第二章 フランス統一学校運動の展開と帰結
第二節 ジャン=ゼイの学校制度改革
(1)はじめに
フランス統一学校運動は人民戦線内閣の文部大臣であったジャン=ゼイ(Jean Zay)によってなされた改革によって頂点を迎えたといわれている。(1) 周知のようにジャン=ゼイ改革は、学校制度上の改革としては、14歳までの義務就学齢の延長、指導学級(Classe d'orientaiton)の設置、初等・中等教育体系の部分的階梯化を骨格としている。大恐慌以降の慢性的財政難のため、改革意図が充分実現したわけでもない上、ナチスの占領・ビシー政府の成立によって頓挫させられるのであるが、その歴史的評価はきわめて高いものであるといえよう。
そうした評価は大体次のような内容をもっている。つまり、ジャン=ゼイ改革は統一学校運動の目指してきた原則を実行しようとしたものであり、それは中途で挫折せざるをえなかったが、ランジュバン=ワロンプラン、ベルトワン改革に引き継がれていく。そして、その最も重要な内容が第二次世界大戦後「観察課程」として継承されていく「指導学級」である、というものである。(2) しかし、ベルトワン改革の評価が論争的内容をもっているのと同様、(3) 指導学級についてもより掘り下げた検討が必要であろう。
田崎は、ジャン=ゼイ改革への批判として、中等教員等が「教養的な立場をとって、それぞれの教育を擁護しようとした」と述べているが、(4) 指導学級への批判は必ずしもこうした保守層からのものだけではなかった。改革の推進者の一人であったアンリ=ボアバン(H.Boivin)が11歳から12歳まで完全なる一般教養(culture completé)を全ての者に与えるべきであって、指導学級は安易に分化を持ち込んでいる、とする批判的見解を紹介している。(5) ジャン:ゼイ改革は中産階級の利益になっただけだ、とするタルボットの見解も無視することはできない。(6)
指導学級は教育が選別という社会的機能を担うようになる一つの分岐点であったといえる。教育が本来持っていた労働との関わりが消失していく中で、選別機能が拡大していくのであるが、指導学級もその例外ではなかったといえる。指導学級再検討の第一の論点はここにある。
さて、指導学級は人民連合の綱領には含まれていないぱかりでなく、第一次ブルム内閣が人民連合綱領の停止を宣言してから開始されている。資本家の反撃が強化され、ブルムが事実上屈伏した後の施策なのである。その中でジャン=ゼイは議会の賛同を得られないまま、省令で改革を進めていくことになるが、そのため改革は不充分性を免れなかった。改革が国民の意志を結集する形態・手段によって、その有効性が規定されるということが示されている。しかし、一方何故議会の賛同なしに改革が不充分ながらも可能であったのか。むしろそのことのなかにジャン=ゼイ改革の教育計画論上の意味があったとも考えられるのである。
<註>
- 佐藤英一郎「二つの世界大戦と教育」『世界教育史体系10』所収1975 p201
- 成田克矢「西欧諸国における教育制度改革 ── 中等教育を中心として」『ジュリスト』有斐閣1976.1.1 No63 p124 田崎徳友「フランス中等改革における『実験的試行』の位置と意義 ── ジャン=ゼイの『指導学級』を中心として」『広島大学教育学部紀要』第一部22号も同じ前提にたっている。
- 民研課題研究委員会後期中等教育部会「フランスの中等教育」『国民教育研究所論稿6世界と教育2』1963.9 p156に紹介されたCGTの声明。“L'école et la nation"1971.6 のフランス共産党の歴史総括等。
- 田崎 前掲 p54
- H.Boivin 'Réflexion sur une expérience d'orientation' in "Revue Universitaire" 1938 2 p289
- Talbott "The Politics of Educational Reform in France 1918-1940" 1969 p248
(2)ジャン=ゼイ改革の前史
<職業指導の展開>
ジャン=ゼイ改革の中心であった指導学級には、主に二つの歴史的源流があったと考えられる。一つは初等及び初等後教育での職業指導(orientation professionelle)の発展であり、(1) 他の一つは中等学校第六年級や高等小学校、技術学校予科で予備教育をし、そうした共通の予備教育の後で、分化した教育を受ける方がよいという把握の展開である。そこで、ジャン=ゼイ改革の歴史的性格を明らかにするために、この二つの流れを整理しておきたい。
「職業指導」という考えは、親の地位や財産によらず、各人の能力や個性、適性によって職業が選択されるべきであるという立場を前提とするものであり、「職業選択の自由」という近代的人権のコロラリーであり、すでにコンドルセにも萌芽的にみられるものである。(2) 社会主義理論のなかで、職業指導の概念が重要な位置を占めたことはいうまでもない。(3) しかし、職業指導が支配階級による現実の施策として登場するのは、20世紀になって、労働力の質が国家的利害を左右する要素の一つであると認識されてからのことである。(4)
1882年3月28日の法律は、小学校で週2−3時間の手工を行うよう定めたが、その後各地に国立職業高等小学校が作られ、更に高等・中等程度の技術学校も数多く作られた。そうして1919年のアスティエ法、1925年のアスティエ法実施強化のための法へと展開していく。
こうした動向と平行して、職業指導の体制も整備されていく。1913年に労働省が「労働生理・職業適性研究委員会」をおき、(5) 1922年に文部省が「職業指導事業部(services d'orientation professionelle)」をおいた。(6)
一方民間の側からの職業指導への要求が高まってきていた。1924年にベルギー、フランス、スイスの参加でトゥルーズで行われた職業指導会議では次のような決議をあげている。
1.指導者の養成、心理学的実験による研究、学校における教師の役割の研究が急務である。
2.植民地・保護国においても職業指導が重要である。
3.地方の実情に即することが重要である。
4.学校に財政的権限を与えること。(7)
また、1924年にはパリに職業指導センターが設立されたが、更に『教育』誌の主張として、技術教育当局に対して、職業指導委員会を設置することを要求している。それは科学部門(医学・生理学・心理学研究)、教育部門(師範学校での指導者の養成について研究)、経済部門(雇用条件の研究)、行政部門(職業指導の実施・方法について)の四つの部門からなる委員会の構想であった。(8) これはほぼ全面的に1925年2月10日の省令によって制度化された。(9)
しかし、このような職業指導の展開は全て歓迎されたわけではなく、新たな教育問題を提起した。
第一に、職業指導が親の権利、つまり自分の子供の教育を親の自由な意志で選択しうる権利を犯すのではないか、という問題である。1924年12月の『エチュード(Etudes)』誌は、国家が親の権利に優越することになるという理由で職業指導に反対した。(10)それに対し、職業指導に携わっているA. ルアンは次のように反論している。親が子供に対し、本当に子供の能力・適性を見極めて将来を選択させるには、そのための必要な知識をもっていなければならないし、更にそれを充分に行使しうる時間的余裕がなければならない。しかし、実際にはそうした親は少なく、自分で判断できないため職業指導課にやってくるのであり、(11)しかも、職業指導課の助言は強制や束縛というものでは決してなく、従うか否かは常に親に任されている。しかし、その内容は権威のあるものであり、したがって親が助言に従う率は極めて高い、とルアンは言う。(12)
