方当局によって提案されているように、12歳から16歳までの男女のための、全日制の中等教育を発展させることである。それは現在普通に見られる中等学校のそれよりも、はるかに幅広い多様性を含むものと理解されるべきであろう。継続学校は初等教育あるいは予備的教育をではなく、知的教育を継続すべきであるが、その固有の領分は16歳で中等学校を終わった者のために定時制の教育を与えることである。(17)
 このように、初等教育の延長ではなく、中等教育の義務化を求めるところが、卜一二一及び労働党の要求であり、労働組合会議(Trade Union Congress)は労働者の知的水準の低下を危慎する立場から批判的であった。(18)
 しかし、W.E.A.のマンスブリッジは継続学校をハイウェイヘの一段階とみていたし、(19)1週8時間では少なすぎる、ということで反対しており、内容、形態のことで反対したのではなかった。(20)結局、労働党全体としては必ずしもトー二一の文書が浸透していたわけではなかったといえる。
 トー二一によっても高く評価され、労働党の教育政策に関係したリンゼイは、この分岐点ともいうべき政策を示している。リンゼイは伝統的な中等学校とともに、産業と結合した中等学校を容認しており、(21)産業と結合した新しい中等学校が要請する新しい教育内容、教育方法をある程度継統学校が実現している、という点で継統学校を評価している。(22)
 このようにみてみると、継続学校というものは、結局のところ全国的な義務制を実施することは不可能な学校であったけれども、新しい中等学校の必要性を社会的に認識させたという意味があったといえるだろう。フィッシャーが継続学校に求めたのは技術教育と市民性の涵養であったが、満足な技術教育を行うには、不充分な時間と設備しかなかったし、14歳までの義務教育では市民性が育たない、という議論は大きな支持を得られなかった。むしろ、14歳以上の教育が必要であるとしたら、それはより高い教養の獲得と進展する技術に応じた技術教育である、という考えこそが社会的支持を得ることができたのである。

<註>

  1. London County Council "Education Act 1918 Scheme of the Local Education Authority" 1920.6.21 p98
  2. ibid. p99 ゲストによれば最も多いときは24万人いたが、12万人になっていた。ゲストは継続学校の最大の欠点は18歳まで初等教育が続くことであるとしている。Haden Guest "The New Education ── A Critical Presentation of the Education Scheme of the London Education Authority 1920" p104,112
  3. Gerald Berntaum "Social Change and the School 1918-1944" 1967 p31 ベルンタウムによれば、14%の労働青年が継続学校に関係したが、結局ハーフタインではなく、学校に行く日は一日つぶれるので雇用主の方が圧迫した。
  4. ibid.
  5. T.E.S.1915.6.1
  6. 文部省、前掲 p53
  7. T.E.S.1924.3.15
  8. G. Bertraum op.cit. p32-33 ウォークシャーでは年6,000ポンドの鉱業主による補助金(Meiner's Welfare Grant)があり、鉱業学校(Mining School)が維持されてきた。これは新しい技術を身につけた石炭工を求めていたためである。T.E.S.1924.12.13
  9. T.E.S.1917.3.1
  10. T.E.S.1918.3.7
  11. T.E.S.1918.6.20
  12. T.E.S.1918.6.13
  13. T.E.S.1918.6.27 10月にも夜間クラスが開かれることが報じられている。T.E.S.1918.10.3
  14. T.E.S.1921.4.14, 5.12
  15. T.E.S.1921.9.24 1924年では130の会社、2500名が9校で学んでいるとされている。T.E.S.1924.5.10
  16. R.H. Tawney "Secondary Education for all" 1922 p12-13 『すべての者に中等教育を』成田訳 p15
  17. Rodney Garker "Education and Politics 1900-1951 A Study of the Labour Party" 1972 p32
  18. A. Mansbrige "An adventure in Working Class Education ── Being the story of the Worker's Educational Association 1903-1915" 1926
  19. Philip Snowden "Labour and the New World" p230
  20. Kenneth Lindsay "Social Progress and Educational Waste ── Being a Study of the 'Free Place' and Scholarship System" 1926 p26-27
  21. ibid.
  22. 継統学校やその賛成意見が全く無くなってしまったわけではない。1935年にケネス・リー(Kenneth Lee)が次のような意見を述べている。「継続学校は死んだのではなく、提案されたのが早すぎたのだ。学校と産業を近づける有効な手段であり、ハドーレポートはシニアスクールの方向を求めているが、シニアスクールと継続学校は決して矛盾するものではない。また義務就学の年齢引き上げに反対するものでもない。」T.E.S.Local Authorities Notes 1935.1.19
     テイラーは継続学校が「皆殺し」になったことはよかった、と評価している。もし、実現していたら、プロレタリアにとっての、ひどく水準が低い教育が現出し、階級分裂をもっと悪化させた、という理由である。テイラー前掲 p167

(3)ハドーレポートの提出

<中等教育概念の展開>

 統一学校運動は別々の体系であった初等教育と中等教育を一つの統一的体系に再編することを目的としていたから、当然中等教育概念の検討を迫るものであった。一般教育を与え、大学への準備と考えられた中等教育は、大学に進むことなく職業に就く多くの青年にとって、適切な教育でないことは明らかであり、(1) それ故従来の中等学校とは性格の異なった小学校後の学校がつくられ、増加していたのである。
 更に全ての先進資本主義国において、19世紀末から自然科学を学校教育に取り入れようとする動向が進み、従来人文的教育を支持する人々との問に争いが生じていた。イギリスではこれらの二つの動向は、1902年及び1904年の中等学校規則の異なった規定に反映した。1902年の規則では、旧来の人文系と自然科学を重視する二つのコースが認められたが、1904年規則では中等教育を人文的教養を与える場として規定した。(2) つまり中等学校は職業教育でなく、一般教育を与える場であり、それは人文的教養に基礎をおく、というのが、第一次大戦を終えた時点での法的原則であった。(3)
 フィッシャー法はどうか。
 フィッシャー法は初等教育を例外なく、全国民に対して14歳まで課したのであるが、中等教育は義務とされていない。継続学校を義務としたが、継続学校は初等教育とされ、中等教育とは位置づけられていなかった。(この義務は結局実施されなかったことは既に書いた)
 フィッシャー法が中等教育について規定しているのは次の点である。
 第一に、地方教育当局に対して初等学校以外の学校へ進むことについての準備及び転学の措置について、具体的計画をたてることを義務づけていること。(2条2項c−i)
 第二に、教師の供給及ぴ養成についての計画を義務づけそいること。(同条のii)
 これは必然的に中等学校の増大を企図せざるをえないことを意味する。
 第三に、中等学校その他の学校に通学している者は、継続学校への通学を免除されること。(10条3項)
 フィッシャー法は従来の中等学校規則を完全に踏襲していたといえるだろう。ではフィッシャー自身はどのような中等教育観をもっていたのか。
 フィッシャーは1919年2月に新設の中等学校を訪れて、大要次のような演説を行っている。
 中等学校は大学及び初等学校に連絡しているが故に、国の教育制度にとって重要である。また教師の養成にとって中等学校は大切である。ハイウェイとしての中等学校がしばしば主張されるが、大切なことは青年から成年に至る内的に結合した大きな道(a great interconnecting system of roads)であって、中等学校は主要であるが、唯一の道ではない。(4)
 また、1921年に中等教育についての演説の中で、中等教育全体の欠点として就学期間が短いこと、教育の水準が低いことをあげ、特に才能をもった者を中等学校に進学させることが大切である、と述べている。(5) このようにみる限り、フィッシャー法が中等教育を多くの者に ── 1922年の労働党のように「全ての者」にでないことはもちろん ── 保障しようとしたのでないことは明らかであるが、しかし、フィッシャーの考えは従来からの考えから一歩踏み出していることが注目される。フィッシャーは大学への道が必ずしも従来の中等学校に限られることなく、もっと大きな道が形成され、多様な機会が在るべきだとしている。
 そして、次第に教育庁の中に中等学校を年齢段階として捉える見方が出てくるのである。1920年前後、社会的には中等教育概念は三種ぐらいに分かれていたことになる。第一に、11,12歳から16歳まで教育、第二に、中産階級のための教育、そして、大学に行くための準備教育である。(6) こうした多様な発想が現実と対応していたことはいうまでもないが、行政的には「職業教育をしない一般教育」の学校という建前は崩れていない。1935年時での中等学校への補助金の条件は、次のように規定されていた。
 1.学校の建物・施設が充分であること
 2.1年に36週以上授業があること
 3.職員が数・資格ともに適切充分であること
 4.職員俸給が補助金を下回らないこと
 5.1クラス30人以下であること
 6.生徒中4年以上在学の者の比率が高いこと
 7.25%以上の特別席を設けること
という条件の上に、一般教育中心の教育が充分に行われていることが求められているのである。

