第三章 イギリス中等教育拡大運動の展開

第一節 フィッシャー法における国家・地方行政

(1)はじめに

 イギリスにおいては、ドイツやフランスのように「統一学校運動」を称する運動はおこらなかった。この時期におけるイギリスの中心的な運動は「中等教育拡大」の運動であった。これは、労働党の「中等学校をすべての者に (Secondary schools for all)」(1) の運動が大きな力を持ち、以後の教育改革の動向をリードしたこと、そして、パブリックスクールの予備学校(preparatory school)の廃止が社会的な運動になることはなかったということによっている。(1)
 しかし、「統一学校運動」と自称する運動はなかったにせよ、統一学校運動が取り組んだ課題は明確に提起されていたと考えることができる。タイムズ教育版の「フィッシャーと改革」と題する記事は、初等教育の系譜(elementary schoolとcontinuation school)と中等教育の系譜(preparatory schoolとsecondary school)をどう関連づけていくかが最大の急務であると書いていたし、第一次大戦後の青年の教育・雇用についての委員会のレポートは、(3) 単一の初等学校(uniform elementary school)を例外のないものとして提起している。(4)
 この意味において、初等学校と中等学校を異なった体系としてではなく、一つの体系である、と主張する労働党やハドーレポートの政策・主張は「統一学校運動」の特殊な一形態である、ということができるであろう。(5) そしてサイモンによれば、単一の学校制度を支持する運動が40年代に非常に勢力をもってきた。(6)
 では、イギリス研究の固有の課題は何か。
 第一に、1926年のハドーレポートから、スペンスレポートを経て、1944年法に至るイギリスの教育政策は、今日の「多様化政策」の嚆矢であると考えられ、今日の「多様化政策」の分析には不可欠の歴史的意味をもっていることである。しかし、これまでの研究では、この時期の教育政策について、極めて矛盾の多い評価に終始してきたと言える。その端的な例として、成田克矢の『イギリス教育政策研究』をあげることができる。
 成田克矢は教育の機会の拡大が労働階級の運動によって促進されていた、という基本認識の上にイギリス教育政策史を展開しており、機会均等の実現過程を発展として捉える視点が成田克矢の主要な理論的特色である。トー二一の『中等教育をすべての者に』については氏は三点で高く評価する。
 第一に、イギリス教育政策史上はじめて16歳までの単一の、従って内容的な多様性を含んだその機会において最大限に均等化された公教育体系を構想したこと。
 第二に、そこでは過去に別々の階級的閉鎖性をもって発達してきた基礎学校と第二段学校が接続され、前者において初等教育の概念が定着せられるとともに、後者はそれに続く同一体系上の発展的な第二段教育を提供するその名にふさわしい性格を与えられたこと。
 第三に、第二段教育の機会を民衆に開放するための制度的・経済的障壁がはじめてはっきりと認識され、その排除が要求されたこと。更に「能力観」の問題として、氏は「機会を与えられることによって、能力がますます大きくなると考えていた」と指摘している。(7)
 次に成田克矢はトー二一の欠陥として「教育内容についての叙述に成功していない」と指摘しているのであるが、この欠陥の指摘は前述の第二の評価と明らかに矛盾している。そこでは「ふさわしい性格を与えられた」とされていた。このことは成田克矢が教育内容についての労働者的立場を創造しきれなかったイギリスの運動の発想に規定されているためと考えられる。
 ハドーレポートに対しては、成田克矢はそれがトー二一の政策を実質化しようとした、中等教育史上画期的レポートであるという「一般的評価」を基本的に支持しつつ「ハドーレポートはトー二一の提案した16歳までの第二段教育機会の開放を一年割り引いたばかりでなく、能力主義的な教育の分化と再編成への道を開いた」と批判している。(8)
 しかし、トー二一の主張した「多様性の確保」が肯定され、ハドーレポートのそれが「能力主義的再編」と批判されることの根拠は示されていない。(この点については第二部第五章第二節で再論する)
 堀尾の公教育論は「教育機会の拡大=労働者階級の要求の実現」という図式の批判を一つの課題としており、(9) それ故、教育機会の拡大が支配階級の利害にも一致しており、それ故にこそ支配階級が19世紀後半から国民教育制度をつくっていく点を、特に強調する形になっている。
 堀尾によれば中等教育の一元化は「労働者大衆の子弟にも中等教育の機関を開くものとして積極的な意味をもっている」が「中等教育のエリート教育の機関かモらエリート選抜の機関への移行を意味した」ものである。このことは、支配階級によって「意図」されたことであった。更に堀尾は付け加える。「帝国主義のインパクトと『帝国』形成の課題は『一体性をもった国民』形成の課題に他ならず、それは一元的学校体系と二つの階級をつなぐ中産階級の創出への期待となってあらわれた。」それに対して労働者階級はラダー(選抜的階梯)ではなく、ハイウェイ(全ての者が通る道)を要求したとされる。(10)
 堀尾は成田克矢が ── そう氏が明記しているわけではないが ── 同一の事柄の発展と捉えた、ラダーとハイウェイを対立する概念として把握し、ハイウェイの主張を継承しようとする。しかし、堀尾においては、帝国主義的中等教育の一元的体系と、ハイウェイとは「制度」として具体的にどう違うのかは明確にされない。そして「機会均等原則」が他のいかなる「原則」と結びつく、という形で問題が整理されることになる。それ故「かくして問題は、そこで行われる教育の質いかんにかかっている」という課題意識につながっていく。(11)
 しかし、トー二一とハドーレポートとを分析の対象とすることは、すなわち真に国民・勤労人民の求める制度と、能力主義的に構成された制度 ── 「統一学校は、資本主義学校最後の、そして、社会主義の最初の学校形態である」というルナチャルスキーの言葉に即していうならば、社会主義に発展する統一学校と、あくまで資本主義を維持せんとする統一学校の差を明らかにし、前者の発展の可能性をさぐることを課題とすることである。形式と内容が相互規定的なものであるならば(へ一ゲル)、堀尾が対立的に捉えたラダーとハイウェイはそれぞれ異なった内容原理をもつはずであり、それとの関連において制度的意味を把握しなげればならないであろう。(12)
 イギりス研究の第二の課題は、次の点である。
 これまでドイツやフランスの分析でみたように、統一学校運動というのは、体制側の学校制度改革の運動であって、それ故国家機関や地方の教育行政当局が様々な局面で関与していた。しかし、ドイツでは11月革命によって、フランスでは1920年代末の階級対立の激化によって、統一学校を社会全体の制度として定着させることができなくなってしまう。言い換えれば、統一学校という理念を制度として実現するためには、偽装であるにせよ、階級対立を包み込む社会的組織が必要なのである。労働党の綱領的文書である「中等教育を全ての者に」と自由党政府の政策である「ハドーレポート」の中心的作成者が共にR.H.トー二一である。ということは、イギリスでこうした社会組織が形成されつつあったことを暗示している。第二次大戦後のイギリス教育行政の特質はパートナーシップにあるとされるが、このパートナーシップの基礎を築いたのが1918年のフィッシャー法であると考えることができる。フィッシャー法によって形成されはじめた国と地方の関係を土台として、大戦間の教育政策が作られていく。
 そこで本節では、まずフィッシャー法の分析から入っていこう。しかし、フイIツシャー法については、歴史的評価が定まっていないといわざるをえない。したがって、まずフィッシャー法についての評価を整理しておこう。
 阿部重孝は今日とは全く異なる観点に立っているわけであるが、二つの点で高く評価する。
 第一に、文部省と地方教育当局との権限を明確にし、かつ補助金によって、イギリスの教育を国家統制の下におこうとしたこと。つまり、「真に国家的」という教育計画の基礎ができたこと。
 第二に、「知識の共有」というべきフィッシャーの主張は教育の民主主義の原理を示すということ。
 しかし、阿部は公私立の二重統制を廃止していないことを欠点としてあげている。(13)
 フィッシャー法の研究書であるアンドリュース(Lawrence Andrrews)の著書は結論として次のように評価している。
 結論的にいって、1918年教育法の52条においては、第一次世界大戦を通じて増大した社会的・教育的な、ますます増加してくる要請に、注意が払われている。20世紀初めの大きな発展 ── 流動的な社会的要因や、誕生から青年まで子供の生活に及ぼす型が変わりつつあるように ── は、フィッシャー法の改革に連結するものであった。結果は第一次大戦の前には明らかであった教育制度上の多くの欠陥が除かれた。そして、未来の改革者が依拠することのできる強固な骨格が準備された。このことの故に1918年教育法は、1870年、1902年、1944隼教育法と同じように第一級の重要性をもつ法的基準としての位置に置くことができる。(14)
 成田克矢もフィッシャー法に高い評価を与えながら、しかし少し異なった評価を与えている。
 フィッシャー教育法はこの節で検討したところから大戦を闘いぬいた国民大衆への、戦後復興ないしは改造要求にたいする国家の譲歩の一環であったということができる。したがってそれは国家経済および政治の戦後動向のなかで、国家の手によりきびしく割引されることにもなったのである。しかし、同法における教育改革に反映されたこところの、国民の進歩のための要求こそは、新しい立場と水準による教育改革への準備であったというべきであろう。(15)
 アンドリュースはフィッシャー法による実際の改革を高く評価しているのであるが、成田克矢は実現はしなかったが、法制定された内容を ── つまり国家に譲歩させた内容であるが故に、逆に反撃された ── 高く評価している。(16)
 一方、サイモンは「教育発展の一つの段階を画すほどのもではなかった。」(17)とし、レスター=スミスも近代公教育の三つの重要法に加えていない。(18)こうした評価の代表は既にトー二一にみられるのであって、国民全てに中等教育を保障していく、ということに中心的課題をみいだすことに、この消極的評価は基づいている。トー二一は次のように書いていた。
 1918年法は、そのあらゆる長所とともに、一つの欠点をもっていたからである。それは、ほんとうにはその問題に正面から向かわなかったのである。つまり、初等教育の役割は何か、中等教育の役割は何か、両者の関係はいかにあるべきか、という問題にである。しかし、半世紀にもわたる苦い経験がわれわれに教えてくれたはずのものは、決定的に重要なのはまさしくこういった問題だということである。(19)
 又、評価の視点においても、小堀氏のように国民統制という点を重視する論者、(20)菅野芳彦のように義務教育年限の延長を重視する論者等、(21)つまるところ評価はまことに混乱しているのである。
 そこで、戦間期教育改革にとってのフィッシャー法成立の意味を明らかにし、ハドーレポートからスペンズレポートにいたる「多様化」の構造を考察することにしよう。