第二に、『新インドシナ(L'Indochine Nouvelle)』誌が反対したように、試験官が子供の未来を告げるのは難しい、というものである。(13)これに対しルアンは、子供もやはり自分のこと及び自分の回りのことについて正確に知っていないし、又、嗜好や関心は変わりやすいから、子供自身の嗜好や関心で将来を決めることはできない、と反論する。(14)更にルアンは、職業指導が統一学校の原理と結合されなければならず、その中で子供の適性が考慮され、それぞれの子供に相応しい職業が選択されることを主張した。(15)
表1 教育に適用される労働の条件
| 工業において | 教育において |
| 事業目的の追求 | 教育の役割の追求 |
| 実現のための指導理念 | 実現のための指導理念 |
| 養成される方法の採用 | 可能性の研究の採用 |
| A. 実験的研究 | A.実験的研究 |
| 1.動態の研究 | 1.生徒の労働の研究(授業・本分・課業) |
| 2.材料・機械の適用 | 2.手段の適用(教育学的な方法・書物) |
| B.労働力の実現の方法の研究 | B.労働の実現の方法の研究 |
| 1.労働の準備 | 1.aカリキュラムの準備b労働の実行 |
| 2.統制 | 2.労働の統制 |
| C.個人の選択 | C.生徒の開始の選択 |
| 1.職業指導 | 1.学級の開始の選択 |
| 2.徒弟 | 2.異なった期間の開始の選抜 |
| D.労働の報酬の研究 | D.賞罰の研究 |
| 1.時間賃金、個数賃金、賞 | 1.報酬 |
| 2.賞罰 | 2.罰 |
しかし、こうしたルアンの考えを発展させると、心理学テストが職業指導に実質的に介入するようなり、事実上職業指導を支配するようになる、という懸念が統一学校の支持者からも表明された。(16)ここでは、職業指導の研究の一例として、労働の研究(テーラーシステム等)の教育への応用をみておこう。表1はL.ロッシャ(L.Rocha)の書いたものである。それについてロッシャは次のように書いている。
統一学校によって創出された新しいカリキュラムを練っている時、我々は労働者の科学を教育に合理的に適用することがユートピアであるとか、非現実的なことであるとか決して考えない。反対に、合理的な教育の確立のために、不可欠の有用なものであり、生じてくる困難を乗り越える能力を人に塗備するものである、と予想している。(17)
このように、職業指導の研究が他の分野の形式的適用になっていたことに留意する必要があろう。
<註>
- 職業指導については、夏目達也が精力的に研究成果を発表している。「フランスにおける初等教育改革と職業指導1920年代−30年代を中心に」「フランス第2段教育における進路指導の形成過程1920,30年代を中心に」以上『名古屋大学紀要』1982ね, 1985 「フランスの職業指導における学校・職業指導機関間の協力関係1920年代を中心に」『日本産業教育学会研究紀要』1985
- コンドルセ『公教育の原理』松島均訳 明治図書 p133
- アントワーヌ=レオン『フランスの教育の歴史』クセジュ文庫 p110-115
- A.Gasqeut 'L'Enseignement professionelle et l'Enseignement technique' in "Revue Pédatogique" 1908 p428
- アントワーヌ=レオン 前掲 p145
- 同上 p145 ここで職業指導とは「職業教育長官が責任を負う、青年男女を商業及び工業に就職斡旋するにさきだって彼等の道徳的、身体的及び知的な能力を向上させるための事業全体」のことである。C. Fourrie "L'Enseignement Franç de 1789 à 1945" 1965 p218
- 'Vingt-septieme bulletin d'orientation professionelle ── Le Congées d'orientation professionelle de Toulouse. 1924.9.4 - 6' in "L'Éducation" 1924−25 p93−94
- Bulletin d'orientation professionelle des Travaux de la commission d'orientation professionelle' in "Éducation" 1924−25 p601-602
- Bulletin d'orientation professionelle ── une commission nationale d'orientation professionelle en France' in "Éducation" 1924-25 p541-542
但し四部門に加えて一般会議が設けられている。
- H.Boivin 'L'École Unique devant la presse' in "Revue Universitaire" 1925 2 ,37 の紹介記事による。
- A. Louin 'Bulletin d'orientation professionelle ── orientation professionelle et responsabilitédes familes' in "Éducation" 1924-25 p358
- ibid. p358
- H.Boivin op.cit. p37
- Louin op.cit. p358
- ibid. p359
- A. Ferriere 'L'École active' in "La Revue Mondial" 1923 p117
寺内礼が当時の心理学は「人間の不変性」を前提としていた、と指摘している点に注意していおく必要がある。寺田「心理学における発生的方法と歴史的方法」『科学と思想』新日本出版1979.4. No 32
- L. Rocha 'La Science du Travail appliquée a l'Enseignement' in "La Revue Mondial" 1925 p55-59
<中等学校入試による変化>
中等学校(リセ・コレージュ)は、その初等クラスから主に生徒を受け入れていたが、能力による進学という統一学校運動の主張によって、公立小学校からの進学を漸次認める改革がなされてきた。
第一に、リセ・コレージュの初等クラスのカリキュラムを同一にすること(1926年2月11日省令)。これはとりわけ中等学校において重視されていたラテン語を初等クラスから省くことで、小学校側のハンディキャップを除くことに意味があった。又、双方の教員を同一資格にする(1925年9月12日政令)ことも規定された。
第二に、奨学制度が創設されたことである。(1925年1月9日省令、2月7日省令)それによって実質はともかく建前としては、貧しくとも奨学金テストに合格する力があれば、中等学校に進学することが可能になった。(1)
第三に、中等学校の入学試験が制度化されたことである。1924年5月10日の省令によって初等教育修了証書(CEP)で中等学校の第六年級、第五年級に入学する資格を認めて以来、部分的に整備されて、1933年9月1日の省令で制度化された。(2)