<註>

  1. バンクスは、中等学校の卒業生の多数は専門的職業ではなく、商業や工業の分野に進んだ、と書いている。Olive Banks "Parity and Prestige in English Secondary Education ── A Study in Educational Sociology" 1955 p74
  2. Banks ibid. Banks 'Morant and Secondary School Regulations of 1904' in "British Journal of Educational Studies" vol.3 1954, E.W.Jenkins 'Science Education and the Secondary Shool Regulations 1902-1909' in "Journal of Educational Administration and History" vol.2 1978
  3. 1904年規則をうけた1905年規則は「職業教育ではなく普通教育、つまり一般陶冶を行い、能力全体に適度の習練と発達を与えるべきであり、能力のいずれかを等閑に付し、又は犠牲にしてはならない」と定めている。文部省『教育制度調査』10. p2
     なお、1912年当時の中等学校のコースは次のようになっていた。
    Council Schools Foundation and Other Schools
    Total number of school 382 503
    Number of schools which provided
     a. Commercial courses 18 7
     b. Domestic economy courses 4 lO
     c. Rural of agricultural courses 7 26
     d. Engineering courses 4 11
    Number of schools which provided one or more of the above courses  3043
    Number of schools which included
     a. Latin 323 434
     b. Greek 29 154
     c. French 380 499
     d. German 152221
    Schools classified according to the number languages included
     a. No languages 10
     b. I Ianguages 4856
     c. 2 Ianguages 185201
     d. 3 Ianguages 123 l33
     e. 4 Ianguages 25112

    Board of Education, Educational Statistics, 1911 - 12 Table 38
  4. 'Mr. Fisher on Secondary Schools' T.E.S.1919.2.6
  5. 'Mr. Fisher on Secondary Schools' T.E.S.1919.11.12 教育庁はこの年の7月に就学期間を長くするように求めている。'Longer School Life' T.E.S.1921.7.23
  6. 'A Plan for the Reform of the Elementary School' T.E.S.1921.3.24 'Secondary School Regulation' T.E.S.1916.6.15
  7. 文部省、前掲 p4


<ハドー委員会の成立>
 
 さて、次にハドーレポートがまとめられていく過程を簡単にまとめておこう。
 ハドーレポートに最も大きな影響を与えた教育の事実は、中央学校を中心とする小学校から接続する、中等学校以外の学校が急速に増加していたことであるが、1910年に初めて中央学校が作られたロンドンでは、1920年には51校存在していた。(1) 中央学校の増加は教育内容が地域の産業と結びついていたため、年齢や教育内容が中等学校と重なっていながら、職業教育をする学校が普及したことを意味していた。このことの意味は後で検討しよう。
 戦後の不況も一段落した1923年頃から教育庁内で教育計画の話が出ており、ハドーに対して要請がなされていた。(2) その際示された教育庁の考えは小学校後の学校として、多様な学校をつくるということであり、(3) ハドー自身は必ずしもそれに賛成ではなかったという。(4) しかし、1924年1月24日に労働党内閣が成立し、C.P.トレペリアン(Trevelyan)が教育庁長官になると、ハドーはその要請を受け、審議会に入ることになった。2月にトレペリアンは
 1.15歳までの組織・教育内容(産業と教育の関係も含めて)
 2.改革の方式
 3.学校閲の移行を含む終了テストの在り方等で諮問を行った。(5)
 これに先立つ1月に「初等学校年長者の教育と、中等学校受け入れに必要な準備」を論議するための会議が、大学関係者を中心にして開かれ、ハドーが議長を務めた。(6) バラード(P.B. Ballard)が行った基調演説は大要は次のようなものであった。
 イギリスにおいては初等学校と中等学校が別体系で、その協力はまずかった。しかし、20世紀初めから地方教育当局が中等学校を設立する権限を与えられ、ロンドンをはじめとして中央学校が設立され、そして、奨学金テストが施行されるに至って、l1歳で最も優秀な者が中等学校へ、次の者か中央学校へ、他が小学校上級クラスヘ行く、というような接続関係が出てきた。しかし、中央学校をもっている地方は少ないし、手工、家政を学ぶ者や障害児のための初等後の学校は皆無である。そこで、労働党、カーリスル(Carlisle)計画、タイムズ教育版の改革案が出され、共通の考えとして別体系を一つの体系にして、初等・中等を段階的区分にする、ということがある。11歳で区切ることが心理学的にも証明され、又新しい空気を吸うことが教育的に望ましい。労働覚の計画は最も徹底しているが、費用がかかる。いずれにせよ二つの段階として再編する場合、現在のテストで選抜をするのではなく、より科学的な方法が採用されなければならない。(7)
 以上である。
 そして、2月1日に諮問を受けたハドー委員会は、5月から実質作業に入り、1926年に答申を出すことになる。その中間の1925年1月にマンチェスターで中等教育改革についての注目すべき会議が開かれた。フィッシャー、トーニ一が参加し、各地の教育行政担当者が集まり、激しい意見の応酬があった。
 会議において、まず問題となったことは11歳で小学校から他の学校へ移行させるべきか否か、ということであり、A.R.ピークレス(Piekles)は11歳で心理学的に変化があるという根拠に基づいて、中等学校に行かないものは中央学校に進めるべきである、と主張し、この点については大方の支持を得た。(8) しかし、小学校後の学校形態については11歳から14歳、11歳から15歳、11歳から16歳の三種の学校の様々な組み合わせ案が出て、まとまりがつかなかった。
 続いてフィッシャーが演説して、継統学校をなお支持、主張した。ただし、ここでフィッシャーはイギリスはアメリカと同様、工業国家の民主主義の問題に直面しており、義務教育年齢の引き上げと、定時制の中等継続学校が必要であると主張している。(9) これに対し、コンウェイ(Michael Conway)、ジャクソン(P.R. Jackson)が、職業と学業の両立は無理であること、18歳まで就学させる有効な行政的手段がないことを批判し、中等教育の義務化の方が非現実的とするフィッシャーとの論議が続いた。
 次に問題となったのは、教育と産業との関係についてであった。企業の代表が演説を行い、小学校卒で企業に勤める者に必要なことは、操作技術(manipulative skill)、健康な肉体(sound physique)と精神的発達(mental development)であり、現在の小学校のカリキュラムは、これに対応しておらず広すぎる、と批判した。(10)しかし、一方職業を施す夜間学校の教育が、工場の現場であまり役に立っておらず、もっと一般教育が必要だという批判もあり、ここでも合意は形成されていない。(11)
 以上みたように、ハドー委員会が活動している時期に、教育関係者の聞で明確になっていた意識は次のようにまとめることができるだろう。
 1.14歳までの義務教育が、一つの初等学校において施されるのは、子供の環境として好ましくなく、心理学的に変化が認められる11歳頃に別の学校に進むべきである。
 2.初等教育と中等教育という別体系は、同じ体系の段階区分であるように再編されるべきこと。
 しかし、11歳から14歳の義務教育学校の形態、水準については合意は形成されていなかった。(12)