<註>

  1. 梅根悟監修『世界教育史体系』の『義務教育』『中等教育 K』『ドイツ教育史 K』『フランス教育史 K』の1920年代は全て、ドイツ・フランス=統一学校運動、イギリス=中等教育拡大運動という分節になっている。
  2. タイムズ教育版は‘The future of Public School’という論文を載せているが、それは古典的人文教育をあくまで中心とすべきである、という論旨であり、パブリックスクールを公教育体系の中に含みこんでいくことは、全く考慮されていない。Times Educational Supplement(以下T.E.S.と略)1919.10.3 又トー二一が“The Radical Tradition”に収められた論文‘The Problem of the Public Schools’を書いたのは1943年になってからのことである。但し『平等』の中で、パブリックスクールも当局から許可を受けるべきである、と指摘している。“Equality”1937 p158 フィッシャー法の討議の過程で、パブリックスクールを教育庁の視察の対象とすべきことが発言されたことはある。しかし、有力ではなかった。P.A. Harris T.E.S.1917.6.13
  3. 'Fisher and Reform' T.E.S.1917.1.4 イギリスがフランスやドイツと決定的に異なっているのは、第一次大戦後、フランスやドイツが戦争によって、国土が手ひどい打撃を受け、人間の生命や財産が大量に奪われたのに対して、イギリスでは比較的被害が小さかったことである。A.P.テイラー『イギリス現代史1914−1945』 p112
  4. 'The final Report of the Department Committee on Juvenile Education in relation to employment after the War' T.E.S.1917.4.5
  5. 但し、フィッシャー法が提案された時点で、こうしたことが教育界に広く認められていたとはいえない。1917年5月にNEA(National Education Association)がフィッシャー法についての見解をまとめているが、教育制度の二重性(dual system)が将来も存続することを前提にして、16歳までの義務就学延長(初等教育の保障)を提起している。‘Mr. Fisher's Speech' T.E.S.1917.5.31
  6. サイモン『現代の教育改革一一イギリスと日本』 p517
  7. 成田克矢『イギリス教育政策史研究』 p250-251
  8. 同上 p263-264 なお中等教育の発展を公正な制度への道と捉えるマスクレイブも同様の評価である。P.W. Musgrave "Society and Education"
  9. 堀尾輝久『現代教育の思想と構造』の次の指摘。「概して教育機会の拡大という量的側面に目を奪われ、その質の検討は充分になされていないように思われる。」 p3
  10. 同上 p90-103
  11. 同上 piii
  12. 菅野芳彦『イギリス国民教育制度史研究』1978 について若干コメントしておこう。理論的枠組みからすれば、菅野は、成田克矢、堀尾輝久よりはるかに後退している。氏はフィッシャー法を無償初等教育、バトラー法を中等教育・権利としての教育を保障したとして把握するのであるが、バトラー法によって生じた11歳試験の弊害を事実として記しながら、その弊害を生む芽は既にハドーレポートの中にあることを分析しえていない。それは氏に教育について国家責任の整備=権利としての教育の実現というフレームがあるからであり、そのフレームが成立するのは、階級抑圧の武器としての統一学校論(ケルシェンシュタイナー)の存在を位置づけていないからに他ならない。もちろん、イギリス教育史においては、それは論理として社会的に運動主体を伴っては登場しないのであるが、それは階級協調(ハドーレポートからバトラー法)の中に、より安定した実現の場を見出しただけであって、支配的階級意思として存在しないということではないのである。
  13. 阿部 前掲
  14. J.ローソンとH.シルバーも基本的に成田の評価に近い。彼らは20年代の経済的平等によるラディカルな社会政策を志向する、新しい国家的契機であったとする。John Lawson, Harold Silver "A Social History of Education in England" 1973 p385
  15. Lawrence Andrews "The Education Act 1918" 1976 p88-89 サイモンはまたフィッシャー法が「すべての者に中等教育を」という原則を認めていなかったとして批判している。サイモン『現代の教育改革イギリスと日本』p31
  16. 成田克矢 前掲 p237-238
  17. Simon "Education and the Labour Movement 1870-1920" p357
  18. Lester Smith "Government of Educaiotn" 1965 p83 ここでいう三大教育法とは、1870、1802、1944年法のことである。
  19. R.H.トー二一『すべての者に中等教育を』成田克也訳、明治図書 p19
  20. R.H. Tawney "Secondary Education for all" 1922 p15-16
  21. 小堀は次のように書いている。「1918年の教育法の成果としては、義務就学年齢の引き上げ、中等教育における無月謝定員数の増加と奨学金制度の創設、14歳から18歳までの少年に対する昼間補習学校への出席義務制などが挙げられる。しかし、それらにも増して注目すべき改革は、文教院と地方教育当局との権限関係をあらたに規定し、教育を国家統制のもとに置こうと企てた点である。」小堀勉「時代区分と各時代の特質」同編『欧米社会教育発達史』所収1978 p62
  22. 菅野氏は次のように書いている。「フィッシャー教育令の最も重視される問題は、義務就学年齢の延長点であろう。つまりフルタイムで出席義務を持たされる年齢の上限を、15歳までに引き上げる権限を地方教育庁に付与した。(同法第八、第四条)ことである。」『世界教育史体系8イギリス教育史』 p51

