第一章ドイツ統一学校運動と学校制度

第二節ナチスの教育政策と統一学校

(1)はじめに


 本節は、ナチスの教育政策と統一学校の関係について分析する。統一学校運動を教育の制度的民主主義を求める運動と解する立場からは、ナチスの政策をその一環として研究することは奇妙にみえるかも知れない。しかし、ナチスこそ統一学校運動の理想を実現したのだ、という皇至道の理解も存在しており、個別的に見れば、事実統一学校運動の中で要求された内容は、少なからずナチスの手によって実現された。戦前のわが国の文部省が、統一学校運動の動きを詳しく追っていたのは、皇と同じ意識からと見て誤りではないであろう。(1)
 ナチスの教育政策にはこうした側面があったことは確かである。例えば、アンリッヒ(Anrich)は教育の課題を次のように8項目に整理していた。
  1. 民族的な基礎による内的外的教育の組織化
  2. 国家の統一から国民の統一へ。私的教育は認められない。
  3. 職業学校ではなく、陶冶学校である。
  4. 全学校の陶冶の統一
  5. 学校体系としての統一
  6. 史的概念と生物的概念の統一
  7. 人格の教育
  8. 組織的学校体系の秩序とその中での分岐
 ここには明瞭に、学校の様々な面における統一性への志向が見られる。したがって、統一学校運動の問題意識はナチスによっても共有されていたと言わなければならない。(2)
 しかし、もちろんワイマール共和制下の主要な教育運動であった統一学校運動が、ワイマールの全面的否定を主張して登場したナチスに継承されたと考えることはとうていできない。統一学校運動のイデオローグと、ナチス教育のイデオローグとは誰一人として重なっていない。ケルシェンシュタイナーは既に死亡していたが、ナチスに批判され、(3) シュプランガー、ラインは現実政策に関わることなく、アカデミックな世界に閉じこもらざるをえなかった。(4) SPDは弾圧され、エストライヒも投獄された。(5)
 ドイツ教員連盟も、ナチスに協力するようになって以降、統一学校の主張を機関誌“Die Deutsche=Schule Monatschrift”に掲載することはなくなった。
 こうしてみる限り、ワイマール期の運動としての統一学校運動は、ナチスによって完全に否定されたとみるのが当然であろう。ではこの相反する側面はどのように統一的に把握されるべきなのか。
 今日の「運動」は、通常様々な価値観・理念をもった人々が「共通の要求」を実現するために、「要求」というレベルで結集し、政治的力を確保しようとする現象をいう。しかし、ワイマールの時代には「運動」の意味はかなり異なっていたことに注意しなければならない。
 ワイマール期の「運動」とは「理念が実現する過程」のことを通常意味していた。人々の結集や政治的圧力は必ずしも不可欠の要素ではなかったのである。もちろん、「統一学校連盟」が結成されたり、「徹底的学校改革者同盟」が継続的な運動を組織したことは、そうした要素が入ってくることもあったことを示している。しかし、基本的には「まず理念・世界観ありき」というのが前提であった。そしてその次に何等かの要因によって、理念が実現していく。それは「力」であったり、「理念の正しさ」であったりしたが、少なくとも「理念」の異なる人々が、個別要求の実現のために結集することは、ほぽありえないことであった。ディルタイなどの「精神科学」は、こうした「運動観」と密接不可分であったと考えるべきであろう。
 このような「運動観」が変化したのは、二つの方向があった。一つはナチスであり、他の一つは「人民戦線」である。
 人民戦線は初めて「要求」によって、「理念」の相違を越えた運動を組織した。
 一方、ナチスは「理念」もさることながら、実現する手段である「政治的力」が極めて大きな要素を占めた。(6) そして「理念」自体は、通常考えられているより、ずっと多様なものだった。ナチスの理念は、それぞれの党員が指導している「持ち場」の利害によって左右されることが多く、「ナチズム」それ自体の帰結として一貫して保持された「理念」は、むしろ例外的に少なかったというべきである。
 その結果として、ワイマール期の運動の理念が入り込むことが可能であったが、しかし、人的には非妥協的に、ワイマールを排除したのである。