<註>

  1. London County council op.cit. p15 51校の内訳は、工業9、商業25、工商17である。
  2. R.J.W. Sellek 'The Hadow Report ── A Study in Ambiguity' in "Melbourn Studies in Education 1972" p149
  3. ibid. p150
  4. ibid. p151
  5. ibid. p151
  6. 'Education of Older children in Elementary Schools ── Alternative Schemes' T.E.S.1925.1.17
  7. ibid.
  8. ibid.
  9. ibid. なおトーニ一はこの会議で中等学校の無償化を強く主張しているが、これも大方の賛同を得るには至らなかった。
  10. セレックによれば、ハドー委員会のメンバーの大部分は、小学校から他の学校に移行するといっても・中等教育を与えるというより、小学校教育より多少程度の高い教育をする、というイメージを抱いていた。また当時の議論では移行の段階は、殆どの者が11歳を心理学的な根拠で主張していたが、セレックはこの点で、実際には行政上の都合、中等学校に必要な年数という逆算から割り出された面が強いと分析している。Sellek op.cit. p161,173,176


<ハドーレポート>
 「青年期の教育(The Education of the Adolescent)」と題されたハドーレポートは1926年12月に出された。その結論をまず引用しておこう。改革提言としての結論は7項目ある。
 1.初等教育(primary education)は11歳で終了するものとみなされるべきである。それから初等後の第二段教育が始まるべきである。そこでは16歳、18歳、19歳、あるいは14歳、15歳と様々に終わる年齢は異なり、多様な教育がなされるが、青年期の必要に応じた共通の内容をもつべきである。(1)
 1.全ての正常な子供が初等後の様々な教育を続け、今までより多くの生徒が中等学校に進むべきである。初等後の教育は、年齢及び生徒の様々な関心、能力に適合させるべきである。
 選抜中央学校は11歳から15歳、非選抜中央学校は11歳から14歳になっているが、後者も15歳までの必要に応えられるようにすべきである。(2)
 3.初等後の教育が発達したときには、少なくとも次のタイプを含むべきである。
  J 人文的、科学的カリキュラムによって16歳までの教育を行う中等学校
  K 4年制で後半2年は実科的内容による選抜制中央学校
  L 非選抜中央学校
  M 一つの学校を作れないような地方での、小学校の上級クラス(3)
 4.K、L、Mの学校は、書物のみではなく、広く実際的な仕事、生きた関心に触れるカリキュラムを準備すべきである。前半は外国語も含めて、中等学校と同じカリキュラムにし、後半にのみ実科的な比重(bias)を取り入れるべきだろう。(4)
 5.11歳になったら初等学校とは異なる学校、それがない時は11歳以下とは異なる教育が与えられる部分に移行すべきである。(5)
 6.15歳以上になって中等学校で学び続けることが望ましい生徒は、中央学校から12歳あるいは13歳で中等学校に移れること、又必要に応じて、中等学校から中央学校、ジュニアテクニカルスクールベの移行が可能なように、適当な措置が講じられるべきである。(6)
 以上の六つの結論を土台として、レポートは現行の中等学校をグラマースクール(grammer school)、選抜・非選抜中央学校をモダンスクール(modern school)、小学校の上級クラスをシニアクラス(senior class)として再編し、11歳で二つの段階に区切り、15歳までを義務教育とする改革案を提案したのである。(7)
 さて、ハドーレポートの意味はどこにあるのだろうか。先に述べたように、レポートを生み出した主体という点からみれば、ワイマールの「妥協」と異なって、一つの論理まで整理されたものであり、資本家と労働者が一つの構想をもった、という点に最大の特質があるのだが、ここではレポートの内容にしぼって考えてみよう。
 第一に、初等・中等教育を一つの体系の段階として11歳で初等学校から移るとしたことである。(8) このことは二重の性格をもっていた。レポートはそれまで新しくおこっていた学校の増加を前提としており、更に新しい型の学校を創造することを意図しているのではなかった。それ改新しい「中等教育」概念は、実際は ── 教育行政機構の変化を除いて ── 学校の現実的変化をもたらすものではなかった。とりわけ、グラマースクールが、カリキュラム等の変更もほとんど考慮されず、旧来の中等教育を施す機関としてそのまま維持されたことが、中等教育の階級的性格を容認している、という点で重要であろう。
 しかし、他方グラマースクールと同じ年齢で始まり、しかも進学の際、選抜が行われるモダンスクールが「中等学校」という同一概念で包括されていることは、教育制度の中で個人と社会の関係を根本的に変える一歩が示されたということができる。
 ハドーが教育庁教育審議会の議長になって初めて行った仕事は、1922年から検討されてきた知能テストの採用に関する答申であり、(9) 知能テストによって中等教育を受ける能力があるかどうかを識別することができる、としたこの答申を土台としたハドーレポートは、最も能力ある者をクラマースクールへ、そうでない者をモダンスクールへという選抜原則をたてた。(10)レポートの初等後の学校は三種、つまり三分岐であったが、原理は二分岐であった。(11)イギリスでは歴史的に無償席、奨学金のための試験が広く行われており、1924年答申によって公教育制度の中により大規模に取り入れることが認知されていたが、こうした試験を初等学校から中等学校へ移る際の資料とすることは、それまでの選抜原理からの根本的な転換であったといえよう。つまりハドーレポートによって進学が個人的能力を尺度としてなされる一歩が踏み出されたのである。(12)
 第二に、教育と産業の関係についてである。この点についてもいくつかの側面がある。
 イギリスは工業国であるが、工業は労働や行動に画一性をもたらし、人間らしい生活を低下させる。しかし、教育は工業化の弊害を正すことができる。(13)これが第一の側面である。グラマースクールのカリキュラムにほとんど手を付けなかったことでわかるように、ハドーレポートの教育理念の土台は、やはり伝統的な人文教育であって、それは初等後教育に与えられた三つの目的にも反映している。それは、1.個人的・国民的生活の形成、2.音楽・美術・工芸・文学・歴史等を探究する、3.実際的知性を指導する、(14)というものであった。
 モダンスクールはどうか。これまで書いたように、モダンスクールは職業に就く者のための教育機関として考えられ、後半二年のカリキュラムに「傾斜(bias)」がつけられる。そして、基本的に「実科的(practical)」な知識を土台としている。労働技術としての「手の熟練(manual craftsmanship)」とともに、機械に関する知識も必要となってきた、という労働教育の認識もあったが、しかし、それはあくまで地方産業(local industry)に奉仕する、というものであり、(15)後でみるような全国的規模で考えられた教育と産業の結合ではなかった。