(2)フィッシャー法への前史

<1902年法と1907年規則>

 まずはじめに、20世紀に入ってからフィッシャー法に至る教育史的整理をしておこう。
 イギリス教育史上極めて重要な1902年法(バルフォア法)は次のような内容をもっていた。
 第一に、カウンティ参事会(County Council)とカウンテイバラ参事会(County Borough Council)が地方教育当局(Local Education Authority)となり、それまでの学務委員会(School Boards)や学校出席委員会(School Attendace Committee)を廃止した。
 第二に、地方教育当局が世俗教育については、公立(Provided School)、私立(Non-Provided School)を問わず初等教育を管理する。
そして、私立学校についても国庫補助及び地方税の支出を認める。
 第三に、初等以外の中等教育、師範学校などについて、地方教育当局は措置することができる。
 第四に、教育庁(Board of Education)の最終的監督権限を定めたこと、等である。(1)
 この法によって、初めて公立の中等学校を地方教育当局が設立する権限を与えられたのであるが、しかし、初等学校・基礎学校と中等学校は別体系とされ、奨学金によってわずかに橋が掛けられた。(2)
 当時中等学校の法的定義はなく、単に「初等以外の教育」とされていたが、1904年の教育庁の「中等教育規則」によって次のように初めて与えられた。
 16歳までの、及びそれ以上の生徒各人に、一般教育・身体・精神・道徳教育を完全な学年段階の課程により、初等学校が与えるよりも、より広い範囲と進んだ程度で与える全日制及び寄宿学校
 そして、その課程は外国語を含む古典的な学校を、模範とするものであった。(3) そして、モラントによる中等教育政策は特別優秀な者を中等学校に入れる、という考えを基礎としたものであり、(4) それは国家統制の強化された時期であった、と評価されている。(5)
 そして、1907年の「中等学校規則」で、国家と学校が授業料を徴収する場合、教育庁の承認を受けることとなり、又、政府補助金をうける学校は、生徒の25%以上を無償(free place)としなければならないことが決められた。無償席入学のためには、そのための学力テストが教育庁の承認の下に実施され、このテストのために、1919年より知能テストが使用されることになる。(6)
 マンチェスターでは1919年に200−250名の希望者があり、10−20名が採用されたにすぎない。その後段々増加したが景気の変動を受けやすかった。(7)
 1916年ロイド=ジョージ内閣が成立し、シェフィルド大学副総長フィッシャー(H.A.L. Fisher)(8) が教育庁総裁に迎えられる。そして、フィッシャーの下で青年の雇用及び教育についての政策が検討され、フィッシャー法へと展開していくのであるが、当時の教育に関する地方教育当局の意識をみておこう。1917年の1月から3月まで、タイムズ教育版「地方教育当局(Local Education Authority)」という欄に報じられた各地方当局が取り扱っている事項は表1のようになっている。
表1
教師の給与引き上げ13青年の労働
財政11保険・衛生
校舎改築体育
奨学金宗教教授
児童の出席確保戦争労働
中等学校の拡大青年の娯楽
教師教育中央の統制

 この表からわかるように、第一次大戦末期イギリスでは、教育の物的条件の確保に苦悩していたのである。こうした現状をふまえて、「戦後青年雇用・教育に関する委員会」の報告が1917年4月に出された。概略は次の通りである。
 1.現在の教育の問題は、1911年から1912年において、14歳から18歳の青年の81.5%は、まったく学校に通っていない上に、通っている者も途中でどんどんやめてしまう、という量的なことがらと、その年齢はほとんどが雇用され、夜間学校(evening school)は、教育的とはいえず、したがって産業上効果があるとはいえない、という質的なことがらである。
 2.ギャンブルが増加しており、父の権限によって事態を解決することは望むことができない。
 3.したがって全日制義務就学の強化、義務的な継続学校の設置が必要である。
a.全ての地域に単一の初等学校(uniform elementary school)を設置する。
b.地方教育当局は、継続学校を設置する義務をもつ。
 工場法の適用を拡大して、14歳から18歳の就学していない青年に対して、年間320時間の継続教育を義務化する。その内容は道徳・体育・技術訓練を含むものとする。
 4.財政は苦しいが公的基金によって行う。
 5.大学は入学試験を行う。(9)
 注目すべきことは、労働力養成と公教育が関連したものとして計画化されていること、単一の初等学校が提起されていることであろう。ドイツ統一学校運動の影響を後者にみることができる。(10)

<註>
  1. 菅野 前掲 p224-229 三好 前掲 p110-111 G.A.N.Lowndes "The silent social revolution" 1937 p70-90 'Board of Education' の訳は種々あるが、ここでは邦文の引用以外は「教育庁」の訳を採用する。
  2. Simon "Intelligence, Psychology and Education" 1971 p204 トー ニ一はこの点を強く批判している。『すべての者に中等教育を』成田訳 p64-65
  3. John Graves "Policy and Progress in Secondary Education 1902-1942" p61
  4. Simon op.cit. p205
  5. Graves op.cit. p89
  6. ハルドックはこの時期、「試験は、初め診断的に始まったが、更に競争・適性を測る、学校の効率を図る、という機能が加わり、試験制度は今日の社会で本質的な部分になりつつある。」と書いていた。P.J. Hortoc 'The case for Reform' T.E.S.1917.5.10
  7. Lawson op.cit. p394
  8. 三好信浩『イギリス労働党教育政策史』 1974 p51
  9. 'Education after the War' 'The final Report of the Departmental Committee on Juvenile Education in relation to employment after the War' T.E.S.1917.4.5
  10. タイムズ教育版は1917年8月9日に、ドイツでの1916年以来の改革動向を紹介しているが、政府においてももちろん、把握していたはずである。'Education Reform in Germany' T.E.S.1917.8.9