 具体的な分析にはいる前に、いくつかの先行理論について検討しておきたい。
 ナチスを統一学校運動の継承者及び完成者と考えたのは、皇至道である。(7)
 皇の『独逸教育制度史』は、ドイツ統一学校という編で、ワイマール以降の統一学校制度の変化を分析しているが、その中の一つの章として、「統一学校とナチス教育政策」を置き、「社会民主主義的原理に基づくヴァイマール憲法の『陶冶と学校』の条項は、強力なる民族的意識による統一を欠如せるが故に、国民教育統一の目的を達成するのに不十分であった。真の意味におけるドイツ国民教育の統一は、ナチスの教育政策に期待されているのである」と書いている。(8) こうした皇の統一学校は、ドイツ民族の統一に寄与する学校という理解に基づいている。(9) それ故、ナチスが統一学校を実現したというメルクマールは、1934年5月1日の帝国文部省(Recichministerium für Wissenschaft,, Erziehung un Volksbildung)の設置であり、それに加えて、1933年8月14日、ドイツ福音教会法による宗派的統一が重視されている。(10) こうした皇の考えは次の言葉によく表現されている。
 一般的に見てナチスの政治的革新は社会機構よりも、世界観の転回に重点をおき、制度の刷新よりも之を運営すべき人間、即ちナチス精神に横澄せる人間の配置に力を注いでゐるように見られる。(11)
 以上皇の論理がナチスと統一学校について近年むしろ等閑視されている面を思い出させてくれることは事実であるが、以後本論で明らかにしていくように、ナチス及び統一学校について多くの重要な点を切り捨てていることも否定できない。
 山口定によればナチスの権力構造について大別すると、一枚岩とする説と、無秩序・カオスとする説の二つの見解がある。(12) これまでのわが国のナチス教育研究は、ほとんど前者に傾いていたといってよい。皇の見方はワイマールの民主主義の継承としてみる立場ではあるが、この一枚岩の説に立つ。
 一方ワイマールの否定としてみながら、一枚岩として把握するのが、藤沢法暎や林量淑である。例えば、『世界教育史体系ドイツ教育史2』で林量淑は、ナチスの教育政策を「均制化(Gleichschaltung)」の展開過程として把握する。林によれば、教育の均制化とは次のようなことである。
 非科学的であり、階級性を否定、敵視する『ドイツ的民族教育』をすべての者に徹底的にたたき込むことを可能にするために、(1)反共主義を核とし、社会民主主義、自由主義をも抑圧せんとしたところの、教師を中心にした教育関係者に対する、支配と脅迫の制度化、及び(2)全ての民主主義的な教育行政諸制度の破壊をおしすすめることにより、ナチス当局者の指令に対する全ての教育関係者の無条件の服従を『上からも』『下から』も確保せんとする政策であった。(13)
 しかし、こうした分析視角がナチスの教育政策の特質を十分に明らかにするとはいえない。山口定によれば、ナチスの権力構造は決して一枚岩のものではなく、様々な対立があったし、更にそうした視角による研究も数多く蓄積されている。(14) 単なる権力争いというレベルの対立は教育政策の分析の対象ではないとしても、ナチスの政策の中にあった内的矛盾は、重視されなければならない。
 こうした立場からナチスの教育を分析したものに、ニュッセン(Elke Nyssen)の研究がある。ニュッセンは教育の機能を資格付与(Qualifzierung)、統合(Integration)、選抜機能(Selektionssunktion)の三つに分け、ナチスが統合機能にのみ目を向け、資格付与を重視しなかったことに矛盾を求めた。(15)
 しかし、この三つは基本的には近代教育・近代社会はすべてもっており、その内容及び関係の仕方が異なっているとみるべきものであろう。ナチスはナチスの望む「人間像」に基づいた「資格付与機能」をしたのである。
 混乱をナチスの基本的な性格と規定するのは、ブラックバーンである。ブラックバーンはナチスがギャング精神で全てを政治的目的に従属させたために、幾多の矛盾が生じだとしている。physical と Metaphysical、決定論と自発性、科学と精神、経験論とロマン主義など論理的対立もいたるところにあったとする。(16)
 もう一つの視角は、ナチスの政策が本当に実効的であったのか、という問題である。村瀬興雄はナチスの政策は、民衆レベルでは貫徹せず、ナチスの幾多の圧力にも関わらず、以前の生活をしたたかに継続していた、とする研究を精力的に発表し、基本的に学校現場も同様であったとする。(17) これは戦後の戦争責任の問題も関わった議論がなされており、多くの要素も含むが、政策の提唱と実効性は重要な検討課題であろう。

<註>
  1.  文部省教育調査部『教育制度の調査』に何度も詳しく紹介されている。
  2.  Ernst Ansich "Neue Schulgestaltung aus nationalsozialistischen Denken" 1933
     当時としてはまだ客観的な姿勢を他より多少とももっていた Erziehung 誌の教育情報を担当していたヴェンケは、ナチスは学校体系については、統一的学校制度をめざしている、と紹介している。Wenke 'Die pädagogische Lage in Deutschland' in "Erziehung" 1934 s292 またベンッェは1940年の時点で、この間のドイツ学校の課題は統一的な原則で教育することであったと総括している。Rudof Benze "Jahrbuch des deutschen Zentralinstituts für Erziehung und Unterricht ── Bericht über die Entwicklung der deutschen Schule 1933-1939" 1940
  3.  松岡信義はシュプランガー、ケルシェンシュタイナーとナチスの関係はいまだに判然とせず、解明されるべき課題と述べる一方、「しかし、ケルシェンシュタイナーの著作はナチスの政権掌握後は強い圧迫を受け陽の目をみることはできなかったのである。」と書いている。「シュプランガーとケルシェンシュタイナー ドイツ教育思想への一視角」シュプランガー『ドイツ教育史』長尾十三二監訳 明治図書所収の解説論文 p166
  4.  1933年以降のシュプランガーが“Die Erziehung”に書いた論文は次のようなものがある。1933年 'Aufbruch und Umbruch' 1934年 'Die Politische Mensch als Bildungsziel' 'Grundgedanken der geisteswissenschaftlichen Psychologie' 'Erhre' 1935年 'Wilhelm von Humbolt' 'Die Massnamen in sachsen z. Sicherung eines vollwertigen Hochschulnachwuchses' 'Eine neue Theorie des Spiels' 1936年 'Buchpädagogik' 'Theorie und Ethos' 'Die Wirklichkeit der Geschichte' 1937年 'Die Wirklickeit der Geschichte' 'kulturmorphologische Betrachtungen' 1938年 'Die Epochen der politischen Erziehung in Deutschland' 'Kulturpolitik' 'Volkstum und Erziehung' 'Zur Geschichte der Schulpflicht'
  5.  Paul Oestreich "Entschiedene Schulreform" の解説論文 'Zur pazifistischen Aktivisten der kleinbürgerlichen Demokratie zum Kämpfer in den Reihen der revolutionären Arbeiterbewegung' s19
  6.  もちろん「理念の先行」は当然のことであった。「誰が教育するのか。それはナチズムである。」というヘンツェの言葉は、その前提で初めて理解できる。Benze 'Die Deutsche Erziehung und ihre Träger' in "Erziehungsmächte und Erziehungshoheit im Großdeutschen Reich" herg. von R.Benze 1940
  7.  皇至道『独逸教育制度史』昭和18年著作集四巻。この著作が戦時下のものであるということは皇評価としては考慮されるべきだろうが、ここでは一つの論理の摘出という意味で考察する。
  8.  同上 p309
  9.  同上 p320
  10.  同上 p313
  11.  同上 p314
  12.  山口定『ナチエリート──第三帝国の権力構造』中公新書1976年 p199−202
  13.  林量傲「教育『均制化』政策の展開過程」『世界教育史体系12』講談社1977 p134
  14.  具体的事例はW.シャイラー『第三帝国の興亡』井上勇訳 東京創元社 ジャック・ドラリュ『ゲシュタポ狂気の歴史──ナチスにおける人間の研究』片岡啓治訳 サイマル出版などに豊富に紹介されている。
  15.  Elke Nyssen "Schule im Nationalsozialismus" 1979 s13 宮田光雄「教育政策と政治教育(上)ナチ・ドイツの精神構造U」『思想』1981.5も基本的に同じ分析視角を提示している。
  16.  Blackburn "Education in the Third Reich" 1985 p177−181
  17.  村瀬興雄『ナチス統治下の民衆生活』東大出版会1983.1.31