第四に、中等学校の無償化が段階的に実施されたことである。(1933年に完全に無償となった。この点は後述する)
こうした措置は当然のことながら中等学校の質的変化と結びついていた。統一学校運動の民主的主張ばかりではなく、「貧血現象」(3) と呼ばれた中等学校におけるドロップアウトもこれらの措置を生み出した要因であった。入学試験によって能力のある生徒を公立小学校から受け入れるのはその一つの対応策であったが、フランスの場合それにとどまらず、「指導期間」をおく試みがなされた。1920年代前半に既に、職業指導の展開とともに、中等学校の第六年級と第五年級を観察期間(serie d'orientation)にすべきという主張が現れていた。(4) 又、1926年にノール県サン=タマン=デゾー(Saint-Amad-des-Eaux)に設立された1年制の学級(classe presecondaire)が指導期問という実質を持っていた。つまり、それはラテン語・古代史、現代語を主とする小学校の上にある学級で、そこから中等学校・高等小学校・技術学校に分岐して進学するというものであった。(5) そして、モンジー(de Monzie)によって正式に制度化される。その第一の動きは1931年1月24日に提案された義務就学年齢の延長法案であった。この法案は年齢延長のみでなく、初等教育の基礎教育を短縮して、高等小学校予科、小学校上級への分化を早め、その年齢を中等学校の第六年級とそろえることを意図した。(6) 結局この法案は通過しなかったが、1932年6月21日の省令によって、第六年級が「指導期間」であり、その終わりに「指導試験」を受け、進路を決めることが規定されたのである。(7) そこで次にモンジーの改革案を検討しておこう。
<註>
- "Horaires et Programmes de l'enseignement secondaires des garçons" cinquieme edition 1928 より
- 文部省教育調査部『教育制度の調査』第六輯 昭和10年 p383-384
- Félix Pécaut 'École unique et Démocratisation' in "Revue Universitaire" 1919,245
- 'Principe d'organisation de l'enseignement secondaire' in "L'Éducation" 1924-1925 p257
- "Educational Yearbook 1927 ── International Institute of Teachers" edited by Kandel p107 Antoine Prost "L'Enseignement en France 1800-1967" 1968 p414
- 文部省教育調査部『教育制度の調査』第八輯 p167-169
- 同上 p160
<モンジー改革>
1930年頃から、モンジー(de Monzie)文相の下でいくつかの改革案が検討された。これらは、多くは実現しなかったが、ジャン=ゼイ改革の前史としての意味を強くもっている。
1933年2月17日の委員会でのモンジーの提案で、モンジーは五点の教育制度上の問題を提起している。奨学金・中等学校入試・就職難・教育制度及ぴ教育行政・バカロレアの問題である。
これより先だって1931年、モンジーは統一学校に関する法案を提案し、また議員有志による同様の提案があった。以下この有志案を引用しておく。
第1条 フランスの公教育を三期に分けて、これに応じて学科課程、生徒募集並びに教員養成の方法を整斉する。
第2条 生徒は第二期教育及び第三期教育を有効に受けるための最小限の能力を有することを証明するのでなければ、その学業を継続することができない。
第3条公教育は原則として、 ── 全て男子教育及び女子教育に対して同等とする。
第4条 公教育は各期を通じて無料とする。すなわち全生徒に対して無条件的に月謝の免除及び学用品の支給をする。
尚義務就学年齢以後、引続き第二期教育及び第三期教育を受けさせるに値すると思われる生徒で家庭の貧困な者に対しては特別手当を支給するべきである。(1)
以下細かい原則の実施規定が続くが、この法案は統一学校運動の理念をかなり忠実に実現しようとしたものである。モンジーの案もほぼ同様であったとされている。(2)
しかし、まず問題になったのは義務教育の延長問題であった。それは国際連盟の条約で、14歳以下の就労を禁止しようということが、国際的に承認されてきていたからである。フランスはそうした国際世論の動向からすると、12歳13歳の就労も現実にあり、国際連盟の常任理事国という立場からも問題になっていたのである。
そこで1933年1月24日、モンジーは議会に義務教育延長の法案を提出する。
法案は次のようなものであった。
第一条 満6歳より満14歳に至る男女児童は就学の義務を有する。(貧困家庭への自治体の援助義務)
第二条 満12歳からは農業に従事できるように、教育課程を組むことができる。
第三条 就学の義務を有する児童は公立学校・私立学校亦は家庭に於て教育を授けられるものとする。
第四条 11歳までは共通の学科を学ぶ。
第十七条 児童が14歳に達しないときは、商業亦は工業の営業に雇用し、亦は就職させることができない。(3)
次にこの法案の議論を簡単に見ておこう。
5月30日に行われた論議では、急に論議にふされたようで、そのことでしばらくもめるが、議論は消極的、積極的賛成論ばかりであった。
デグランジュ(Gean Desgranges)の意見。
この改正は国家に対して何等価値なきものと私が考えねぱならぬとすれば、これは多数家族に対し、私立学校の経費を引き受ける者に対して過重ということになるからであります。
私が代表する県では、家庭に人数が極めて多く、大多数の児童はキリスト教の学校に通学しております。その犠牲は甚だしきものでありますが、教育及び社会に利益のある点に鑑み寛容の心をもってこれを承認するのであります。(4)
ドリオ(Jacques Doriot)の議論。ドリオは共産党の指導者である。
もし現在の補助金の制度を維持するならば、多年を要するではありましょうが、ここに採決しようとしている法律を実施することも可能でしょう。しかし、これが覆り、補助金を禁止亦は縮小し、校舎を制限するならばこの案は全く頓座するでしょう。
就学年限を延長することは甚だよろしい。しかし、多くの場合児童は12歳亦は13歳でその賃金を家族の生活費の足し前にしております。そこで児童を14歳まで通学させる労働者家族に対して代償的扶助を与えるようにいたさねばなりません。(5)
このドリオの発言は大戦間の社会主義者の、特徴的な主張である「生計費補助」の主張であった。
こうした議論を行いながらも、結局この法案は流れてしまう。
そして次に問題となり、通過した法案は中等学校の無償化の提案である。
1933年4月11日、中等学校の全学級の無償を提案する、財政法の改正案の論議が行われた。
この法案に対しては、かなりの反対意見が言われた。
ドゥバル=アルノ(Louis Duval-Arnould)の反対意見。