<フィッシャーに対する教育界の要求>

 さて、フィッシャーは1917年早々から改革の意思を表明していたが、8月16日に下院に法案を提出するまで、教育界では様々な論議がなされていた。そこで、いかなる論議があったのか、団体の要求によってみておこう。
 「校長協会(The Association of Head Master)」は1月の教育改革審議会で討議を行い、そこではW.E.A.(Workers Educational Association)やN.U.T.(National Union of Teachers)が15歳から16歳まで国家的統一的な教育をうけることを要求として,まとめたことが主要な議論となり、「全ての者に中等教育を開く」という多数意見が形成され、(1) 7月になって全体的要求をまとめた。
 校長という性格からして、行財政への要求が顕著である。
 1.教育庁は全国的な視野で行政を行い、地方教育当局との協調を重視すべきである。
 2.地方教育当局は納税者(ratepayer)ばかりみて行政を行っているが、地域全体の必要をみなければならなず、又広い地域での協力、大学との共同が必要である。
 3.国と地方の関係を改善し、財政基盤を確立すベキである。そして、地方教育当局は一般的な統制、及び財政に任務を限定すべきである。
 これらの要求は国家と地方の協調を図るとともに、個々の学校の運営については校長の権限を確保する目標に貫かれている。
 4.一就学義務の徹底。
 5.中等学校・定時制継続学校の増加。
 継統学校の義務については、技術訓練のみではなく、一般教育をも含めて週12時間を40時間とする。地域(community)の要請に適合させる。
 6.11歳で中等学校に進み、奨学金・無償席の為のテストを全小学校で行う。(2)
 ここで注目すべきことは、中等学校を小学校後、大学までの間の全ての形態の学校として呼んでいること、全国的なテストを主張していることである。
 この二つはハドーレポートの骨格を形成する原則の発生を表している。そして、校長協会の姿勢は、エリート主義である、との批判を受けていた。(3)
 「教頭協会(The National Association of Head Teachers)」は3月に概略次のような改革を提起した。
 1.離学年齢(school leaving age)が14歳以下にならないようにし、15歳から16歳ぐらいにするように努力する。
 2.小学校から大学までの協調をはかり、そのために小学校・中等学校・技術学校を地方教育当局の管轄とする。
 3.中等学校の入学は、一定の学力水準に達することを条件とし、地方教育当局は奨学金を充分に準備する。また中等学校から技術学校・大学への道を開く。
 4.14歳以上で就労している青年については、給料を下げることなく週8時間以上の継続学校への就学を進めるべきである。
 5.週48時間以内の労働時間制限。(4)
 ここで特徴的なことは、継続学校の義務化が主張されていないこと、そして、中等学校を全学校体系の中に有機的に位置づけるとともに、階級的=閉鎖的な中等学校を能力原理によって再編していく指向性がみられることである。周知の如く、中等学校は当時一定の学力水準を必ずしも要求されず、したがって高い授業料を払う者、奨学金テスト・無償席テストに合格した者、という多様な生徒が存在し、過渡的な性格をもっていた。
 「全国教育協会(The National Education Association)」は、4月19日にフィッシャーの講演をきき、5月にそれに対する見解をまとめた。
 1.補助金の増加のみならず、安定して支出されること。(具体的計算が示されているが、ここでは省略する)しかし、教育庁や大蔵委員会の権限強化の可能性があるので、今後研究が必要である。
 2.教師の給与の最低基準を定めるとともに、資格のない教師や充分訓練されていない教師がいることの解決が必要である。
 3.。義務就学における出席の確保、及び初等学校の年長者は中央学校(Central School)等に移行させること。ただし二重体系(separate system)がある限り、16歳までの初等教育を保障する必要があろう。
 4.教育庁が地方教育当局に計画、報告を求める権限をもつこと。
 5.新しい法律は必要ない。現行法内での改良が可能である。(4)
 教師が中心となっているこの団体において、教師の給与の問題が極めて大きな比重を占めている。二重体系をなくすべきだとされていないことは、注意すべきであろう。
 次に中等学校関係の団体についてみてみよう。まず「中等学校教頭協会(Association of Assitant Masters on Secondary Schools)」は次の如くである。
 1.地域教育当局(provincial education authority)に教師の代表を含めること
 2.学校組織は次のようにする。
   8 ── 12歳   初等教育
  12 ── 16歳  B全日制技術教育
            C定時制中等教育・技術教育
            D高等小学校教育
  16 ── 18歳  A大学
            B高等技術教育
            C定時制教育
 3.12歳以降の選択は親の権利とする。したがって選抜テストは非教育的でもあり、実施しない。(6)
 中等教員が中心となっている「古典協会(Classical Association)は5月に次のように要求した。
 1.教育庁は、A.全ての地方にラテン語、ギリシア語を充分に教えることが可能な中等学校を男女各1校以上設置する。B.それに加えて現代外国語、ギりシア語を中心とする中等学校を設置する。C.奨学金を拡充する。小学校からのみではなく、他の中等学校から古典中等学校への移行を容易にすること等を進めるべきである。
 2.ラテン語・ギリシア語を中等教育の原理とすること。(7)
 中等教員の姿勢が、中等教育の特権的地位を守ろうという傾向にあることは、当然のことでもあり、古典教員にそれが特に顕著であることも、フランスやドイツと変わりがない。しかし、注目すべきことは「古典協会」では、この要望をフィッシャーに直接提出して討論しているのだが、W.E.A.のA.のマンスブリッジ(A. Mansbridge)やケンヨン(Kenyon)が労働者にとってもラテン語やギリシア語は有利であり、人文主義への要求もある、として積極的にこの要求を支持して発言していることである。そして、それに対して歴史学者フィッシャーは、教育庁の主要な任務は、義務年齢の子を確実に就学させること、その期s間をできるだけ長くすることだ、と解答を行った。(8)
 では次に労働運動をみておこう。
 T.U.C.は積極的に学校制度要求をとりあげてきたが、1916年10月に有名なブラッドフォード憲章(Blodford Charter)を決め、そこで次のように教育要求を定式化した。
 1.普通無償義務の中等教育(産業による傾斜・入試廃止)
 2.16歳までの例外のない就学義務
 3.二重制度の廃止(9)
 このブラッドフォード憲章は、1917年の労働党大会でも支持され、次のような要求決議をあげている。
 1.一切の授業料の廃止
 2.義務教育年限の16歳への引き上げ、18歳までの定時制の通学義務
 3.普遍的な無償の義務中等教育
 4.中等教育終了以前の定時制禁止
 5.地方教育費の国庫負担、中等学校教師の年金制(10)
 労働党についていえば、スローガン、要求として「原則」的でありながら、過度の「原則主義」であり、現実との緊張を欠いたものであった。この労働党の弱点は、フィッシャー法の審議過程で現実化することになる。(11)
 さて以上各種団体の教育要求をみたが、何よりもまず気付くことは、各々の要求に大きな差がみられない、ということである。ドイツの教員団体は、先にみたように「統一学校」という原則についても、その他の具体的要求についても、敵対的という程の相違がみられた。しかもドイツの場合、労働組合や社会主義団体を除外してもなお敵対的であったのに、イギリスにおいては、労働組合や労働党を含めてなおかつ、要求のかなりの一致をみているのである。同様のことを第二節で再びみることになるが、こうしたことが、後のハドーレポート、1944年法へとひきつがれていく政策の形成に重要な役割を演じたことは、容易に予想されることろであろう。

<註>
 
  1. T.E.S.1917.1.14
  2. 'Educational Policies The Hedamaster's Association' T.E.S.1917.1.19
  3. 'Headmaster's Policy' T.E.S.1917.8.9
  4. 'Headteachers and Reform' T.E.S.1917.3.29
  5. 'Mr.Fisher's Speech' T.E.S.1917.5.31  ここでは法改正には消極的だが、1917年5月3日のT.E.S.に掲載されたNEAの要求は、14歳までの就学義務・中等学校設立の地方教育当局の義務・継続学校への義務・労働の年齢制限を法律で定めるべきであるとしている。
  6. 'Educational Policies 輊 Assistant Masters' T.E.S.1917.7.19
  7. 'The future of the Classics Deputation to Mr.Fisher' T.E.S.1917.5.10
  8. ibid. ただし、マンスブリッジ等の発言には、1910年頃まで、初等教育内容が労働者教育の主流であったのに対し、1910年以降労働者自身の要求が高まり、中等教育的内容が強く求められていた、という背景があったことは、忘れるべきでない。Rodney Braker "Education and Politics 1900-1951 ── A Study of the Labour Party" 1972 p124
  9. Simon "Education and Labour Movement 1870-1920" 1965 p348 による。サイモンによれば、当時『すべての者に中等教育を』のスローガンを主張したのは、唯一このTUCのみで、1916年11月12日に、WEA,NUT,ERC(Education Reform Coucil)の合同の代表者会議がもたれたが、どこもこのスローガンを支持せず、中等学校の増加(WEA)、初等学校以外の学校の設置(NUT)、初等学校を二段階に分ける(ERC)等の要求水準に留まっていたibid. p349
  10. 三好 前掲 p157-158 三好はここで「1917年の党大会の決議は、革新的内容をもつものであって、それが満場一致で可決されたということは、当然フィッシャー法案に対する党の明確な態度となって示されることが予想されるであろう。ところが事態は予想通りに進まないところに、当時の労働党の教育政策の特質があった」 p158 として、その理由を1.党の基本方針の不明確、2.教育政策の暖昧さ、3.自由党と結んでいたという政治的理由の三点をあげている。しかし、1はともかくとして、2については前で革新的で明確なものを予想させるものだと評価しているのだから、やはり要求は現実を打開するという点で推進力をもつか否かで評価をしなければならないであって、この労働党の要求そのものの中に「明確な態度をとりえない」ものを予想させる、という方が正しいであろう。しかも必ずしも革新的でないものも含まれている。例えば「一切の授業料の廃止」である。授業料の廃止、というのは、いかなる場合でも革新的であるのではなく、それが労働者階級に敵対する学校でなく、また労働者にも開かれている学校に対して適用されるとき、革新的であるといえるのである。そうでないとき、「無償」とは、それを公費(租税)で負担する、ということであるから、反労働者的学校を、労働者の支出で部分的にせよ支える、ということになるのであって、それは正しく反動的なのである。この時期・公立の中等学校が設置され、無償席があったとはいえ、中等学校そのものの性質が変化したのでもなく、実際上労働者の子供が進学することはまれだったのであるから、より厳密に評価しなければならないであろう。また、5の要求も革新的といいきってよいものではない。地方教育費の国庫負担については、本論で詳述するとして、何故エリート教員である中等教員のみの年金が要求されているのか。以上のように、三好氏の評価には大きな疑問を感じざるをえない。