<註>

  1. Board of Education "The Education of the Adolescent" 1927 p70
  2. ibid. p77
  3. ibid. p79
  4. ibid. p84
  5. ibid. p89
  6. ibid. p93
  7. ibid. p95-96
  8. トー二一はこの委員会の主要なメンバーであったが、彼がレポートで最も重視したのは、初等教育と中等教育の性格を変更し、初等教育を11歳までの中等教育への準備教育とし、中等教育を青隼期教育と規定し、全ての者に中等教育まで就学させるとしたことであった。R.H. Tawney 'Education of the Adolescent' in "Highway" 1926 p192 成田克矢はこの点を総合制学校(Comprehensive School)の構想に繋がるものだと評価しているが、賛成できない。成田克矢、前掲 p258
  9. Board of Education "Report of the Consultative Committe on Psychological Tests of Educable Capacity and their possible use in the public system of education" このレポートは1924年6月に答申されている。
  10. Hadow Report p138
  11. ゲストは中央学校のでき方に二分岐の原形があったと指摘している。Guest op.cit. p97 中央学校は確実に事務員、技師などになり、能力は平均以上であるが、奨学金試験の成績で中等学校に行くことができない者が進む学校であり、事務所や工場に有用な労働力を提供することを目的としていた。
  12. ただし、ハドーレポートではこの点は不徹底であった。授業料の廃止が盛り込まれていなかったので、経済的事情が進学を少なからず支配するだろうし、現実でもそうであった。'The Right Choice all' T.E.S.1933.5.20
     また、このことは中等教育の階級性を消滅させるわけではなく、階級性が媒介的に現れるということである。
  13. Hadow Report pxxiv
  14. ibid. pxxiii
  15. ibid. p65 ローソンはハドーレポートとトーニ一の差を認めていない。またハドーレポートの背景には、国民の教育要求と失業という二つの要因があるとしている。Rawson op.cit. p387-389 ローソンのハドーレポートの基本的評価は、生徒を経済活動に引き込むことにあったというものである。

(4)教育と産業の結合

<産業界から教育への要求>

 ハドーレポートは地方産業の要請に、教育が応えるべきである、という前提の下にモダンスクールを構想した。少なくとも地方的レベルではそれは事実として進行していた事態であったが、それを全国的な制度として拡大する点での論理をもっていたわけではなく、教育と産業が全国的レベルで結合するには異なった社会的要請が必要であった。それは1920年代に次第に形成されていた。その概略をまとめておこう。
 第一次大戦後の教育改革が、大戦中に出された「戦後雇用、教育に関する委員会」の報告に始まることは、既に指摘したが、この他に教育庁が継統センター(Continuation Center)、ジュニア・テクニカルスクール、スクール・オブ・アート(School of Art)等についての計画案を出していた。案には次のような内容が示されている。
 5.地方教育当局がその地域の産業上の条件を充分に知っていて、住民の主な職業と結合した技術教授の必要を考慮すべきことは明らかである。例えば、工学(Engineering)が主要な産業のマンチェスターではおそらく次のような施策の必要があるだろう。
  a.継続センター内のジュニア・イブニングコース
   ここでは工学だけでなく、他の職人の要請も広く受け入れられる。
  b.ローカル・カレッジのジュニア上級イブニングコース
  c.徒弟のための定時制昼間課程
  d.全日制のジュニアコース
   就職準備のため。
  e.より上位の職に就く為の上級コース
 6.雇用主との協力(1)
 そして、これらの学校に補助金を出し、その維持発展に地方教育当局が責任をもつことを求めていた。
 これらの内容がフィッシャー法に取り入れられていったことは明らかであり、職業教育が直接的な職業訓練として考えられていた。この後、フィッシャー法成立を経て、教育庁は技術教育の実態調査を行った。筆者のみることができた自動車、ガズニつの業界の調査報告ではこれとは明確に異なった主張が登場する。
 オートメーションの進展のために、より基礎的な学科、例えば数学・製図・物理学等の上に技術教授がなされる必要がある。(2)
 見習いがしばしば『モーター工学』とか『自動車工学』とかいう、かなり専門。ア化した教授の魅惑的なタイトルにばかり引きつけられること、基本的な課目の教。授から遠ざかっていることは不幸なことである。(3)
 そして、基礎的な学科を充分に修得した上でより高度な技術教育を行う機関(Psytecnics, Technical College)を提唱している。(4) ガス業界の調査でも同じような趣旨を読み取ることができる。
 技術教育の成功にとって二つの条件が必要である。良い一般教養について適当な数の学生とその収容力が準備されていること。様々な条件に見合うように、合理的な柔軟性を認めながらも、標準的に定型化された教授項目の確立である。(5)
 これらの調査の影響もあり、教育と産業の関係についての議論がさかんになった。1924年9月のタイムズ教育版は、そうした議論を紹介している。首相のマクドナルドは2月に「機械が変わったのに、それを動かす者がいない。技術教育こそ最大の必要事だ」と述べていたし、ケントの当局者は、教育は全て経済上の、かつ実科的な有効性を発揮しなければならないと述べた。そして、この記事自体は教育は精神的なことがらであるという従来の常識を大胆に転換し、中等学校をより柔軟な形態に変えていくこと、そして、初等教育と中等教育の協力を提起していた。(6)
 1924年には更に「技術教育・継続教育の概観」と題する報告が出されている。ここでは次の点が指摘されている。
 1.青年が技術教育を受ける動機は、親の意志であり、子供自身の目的意識はあいまいである。親の期待は子供の職業的地位を有利に始めさせたいということにある。(7)
 2.技術教育の普及は産業別にかなり相違があり、機械工業は盛んであるが、綿工業は極めて不活発であり、マンチェスター市立大学では、当該全日制課程に100名の学生が集まったことがないという。(8)
 そして、ハドーレポート後、1928年に「教育と産業に関する委員会報告(マルコムレポート Malcolm Report)」が出された。この報告は教育改革の一環として教育と産業の関係を問題にしているのでなく、それを唯一検討するための報告であり、このような報告が出されたこと自体大きな意味をもっているといえよう。レポートの大要は次の通りである。
 1.小学校段階では特殊な専門的訓練は望ましくない。
 2.これまで中央学校にのみ制限されていた職業上の訓練を初等後の全教育組織に、原則的に拡大すべきである。産業界では中等学校卒業生を多く受け入れて、大きな利益を受けているにも関わらず、中等学校の実情を知っていない。
 3.地方教育当局は雇用主や労働者と協力して、教育の変革に向けて一歩踏み出すべきであり、そのための委員会を設置すべきである。又、教育庁の指導性がこれらの中で特に重要である。産業界と教育界はお互いの要請(needd)を理解しあうことが必要である。
 4.工業については、個別的な工業の特殊性を充分考慮しながらも、全国的な規模で教育との結合をはかり、農業や商業については、全国的な補助を受けながらも、地方的な規模で行うのがよい。(9)
 以上のような動向はどのように考えられるだろうか。
 ハドーレポートが示した地方産業と結合した職業教育は、事実として地方レベルで進展していたものであるが、他方機械工業などの分野では、直接的な職業教育ではなく、より基礎的な教育を重視し、しかも地方的というより全国的な学校再編、中等教育も含めた教育内容の改革を求める声が出てきていた。これはハドーレポートの二分岐的思惟 ── グラマースクールに行ける者と、行けない者 ── に対する批判であり、三分岐的思惟を促す原因ともなった。