(2)学校制度改革の理念


<ナチス教育の人間像>

 統一学校運動のモチーフの一つは「公教育は国力である」ということにあった。すなわち、総力戦として闘われた第一次大戦の反省として、統一学校が体制的主張となったのである。
 しかし、ナチスの学校改革はこの点で大いに異なっていた。もちろん戦争遂行を至上目的としたナチス体制が、教育を国力増進に利用したのはいうまでもないことであるが、学校に期待した内容は全く異なったものであった。つまり、科学技術の進歩に適合させるための学校改革を全くといってよい程志向しなかった。いってみれば、近代戦争を前提とした「国防国家」のための教育ではなく、「軍人魂」の育成のための教育を指向していた。(1)
 このようにナチスは、教育においてまず世界観を優先させたのであり、したがって、制度分析の前に原理を分析しておこう。

 ナチス党の唯一の正規の綱領である1920年の綱領は、教育について次のように規定している。
20 全ての有能で勤勉なドイツ人により高い教育を獲得させ、指導的な地位に就かせるために、国家は全教育制度の根本的建設に配慮しなければならない。全ての教育施設の教授計画は実生活の必要性に適合すべきである。国家思想の獲得は既に学校(公民科)を通して認識の当初から教育される。我々は貧しい親の優れた子は、その地位や職業を顧慮することなく、国家の費用で教育することを要求する。
21 国家は国民の健康向上のために、母と子の保護、青年労働の禁止、体操スポーツ義務の法制定による肉体的鍛錬の導入、青年の肉体形成に携わる全ての団体の保護によって行う。(2)
 この綱領は特に20項と21項の前半は「統一学校運動」の主張をそのまま取り入れたようになっている。1920年当時はこうした主張が世論になっていたことの影響であり、極めて特異な形であるにせよ、ナチスの政策の申で実現されていくことになる。通常、1920年綱領はナチスの政権獲得後無視されたとされているが、これらの項目はナチス的な形態で実行されたのである。
 しかし、主要な意味をもったのは21項の後半である。この肉体の鍛錬は正しくナチス教育政策の柱となっていく。
 いずれにせよ、ナチスの戦術そのものが確立していくのが、1923年のビアホール・プッチの失敗、ヒトラーの逮捕、『わが闘争』の執筆を経て以降のことであり、1920年の綱領は政権獲得後の政策にほとんど意味を与えていない。そこで改革原理を示しているのは周知のように『わが闘争』である。そして、『わが闘争』に示されたナチス的人間を創ることが、至上の目的となっていった。(3)
 ではナチス的人聞とはいかなるものか。
  1.  純粋なアーリア人(ドイツ人)であること。(4) これは人種的優秀性は純粋である程良く保持され、雑文によって失われるという「理論」に依拠していた。(5)
     民族主義国家はある現存の社会階級に決定的な権利を主張するのではなく、民族同胞の全体の中から最も能力のある頭脳の持ち主を引き抜いて、そして官職や高官につかせることがその課題なのだ。(6)
  2.  次のような性格をもった人間。
     意志、決断、指導者への尊敬の念、国民的誇り、宗教的信条、寡黙、献身、責任感。
     民族主義国家はあらゆる方法で性格の陶冶をしなければならない(7)、というのは上のような性格の陶冶であり、これらは忠誠心、服従心に帰着するものである。
  3.  強い肉体を持っていること。いうまでもなく、その目的は強い兵士である。
     全ての若い同胞の教育や訓練は全体に、自分達が他の者より絶対に優っているのだという確信を与えるように図られねばならない。若い同胞は自分の身体的な力や強靭さにおいて、民族全体が無敵であるという信念を再び獲得し章ければならない。(8)
 しかし、ヒトラーは知識の教授は軽視した。
 国民の一般教育がいつもこの方面(理科・数学・技術)にだけおかれるということも非常に危険である。逆に一般教育は常に理想の状態にならなければならない。一般教育はむしろ人文諸科目にそうべきであり、将来専門的教育を引き続き受ける基礎だけを与えるべきである。(9)
 限定的な意義付けを人文科目にした上で、「95%までは若い頭脳が必要とせず、それ故また忘れてしまうようなことは一般に詰め込まれるべきではない。」(10) と知的教授にあからさまな嫌悪を示している。これは実際に政権獲得後のカリキュラムで、ヒトラーユーゲントの活動のために学問的教科が削減されるという措置で実施されていく。(11)
 他方国家主義は至上原理ではないことに注意する必要があろう。(12) 国家主義については、ナチスが国家機構を最大限に利用し、他国の征服を至上命令としたという限りでは国家主義であったが、『わが闘争』における国家の位置づけはむしろ絶対的なものではなく、相対的なものであった。
 国家は目的ではなく手段である。国家はもちろんより高い人類文化を形成するための前提ではあるが、その原因ではない。その原因はむしろ文化を形成する能力のある人種の存在にのみあるのである。(13)