    (3)フィッシャー法の制定過程

    <フィッシャー法の提案と反対運動>

     フィッシャーが改革案を出したのは、1917年2月のことであり、「緊急提案(2日)」「一般原則(5日)」という文書によって就学年齢の引き上げ、ハーフタイムシステムの廃止、幼児学校、継続学校の充実、中等学校の改革、教師教育の充実、奨学金・補助金の増額を骨子とする提案を行った。(1) これらの内容は地方教育当局に伝えられ、いくつかの市で検討が始まった。
     当時、地方の財政は極めて悪化しており、補助金の増額を柱とするこの案は、概ね好意的に受け取られたが、いくつかの反対もあった。(2) 当初より活発な論議がなされ、5月に草案の発表、8月に下院提出と進んでいく。内容は表2の通りであるが、地方教育当局と中央の教育庁の権限義務関係を具体的に規定すること、補助金を増額することが柱となっている。フィッシャーま法の提出の前後、精力的に各地、各団体をまわって、意見聴取及び事情説明を行った。
     特に提出前の演説は、記録にみられる限り、教育水準を上げるために教師の質を高めなければならない、という内容に集中している。
     4月19日にフィッシャーは下院で教育についての長い演説を行ったのであるが、初めに補助金を増加する説明をしたあとで1870年法、1902年法によって教育の拡大がなされた現状を指摘した。
     中等学校の補助金の増加は、生徒の増加によるものであり、そして、戦時中の労働者階級の財産の増加の最も重要な直接的な結果は、中等学校入学の増加及び在学年限の延長とである。
      (略)
     たとえ、初等教育の価値を疑う者があったとしても、戦争の経験によって、その疑いは消えたに違いない。しかし、それにも関わらず教育の維持にとって教師が本質的に重要である。もし、教師が悪ければ、金をかけた建物も施設も大部分は機能せず、教育制度は失敗するであろう。(3)
     そして、給与の最低基準を定め、全体として上昇させること、初等学校教師の養成を中等学校で行うことを提案している。(4)
     フィッシャーはプリマウス、ニューカッスルで行ったこの直後の演説でも、同様の趣旨を繰り返しているが、(5) 大方は好評であったとはいえ、4月19日の下院の演説に対してすぐに批判の声があがった。それは、財政補助による地方統制の危倶であった。(6) 二回の下院での討論で出された反対点は次のとおりである。
     1.地方の統制、教師の統制の危倶(P. Magnus)
     2.財政の増大は納税者の負担増にならないか。(F. Banbury)
     3.中等教育については自己の名誉と責任で教育するべき。(O'Ponnell)
     4.宗教教育は不可欠(E. Ceci)
     5.機械化という時代に即応して実科教育を重視すべき。(S. Smith)(7)
     こうした批判に対して、フィッシャーは提案前に反論を試みている。ニューカッスルで「国が改革に関係する、ということについてよく疑問がだされるのであるが、教師の給与について基準を定め、それを保持することは必要であり、それを議会で決めることも必要である。」(8) と述べた。
     もちろん財政補助に対しては教育現場では切実な要求であり、フィッシャーの提案はそれをふまえて出されたものである。7月12日に、校長協会と中等学校協会連合協議会(Federal Council of Secondary School Association)がフィッシャーに対して、教師の物的条件は地方教育当局によって異なっているので、物的援助を増額してほしいという請願をしている。(9)
     こうして8月16日法案が下院に提出されるが、周知のように地方教育当局及び綿織物業界を中心に反対を受け、暗礁にのりあげてしまう。
     8月16日の演説は次のような骨子であった。
     1.戦争によって明らかとなった教育の欠陥を正すことが一つの目的である。
     2.宗派問題については議論をしない。
     3.行政上は1902年法により徹底する、ということである。(大学、地方教育当局が管理しない中等学校・工業学校・特待生・高等師範学校等については、除外している)
     4.学校医療の改善。
     5.市民としての精神を養うことが、最も重要な教育的課題である。
     6.具体的提案としては6つである。
      (一)教育行政の改善
      (二)14歳までの就学義務
      (三)継続学校への就学義務
      (五)小学校教育の改善
      (六)私立学校との関係の改善(10)

     表2フィッシャー法の概略
    (法案1917.8修正案1918.1決定1918.8)
    A.地方教育当局の権限及び義務
    法案修正案決定
    公教育に対する原則的義務
    諸計画を教育に提出する義務(継続学校・教育訓練・供給)諸計画を教育庁に提出する権利義務(同)同(継続学校・職業学校・カレッジ・教員の訓練・供給)
    教育長により承認された場合の実行義務同 親・関係者を代表するようにしなければならない
    義務A中央学校・学級・特別学級高等科(courses of advanced instruction)A同A同
    capacity circumstances age に 応じる教育B同B ability, age, requirement に応じる実家教育
    C小学校以外への転出・進学の準備C同C同
    D無償の継続学校D同D同
    権限A教区域における合同委員会A同A同
      B寄付金及び借財B同B同
      C小学校以外の教育への地方税制限(1902年法)C同C同
      D休日野営・学校野営・体育施設・社会的訓練の施設・遠隔者用の宿舎・下宿施設・保育施設D同D同
      E教員・学生の研究補助E同E同
    F宗教教員以外の教員の任命F同F同
    G同一宗派の小学校が数校ある時の子供の分配(教育庁の許可)G同G同
    H土地購入(教育庁の許可)H同H同
    I会議費用(教育庁の規定)I同I同
    J子どもに残酷な者の起訴J同J同

    B.教育庁の権限及び義務権限
    A地方教育当局の計画を認可A地方教育当局の計画承認(意見の時は協議・非承認の時は理由を公表)A同
    B継続学校について、通学時期・警告・証明書の規定B同B同
    C特別市以外の市参事会の権限を州参会に移行するC削除C削除
    D管理上問題がある時調査委員会(教育庁の任命)D管理上問題がある時調査委員会(一人以上教育庁が任命、当該地で聴聞会)D同
    E地方教育当局への教育補助(実費の半額議会による停止は不可、地方教育当局の不正の時は減額)E同
    F地方教育当局が教育法の適用に疑問がある時は、教育庁の解釈によるF削除F削除

    C.通学び雇用
    5歳から14歳の例外のない就学義務
    ・地方教育当局は15歳に引き上げることができる(ただし14歳から15歳は免除)
    ・保育学校が十分な時は、6歳まで免除可能同 10人の親の公開審査
    ・通学しない者が効果ある教育を受けているが否かの認定は地方教育当局同 ただし、教育庁及び教育当局の視察・十分な記録が必要
    ・非宗教的教授について、地方教育当局の権限同 ただしそれにより宗回教が受けられない時の宗教の時間の保障障害児はこの規定を同除外
    ・学期は地方教育当局が決定
    ・14歳で義務就学を終わり、16歳まで就学しない者は、1年360時間の継続学校に就学義務(違反のときは本人及び保護者の罰則)ただし地方教育当局が認める時は、280時間以上7年間実施を延期、出席については青年の同意が必要、教育内容については親の意向にそう
    雇用制度イ継統学校への通学時間イ同イ同
    ロ12歳以上14歳以下の通学時間 午前6時前・午後8時以降ロ同ロ削除
    ハ14歳以下ハ12歳以下ハ同
    日曜日は2時間以内 雇用については地方教育当局の許可が必要
    就学義務の実施については地方教育当局の責務
    通学を妨げたり、健康を害する雇用の禁止(罰則規定)