単に月謝なしで中等教育を受けられるということだけで彼らを中等教育に誘引することは危険である。学生の洪水を恐れる者は私一人ではないであろう。統一学校という観念も私に言わせれば、『全ての段階の教育の合理化』を目的としている。或は『知識階級養成の科学的組織』と言えるであろう。実に統一学校とは生産する方法と制度との上に立つ一つの膨大なる機械である。私は統一学校が生徒の質を無視するとは言わない。模型に入れて作られた知識階級は世俗的な、律儀な、商品的な一種の性質をもっていることは事実である。(6)
つまり、一般教養を学び、職業教育を十分に受けない中等学校の卒業生が増加することに対する反対である。
次に選抜・世俗性についてのデグランジュ(Gean Desgranges)の反対。
無月謝は年々拡張され我々の懐から出た税金で『銀の壁』が出来上がりつつある。この壁は、フランス共和国の根本精神である私教育の自由を犠牲にして貧しい家庭の子女のために作られつつある。
選抜の条件を決定しなかったことは残念である。
選抜に何等かの政策的考慮を加える様なことは起こり得ないであろうか。(7)
次にマルタン(Gaston Martin)の賛成意見。
無月謝となれば、家族の支払っていた月謝は要らないことになり、それだけ国家の負担は増加するが、その代わりに学資が続かなくて中途で退学する様な不幸はなくなるであろう。
私は統一学校の実現は、教養を受けるためには万人平等たるべしとの原則を明らかにするものであると考えるものであるが、亦一面各人の最も適する様に教育されるべきとの意義を含んでいると思う。したがって、無月謝には必ず選抜というものが伴うが、しかし、落後者は現在より非常に少なくなるであろう。何となれば毎年の終業試験において選抜が行われ、不適格者は他の適当な方面、例えば実業学校などに送り込まれるからである。(8)
マルタンは更に、リセ初等クラスについては無月謝にする必要はないと述べている。「賛沢を望む者はその費用を負担するのは当然である。」と述べているが、その発言に対しては保守派・革新双方が拍手喝采している。
社会党のバラ(Xavier Vallat)は選抜について次のように主張している。
無月謝ともなれば必然的に選抜を伴うもので、設備の不足からそうなることは、免れない。選抜試験により最も適当なる者を入学させる様になることは免れない。ところがが私立という性質上選抜ということは有り得ないと養う。私に言わせれば、選抜ということは公の権力の帰属である。(9)
こうしてバラは私立学校の廃止を主張しつつ、無償性の賛成意見を述べている。そしてその意見をレオン=ブルムの著書から引いている。
マラン(Louis Marin)は無償の恩恵は結局貧しい者ではなく、裕福な者に還元されるという理由で反対する。(10)
モンジーが説明に立った後、採決に入り、425対145で可決された。
<註>
- 文部省『教育制度の調査』第5輯 p142
- しかし、当時の文部省もこの法案を手に入れることができなかったようで、筆者も原文を入手できなかったので、議員の案を引用するにとどめた。
- 文部省『教育制度の調査』第6輯 p299-302 文部省の記述では1931年となっているが、明らかに1933年の誤りであろう。
- 文部省『教育制度の調査』第6輯 p316
- 同上 p320-321
- 同上 p348
- 同上 p352
- 同上 p354
- 同上 p358
- 同上 p359
(3)義務教育年齢延長法の成立
<人民戦線の成立>
1929年世界大恐慌によってフランスにおいても初期の繁栄を除いて5年間で工業生産が3分の1になるなど生産は低下し、物価の上昇、軍事費の増大などにより、国民生活は極度の窮乏に苦しめられることになった。こうした中で政情は不安定になり、イタリアのファシズムやドイツのナチズムにも刺激されてアクション=フランセーズなどの右翼勢力が進出した。
しかし、フランスファシズム勢力は、ナチスに倣うということから、徹底したナショナリズムの立場に立つことができず、強力な政治勢力になることができなかった。ヒトラー・民族主義・反ユダヤ主義が三位一体になりえたドイツと異なって、これらの概念はそれぞれの右翼に分散して、主張されることになった。(1) 一方1923年の人権同盟反ファシズム大会、1924年の左翼連合政府などの経験をもつ左翼は、それに対し、労働者階級の統一を実現し、左翼勢力を広く結集させようとする努力が始められ、1935年6月、共産党、社会党、急進社会党などの政党、労働総同盟(CGT)、人権同盟、反ファシスト知識人監視委員会等多数の団体が人民連合を結成した。この夏コミンテルンにおいても人民戦線戦術が承認採用されていた。翌36年ドイツのラインラント進駐と、それに対する右翼政府の承認という事態に対して、5月の総選挙で人民連合は618議席中、387議席を獲得、社会党のブルムを首班とする人民戦線内閣を成立させた。そして、文部大臣に急進社会党のジャン=ゼイが就任した。
<註>
- 木下半治『フランスナショナリズム史(一)』図書刊行会1976.11.20 ,473
<義務教育年齢延長法の成立>
さて、人民連合綱領は1936年1月12日に難産の上締結されたものであるが、教育については次のように規定していた。
6.学問と信仰の自由
A.必要な資金援助によるばかりでなく、14歳までの義務教育の延長及び第二段教育において無償の補足としての必須選択の適用を行う。
B.全ての人々、生徒、教員に特に学校の中立性、非宗門性及び教員団体の市民権の尊重による完全な信仰の自由を保障する。(1)
レオン=ブルムは就任直後、教育について共和主義的な精神を育てて、ファシズムに対抗する必要があると述べたが、(2) 先ず綱領の具体化として、14歳への義務教育年齢の引き上げがまず取り組まれた。
5月、社会党は内閣成立に先立ってCGTの代表を招いて教育について協議し、直ちに義務教育を15歳まで延長して、まもなく16歳まで延長する必要があることで合意した。(3) 共産党は6月17日、閣外協力することを決めたが、教育については義務教育の延長と、特に13歳以降すぐに家庭、職場に入る子供の教育が必要であると確認した。(4)
そして、ジャン=ゼイは7月の公教育高等審議会で次のように述べた。
最も重要なことは、国家であって、したがってフランス文化の発展を擁護しなければならない。そのためには青年の知的形成をより完全にしなければならないが、それを実現するために、まず就学期間の延長を実施したい。300人以上の教員を増刷しなければならず、財政的に困難であるが、鋭意努力したい。(5)
こうして提案された延長法案は6月から7月にかけて討論され、さしたる反対もなく成立した。しかし、まったく反対・修正がなかったわけではなく、むしろ議会の討議は人民戦線政府の弱さを垣間みせるものであったといえる。
法案の骨子は次のようなものであった。
1.13歳までの義務教育を14歳までに延長すること
2.14歳以下の少年の商工労働の禁止
3.小学校出席義務の免除規定の明確化
4.出席確保のための制裁規定の強化(6)
批判は共産党側からのものと、保守勢力の側とからなされた。共産党からは、改正点をより強化するための修正案がいくつか出された。
バイアン=クーチェリェ(Vaillant Couturier)は次のように発言している。
私も政府提案の提案に賛成であります。しかし、私としては多少の修正意見を持っているので、それを以下に述べさせていただきたい。
第一に、年限延長は一年となっておりますが、これでは不充分である。やはり諸外国にみるように、15歳まで延長すべきものと思われます。