<註>

  1.  「軍事意識がナチズムの中心であり、全ての教科が軍事教育に貢献しなければならない。」Paul Schnittherner 'Erziehung zur Wehrhaftigkeit' im "Deutsche Erziehung im neuen Staat" herausgegeben von Friedrich Hiller s146−151
  2.  Friedrich Hiller "Deutsche Erziehung im neuen Staat" s5
  3.  ヘンツェは教育の目的は、教育学的計画から生まれるのではなく、政治的戦いとその法から生まれる、と主張している。そして1938年1月19日の政令で、政治教育によってナチス的人間を作ることが、命じられた。Rudorf Benze "Jahrbuch des deutschen Zentralinstituts für Erziehung und Unterricht Bericht über die Entwicklung der deutschen Schule 1933−1939" s3−5
  4.  ヒトラー『わが闘争』角川文庫(下) p51−52
  5.  ナチズムの人種理論の分析としてダビドヒッチ『ユダヤ人はなぜ殺されたか』大谷堅志郎 サイマル出版 米本昌平「優生思想から人種政策ヘ──ドイツ社会ダーウィニズムの変質」『思想』岩波書店1981.10 p688
  6.  ヒトラー前掲 p92
  7.  同上 p68 シュミットは教育の目標としての人間像を、勇気・従属・真実・敬愛・友愛を掲げている。Ulrich Schmidt 'Die Wehrmacht' in "Erziehungsmächte und Erziehungshoheit im Großdeutschen Reich" herg. von R.Benze 1940 s144−147
  8.  同上 p66 軍事教育については各地ですばやく実施された。オイティンでは1933年4月4日に次のような要綱が出ている。
    1. 防御意思(Wehrwillen)と防御能力(Wehrhaftigkeit)への教育は全ての生徒にとって義務である。
    2. 軍隊的思考、体育の重要性
    3. これまでの体育の時間に兵式体操日と歩行日を加える。
    4. 兵式体操は十分訓練を受けた者によってなされる。
    5. 地域での練習や射撃の訓練の時は、制服を着ること。
    6. この成績を重視する。
    7. 中等学校生徒も必ず一度は参加しなければならない。  'Richtlinien für die Erziehung zur Wehrhaftigkeit 4.4.1933' in "Kleinstadt und Nationalsozialismus Ausgewählte Dokumente zur Geschichte von Eutin 1918−1645" hrg. von Lawrence D. Stokes 1984 s608−609
    8.  ヒトラー前掲 p81
    9.  同上 p75
    10.  ヒトラーの教育談話として、スナイダーは、青年への期待・肉獣の誇り・知的訓練の否定を紹介している。ルイス・スナイダー『アドルフ・ヒトラー』永井淳訳 角川文庫 p130 ただしブラックバーンによれば、ヒトラーは私的な会話では「科学教育の大切さを強調していた」という。Blackburn op.cit. p66
       シェムは「知性主義はナチスの敵である。」と書いている。Schemm a.a.O. s87 したがって、彼の学校に対するスローガンは「学習学校 Lernschule から性格学校Charakterschule へ」というものである。a.a.O. s168 しかし、ウザデルは「(現在の)ナチスの教育は専ら、HJ、SA、SS、労働奉仕のなかにある」と書いてこれを批判している。Georg Usadel "Wissen, Erziehung, Schule" 1938 p7  以上のことから、ナチス教育関係者の見解が基本的な認識ですら一致していたわけではないことがわかる。
    11.  「国家は解決するために国民がもつ道具である。」とマインシャイムは書いている。Meinschein a.a.O. s31
    12.  ヒトラー前掲 p37

    <歴史教育>
     ではこうした基本的人間観は教育にどのように反映されたのか。ナチスは教育内容の改編を重視し、特に(1)歴史教育、(2)人種科の導入、(3)体育の増加、(4)諸科学のドイツ諸科学への改訂とその教育への導入などを徹底して実行している。
     歴史教育の強化は次のように進んだ。
     1933年3月19日、プロイセン文相ルスト(Rust)が、ドイツ語・歴史・地理でドイツ文化財を詳細に扱うように訓令。
     3月27日、バイエルン文相シェム(Schemm)が、ナチス教育はまず歴史教育から、と声明。
     4月7日、プロイセン労働経済相が、ワイマール憲法に基づく公民教育の廃止を指示。
     4月24日、中等学校でドイツ語・歴史・地理を重視する時間割を採用。
     7月22日、帝国内相フリック(Frick)が歴史教授について訓令。(1)  フリックの訓令は、ゲルマンの文化的優越性を強調し、ドイツ魂(deutsche Seele)を教え込むことを柱にして、国民学校下級でドイツのメルヒェン、3、4年でドイツの英雄、5年で指導者の人格を教えるというプランであった。以降、主に教科書に対する個別的な施策を通して、歴史教育のナチス的改編が進められていくが、それらの改編の基本に「教育は時代に応えるべきであるから、科学性なるものは完全に否定され、国民社会主義の世界観が基準になる」(2) という原則があり、そして、歴史教育は、地理教育と相まって「生物学・文化科学(法・社会生活・経済)等と結び付けられ、統一的国家観、ドイツの生活過程の全ての認識に結び付ける」(3) 地政学(Geopolitik)の柱となるものであった。
     では、ナチスの歴史教育とはどのようなものだったのか。
     クラゲス(D. Klagges)は、ナチス教育によって形成しなければならないものとして、(1)英雄的闘争意志、(2)指導者の権利と忠誠義務、(3)国家の永遠の生存意志、(4)民族の運命としての人種をあげ、(4) それを歴史教育に具体化するテーゼを次の5点にまとめている。
    1. 人生は闘いである。
    2. 指導者なしでは我々は無である。
    3. 民族こそ未来である。
    4. 4民族共同体は運命共同体である。
    5. ドイツ人の血は最高の血である。(5)
     そして、クラゲスによって示された国民学校で教えるべきテキストの目次は次のようなものであった。
      T
    1. 先祖(Urv刎er)の痕跡
    2. 北方人の南方支配
    3. ドイツがローマを結び付ける。
      ドイツ、ローマから解放
    4. プロイセンの進撃
    5. 現在ヴィルヘルム二世からヒトラーへ
      U
    6. 北方勢力が世界を形成する
    7. ドイツの休止
    8. 敗北と再編(6)
     歴史教育のプランは様々なナチス教育家が出しているが、細部の相違はさておき、共通しているのは「北方神話」「ゲルマン民族の移動」「プロイセン帝国」についての叙述が柱となっていることである。つまり神話の世界とドイツの征服を教えることに歴史教育の重点があったのである。言いかえれば、歴史教育の任務は、第三帝国が東方征服にのりだす時に、国民が兵士として一丸となって闘う意志を形成し、その歴史的正当性を確信させることにあったのであるが、(7) 歴史の科学性は完全に無視された。
     そして歴史は人種についての観点を植え付ける上で極めて重視された。
     人種の教育内容について、国民学校では次のようなことが強調されるべきとされている。
     5年級 先史時代のゲルマン人
     6年級 フランス革命までのドイツの地域
     7年級 19世紀(8)
     そしてここでは三つの柱が示されている。
    A.国際的理念
    1. フランス革命の理念
    2. マルクス主義などの暴力の歴史
    3. ユダヤ人の歴史とその影響
    4. カトリックの影響
    B.ドイツ国民の歴史
    1. ドイツ農民階級の歴史
    2. 戦争史
    3. 指導者の歴史
    4. ドイツ国家の人の例としてテオドリック
    5. 国家の発生
    C.ナチズム
    1. 完成者としてのナチス
    2. ナチ党の綱領(9)