     教員給与の増額については基準の国定ということ以外は、反対もなく実行に移されていった。フィッシャー法自体は一度廃案になり、再提出されたのであるが、教師の給与改善については、地方で実施されていくことになる。因みに1918年1月10日号から3月7日号までのタイムズ教育版の地方欄に報道された68都市の記事の中で、32の記事が教師の給与の改善に関するものであり、しかもその改善は補助金の増額によって可能になったと紹介されている。しかも一年前の同時期の記事には、フィッシャーの改革に対する批判的見解が少なくなかったが、この時期には積極的に受け入れ、フィッシャーの趣旨にそった計画づくりを進めている地方当局が出てきている。(Plymouth, Birmingham, Nottinghamshire)このようにみると、一度挫折したフィッシャー法が教育界に受け入れられていった要因は、何よりも教師の給与改善を軸とした補助金の増額であったということができる。
     初等教員の給与は次の表3のように改善されていった。
     1918年から1921年にかけて、地方教育当局の支出は教師の給与について著しく増加しており、教師の平均給与も増額されている。これは、法によって給与水準の改善が行われたためである。(11)

    表3 初等教員の給与(単位ポンド)
    1911年1914年1920年1924年
    1 校長
      男435450633767
      女313324595595
    2 助教授
      男166174297390
      女120126212308
    3 全教授
      男200208332424
      女139224321
       男167173271370

    <註>

    1. Andrews op.cit. p19
    2. 反対が出されたと報じられたのは、4月ではバーミンガム、ゲイテスヘッド、シェフィールド等である。T.E.S.1917.4.17
    3. T.E.S.1917.4.17
    4. ibid. p
    5. 'Mr. Fisher at Plymouth ── The Outlook for Reform' T.E.S.1917.5.10 'Mr. Fisher at Newcastle' T.E.S.1917.6.7
    6. 'Mr. Fisher's proposal' T.E.S.1917.4.26
    7. T.E.S.1917.4.26 'The Debate on Mr.Fisher's Speech' T.E.S.1917.5.3
    8. T.E.S.1917.5.10
    9. 'The future of Secondary Schools Deputation to Mr. Fisher' T.E.S.1917.7.19
    10. T.E.S.1917.8.16 『英国教育改革法案』文部省
    11. Board of Education "Memorandum on the Board of Education Estimate 1923-1924" p3 1921−1922年の増加について、こうした分析をしている。1921年7月19日、8月25日に、給与水準の回状が出されている。Board of Education "Circular to Local Education Authorities" Circular 1220. Standard Scale of Salary for Teachers in Public Elementary Schools" 1921.7.19 同名 Curcular 1229, 1921.8.25
       但し、後者によれば、7月19日の回状は、充分に地方教育当局に徹底せず、したがって基準がうまく機能していないので、再び出された、としている。7月19日の基準の改訂は次のようになっている。

      1921〜22に採用の基準1922〜23に採用の基準
      有資格 1922.3.31に採用 有資格 1923.3.31に採用
      ££££
      J既研修 164 3 4153 6 8168 6 8156134
      J未研修 153 6 814210 0156136 4145 0 0
      L既研修 16710 015613 4175 0 0163 6 8
      L未研修 15613 414516 8163 6 815113 4
      M既研修 137 6 816210 018613 4175 0 0
      M未研修 16210 015113 4175 0 0163 6 8
      無資格J 101 3 4 92 6 8102 6 8 94 0 0
      無資格K 103 3 4 94 0 0106 6 8 98 0 0
      無資格L 10613 4 97 6 8113 6 810413 4

    12. Board of Education "Memorandum on the Board of Education Estimates 1923-1924" 1923 "Memorandum on the Board of Education Estimates 1926" 1926 Simon "The Politics of Educational Reform 1920-1940" 1974 掲載の表によって再構成したもの。
       テイラーはフィッシャーが教師の給与を引き上げたことは、教育制度に大きな影響を与えたとする。つまり、国家が教育に金を出すが、内容を問題にしないという体質がここではっきりした、ということである。テイラー前掲  p167

    <ハーフタイムシステムをめぐって>

     周知のようにイギリスでは1920年暮れから恐慌に陥り、1921年に設置された「国民支出に関する委員会(ゲッヂス委員会)」によって、経費削減が強行されるのであるが ── 事実1922年以後初等教育費は、減額されている ── 表3,4をみる限り、その中で教師の給与について大きな配慮が図られていることがみてとれる。(1)

      表4 地方教育当局の初等教育支出(2)

           初等教育費 教師給与 給与の割合
    1913-191425,60816,41664.1%
    1918-191934,76324,19169.6
    1919-192045,29431,35667.0
    1920-192158,42039,52867.7
    1921-192260,69541,60362.1
    1922-192358,42442,18868.5
    1923-192456,73641,01972.3
    1924-192557,52941,10071.4

     したがってフィッシャーが当初公的に発言していた目的は実現していったということができる。(3)
     さて、その強い反対によって法案を一時挫折させた綿織物業界の反対について検討する必要があろう。サイモンは安い労働力を欲する古くから確立した産業の要求と評価しているが、(4) 彼等はどういう理由付けの下に反対したのか。種々の発言、資料によって知ることのできる理由は次のようなものである。
     1.継続学校への義務就学は非実用的であり、不可能である。16歳から18歳というのは青年にとっても有利な労働時期なのだ。(5)
     2.継続学校の義務化及びハーフタイムシステムの廃止は24%の労働者に影響し、8%の労働力が消失する。これは産業にとって重大である。(6)
     3.ランカシャーでは児童労働に依存しており、高い労働力に依存したら日本やイタリアに勝てない。更に児童労働の賃金を低下させる。(7)
     4.教師がみつからないであろう。(8)
     これに対してフィッシャーはマンチェスターに出かけて説得を試みている。彼は大要次のような演説をした。
     教育については地方の努力が大切であって、特にマンチェスターは産業の中心であること同様あるいはそれ以上に教育の中心なのであるから、諸君は文化(culture)が価値あることだということを理解しているであろう。我々がやろうとしていることは大変単純なことなのである。それは、第一に、小学校の条件の改善、第二に、中等学校の拡充、第三に、14歳までの義務就学である。私はジョン・マッコーネ氏からの反対の書簡を受け取った。この三つは良いが、継続学校の義務化、ハーフタイムシステムの廃止には反対だ、ということである。しかし、それによって失う労働時間というものは大変にわずかであって、むしろ得るところの方がはるかに大きいのである。
     第一に、一般的労働への応用力
     第二に、労働の習慣の形成(特に女子の場合)
     第三に、労働時間の短縮が機械化の刺激になること
     法の適用において私が考えているのは、労働時間・順応性における改善・青年労働の減少及び社会の健全化という三つの要素についてである。労働青年は体力において明らかに劣っており、継続学校はこうした面についても配慮することになっており、こうして社会の健全化をはかることが必要なである。どうか、狭い産業的利害のみで考えないでほしい。(9)
     フィッシャーの考えは、綿織物業という狭い範囲では確かに不利な面は多少あるが、より全体的な視野からみれば、産業上も利益になるのだ、ということであった。それ故マンチェスターやランカシャーの業界関係者の不満は、これでは全くおさまらず、先の1.3のヒッベルトの反対が後になっても強硬になされるのである。
     フィッシャー自身の言明からみれば、上記の表現は当初とは若干の相違をみせている。8月16日の下院での提案説明においては、継続学校の目標は産業にとっても利益が大きいこと(したがって教育内容は当然地方によって異なるであろう。)、第二に、週8時間の教育が理想なのではなく、より多くの教育が望ましいこと、第三に機械の付属物になっている感のある労働青年に、一定の解放を与えるものであることが主張されていた。(10)端的な変化は個別工業への木利にならないという配慮が前面にでてくることである。(11)このことはタイムズ教育版が指摘していたが、(12)事実上この変化において継続学校の義務化の挫折は既に明らかとなっていたといえる。以上みたように、フィッシャー法が当初の予定どおり進まず、かなりの修正、後退を余儀無くされたのは、この産業界の反対及びこれに呼応する労働団体の圧力であったということができる。(13)