第二に、学校に子女を出している貧困家庭に対しては、延長されただけ手当て金を支給するようにすべきであります。
第三に、学科の内容に関する根本的な修正、つまり理論と実際を混ぜた職業準備的な学科を加えたいと考えます。
第四は、校舎建築の問題でありますが ── できるだけ早く学校建築に着手出来るように努力していただきたい。(7)
次にコニヨ(Cogniot)の発言。
文相が法案趣旨の中に使っておられる第一段階(premiére étape)という語の意味をはっきりと説明していただきたい。私の修正案の目的とするところは、この次に直ちに第二段階(seconde étape)を設けるにあるのであります。(8)
ジャン:ゼイは貧困家庭への手当て金と校舎について、当局の財政上の困難をあげ、クーチュリェもその限りで同意している。
学科内容については、ジャン=ゼイが次のように答えている。
学科目の問題でありますが、これについては二つの原則を提出したい。その一つは学科負担を重くしてはならぬということであります。今でさえ学科負担が重いと言われているのであるから、このことは家庭や教員の一致した希望ともみられます。
その二は、一般的な教養が学科の基本とならぬことであります。そして、これを補うに実業的学科をもってする。決して職業教育を内容とすべきでない。いわば、実科的学科だけで満足すべきものと思われます。(9)
ここにみられる一般教養中心主義は、指導学級についても繰り返し述べられることになる。コニヨの発言については、この時点では義務教育段階(初等教育)を第一段とするもので、伝統的発想を出ない答弁に終始した。(10)
さてこれらの論議は基本的に同じ立場からのものであった。現実的諸困難を前に同意に達したが、保守層からの修正案は大体、合意に達せず採決にもちこまれた。
グランメーソン(Jean Le Cour Granmaison)の発言。
延長そのものには私は不賛成ではないが、都会と農村と無差別にこれを実施することには反対であります。都会には、失業者が多い。 ── 他方農村では失業者はいない。社会政策的な法律が都会における失業者を現象せしめ、新しい仕事を与えるとすれば賃金は安く労働時間は長い田舎から、より高い賃金が得られる都会に向かって流れ込むに違いない。結局田舎は労働力不足となり、13歳、14歳、15歳の少年達が農家に対し労力を提供する必要に迫られるのであります。(11)
こうして、農村では義務教育年齢を弾力的にすることを提案した。
初等教員を農村小学校教員と都市小学校教員に分けよというマラン(Louis Marin)も同じ立場である。(12)
次に大きな修正意見は私立学校への援助である。
ポリマン(Polimann)の発言。
現在私立小学校の児童数は100万人に達しております。教育の自由は既に1世紀も前から議会によって認められておりますが、この教育の自由とは、キリスト教学校教員に対する餓死の自由であってはなりません。(右翼及び中央派喝采)(13)
これに対し、コニヨは次のように反論している。
彼等が仮に、補助者としてでも、公立学校教員と同じく一般的な、国家的な奉仕をしたことはないのである。彼等は特殊な権威すなわちカトリック教会というものによって任命され、監督されているので、その権威に対する奉仕を怠ることはできない。かかる特殊の奉仕をなすための物質的基礎を確保するのは、すなわちカトリック教会でなければならない。(14)
この論争には、中立性の議論が絡んだ。「中立性を保つべし」という文言の追加を主張してフラモン(Ernest Framond)は次のように発言した。
私はフランスの少年はいかなる信仰をもつ家庭に属するものでも、その父兄の感情に反する如き教育を受けることなく、 ── 世紀を照らす聖なる炬火の忠実な奉仕者になり得るように希望するものであります。 ── 現在では国家・社会及び宗教の破壊を目的とする共産主義が政府の仮支援を得ているが、彼等は宗教を以て迷信と同一視するだけでなく、人間の繁栄に対する障害物とし、また個人の自由なる発展を妨害する悪勢力であるという、大臣閣下、こういう暴言は少なくとも我々山岳地方の住民及び大部分のフランス人に対して何らの影響を与えることが出来ないのであります。(15)
議論は中立性、世俗主義、教育の自由をめぐって展開されるが、保守派が全ての宗派を平等に扱うことを中立性、教育の自由と呼び、私立学校への援助を主張、するのに対し、共産党、社会党は世俗主義こそが中立性であると主張した。それ故教会により運営されている私立学校への補助は共和国への敵対と解された。採決によって保守派の修正案はいずれも退けられたが、この政治的対立は指導学級設立の過程で再び現れることになる。
<註>
- 海原峻『フランス人民戦線』中公新書 p94
- 'M. Leon Blum exposéses principes de gouverment' in "L'Information Universitare" 1936.5.16
- 'Mouvement Corporatif CGT et le Gouverment' in "L'Information Universitare"1936.5.23
- 'Les Députés communistes obtiennment satisfaction auprés du ministre' in "L'Information Universitare" 1936.6.20
- 'La session du conseil superieur de l'instruction publique Discours de M. Jean Zay' in "L'Information Universitare" 1936.7.11
- 文部省教育調査部『教育制度の調査』第八輯 p205
- 同上 p224-225
- 同上 p238
- 同上 p227
- 同上 p239
- 同上 p240
- 同上 p252
- 同上 p259
- 同上 p265
- 同上 p235
(4)指導学級の設置
<指導学級をめぐる論議>
義務教育延長法が審議されている6,7月に既にゼネスト、スペイン内乱問題等で人民戦線は危機に直面し、10月に至って急進社会党大会は早くも政府への熱意を冷却させていた。(1) 右翼、資本家の巻き返しによって、1937年2月13日、ブルムは人民連合綱領の停止を宣言せざるをえなくなった。6月にブルムは内閣が崩壊し、ショータン内閣、ダラディエ内閣が成立するが、その後、第二次ブルム内閣、ダラディエ内閣と変わるにつれて人民戦線の性質が消失していく。その中でジャン=ゼイは終始文部大臣を勤め、人民連合綱領以上の改革を行うべく努力した。(2)
ジャン=ゼイの改革理念は、1937年3月5日に提出された教育改革法案によく現れている。その骨子は次のようなものである。
1.第一段教育を、基礎初等教育、補習初等教育、卒業後教育に分け、基礎初等教育は公立の小学校においてのみ行い、12歳時の試験による「基礎初等教育修了証書」で認定する。但し、第二段教育に進む者は、より早期に試験を受けることができる。
2.第二段教育は、一年の「指導学級」をもって始まり、その後古典・現代・技術の三課程に分岐する。
3.三課程間移行を保障するためにカリキュラムの調整を行う。
4.初等学校の教師はバカロレア、第一段教育の公的学級の教師は、初等師範学校の教育を受けることを条件にする。(3)