    <註>
    1.   以上Ottwilm Ottweiler "Die Volksschule im Nationalsozialismus" 1979 s7
    2.  Hans Meischausen "Erziehung zum Dritten Reich" 1934 s11
    3.  Fritz Schafer "Geopolitik und Volksschule" 1934 s18 Geopolitik を国民学校の教科にすることが大勢の意見とはならなかったが、このような認識は広く認められるものである。
    4.  Dietrich Klagges "Geschichtsunterricht als nationalsozialistische Erziehung" 1937 s9
    5.  a.a.O. s141
    6.  a.a.O. s172−173 そしてクラゲスによれば歴史教育の柱は、メルヒェン・英雄・神話であった。a.a.O. s177
    7.  R.Benze "Rassische Erziehung als Unterrichtsgrundsatz" 1937 s17
    8.  a.a.O. s18−19 ナチスの歴史教育の教科書については、藤沢法暎『ドイツ人の歴史意識教科書にみる戦争責任論』亜紀書房に詳しい紹介がある。

    <人種科>

     次に人種科(Rassenkunde)を見ておこう。歴史教育が科学性を無視したのに対して、人種理論は生物学・遺伝学を動員して努めて「科学的」であろうとした点で、ナチスの教育では特異な性格を示している。(1)
     1933年9月13日、プロイセン文相ルストがその訓令の中で、卒業試験で人種学・遺伝学を課すことを明示して以来、人種科が設定され、順次全学校体系で必修となっていった。(2)
     そこでは、人種科と遺伝学の結合、人種とドイツ人の運命、民族全体に対する責任感が説かれた。(3)
     人種科を教育の中心の一つにし、又、事実ユダヤ人撲滅の手段としたことこそ、他の反動思想や他国のファシズムと異なるナチズムの大きな特徴といえる。(4) しかも、人種科こそナチズムの教育である、というのがナチス自身の自己認識であった。
     人種の根拠と人種の認識こそナチス運動の核心的問題である。(5)
     人種が教育の基礎である。(6)
     教育の目的は人種・軍隊・指導者原理・宗教性である。(7)
     さて、ナチスの人種理論は次のような特質を持っていた。
     第一に、生物学的概念として人種を捉えたことである。シェムは「生物学としての人種学」(8) と呼び、「民族は人間の寄せ集めではなく、血と肉による生きた原理である」(9) と書いた。シュテムラーはさかんにラマルクの遺伝学を引用して、人種の遺伝的性質を述べたてた。(10) こうした生物学的把握の結果は、ユダヤ人排撃の仮借のなさとなって現れた。一方、この結果として、家系図を作ることが奨励された。(11)
     しかし、生物学を人種理論と結び付け、外に対して拝外主義の道具として用い、内に対してはユダヤ人追放の道具として使う、という世界観の提起の仕方がナチス内部で貫徹していたというと言い過ぎであろう。
     アンリッヒは生物学を教育内容のトップに位置づけながらも、家庭的要素(健康)、生物の生存条件の知識等のレベルで捉えており、人種論との関連では捉えていない。(12) 彼にとって、ドイツ民族性とは多分にフィヒテ的なものであって、文化的概念として把握されていた。それ故知的教授を軽視する多くのナチス教育論とは異なって、「知識」「能力」を教育の軸にしている。(13)
     第二に、反マルクス主義であったこと。ゲッベルスは、ユダヤ人間題は論議というより闘争であり、反ユダヤ闘争は反第二、第三インターナショナル闘争である、と書いている。(14)
     学校ではユダヤ人はいうまでもなく差別された。
     1935年9月14日の「帝国市民法(Reichsbürgergesetz)」でユダヤ人は、政治的権限をもたない被統治者とされた。就学は認められたが、しかし、行事などの参加は著しく制限された。(15) 就学をとにかくも認めたことがユダヤ人問題の困難点として認識された。しかし、国民学校から追放することはできないので、せめて中等学校からは追放すべきとヘンツェは主張する。(16)
     1937年7月2日には、私立ユダヤ人学校が禁止される。そして1938年11月15日には、ルストが学級の民族的分離を指令する。(17)
     これは実際のところ失業対策的な色彩をもっていた。当時、医者の48%、大学教授の50%、経営者の28%、劇場主の80%がユダヤ人であると、批判的に取り上げられていた。(18) こうして職業という切実な場面で反ユダヤ感情を醸成したのである。
     反ユダヤはドイツ人に対する恐怖をてこにした支配であった。反ユダヤの姿勢を貫かなければ、職業を失う、あるいは暴力をふるわれるという恐怖は、多くの学者・教師をナチス組織に加入させた。カール・シュミットはその代表的な例であろう。(19)
     さて人種の概念は「土」の概念と密接不可分である。
     「血と土」というナチスのスローガンは、「血」が「人種」であり、「土」が「生存圏」によって表現された。
     ところでナチスの教育概念としての「土」は、部分的には新教育運動の「郷土教育」の概念を利用したものであった。「大地の教育力」を巧みに利用した点で、ナチスの教育方法は卓越したものであったと言わざるをえない。
     ノールは郷土教育について次のように書いている。
     郷土は単なる教材以上のものであり、子どもの環境から生き生きとした統一を作り出す精神的営為なのである。この統一は子どもがそこに共属し、その中でくつろぎを感じるものなのである。土着性や伝来の風習や自明の郷土帰属意識が激しく崩壊していけばいくほど、ここでもそれに対抗する活動と精神的能力の新しい構築とがますます強く必要とされるようになってきた。ここにおいて学校教育における郷土ははるかに教科以上のもの、諸概念を発展させるための教授原理以上のものを意味した。郷土はそれ自体の価値において人間の生がそこにおいて満たされる重要な生の諸形式の一つとして認識された。(20)
     「土」は国家としては「領土」であるが、教育的には強力な教育カをもつ要因である。特に都市文明と不可分の関係で国民教育制度が組織されていると、一方で「大地」への回帰的郷愁が生じ、人々は「土」によってこそ教育されると感じるようになる。ナチスは以後見るように、この「土」の教育力を巧みに利用したのである。しかし、ナチスの「土」は基本的には国家的領土への征服意欲を表現したものであった。
     先述したように、現代は先進国家が、次第に「領土の欲求」から解放されつつある時代である。当初それは民族独立運動によって余儀なくされたものであったが、やがて国家の立脚点として「領土」以上に重要なものがあることを認識するようになってきたのだといえよう。
     そのような大きな歴史から見ると、ナチスは帝国主義国が最大限「領土」を求めた最後のあがきであった。言いかえれば、ナチスという断末魔を経て、先進国は「領土欲求」を捨てざるをえないことを悟ったのである。
     ナチスについて見ると、この「領土欲求」は教育に極めて大きな影響を与えた。「血と土」の教育が中心的理念だったからである。(21)