<註>

  1. Board of Education "Draft of Proposed Rivised Regulations for Continuation, Technical and Art Courses in England and Wales" 1917 p27-28
  2. Board of Education "Report of H.M.Inspectors on technical Education for the Automobile Engineering Industry" 1923 p3
  3. ibid. p4
  4. ibid. p6
  5. Board of Education "Report of H.M.Inspectors on technical training for Gas Industry" 1923 p9
  6. 'School and Industry' T.E.S.1924.9.6
  7. Board of Education "Survey of Technical and Further Education in England and Wales" 1924 p33
  8. ibid. p53
  9. Board of Education "Report of the committee Education and Industry" 1928 p59-65 ここで掲げられている学校は、Day Continuation School(Course), Evening School, Technical Insitution course, Advanced instruction in arts, Day technical class, Junior technical school, School of art(Junior Department), Art classes 等である。このレポートの紹介記事として 'Education for Industry' T.E.S.1928.6.23

<効率追求の萌芽>

 次に教育の効率という視点から捉える見方が出ていたことである。(1) 人文教育では、教育は精神的なことがらであり、したがって教育への支出が投資効率という視点から考察されるということはなかった。しかし、職業教育が地方の教育計画の中に位置づけられ、また中央からの補助金が大規模に制度化されるにしたがって、経済的・財政的効率性という観念が力をもってきたことは必然的であろう。そして、それは経済学の中でも考察されるようになっていた。
 井上毅によれば、近代経済学に人的能力要因を取り入れたのは、マーシャルが最初であった。(2)
 教育との関連においてマーシャルの念頭にあったのは、徒弟制度の崩壊であった。近代的大工業制の出現は、労働を多様な、多くは単純な形に分解し、多くの熟練労働を不必要にし、徒弟制度に打撃を与えたが、マーシャルはそれに代わる熟練の要素を学校教育に期待したのだといえる。
 マーシャルは「生産要因」として、土地・労働・資本の三要素の他に「産業上の訓練」をあげ、その中で教育投資効果を考察している。先進工業国と後進的民族の大きな違いとして、先進国の中では極めて未熟練的な簡単な作業であっても、後進的な民族にとっては熟練を要する作業であり、その違いは教育の普及の相違である。(3) 次に、肉体労働のある種のものは、神経の強靭さと自制力を求めるものになっており、その意味で専門化していない一般的な機敏さと能力が必要になってきていると主張する。(4) しかし、マーシャルは教育への公共支出が一般的に投資的意味をもつとは考えなかったし、技術教育についても消極的であった。むしろ、当時の心理学の影響もあって、一般能力の存在を認め、一般能力の陶冶に教育の役割を求めた。つまり、マーシャルの教育の投資効果は次のような間接的、付随的なものであったといえよう。
 1.潜在的な能力を顕在化させる。
 2.教育によって産業上、一人の天才が出現するならば、その価値は一都市全体の教育をつぐなうに余りあるものがある。
 3.健康と力を増進させることによって、物的福祉の向上に寄与する。(5)
 こうして、マーシャルは一般能力、技術教育においても、作業に従事しているだけでは修得できないことを提起しており、これは既にみた重工業の要請に重なるものであったと考えることができる。
 トーニ一についても少し触れておこう。
 トーニ一は教育によって受ける利益は個人の方が大きいと考えるため、(6) 教育投資的思惟をとらないが、しかし、教育費は社会の一部ではなく、社会全体が享受するときには効果を発揮すると考える。(7) 例えば、第一次大戦後の教育費の上昇は、教員の給与の改善が主なものであったが、それにより教員の質が向上し、よりよい教育を生徒全体が受けられるようになる。(8) トーニ一は今日の教育投資論に近づいているが、しかし、大きな相違は彼の教育観の中心が伝統的な中等教育だった点にある。
 1920年代の教育と産業の関係は、いくつかの異なった方向が複合的に絡み合いながら、次第に一つの方向が有力になってきたといえる。フィッシャー法はハーフタイムシステムを廃止した。ハーフタイムシステム廃止に対する反対は、もっぱら安い労働力を求める資本家、及び子供の賃金をあてにする親から出された。ハーフタイムシステムが残っていたマンチェスターでの児童労働が、教育機会・健康を著しく阻害するものだったから、議会でほとんど反対がなくて通過したことは当然だったろう。(9) しかし、ハーフタイムシステムの廃止とともに、労働と教育の結合の一形態が ── マルクスが労働と教育の結合の必要性と優位性を引き出したイギリス教育の事態は、実にこのハーフタイムシステムと同種のものであった ── 消えたことを意味する。そして、そのこと自体はほとんど問題にされることがなかった。タイムズ教育版は、ハーフタイムシステムの廃止と同時期に次のように、労働党に注文している。
 今日まで現実の政治領域内で全ての生徒のための機会均等ということは熟考されなかった。あきらかにパブリックスクールの良い点は継承し、それに代わる新しい初等学校の検討をし、労働者子弟と資本家子弟の間にある教育の導入など考える必要があろう。
 労働党は、資本家子弟の教育との差をなくすため、本を使わない教育の導入等考える必要があろう。
 労働党内の一部の人々は、資本家階級の教育が本質的に劣っている場合でも(例えば古典語学習)真似をしようとした。(10)
 そして、1920年代を通じて、一方で地方産業と直接的に結びついた職業教育機関が多様な形態で発展し、他方発達した機械工業の領域から、基礎的な学力を求める声がだされてきた。

<註>

  1. ゲストによれば、フィッシャー法による地方教育当局の計画は1.高い有効性をもっていること、2.明確な存在理由があること、3.当局に役立ちうること、という前提条件があり、ここに教育計画の効率という考えがみられる。Haden Guest op.cit. p3 しかし、これは経済的効率性とは同じではない。
  2. 井上毅『人的投資の理論』ぺりかん社1969
  3. マーシャル『経済学原理K』馬場啓之助訳 p172
  4. 同上 p173
  5. 同上 p185
  6. R.H.Tawney "Some Thoughts on the Economics of Public Education" p35
  7. ibid. p9
  8. ibid. p14
  9. 1919年当時、マンチェスターでは11歳初等学校の生徒13,000人のうち、初等後の全日制の学校に進むのは、わずかに1,000名であり、中等学校はそのうち600名に過ぎない。そして、中等学校にも栄養失調が広がっていることが報告されている。'Special Report' T.E.S.1919.1.19
  10. 'Labour and Education' T.E.S.1919.3.27