初めて制度改革案のなかに指導学級が登場したわけであるが、人民戦線内閣の後退という事態の中で、法案は議会の承認を得る見込みがたたなかったので、ジャン=ゼイは改革実現のため、議会での承認とは異なる道筋をとった。つまり、公教育高等審議会の承認を基礎に、政令・省令で実施していく方法である。この審議会での議論も多くの反対を伴ったものであり、そのために内容的に譲歩せざるをえないことがしばしばであった。
まず審議会での審議に至る変遷をみておこう。
1936年5月31日から6月4日まで、多くの国会議員、教育関係者、専門家、ジャーナリスト、財界人が参加して、ル・アーブル(Le Havre)で中等教育改善のための会議が開かれた。(4) 会議ではランジュバンも重要な役割を果たし、教育内容・方法・制度上の多方面の議論がなされ、確認が定式化されたが、その中で新しい教育方法を試み、第二段教育の協調を図るための「実験学校(école d'expérience)」をリセの中に作るべきことが提起された。(%)
年があけて37年1月1日にCGTの教育連合(Fédération générale du L'Enseignement)が教育についての次のような要求綱領を定めた。
1.第二段教育の第一年目を指導期(Cycle d'orientation)とする。
2.指導期は中等教育・高等小学校・技術教育・補習教育を含み、統一的な指導を行う。
3.第二段教育は指導期と13歳から16歳、16歳から18歳の三つの段階に分かれる。第一期から第二期へは試験で進級する。
4.指導期は三つの課が共通のカリキュラムで授業をする。(6)
ル・アーブル会議で、協調のための実験学級であったものが、ここでは共通カリキュラムによる指導期へと具体化されてきた。元来保守的であったリセの教員組合もこのFGEの案に基本的に同意し、(7) 他方、高等小学校教員組合はFGE案に賛成しながらも、指導学級を2年間にすること、カリキュラムを新しくすること、特に技術科目と自然科目のどちらか一方を選択するということであってはならないと条件づけた。(8)
ジャン=ゼイは以上のような提案をふまえて2月2日に以下のような計画を発表した。
1.初等教育証書(CEP)の次に高等小学校・技術学校を含む第二段教育を受けるようにする。
2.第二段教育は指導学級から始める。指導学級は古典・現代・技術の三つの課程を置く。第一段教育の教員は第二段教育を、第二段教育の教員は高等教育を受けることを条件とする。(9)
ジャン=ゼイが当初めざしていたことが、義務教育段階を二つに分け、指導学級によって始まる第二段教育を全ての者に保障しようとするものであったことは明らかであろう。この提案に対する反応は義務教育延長法への対応がほぼ等しく再現された。
リセの教師組合は指導という考えを支持し、様々な第二段教育の協力のもとに継続的に行われるべきことを主張した。(10)更に第二段教育への入学については
1.初等教育証書が入学試験の新しい役割をもつべきこと
2.第二段教育の中での移行及び進学は指導学級での能力に基づくとするなどジャン=ゼイの考えを補強する面もあった。しかし、リセの教師組合の基本的立場はあくまでも中等教育の維持にあった。第二段教育は中等教育の教養によって結合され、年限・内容・精神全て中等学校を前提に構想された。したがって彼等の支持する指導学級は、ラテン語を含む従来の第六年級と同じものであった。(11)
アグレジェ協会はより率直に「指導期を全ての子供に適用することは危険であり、指導者も充分には組織されていない」として反対した。初等クラスから継続する伝統的な中等教育を徹底して擁護したのである。(12)
保守派で人民連合に反対する国民連合は、国家の利益と家庭の権利を奪うことになると反対した。(13)逆にFGEの小学校教師は指導学級を二年にすべきと注文している。(14)
さてジャン=ゼイの改革案は、3月15日から17日にかけて開かれた公教育高等審議会で議論された。そこでの議論は次のようなものであった。
第一に、リセ、コレージュの初等クラスと小学校を一致させる、という統一学校の第一の原則の実施についてである。中等学校の特権を守る立場から強い反対が出され、初等クラスの廃止は承認されなかったが、同等化を進めることは支持された。(15)
第二に、中等学校・高等小学校・技術学校間の移行を容易にするために、はじめの二年間の教育内容を互いに関連づけるというものである。これに対しても、全体的に水準が低下する、という反対論が出されたが、高等小学校から中等学校に移行した者は、成績が良いという第二段教育局長シャトレの報告が承認に導いた。(16)
第三に、指導学級の実験的導入である。教師の数、専門家との協力の不足について不安が出され、時期について(初等基礎教育の最後か、中等教育の最初か)論議がなされた。更に子供をモルモットにするようなことはないか等の疑問も出されたが、最終的には承認されている。(17)
<註>
- 海原 前掲 p167
- ジャン=ゼイは急進党内で「青年トルコ党」と呼ばれる左派グループに属していたが、そうした強固な人格も影響したと考えられる。M. Ruby "La vie et l'æuvre de Jean Zay" 1969
- ibid. p164-169 しかし、初等クラスの廃止、全ての中等教育への進学が含まれていなかったので、失望した人々もいた。Talbott op.cit. p212
- この会議からその後の教育理念・実践の多くが出てきたという評価もある。Donald W. Miles "Recent Reform in French Secondary Education" 1953
- 'Congrés de l'organisation de l'enseignement' in "L'Information Universitare" 1936.6.20 'Le Congrés pour l'études des questions relatives à l'organisation de l'enseignement du second degré' in "L'Éducation" 1936 p152 "Revue Universitaire" 1936 2 ,172
- 'Mouvement Corporatif ── Le decisions de la FGE sur la l'organisation du le degré' in "L'Information Universitare" 1937.1.30
- 'Le plan d'organisation de deuxiéme degré' in "L'Information Universitare" 19372.2.20
- 'Le plan d'organisation de second degré' in "L'Information Universitare" 1937.2.27
- 'L'organisation de l'enseignement du premier et du second degrés' in "L'Information Universitare" 1937.3.6 同時に掲載された新聞の抜粋では、Martin, Temps, &Aelig;uvre が賛成、L'Action Française, D'Excelsior が反対している。
- 'Les Congrés de Pâques' in "L'Information Universitare" 1937.4.3