    <註>

    1.  こうした非科学の中の「科学性」を出発にしたのが、クリークであったといえる。クリークは「人問の成長を純粋に科学的に分析する学問が必要である」と主張しているが、この科学性の主張は民族と教育をテーマとしたが故に許容されたと考えるべきでろう。Ernst Krieck "Grundlegende Erziehung" 1934 s5−6
    2.  Hans Wenke a.a.O. s271 1935
    3.  Hans Wenke a.a.O. s271−272 1935
    4.  他に反動思想と人種理論の関係については二つの理解がある。ニュッセンはそれまでの反民主主義・愛国主義・反セム主義にナチスがつけ加えたのは人種理論・民主政治の排除・民族共同体である、としてナチスとしての独自性を主張しているのに対し、ブラッハーは「ナチズムのイデオロギーの二つの基本命題は明らかに前世紀以降のナショナリズムの中に潜んでいるのである。その二つの基本命題とは人種主義の教義であり、生存圏の理論である。」と述べて、継承性を主張している。Nyssen a.a.O. s19−20 ブラッハー『ドイツの独裁──ナチズムの生成・構造・帰結』山口定・高橋進訳 岩波書店 p902
       クラゲスは平和主義・アナーキー・リベラル・マルクス主義を誤ったイデオロギーとしてあげている。Klagges a.a.O. s15 シェムは、ドイツ民族と国際主義、英雄主義と平和主義、宗教と無神論、民族共同体と階級闘争を対置して、ナチズムの理念を説いている。Schemm a.a.O.s75
    5.  M. Staemmler "Rassenpflege und Schule" 1937 s5
    6.  Hans Schemm "Hans Schemm spricht seine Rede und sein Werk" 1935 s153
    7.  a.a.O. s171
    8.  a.a.O. s12
    9.  a.a.O. s37
    10.  M. Staemmler a.a.O. s9
    11.  Charl Schutz=Böhm 'Über Familienforschung, Volkstum und Rasse' in "Schule in neuen Staat" 1933/34 s35−37
    12.  Anrich a.a.O. s45−53
    13.  a.a.O. s37  進学は能力による、とアンリッヒは書いている。
    14.  Goebbels "Rassenfrage und Weltpropaganda" 1937 s13−14 フリックは「マルクス主義は人間的自然を認めないが、生物学的立場にたつ国民社会主義こそ学問に真実と自由を与える」と書いている。W. Frick "Student im Volk Völkischer Afugaben von Hochschulen" 1934 s12
       反ユダヤ主義と反マルクス主義が結びついてくる過程は、山口定『ファシズム』有斐閣選書1979
       エディンゲル『ユダヤ民族史』にはユダヤ人の社会主義者があげられている。トロツキー、ジノヴィエフ、カメネフ、スヴェルドロフ(以上ロシア人)、アイスネル、ランダウエル、レヴィネ(以上バヴァリア共和国建国の革命家)、R.ルクセンブルグ、ハーセ、ベルンシュタイン、ランスベルク、ヒルファディンク(以上ドイツ)などである。もちろんマルクス自身ユダヤ人であったが、こうした点をナチスは、攻撃材料としてあおったのである。エディンゲル『ユダヤ民族史6』石田友男訳 六興社 p52−53
    15.  Ottweiler a.a.O. s45
    16.  R. Benze "Rassische Erziehung als Unterrichtsgrundsatz" 1937 s192
    17.  Ottweiler a.a.O. s45
    18.  Blackburn op.cit. p142
    19.  その事情については、ベンダースキー『カール・シュミット論』お茶の水書房参照
    20.  ノール前掲 p128−129 ノールはもちろんナチス教育への批判意識をもってこの文を書いているのであるが、しかし、この郷土教育の説明は、ナチスの「土」の教育そのものである。
    21.  Blackburn op.cit. p120

    <ドイツ的数学>

     人種理論の「科学」の装いは「アーリア的学間」という形で醜悪な姿を見せることになった。これは、ナチスの生み出した最もグロテスクな文化の一つであろう。もっとも、アーリア的物理学について詳細な研究をしたバイエルヘンによれば、ナチスの最も高い指導層は、アーリア的学間には無関心であり、科学は政治と無縁であると考えていた。(1) しかし、アーリア的物理学なる学派が登場したのは、明らかにナチスの政策の結果である。更に、若い研究者がポストを得るためには、ナチスとの関係が必要であった。(2)
     アーリア的学間は教育にも影響を与えた。国民学校用の数学の教科書の目次を見てみよう。
       5年用
    1.  4年生の基礎的計算の反復と強化
    2.  どのようにして筋を像として表現するか。
    3.  分数計算からの復習と新しい内容
    4.  1/10 1/100 1/1000を学ぶ
    5.  単位 金 長さ 平面 体積 容積 重さ 温度 足し算 引算 かけ算 比較 序数 時間
    6.  比例算
         8年用
    7.  アドルフ=ヒトラーは荒れはてた地球を引き受ける
    8.  アドルフ=ヒトラーは窮乏からの騎士
    9.  最初の4年間で到達したこと
    10.  我々が消滅してもドイツは生きねばならない
    11.  国民のために健康を保て
    12.  保険の計算より
    13.  金の交換
    14.  再建の象徴としてのドイツの郵便
    15.  再建の象徴としてのドイツの鉄道
    16.  10幾何学
        〈2〉の細目
      1.  失業が除去される。
      2.  工業生産が増大する。
      3.  貿易が盛んになる。
      4.  農業生産が上昇する。
      5.  ドイツ国民の収入が向上する。
      6.  生活が改善される。
      7.  貯蓄が上昇する。
      8.  総統の道路が建設される。
      9.  民族共同体が犠牲的精神の中に保持される。
      10.  ドイツ民族戦線が工場を守る。
      11.  強力な軍隊が工場を守る。(3)
     5年生用はともかく、8年生(卒業クラス)の教科書は、とても数学の教科書とは思われない代物である。こうしたアーリア的数学の教科書には批判もあり、(4) 結局は学力低下を招かずにはおかないやり方への根本的疑間が出されるようになる。