(5)1930年法からスペンズレポートヘ

<義務教育延長法案の挫折>

 1929年5月の総選挙によって、労働党は第一党になり、第二次労働党内閣が成立した。この総選挙は女性が参政権を行使した初めての普通選挙であり、主要三党が政策で争ったという点でも特徴的であった。(1)
 教育政策についてみてみよう。まず労働党は次のような政策を掲げた。
 1.民主的な教育制度を創造すること。それは適切な財政に裏打ちされ、階級的差別の汚名から解放され、保育学校から大学に至るまでの継統的な全体として組織されること。
 2.児童の身体的福祉のために最大限可能な措置を講じること。(野外学校・障害児学校・給食・医療)
 3.初等学校に適切な教師を配置し、学級規模を思い切って縮小すること。
 4.校舎を改造し、図書・備品・環境を充分に整備すること。
 5.全ての子供は、l1歳になるまで初等教育を受け、更にそれ以後各種のタイプの無償中等教育を受けることができるように、教育を段階づけ直して発展させること。
 6.義務教育年齢を15歳に延長し、更にそれ以上の改革が可能になった時点で16歳に高めることを検討すること。それに必要な生計費給付の規定を設けること。
 7.大学及びその他の高等教育機関に入学する機会を拡大すること。それらの高等教育機関に対して、適切な財政的援助をすること。(2)
 自由党の通称「黄書(イギリス工業の未来)」は教育について次のように提起してい。た。
 1.ハドーレポートが教育改革の一歩である。
 2.16歳までの就学、中等学校の増加、18歳までの定時制継続学校への義務化を準備すること。
 3.地方教育当局は15歳までの全日制か、16歳までの定時制かの効果的な選択を行うこと。
 4.学校と産業の関係をより密接にすること。(3)
 次は保守党である。
 1.教育における階級的性格の除去。教育制度を一つの緊密なる全体として形成すること。
 2.親が望むなら、15歳までの中等教育(higher education)を全ての子供に用意し、手工能力が初期に与えられること。
 3.技術大学(great technical college)を設立する。
 4.無償席・奨学金を適当なだけ用意し、必要なところでは生計費補助も行う。(4)
 以上みてわかるとおり、教育制度の政策についてみる限り、内容はほとんど変わりなく、対立的論点は皆無といってよいであろう。したがって、ここで掲げられている内容については、労働党内閣の下で、スムーズに実現するのが自然なはずであった。しかし、抽象的に掲げられていた政策では一致していても、実現の形態、程度や実現の意志は各政党必ずしも一致していないことが次第に明らかになっていく。
 1920年代の末になって、ハドーレポートが示していた15歳義務という内容を軸とする教育計画づくり、あるいはその検討が各地方教育当局の間で活発になってきた。(5) そのような動きを背景として、労働党内閣のトレペリアンは、義務教育を15歳に引き上げる法案を提出したが、討議は難航し、修正を経て三回の提出を繰り返した。しかし、結局成立するには至らなかった。

  義務教育年齢引き上げ法案の推移
第一回第二回第三回
1929.12.171930.5.291930.10
就学義務15歳15歳15歳
生計費給付地方教育当局が委員会審議で必要な者に5シリング以内60%補助
宗教教授規定なし校長の承認・親の希望で規定なし

 法案の柱は表のようなものであり、議論は宗教教授に向けられ、その点の変更がなされたが、反対者の真意は15歳までの義務への反対であった。このことは次の1936年法の討議にむしろ明瞭に現れた。
 この法案の挫折の原因は財政危機、労働党政府の指導力の弱さなどがあげられるが、ここでは財政政策の転換期にあたっていたということを指摘しておこう。周知のように、当時「金本位制」及び「均衡予算」をめぐって政策的理論的争いがあったが、「金本位制」「均衡予算」の支持者であった労働党指導部が、自らの政策である「生計費補助」のような膨大な予算を必要とする政策は、実際にはとりえなかったと考えられる。マクドナルド財政の帰結が、メイレポート(May Report)であったことがそれでわかる。

<註>

  1. 犬童一男『危機における政治過程』東京大学出版会 1976 ,115
  2. 労働党の「労働と国民」三好 前掲 p204より引用。B. Simon op.cit. p153
  3. ibid. p153 ただし、サイモンは保守党の実行意志について疑問を提出している。
  4. 1931年1月3日から5月16日までの地方教育当局の論議は次の通りである。
      中学校の設立  42   義務年齢(賛成6)  8
      教員給与    35   財政制度       4
      予算      32   教師の資格      4
      保険      15   中等学校授業     4
      技術学校    15   体罰         3
      小学校     15   子供の生活      2
      奨学金     13   音楽         1
      学校設立    12   校長試験       1
      パードレポートの     失業         1
         プラン  10   遅進児教育      1
      宗教教育     8  

     エディンバラでは中等学校生徒の脱落との関わりで義務教育年齢について議論された。
     1929−30年度における人数は1年1824人、2年1351人、3年1008人、4年733人、5年233人、6年163人となっており、修了したのは152人であった。つまり、入学者の8%のみが修了試験に合格しているだけであり、しかも授業料を払っているかどうかが明確に成績に影響していることが明らかであった。
     義務年齢の引き上げは、11歳で学校を成績によって移行することを意味していたので、中等学校の質を向上させることが期待されたのである。T.E.S.1934.2.14

<メイレポート>
 
 メイレポートは1931年7月に出され、1920年代初めのゲッディス委員会の報告と同様、財政緊縮を基調としたものであり、教育費は浪費(wastful)であるという理解を基礎としていた。(1) 教育財政については次の三つの原則を採用している。
 1.地方教育当局に任せる
 2.親がより多く支払う(受益者負担主義)
 3.教師の給与は納税者との均衡を考慮する(2)
 具体的には、
 1.50%補助金制度の削減
 2.教師給与の20%削減(削減10%分を補助金削減分にあてる)
 3.中等学校授業料25%引き上げを提案した。(3)
 中等学校が身分的階級的に閉鎖的な学校であった時には、私的な教育費の形態が通常であり、それが「教育の自由」の物的基礎であったが、中等学校が国家的に組織され、初等後学校が大きく中等学校として再編され、そして、その選抜が知能テストのような試験によってなされている状況で出される「受益者負担主義」は、授業料を払うという同じ私的教育費の形態をとりながら、「教育の自由」とは全く無縁のものになっている。論理的にも、そして、ハドーレポートを前後して進行している現実においてもそうであった。こうした「教育の自由」と切り離された、私費負担の国家による強制は、教育の投資的価値を認める政策と結びついた時、決定的に重要な役割を果たすことになる。進路を「選ぶ」という行為が、個人が「選択」する制度から、社会や国家が個人を「選抜」し、個人がそれを受容する制度が設立するのである。
 メイレポートはそのままの形で実施されたわけではないが、給与カット、中等学校授業料値上げ、無償席(free placed)の特別席(special place)への改組という措置がとられることになった。(4)
 メイレポートからスペンズレポートに至る時期、再び中等学校の類型が大きな論議になった。
 義務教育延長法案が廃案になったとはいえ、ハドーレポートが示した改革案を実施すべき時期になっており、ハドーレポートはそのままの形では実施が難しい状況ながら、11歳で初等後教育に移行するという社会的合意が形成されつつあった。又、世界恐慌のあおりをうけて失業が広がっていた。(5) 学校に失業青年を吸収する、あるいは労働人口を減少させる、という点からの学校拡大が主張されるようになった。(6) そして、不況の深刻化により学校教育に対する新たな産業と教育の関係を要求する声がおきてきた。
 1933年にタイムズ教育版は「傾斜選択の実験」と題する興味深い報告を載せている。「多傾斜学校(multi-bias school)が実験的に作られつつあり、今のところ入学は自発的だが、成績は非常によいようだ。中等学校の卒業生というのは社会の様々な部面でリーダーになっていくのだから、一般化はできないが、全ての性向に応じる多傾斜学校は大いに試みる価値がある」というものである。(7) これは1935年「技術学校協会(Association of Technical Institution)」が16歳までの「技術中等学校(Technical Secondary School)」を提唱することで一つの政策となった。(8)
 一方同じ年教育庁も専門分化のない実験的な4年制の新しいジュニアスクールを構想している。(9)
 こうした動向は、初等後の学校について新しい形態を示す意味をもった。第一に、地方の個別的な産業と結びつくのではなく、より多様で総合的な内容をもった技術学校の必要性が説かれ、新しい中等教育を基本的に二分岐で構想したハドーレポートの内容に対し、三分岐案を対置するものであった。そして、それがスペンズレポートの基礎となった。第二に、一般教育と職業教育の分化を前提としない、後のコンプリヘンシブスクールに連なる総合制学校に近い案が示されたことである。
 しかし、後にコンプリヘンシブスクールの運動の担い手となる労働党は、この時点ではこの総合制に対する明確な構想をもっていなかった。1934年、ロンドン市の教育のための計画として労働党は次のような案を示している。
 1.初等後の教育を一括して中等学校として、一つの行政単位にする。
 2.13歳から16歳までの義務化。
 3.授業料廃止。(10)
 そして、16歳まで義務就学年齢を引き上げるには、ただ年限を延長するだけでは不可能であり、教育内容を徹底的に改めなければならないとしながら、(11)具体的な改革原理を示すことはできなかった。スペンスレポートから1944年法に至る階層的制度を防ぐことができなかった一つの原因がここにある。