    <註>

    1. この点についてはサイモンも同様の指摘をしている。Simon op.cit. p32
    2. 前項註11,12の二つのMemorandumによって計算した。
    3. 三好氏によれば「ゲッジスの斧」の教育についての内容は、無償席を25%カット等によって教育費の総額を5000万ポンドから3400万ポンドに引き下げるということであるが、(三好、前掲 p186-187)これはその通り実施されたとはいいがたい。例えば無償席についていえば、1921年の34.8%から1922年31.8%に減少するが、すぐに回復して、1931まで一貫して上昇している。又教育費の総額にしても、全体としてはかえって増加しているのであり、したがって教育政策上フィッシャー法の評価について「ゲッジスの斧」を過大に評価することは誤りというべきであろう。実際の影響としては、継続学校の義務化が延期されたことがあるが、これとても法制の時点で既に7年間の猶予があったのであり、しかも8年後の1926年に出された「ハドーレポート」では、異なった方針が出されている。それ故フィッシャー法については、あくまで法そのものがもっていた論理が考察されるべきであろう。

        中等学校無償席及び全教育費支出(England and Wales)

      年度 生徒数 無償生 割合 補助金 地方税 合計 
      191460,45318,31030.313,77215,55529,327
      192096,28328,53929.630,19123,68853,876
      192195,56133,25334.838,31732,22470,541
      192290,60128,82931.840,00234,05974,061
      192380,75426,11632.338,68132,20970,890
      192480,34027,19133.838,09430,31768,411
      192584,56732,16138.038,48931,34569,834
      192686,90833,74338.839,09732,21469,311
      192788,94637,05641.739,08832,84671,934
      192889,25338,09742.739,58233,19772,779
      192984,38537,01443.841,79035,23577,025
      193086,11939,07945.442,41837,05279,470
      193189,68243,82348.843,77838,48582,263
      193296,34246.94648.741,41239,34080,752
      193392,65243,86547.438,33639,83978,175
      193492,49041,10644.438,51840,52279,040
      193594.54042,30444.840,28842,41482,702
      193693,85042,32745.142,74943,57686,325
      193797,11545,95747.343,92244,96888,890
      193898,82046,70747.344,98946,68491,673

        補助金・地方税等支出は初等・中等の合計
        単位は1000ポンド Simon op.cit.p 365,377
    4. Simon op.cit. p16
    5. ランカシャー選出議員 H. Hibbert 1918年3月13日、第二読会での発言、'Parliament, The Educational Bill, second reading debates' T.E.S.1918.3.14
    6. Manchester Guardina に掲載された Fine Cotton Spinner's Association の副議長 John McConnell の投書。フィッシャーが演説の中で紹介しているもの。T.E.S.1917.10.4 及び Liverpool, Salford の青年雇用委員会が青年労働力の必要性から13歳以上の雇用制限を除くべきであるという意見をまとめている。Bedfodshire の教育委員会(Education Committee)は農業労働力の確保という視点から反対している。T.E.S.1917.5.3
    7. 1918年6月5日委員会でのヒッバードの発言。T.E.S.1918.6.13
    8. ibid. ただしヒッバードは、ここで14−18歳の12万人の青年に、30人に一人の教師をやとうと、一人200ポンドとして、26万ポンド必要で、そんな金はない、といっているが、筆者の計算では13万ポンド強ですむはずなので、批判のため大袈裟な数字を挙げていることになろう。
    9. 'Mr. Fisher's Campain, The Manchester Speec' T.E.S.1917.10.4
    10. T.E.S.1917.8.16
    11. 1918年3月18日の第二読会でのレウィスの答弁。T.E.S.1918.3.21  6月5日の委員会討議のフィッシャーの答弁。T.E.S.1918.6.13(この日激しいヤジに抗しかねて、フィッシャーは7年間の実施延期、320時間を280時間に減らす、という提案をしている。これに対し労働党が逆に反発し、実効性の保障としてスノーデン(P. Snowden)が、生計費補助の提案をするが、143対54で否決されてしまう。(採決は6月10日)労働党が積極的に対応した内容は、ほとんどこの生計費補助につきていた。
    12. T.E.S.1918.5.9
    13. 'Why educational Bill have died' T.E.S.1917.11.1 連合織物工場労働者協会(United Textile Factory Worker's Association)は4月に法反対を81,449対32,932で決めている。T.E.S.1918.4.18 但しW.E.A.は工場内継続学校に反対(T.E.S.1918.1.17)、ブリティッシュ労働者同盟(British Worker's League)は、雇用に都合のよい状態で賛成。(T.E.S.1917.11.8)  それから委員会審議において、義務化を熱心に主張する者が多くいたこともいうまでもない。「児童労働は国家の問題であり、健全なる教育なくして健全なる労働者はない。」Dawby (Steam Engine Maker's Society)T.E.S.1918.3.2 又マンチェスターからの投書「今の児童労働は悲惨であり、労働時間を減らすことで、かえって失業を減らすことができる。」が紹介されている。T.E.S.1918.2.28