- "Revue Universitaire" 1937 1 p377-368
- "L'Information Universitare" 1937.4.3 "Revue Universitaire" 1937 1 p372
アグレジェ協会は5月にも声明を出して、第二段教育を7年間にすること、指導学級は20人以下にすることを主張した。"Revue Universitaire" 1937 2 p47
- 'Les Congrés de Pâques' in "L'Information Universitare" 1937.4.17
- "L'Information Universitare" 1937.4.17
- Albert Millot 'La session du conseil superieur de l'instruction publique 1937.3.15" in "Revue Universitaire" 1937 2 p319-320 この時期にもなお古典的な教養を主張する者も多かった。Aouis-le-Grand, M.R.Regnier 'Defend la culture classique' in "Revue Universitaire" 1937 1 p321
- ibid. p322-325 "L'Information Universitare"誌は、「指導指導という風に指導で全てが解決するかのようにいわれているが、指導は統一学校のほんの入口にすぎない」といって、過大な期待をいましめ、一方高等小学校の校長会は「指導学級は最も重要である。特別の人員を行政的に準備しなければならない」と要望を述べた。"L'Information Universitare" 1937.4.24
<指導学級の設置>
先述したように、法案審議のメドが立たなかったために、この論議の結果は次のように省令で実施されていくことになった。
1937年5月21日の政令。「リセ・コレージュ及び他の第二段教育の最初の三年間のカリキュラムを相互に調整する。」
5月22日の省令。「リセ・コレージュの初等クラスの教師は、初等教育の管轄とする。」
5月22日の省令。「第一条、1937−38年度に実験的に第二段教育に接続する指導学級をおくことができる。第二条、そのクラスは、小学校・中等学校・技術学校の教師が協力して行う。」(1)
これらの政令、省令を実施するにあたってジャン=ゼイは次のような声明を出した。
異なった課程の生徒を分ける場合、やり直しのきかないものであってはいけない。ある能力が遅くあらわれる可能性もあるので、一年間の指導では不充分な場合もある。他方専門化を遅らせるわけにもいかない。非常に多くの生徒がある機械の訓練を修得するのに、それほど時間があるわけではない。だから他の課程に移るのをもっと容易にする必要がある。そのためには中等学校・高等小学校・技術学校のカリキュラムを協調させる必要がある。更に分けた結果の誤りを知るために指導が継続的に行われる必要がある。(2)
こうして、指導学級が設置されることは正式に決まった。1937−38年の年度には42センター、50学級が、1938−39年には32センター、37学級が開かれ、それもぞれ4186名、2638名が在学している。(3)
では、指導学級はどのような制度上の効果をもっただろうか。
指導学級はよりよく生徒の能力・適性を見るという目的で出されたものであるが、実際にはそうした効用ばかりではなく、逆に作用した面もあった。この目的が統一学校の理念と正当に結びつくためには、指導学級の段階は出来る限り「指導学級」として統一される必要があるが、他の第二段教育と併置されたために、初等後教育を更に多様にする結果になった。しかも指導学級自体が、第二段教育の類型に対応して分化していた。当初は次のような三つに分かれていた。
更に指導学級の設けられた第一年目には、中等学校のAコース(ラテン語、現代語ともに履修する)に対応するタイプが設置されなかったために、指導学級からはAコースに進学することが困難になり、逆にAコースヘの選抜作用を早める効果をもった。(5) この限りでは指導学級は統一学校の原則に反することになった。統一学校の原則との関連でいえば、改革の支持者であるアンリ=ボアバンが評価したように、指導学級そのものよりも、高等小学校と古典コースでないリセと実質的同一化が促進されたことに重要な意義があった。(7) 1938年3月の公教育高等審議会で、第六年級から第三年級までのカリキュラムの協調を具体的に話し合うところまで、進んでいたのである。(8)
指導学級の「指導」ということの意味内容もまた大きな問題をはらんでいた。
職業指導は、はじめ初等学校の生徒を対象として、主に学校外の機関で始まったものであり、職業教育と無縁であった中等学校は、当然職業指導とも無関係であった。しかし、1930年代になって中等学校においても職業指導の考え方を取り入れるようになった。
1931年に書かれた『教育』誌の「職業的教養と一般教養」という論文は、18歳までの義務教育を課したアスティ工法を高く評価し、労働者として自立する質を重視している。(8) そして、教養の意義は認めながらも古典文化によって代表される一般教養には疑問を投げかけ、「専門化」をより強く主張している。(9) しかし、こうした考えが中等学校において徹底したのではなかった。
中等学校の職業指導は、第六年級への入学試験、第五年級の修了試験、第三年級の修了試験の三段階がある、(10)という見解にみられるように、「試験」が指導の方法であり、かつ全てが中等学校生徒として認めるか、あるいは高等小学校や技術学校へ移行させるかという判断に限定されていた。こうして、中等学校における職業指導は学校選択指導にかわり、その際中等学校で学ぶ一般教養が基準となった。そして、職業という要素はほとんど欠落することになったのである。こうして変化した指導概念が指導学級の基礎になっている。シャトレ(Chàtelet)によって出された1937年6月7日付回状は次のように指示していた。
指導学級は職業指導ではなく、学校を選ぶ指導である。指導学級は次第に第二段教育の性格をつけていくように構成される。 ── 実験の後に組織された指導学級の目的は二つある。先ず能力を考慮し、試すこと。第二に、それと同時に教育を行うこと。
指導学級は実験心理学の研究ではない。むしろ、子供を観察し、実験に対応する反応を記録し、有効な結論を導くものである。(11)
こうして職業指導にはあった労働との関係が指導学級におしては明確な方針をもっていなかった。ジャン=ゼイは一方で、古びた教養を除去し、実生活に必要な教養を確立することを訴え、(12)技術教育を重視していたが、(13)他方で「指導を行う教育者の役割は、あるひとつの職業を強制するということではなく、ふさわしくない職業をさけることにある」と職業教育については消極的姿勢を示していた。(14)
以上のような弱点をもちながらも、1938年7月の公教育高等審議会で、指導学級の生徒の成績が良いことが報告され、(15)1938年7月12日の省令で指導学級を常設のものとすることが決められた。(16)
しかし、周知のようにビシー政府によって指導学級は廃止され、ジャン=ゼイも捕えられ処刑されたのである。
<註>
- "L'Information Universitare" 1937.6.5 "Revue Universitaire" 1937 2 p66
- ibid.