<註>

  1. Simon op.cit. p172
  2. 'The Economy committee and Education Drastic Cuts Recommende' T.E.S.1931.8.8
  3. ibid. Simon op.cit. p175
     馬場将光「イギリスにおける補助金制度の成立と教育財政」『世界教育史体系29』 p244
  4. 給与カットは15%になった。Simon op.cit. p179 授業料値上げは、1932年の回状によってなされた。この回状は「親の経済力を考えずに無償にすることはおかしい。なぜなら豊かな者に対しても無償を認めることによって、貧しい者がかえって締め出されるからだ」という論理によって、地方教育当局に授業料の値上げのやり方について、経済力を考慮した徴収を勧告したものである。'Secondary School Policy' T.E.S.1932.9.24 これに対する反対運動は極めて活発に行われた。サイモンの著書に詳しく紹介されている。三好氏によれば、労働党を中心として、各地方単位で当局に対し、給与カットを回復させた。三好前掲 p223 タイムズ教育版に紹介されているところでは、ロンドンでは、特別席の基準を下げる措置をとり、ロンドン教育委員会の議長アービン卿は、回状1421号は国家的福祉に反するといって反対した。'London Secondary School ── Income of Parents' T.E.S.1932.12.1 の基準は次の通りである。
                  現在の制限    新定義
     11歳一14歳の奨学金   450ポンド   300
     14歳〜17歳の奨学金   450      350
     16歳〜19歳の奨学金   550      450
       (市奨学金)

     なお1933年4月1日の規則によって、公費補助を受ける中等学校は授業料の徴収を義務付けられた。文部省『教育制度調査』第6輯 p13
  5. 労働人口の18%の300万人が1930年から6年間にわたって存在した。加藤睦夫・池上淳編『財政学概論』有斐閣1978 p496
  6. この主張は労働党の政策の中で比較的大きな比重を占めているように思われる。一方教育が失業救済手段となったことで質的低下がおこった、という批判がある。'Reroganisation' T.E.S.1935.7.25
  7. 'An experiment in choice of Bias' T.E.S.1933.10.21
  8. 'A New Kind of Secondary School' T.E.S.1935.2.23 'A Senior School' T.E.S.1935.2.23
  9. こうした動向に対してタイムズ教育版は支持の声を載せている。Cloudesley Brereton 'The Future of Technical School' T.E.S.1935.4.6 ブレルトンによれば、以後はアカデミックよりテクニカルの方がより本質的なものになっていくという。
  10. 'Labour Plans for London Education' T.E.S.1934.3.24
  11. 'Labour Policy ── Reform in a Hurry'T.E.S.1934.7.28


<1936年法からスペンズレポートヘ>
 1935年に保守党を中心とする挙国一致政府は次のような総合的な学校改革案を提示した。
 1.就学義務を15歳に引き上げる。
 2.私学への補助金は年齢の引き上げと、カリキュラムの再編を条件とする。
 3.中等学校授業料については、無償・減額の際の経済的制限をなくす。
 4.大学での奨学金拡大。
 5.技術教育を現代的な内容に改良する。(1)
 この案にそって、いわゆる1936年法が出されてくる。これは表向きはハドーレポートの実施法であるが、実際にはハドーレポートと比べても内容の不徹底なものであった。つまり、15歳までの義務就学を規定しながら、「有益な雇用(beneficial employment)」に就くと認められるときは免除する、という内容がもりこまれていたのである。(2) その理由は、1.地方の実情を考慮する、2.児童にとって絶対的延長は最適とはいえない、3.職業に就くことは父母の要求である、というものであり、フィッシャー法への反対理由と全く同じことが繰り返された。
 この規定に対する反対運動が行われ、(3) 労働党は破棄決議を議会に提出し、(282対152で否決)1936年3月1日にはウエストミンスターで反対集会を開いたりした。反対の理由は、就労による就学免除は義務延長を事実上無効にするというものであった。当時10の地方で同じような就学免除規定があったが、そこでの免除率は次のようであった。(4)
   Cornwall   90%  Plymouth   79
   Bath     92   E.Suffolk   86
   Cloucester  92   Cheteham   79
   Lowestoft   94   Chesterfield 92
   Pensance   96   Caernaronshire 37