    <註>

    1.  A.バイエルヘン『ヒトラー政権と科学者たち』常石敬一訳 岩波現代選書 p270−276 ウザデルは、ジェムの言うように、全ての科目で人種を教えるべきであろうか、と自問して「ja」と答えながら、しかし、民族によって条件付けられない科学がある、として「数学」をあげている。したがって、こうした点については単に彼らの思考ではなく、人間関係も絡んで主張されたと考えられる。Usasel a.a.O. s13−14
    2.  このことは大学の教員任用についてみるとよくわかる。1934年12月13日の命令で、次のような規定が出された。
      1.  Habilitation と Lehebefugnis は区別する。
      2.  Habilitation は学位である。
      3.  Lehrbefugnis は文相によって与えられる。
      4.  Privatdozent は廃止する。
         Friedrich Neumann 'Die Deutsche Hochschule' in "Erziehungsmächter und Erziehungshoheit im Großdeutschen Reich" herg.von R.Benze 1940 s178
         つまり従来大学の自治の範囲で与えられてきた学位と教授資格が分離され、学位は大学に残されたが、教授資格は文部省に移管されたのである。しかも純粋科学は不必要で、実際的科学(遺伝学)が必要であるとされた。
    3.  Nyssen a.a.O. s113
       フォッケの著書に紹介されている例をあげておこう。1935年の教科書より。
      • 国民が人口の上で現状維持されるためには、一家族は何人の子供をもたなければならないか。
      • 精神病院を一つ建設するのに六百万マルクの費用がかかる。一万五千マルクの住宅が、それで何戸建設できる計算になるか。
      • 近代的な夜間爆撃機には、1800発の焼夷弾が搭載できる。毎時2500キロメートルの速度で飛行し、毎秒1発ずつこれを投下していくと、全体で何キロメートルに渡って焼夷弾を投下することができるか。
      • なぜ、遺伝病をもつ子孫を防止しなければならないのか。  遺伝的に劣等な家族は、経験的に見て、遺伝的に健全な家庭に比べ、子供の数が多い。今、一つの国で、同数の、遺伝的に健全な夫婦(A)と、劣等な夫婦(B)がいたと仮定する。それらの夫婦がAグループ3人、Bグループ5人の割合でそれぞれ結婚適齢期の子供をもっているとする。その子供がそれぞれ3人、5人の子供をもっていくとすると、百年後、二百年後にはそれぞれのグループの人数の比率はどのようになっているか。
       フォッケ前傾 p121−125
    4.  Friedrich Drenckbahn 'Volkseigner Rechen-und Raumlehreunterricht' im Hiller a.a.O. s338 宮田は上級になる程、数学教育はイデオロギー的になったとしている。宮田前掲 p72

    <クリーク>

     ナチスイギオロギーの中心に「共同体」理念がある。ナチス教育の課題のひとつは「共同体」への人々の統合にあった。しかし、実は理念そのものの中に二律背反的な矛盾があった。その矛盾が少なくとも教育の面では、ナチスの崩壊を必然的に進めたのであった。
     その点を「共同体」への教育の中心的なイデオローグであったエルンスト=クリークで見てみることにしよう。
     クリークはワイマール体制の中で、教育科学の可能性を独自なスタイルで追求した教師であり、教育学者であった。意図的ないわゆる「教育」に限定せず、人聞の形成に関わる現象を広く、無意識の教育作用として析出したとされ、ナチス政権獲得以前に既に「現象学的教育学」として評価されていた。(1)
     無意識の行為、これが教育の最も基礎である。(2)
     このことは基本的には現代の教育作用の社会的拡大現象によっている。しかし、クリークはそうした教育科学の追求をやめ、無意識の教育作用にまで拡大した彼の視野を、「社会全体の教育」という概念に拡散させ、拡散させた社会を再び「民族」あるいは「民族共同体」という概念に集中させる。
     民族は人間生活の全体性(Totalität) であって、共同的完全性である。民族が社会的機構、秩序内容を決め、包括するのである。(3)
     クリークによれば、人間は「共同的存在(Gemeinschaftwesen)」である。母なる大地・集団・伝統を土台とする共同体(Gemeinschaft)を求め、(4) そして、その共同体の部分(Glied)になることが人間の本質である。(5)
     共同体の本質は民族(Volkstum)であり、民族とは言語・道徳・法・科学・教育・政治・宗教・芸術・経済を共通にする人々の集団である。しかし、最も基本的な要素として「人種(Rasse)」があり、「人種」を基本として民族は形成される。(6) 国民的なもの(National)は19世紀に形成されたものであり、民族的なもの(vökisch)こそ共通の生活存在である。 (7)
     ナチス革命はクリークにとって、こうした全体存在を実現したことを意味した。クリークは次のようにナチス革命の意義を書いている。
    1.  全体性(Gesamtheit)を打ち立てたこと。
    2.  青年の自発的な労働奉仕によって国家青年の育成を実現した。
    3.  全体の一部としての多様性を確認し、そして、その統一を実現した。(8)
     一方クリークにとって、教育学は教育現象を科学的に究明すべきものであり、単純にナチス教育に都合の良いように、結論を操作してよいものではなかった。既に指摘したように、現代の教育現象は社会のあらゆる面で、教育という行為が表出したことに特徴があり、クリークの教育科学は、そうした教育の全体現象を究明する、という意味でも「全体性」を目指していたのである。
     このような論理はある面で、平等を志向していたともいえる。「ラントヤールにはプロレタリア、地主の子どもなどいない。いるのはドイツ人の青年少女である。」という言葉にそれが現れている。(9)
     ところでそのような全体を統合し、一つの制度として組織するのは国家である。そして、国家は「共同的存在(Gemeinschaftswesen)」としての人間を統合するものではない。国家は明らかにゲマインシャフトではなく、ゲゼルシャフトだからである。ではクリークは国家をどのように位置付けていたのか。
     クリークは次の7点にまとめている。
    1. 中央地としての国家
    2. 権威・政治的問題の表現としての国家
    3. 教育者(Bildner)としての国家
    4. 訓育者としての国家
    5. 生活圏を秩序だてる存在としての国家
    6. 国家秩序に奉仕する芸術
    7. 全体の意識を保持する教育
    という国家の構図である。(10)
     ここでは明瞭に人間存在の外側にあり、他律的に人間を教育・秩序だてをする組織として、国家が位置付けられ、民族程の共感を示されていない。クリークにとってはゲゼルシャフトは、あくまで外的存在であったにすぎない。したがってクリークの教育組織は、勿論学校が排除されることはないが、「家庭」「青年運動」などの自然発生的な共同体、或いは「運動」そのもめの中に見出されることになった。
     「ナチズムとは運動である。」(11) とはクリークが繰り返し述べた言葉である。
     ここで既にクリークの矛盾、或いは結局ナチス体制の中で次第に疎外されていったクリークの側面が現れている。
     第一に、国家を二次的にみていたことは、クリークの場合ゲゼルシャフトヘの否定的な態度の現れであり、それが教育に関する場面では、陶冶についての消極性として現れるのである。ゲゼルシャフトはいうまでもなく「目的社会」であり、それぞれの目的に応じた能力形成を要請する。しかも「知的能力」が中心である。しかし、ゲマインシャフトヘの強い志向をもつクリークは、この面が教育理論の中に殆ど位置を占めていない。(12)
     第二に、このことと関連して、ゲマインシャフトとしての教育の発想から、クリークは学校よりも「家庭」「育隼運動」など、「全体」という概念を重視しながら、実は教育制度に関しては「拡散」させていった。ここでは「統一学校運動」が常に問題としていた「制度」はむしろ「統一」とは逆の方向をとらざるをえなかった。