- 田崎 前掲 p52 詳細な数、教育内容、方法についてはこの田崎論文に詳しい。
- "L'Information Universitare"1937.6.5
- Henri Boivin 'Sur le Prejet ministeriel de Réforme de l'ensegnement' in "Revue Universitaire" 1937 1 p305 このため二年目からは第Wタイプ(Aコースに対応)が設置された。
- Henri Boivin op.cit. p300
- Pierre Coussin 'La session du conseil superieur de l'instruction publique 1938.3.7−10' in "Revue Universitaire" 1938 1 p330
- Culture professionelle et culture général' in "L'Éducation" 1930-31 p458 レオンによればアスティエ法自体、一般教養と職業的教養が分化したままの並列であり、総合された教養を前提としてはいなかった。A. Leon "Formation général apprentissage du métier" 1965 p31
- "L'Éducation" op.cit. p467
- C.M. Houyvet 'L'orientation professionelle dans l'enseignement secondaire' in "Revue Universitaire" 1936 1 p230
- "L'Information Universitare" 1937.6.12
- 'Discours de M. Jean Zay à Chatellerault' in "L'Information Universitare" 1937.5.22
- Benigno Caceres "Histoire de l'éducation populaire" 1964
- 'Discours de M. Jean Zay à Chatellerault' in "L'Information Universitare" 1937.5.22
- Pierre Coussin 'La session du conseil superieur de l'instruction publique 1938.7.5-8' in "Revue Universitaire" 1938 2 p227-237
- 'Prorogation pour un an de l'experience des classes d'orientation' in "Revue Universitaire" 1938 2 p261
(5)まとめ
ジャン=ゼイ改革は、一面で学校制度の能力主義的改革であったという性格をもっていたといえる。(1) 先述したように、それは職業指導を社会と教育の交錯をより広げる形で発展させるのではなく、むしろその性格を消失させ、学校選択指導に倭小化したことに制度的原因があった。
反ファシズムの人民戦線内閣の文相としての改革ではあったが、教育の内容にまで及ぶことはなかった。ブルムにしても、ジャン=ゼイにしても民主的共和国の市民を育成するという意識は明確であったが、人民連合綱領を停止せざるをえない力関係の下ではとうてい可能なことではなかったろう。
最後に、議会の賛同をえられなかったにもかかわらず、何故改革が可能だったのか。
ふたつのことが考えられる。
第一に、フランスの教育行政の性格のためだったと考えられる。周知のようにフランスでは国立教授団(Université)が教育管理行政を委ねられてきたが、職能代表的審議会が設置され、公教育高等審議会は1880年以降教職選挙制となっており、国公立教師の代表とはいえ(フランスの学校は大部分が国公立である)教師の意志を代表する形が形成されてきたのである。(2) 教育の方針を定める審議会が、団体代表制になっていることは、政治からの教育への干渉に対するクッションの役割を果たしたと考えられる。又、政治が望んでいない政策を教育の側から提起することを可能にした。もちろんこうした制度が常に、教育の側からの要請を満たすわけではないが、ジャン・ゼイの改革では、そうした効果をもったといえよう。
第二に、人民戦線がもった運動上の意味である。第一章二節で論じたように、人民戦線は「運動」の社会的意味を変えた。結接点となった要求はこの場合、「反ファシズム」であったから、これ以外の政治的条件が変化したとしても、反ファシズムという点で共通である限り、他の共通性を模索する条件があったと考えられる。もちろんそれは、共通点を見いだそうという努力と主体なしには不可能であるが、ジャン・ゼイという優れた指導者がそれを可能にしたと言えるだろう。
<註>
- Henri Boivin 'Réflexious sur une expérience d'orientation' in "Revue Universitaire" 1938 2 p289に紹介されている。その見解によれば、指導は11歳でなく、16歳でなされるべきだという。タルボットはこの点からジャン=ゼイが統一学校の反対者になったとまで評価しているが、それは言い過ぎであろう。Talbott op.cit. p241
- 兼子仁『現代フランス行政法』1970 有斐閣 p155,261
<フランス統一学校運動の提起したもの>
フランス統一学校運動の考察によって明らかになったことは、「教養」と学校制度改革の関係であり、職業指導の形態である。
ドイツでの宗教とは異なって、「教養」はより深く教育内容に関わっているし、また国民の平等にとって、大きな意味をもっている。ナチスの教育は、歴史教育などにみる反科学的面と人種科にみる「疑似科学」の両面をもっていたが、フランスでは、古典的教養の有効性として間われた。
中等学校の支持者は古典を軸とすることを固持する一方、近代科学は次第に文科と理科に分化し、そこに於ける有機的な統一性を保持できなくなっていった。それ故「一般教養」の存立基盤がうすれ、教養はむしろ学校制度を分化させる要素を濃厚にもつようになった。あらゆる統一学校論者は、教養の一般性を前提にしていた。しかし、教養の一般性が崩壊していく状況で、統一学校論者は新たな「教養の一般性」を模索しなければならなかった。この点は第二部の重要な課題になる。
職業指導がフランスでは重要な意味をもった。能力による進路という「能力主義」の原則は、能力を職業と結び付ける作業が必要である。それが「職業指導」であった。しかし、一方で進学の増大によって、どのような上級学校に進学するかという問題が個人にとって大きな問題になった。そうして「職業指導」は次第に「進学指導」に一面化していくことになった。現実に進学指導が必要だったとしても、そのために「職業」に対する指導が希薄になり、教育が本来もってきた「教育と労働」の結合という課題が、実際の教育現場で意識されることが減っていくことになった。人民政府内閣で「指導学級」が導入される際に、「職業指導」の側面ではなく、進学的観点からの「指導」学級になったのはそのためである。
また「個人の進路」あるいは「個人の人生選択」を専門家が行うのが、「職業指導」である。ここでも、社会と個人の関係が、進路選択を通して課題になる。「教養」の観点から見れば、「職業」との関連をもった、あるいは「職業」を土台とした「教養」が再構成される必要性を示したということもできる。
さて、統一学校運動が陥った最大の困難は、制度に関する個別の要求は一致するのに、その基礎になっている原則が異なると、常に運動が対立することであった。フランス人民戦線の運動は、反ファシズムという点で一致していたことが契機になって、様々な相違があったにも関わらず、教育制度に関して一致する部分は支持するという状況が生まれた。そこでジャン・ゼイは政府を構成する政党が異なる状況でも、指導学級を推進することができた。教育という個別利害が対立しがちな分野において、「統一性」を保持していくために大きな教訓を残したといえる。