    <地方教育当局の反対>

     次に地方教育当局からの反対について考察しておこう。表2によって明瞭なように、継続学校に関する規定とともに、教育庁及び地方教育当局の関係についての規定が修正内容の大部分を占めている。しかも、修正は全て教育庁の権限の強化を是正し(弱め)地方教育当局の自主性を保障する方向でなされていて、その逆は一つもない。(1)
     19世紀以来、少しずつ中央政府の権限が強化されていたとはいえ、第一次大戦前はまだ分権主義が基本であったということができよう。総力戦としての第一次大戦は教育をも全国的な統制下においた。教師の徴兵、校舎の兵舎としての利用、学童の奉仕等はそれを端的に示している。これらは、全国の教育上の人的物的条件を計画的に利用したものであり、フィッシャー法でまず初めに提案された内容は、この状況を基盤にしていたということができる。戦争はまだ終結していなかった。したがって1917年8月に提案された内容は確かに、教育庁の強い権限と地方教育当局の義務が基調となっていた。
     提案の説明演説でフィッシャーは、次のように述べている。
     私は全ての州及び特別市の参事会に対して、管轄区域内の教育の発達と大きな組織の実現に資する規定を設けて、計画を教育庁に提出するよう義務付けるものです。(2)
     具体的には1.教育庁が諸事項についての基準を設定すること、2.地方教育当局が計画を作成する義務を負い、教育庁が審査して認可する権限をもつ、という二つの内容からなっており、それを実質的に保障するものは補助金であった。この法案に分権主義的な地方教育当局が反対したのはごく自然なことであった。その理由は「統制強化」ということにつきる。ロンドン教育委員会(London Education Committee)の議長のコップ(Cyril S. Cobb)のフィッシャーあて書簡がその気分をよく表現している。
     教育庁はもちろん、のろまな当局にその権限を実行し、義務を果たすように強いて行わせる権限をもっていなければなりません。行政の条項は極端な場合のみ実行可能であるようにはなっておりません。条項はあまりに一般的で幅広いという性格を持っています。地方教育当局の経験や行動力を教育庁が奪ってしまうかのような権限の集中をその条項は与えています。(3)
     教育庁の指導性の原則については、充分認めながら、それが無限定であること、地方の主体性を奪うことについては否定しているのである。これに対するフィッシャーの回答はどうか。長くなるがまとめておこう。
     1.地方教育当局の任務を明確にすることは、むしろ自由を確認し、増すことである。
     2.本質的に重要なことは計画の策定であり、その方法である。
     3.真に教育について考えるならば、中央と地方とにおいて大きな認識上の食い違いが生じたときは、より豊富な経験に富み、国会に責任を負う教育庁が子供への責任をより多くもつのは当然である。
     4.34条(費用支出についての基準作成)は現行法よりゆるやかであり、36条(調査委員会)は現行法にある、等々決して統制の強化を意図したものではない。
     5.全国的最低基準の設定が、中央政府権限であることは諸君も認めるであろう。
     6.できたら包括的な補助金を創設したい。
     7.まじめな批判は大いに歓迎する。(4)
     フィッシャーが主に目指していることは、教育庁と地方教育当局が同じ土台にたつ国家的計画の再生であって、それはアンドリュースが指摘したように、パートナーシップと呼ぶのがふさわしいであろう。(5) 3月12日の下院での答弁でフィッシャーは「地方教育当局が全教育についての骨格的な計画をたてることが必要である。けっして継続学校のみの計画ではないのであって、そうしてこそ国家的計画(national scheme)が可能になる。国と地方教育当局の協力によって初めて教育機会の平等が達成されるのである。」(6) と述べている。しかも、この点については、フィッシャーは自信をもっていたということができる。原案を撤回せざるをえない状況になり、「法案が死んだ」という世評になったとき、フィッシャーはタイムズ教育版に、「法は死んでいない、地方教育当局とは話し合いが進んでいる」と語っているのである。(7)
     こうして、多くの反対にも関わらず、フィッシャー法は1918年8月に修正の結果成立する。継続学校の義務化は延期という形をとり、結局実質的に無効となってしまう以外は、承認されることになった。継続学校はむしろ一方において成人教育の問題として、他方において中等教育の義務化の問題として質的に発展していくことになる。
     ではフィッシャー法の影響はどのように現れたのか。詳細は別の機会に譲るが、特徴的な2,3の例を紹介しておこう。ロンドンの市参事会(London county Council)は1919年から1921年にかけて次々と教育の計画を作成している。パンフレットのナンバー順にあげておくと次の通りである。
    1. Backward Children
    2. Promotion of Children in Elementary Schools
    3. The Teaching of Science in Elementary Schools of the London County Council
    4. Report to the Education Officer by the Conference or School Libraries
    5. Instruction of Children over 11 years of age on Ordinary Elementary Schools
    6. Development of Education on Public Elementary Schools
    7. Development of Education on Public Elementary Schools
    8. Times Tables of Schools
    9. The Prefect System in Elementary Schools
    10. The final Year at an Elementary School(8)
     これらの計画は具体的に地域の教育行政官がいかなる問題に直面していたかをよく示している。ここで提起されていることを簡単に概括しておくと、
     第一に、障害児のための施設の拡充
     第二に、「全ての者に科学を!」が戦争の教訓であり、ステロタイプ化している科学教育を改善する。
     第三に、科学教育の改善として、1.科学的な本を読むこと、2.工場見学などを取り入れる。
     第四に、11歳以降で小学校に残っている者については、カリキュラム及び教師をより高い水準のものに再編すること。
     第五に、更に中央学校(central school)の拡充等である。
     すなわち、問題となっている最大のことは、小学校における自然科学教育を中心とする水準向上、そして、11歳以降の教育の再編(無就学の除去)である。
     もう一つ、ランカシャーの教育関係者の協議による10カ年計画をみてみよう。
     「教育の国家制度(A National System of Education)」と題されたこ計画は、現存する学校を承認する形でできあがっているが、特徴的なことは12歳で全ての者が、12歳までの小学校教育より一段高い教育を受けるようにすること。Aクラス(リーダー層になる者、2%)、Bクラス(給与生活者になる者)、Cクラス(熟練工になる者)、Dクラス(非熟練工になる者)という階層的な制度体系を構想していること、小学校段階においては小学校と、中等学校の予備学校との区別をなくすこと、各段階の移行は基本的には「能力」によること、ただし各クラス間の移行の制度的保証をつくること、等である。(9) このプランはドイツ統一学校運動の主流の考えに極めてよく似ていることに気付かれるであろう。そして、共通の小学校、多様な小学校後教育、能力による分化という原則は実はフィッシャー法の立法者意志の中において既に定着しているといえる。逆にいえば、フィッシャーが自ら地方教育当局との間に本質的矛盾はないといったように「パートナーシップ」が形成されつつあったということができよう。
     このことを更に補助金によってより鮮明にしておこう。
     補助金はフィッシャー法の重要な政策であるが、フィッシャー法の補助方式の改訂には、ケンプ委員会の補助方式によって生じた地方格差を是正しようという目的があり、これは確かに実効性をもった。表5は各都市の教育費を児童一人あたりの経費で、都市の間の格差を調べたものである。標準偏差を出すと、1921年が36.08で1922年が33.91となっており、明らかに地方格差は縮小しているのである。つまりフィッシャー法が国庫補助金によって、実質的な統制を強めたのは、こうした地方格差の是正によって国と地方の協調関係をつくりだしたことで可能になったのである。

        表5 児童一人当たり経費の都市分布
      都市数 都市数 都市数
      1921年 1922年 1923年
    -150 3 2 1
    150-155 1 3 2
    155-160 4 3 1
    160-165 8 3 5
    165-170 9 12 7
    170-175 14 16 13
    175-180 13 15 18
    180-185 17 15 14
    185-190 24 19 22
    190-195 16 28 26
    195-200 16 16 14
    200-205 17 21 13
    205-210 26 25 30
    210-215 18 9 17
    215-220 8 16 14
    220-225 16 15 9
    225-230 12 10 19
    230-235 7 14 8
    235-240 19 12 11
    240-245 7 9 17
    245-250 8 20 10
    250-255 8 5 6
    255-260 6 5 4
    260-265 5 4 3
    265-270 5 5 7
    270-275 5 5 7
    275-280 5 2 4
    280-285 0 2 4
    285-290 3 1 1
    290-295 3 3 1
    295-300 1 2 2
    300-305 3 1 1
    305-310 2 0 1
    310-315 1 0 1
    315-320 2 0 0
    320- 3 3 3
    Board of education"Elementary Education (England and Wales)
     Cost per Child, Elementary Education 1921-1922,1922,1923
     (L.E.A. Actual Expenditure), and 1923-1924(L.E.A. April Extimates)



    <注>

    1. 教育行政問題については多く「二重性」の問題として捉えられてきたが、「二重性」の内容については、「州参事会、特別市参事会」と「市参事会」の二重性(成田克矢、前掲 p232)、「学校に対する国家と教育の二重支配」(空本和助『イギリス教育制度の研究』 p56)、「公立と私立の二重性」(菅野、前掲 p186)と様々な理解がある。T.E.S.1917.8.16
    2. 'Mr. Fisher and his critics' T.E.S.1917.10.25
    3. ibid.
    4. Andrews op.cit
    5. T.E.S.1918.3.14
    6. T.E.S.1917.12.20
    7. London County Council "Development Memorandum" No.1-10 このプランはフィッシャー法の規定によるものであることが、明記されている。
    8. 具体的なカリキュラムを示しておくと、
        小学校低学年:自然学習
        小学校高学年:初歩の機械・化学・熱電気(以上週4時間)
        中央学校(職業的重点をおく)
         :基本的物理・植物・化学・心理・衛生・工場などがあるとよい。
       ibid.
    9. Federal council of Lancashire and Chesine Teacher's Association 'A National System of Eduation ── some Recommendations for Establishing it on England during the Decade ending Ten Years Hence' 1920
       この構成団体は次のようになっている。
       リバプール、マンチェスター大学(以下マンチェスター、ランカシャー地域のもの)校長協会、教頭協会(The Assistant Masters' Association)、校長女教師協会、私学協会、NUT、教頭協会(The Association of Head Teacher)、定時制参事会、技術学校教師協会、全日美術教師協会、家政教師協会、音楽家協会、全日手工教師協会
       ハーフタイムシステムや継続学校問題については全く触れられていない。