 又、サイモンによれば、政府は「有益な」という語の定義を与えることすらできなかった。(5) しかし、トレペリアンが議会の討議において、法案は地方教育当局の立場をよく考慮しているという理由で賛成したことでわかるように、(6) 反対運動は強力とはいえないものであった。結局法案は大きな変更を伴うことなく通過するが、ハドーレポートが示した、小学校を11歳で終え、新しい学校に移行するという政策提言は、この1936年法では全く無視されていた。しかし、ハドーレポートは繰り返し述べたように、現実に進行していた改革を公的に再整理するという性格のものであり、その後着実に事態は進行していた。その進行に大きな役割を果たしたのは、教育界にますます浸透していったテスト、とりわけ知能テストであった。(7)
 1907年の無償テスト、1918年の「第一学校資格試験(First School Certificate Examination)」を経て、1924年に知能テストについて教育審議会の答申以後、テストは確実に教育界を支配しはじめていた。(8) 「テストによって中等教育をスポイルしてしまうおそれがある」(9) 「知能はよく定義できないにも関わらず、教育技術となり、専門家に任されている」(10)等々現状を訴える報道がされていた。更に教育の内的過程だけでなく、親の要求とテスト結果が矛盾することによる紛争も起き始めた。(11)しかし、重要なことは知能テストの権威が次第に確立していったことだろう。1931年にタイムズ教育版は次のような評論を掲載している。
 知能というものがあいまいであるとしても、平均が100になることは知られており、注意深い観察と指導によって知能テストを使用し、中等学校の三分岐(tripatite division)でやっていく他ないだろう。(12)
 知能テストは選抜の手段として広く使われ、「第一学校資格試験」が小学校後学校の内容を次第に画一化しつつあり、結局のところ1936年法の他に、もう一度学校体系を検討する必要が生じていたのである。そうして、スペンスレポートが出されることになった。
 スペンスレポートは1933年に諮問され、1938年に答申が出されたものであるが、サイモンによれば、1936年以後失業が減少して、税収が増加し、又新しい技術を使う工業が起こってきたことにより、教育改革の気運が盛り上がってきた。(13)そうした気運により再びハドーレポート以来の大きな改革案が提示されたといえる。
 本論文との関わりでは、レポートの内容は次のようにまとめられる。
 1.一般的知能(G)の承認
 2.初等後の教育を青年期の教育ととらえ、11歳で新しい学校に移行する。
 3.グラマースクールは大学へ進むためのコースとし、カリキュラムは最大限自由とする。英国科を統合原理(unifying principle)とする。職業のための特殊化はしない。
 4.技術学校は、ジュニア・テクニカルスクールとテクニカル・ハイスクールとに分け、後者を中等学校タイプとし、特殊な職業訓練をしない学校としておく。
 5.授業料はできるだけ早く廃止する。(14)
 ハドーレポートはモダンスクールの構想をまとめ、そのカリキュラムを詳しく論じていたが、それはグラマースクールとモダンスクールという ── 他の学校類型を認めてはいるが ── 二分岐制度を考えていたためであることは既に紹介した。これに対し、スペンスレポートはグラマースクールとテクニカル・ハイスクールのカリキュラムを詳細に論じている。しかし、スペンスレポートは二分岐法を捨てたのではない。それはグラマースクールの位置付けによく現れている。グラマースクールがかつてのような古典中心のカリキュラムではなく、現代的な内容を取り入れるべきだとしながらも、(15)グラマースクールは基本的に「問題を理解する」という伝統的中等教育観によって理解され、(16)グラマースクールに進学するにふさわしいかどうかを、試験によって選択することができるとしている。(17)一般知能(G)の有無によって第一の選抜がなされる、ということはハドーレポートの二分岐法をそのまま受け継いているのである。
 しかし、産業と結びついた教育の面では、地方産業に貢献するというハドーレポートの案は、もはや不充分なものであることが社会的に明白になっていた。そこで、特殊な職業訓練をしないテクニカル・ハイスクールを設け、テクニカルカレッジにまで達する技術教育の体系を加えたのである。(18)三分岐制度とは三つの分化した体系というものではなく、二つの二分法の重畳的な制度であることがわかる。1944年法によってスペンスレポートは実施されることになるが、1944年法によって生じた矛層は既にこの重畳的制度の中に存在していたといえよう。

<註>

  1. 'A Comprehensive Scheme of Reform raising the school leaving age' T.E.S.1935.11.12
  2. 'Raising the school-leaving age ── Text of the New Bill issued' T.E.S.1936.2.1 法第二条によれば、雇用証明書(an employment certificate)を認める際の基準は、イ.雇用の性質及び雇用継続期間の見込み、給料、労働時間、ロ.児童に与えられる補習教育(further education)の機会、ハ.休養のために児童が利用しうる時間、ニ.雇用により児童の受ける訓練又はその他の利益の児童将来の経歴について価値等を考慮して、地方教育当局が決めるとされていた。
     サイモンはこの規定は法全体を有名無実なものにした、と評価している。サイモン『現代と教育改革』 p57
  3. 'The Education Bill' T.E.S.1936.2.15
  4. 'Answers in Parliament' T.E.S.1935.12.28
  5. Simon op.cit. p220
  6. 'The Education Bill' T.E.S.1936.6.20 936年法が成立した直後、我が国の文部省は次のように評価している。「政府は失業対策としての年限延長に強行に反対していないということである。で我々は結局資本家的要望と、労働組合側の要求の妥協として、本法案のもつ社会的意味を解釈したい。」文部省『教育制度の調査八上』 p105
     本文でも触れたように、労働党は失業対策として年限延長を唱えており、保守党は就労を確保するため年限延長に消極的であった。しかし、事実として増加している失業に対して、学校の吸収性を認めることは否定していなかったのであり、この点で両党は妥協の余地があった。この限りで、文部省教育調査部の評価は妥当であろう。
    例えばロンドン市の一連の教育計画は、バート(C.Burt)が助言・指導を行っていた。
  7. 'Secondary School Examination' T.E.S.1928.1.28 931年の初等教育に関するハドーレポートは無償席と試験で将来が決まると考えるような風潮に警告を発している。Board of Education "Report of the Consultative Committee on the Primary School" 1931 pxxxvi また同じ頃、バービ市(Berby)では、新しい中等学校入試について議論され、知能テストは不充分なものであり、性格、勤勉さなどが考慮されるべきという意見が出された。T.E.S.1931.2.14
  8. 'Secondary School Examination' T.E.S.1928.4.21
  9. 'What does mental age mean?' T.E.S.1930.12.13
  10. 'Secondary School Examination' T.E.S.1930.12.13
  11. 'Eleven to Fifteen' T.E.S.1931.4.18
  12. Simon op.cit. p251 サイモンはスペンスレポートを高く評価している。中等教育と初等教育を分離する制度の終了を断固として提案し、三分岐という限界をもちながらも、11歳で中等教育に自動的に進学することを提案したからである。サイモン前掲 p35
  13. Board of Education "Report of the Consultative Committee on Secondary Education with special reference to Grammer Schools and Technical High Schools" (Spence Report)
  14. ibid. pxxiii
  15. ibid. pxxx
  16. ibid. pxxxii
  17. ibid. pxxi


<イギリス中等教育拡大運動の提起するもの>

 イギリスの中等教育拡大運動の表したことは、何よりも支配階級と労働者階級の双方が「合意する」論理を、とりあえず提出したことである。
 トーニ一がその双方の立場を媒介した。ただし、それは矛盾のないものではなったし、その後十分に実施されたわけでもない。ハドーレポートが実施されるには、また異なったレポートの提出を待たなければならなかったことでもわかる。
 しかし、そのようなことがドイツやフランスではなかったにも関わらず、イギリスで提出されたのは、イギリスの産業の要請が、教育により強く提起されたからであった。
 イギリスの産業界では根本的に異なる二つの立場があった。
 イギリスの産業革命の中心であった織物工業界では、賃金の安い単純労働力を求めて、教育の拡大に反対した。
 ガスや電気工業界からは、短期的な職業教育ではなく、基礎的な学力を学校が見につけさせることを要望し、より高度な知識を労働者が身につけることを望んだ。
 織物業界の教育不用論とは異なった案が出てきた。その結果工業と教育の関連をつける政策が追求されるようになった。産業界の要求というのは決して一様のものではなく、常に全体の産業の発展段階に規定されて、異なった教育要求をもつものであろう。その時点における産業の要請を、その人問発達の意味との関連において考察する必要を、イギリスの事例は示している。このふたつをつなぐ論理を、第二部で考察する。
 次に国家の変容の中で、地方教育当局と中央の教育行政機関のパートナーシップが促進されたことが重要である。義務教育の延長や継続学校の義務化、ハーフうタイムシステムの廃止、地方教育当局の計画提出などを提起したフィッシャー法は、中央の規制が強化されることを恐れた地方の反対で部分的に後退したが、教員の給与補助など、中央からの財政補助が要因となって、受け入れられていく。
 これは、資本家階級と労働者階級の協同による制度改革案が構想されたことと表裏の関係にある。
 パートナーシップは教育の条件の整備には、大いに寄与した。しかし、知能テストの実施などに見られるように、生徒の生活を左右する側面、しかも第二次大戦後の差別的な制度改革を準備したことも見逃すことはできない。中央政府と地方当局が協力することによって、知能テストを媒介とする教育制度の再編が進むことになるが、その論理を究明する必要があろう。