    <註>

    1.  Messer a.a.O. s23
    2.  Ernst Krieck "Grundlegende Erziehung" 3 Aufgabe 1934 s12  宮原はクリークのこの点を高く評価しながら、クリークが1.人間相互の無意識な影響、2.意識的ではあるが、教育的意図をもたない影響、3.意図的な教育というように平板に並べ、その関連を追求していないことを批判しているが、少なくともナチスは宮原のいう「形成を意図的に組織する教育」を徹底的に押し進めたのだといえる。宮原誠一「教育の本質」『宮原誠一教育学著作集』1巻 p21
       ヒラーはヒトラーの演説を紹介している。「教育・劇場・映画・文学・ラジオあらゆる物を目的のために利用しなければならない」Hiller "Deutsche Erziehung im neuen Staat" 1936の序文 s12
    3.  Krieck a.a.O. s32
    4.  Erunst Krieck "Nationalsozialistische Erziehung" 1939 23 Aufgabe s49
    5.  Erunst Krieck "Nationalsozialistische Erziehung begrundet aus der Philosophie der Erziehung" 1940 s1
    6.  クローは書いている。「ナチス世界観とは民族全体の中の分岐に対する個々の責任のことである。」Oswald Kroh "Das kulturpolitische Wollen deutschen Gegenwart" 1937 s25 Krieck a.a.O. s37
    7.  Krieck a.a.O. s58−59
    8.  Schmidt-Bodenstedt 'Das deutsche Landjahr' im "Deutsche Erziehung im neuen Staat" s187
    9.  Erunst Krieck "Nationalsozialistische Erziehung" 1939 s22−23
    10.  Krieck a.a.O. s38
    11.  宮田光雄は、クリークが知識の教育を軽視したために、次第にナチスの中で勢力を弱め、やがてボイムラーに教育イデオローグとしての地位をとって代わられた、としているが、クリークの理論には確かにそうした弱点があった。宮田光雄「教育政策と政治教育」『思想』1981.5 p12−14

    <宗教と一般教養>

     ワイマールの統一学校運動が何よりも宗教問題で困難にぶつかったことは繰り返し述べた。それは、国民的統一を志向する統一学校運動には、統一の核となる理念、すなわち統合理念が必要であり、それは必然的にキリスト教か国家になったが、現実のキリスト教は宗派に分裂して国民的統一をもたらすことはできず、他方、「国家」がキリスト教を完全に駆逐するだけの理念にはなりえていなかったからである。ナチスはワイマール共和国よりは強力に指導したが、その取り扱い自体が矛盾を含んだものであり、結局同じ原因で挫折を余儀無くされた。(1)
     ナチズムの中には宗教に対して二つの方向があった。
     第一に、宗教を否定する方向である。ナチスの指導者はヒトラーを頂点とする絶対服従によって構成される「指導者原理」によって、支配を行っていたから、ヒトラーの上に超越的な存在を認める宗教をそのまま許容できないことはいうまでもない。したがってヒエラルヒーの明確なカトリックヘの敵対心が強かったのは当然であった。逆にカトリックからの抵抗が最も強かった。
     つまり神ではなく共同体に権威を認めるのが、ナチズムの原理であった。(2) しかし、見方を変えれば、絶対的価値基準を押し付け二自らを「相対化」しないという点で、ナチズム自身「宗教」であった。(3)
     第二に、宗教の有用性を認める考え方である。ヒトラー自身次のように書いている。
     信仰というものは、人聞を動物的な無為の生活の水準から高めるにあずかって力があるのだから、信仰は実際に人間の存在を確固としたものにし、安全にするために、貢献しているのである。もし人々が宗教教育を全廃してしまい、そして、宗教と等価値のものによって補うこともせず、今日の人類から宗教教育によって保たれている宗教的=信仰的な規律──それはその実際的意味では倫理的=道徳的であるが──を取り去ってしまうと仮定するならば、人々はその結果、人間存在の基礎が強く動揺することがわかるだろう。(4)
     ナチスの指導者は、宗教が服従心を養うという点で利用価値を認めた。シェムは人種・軍事・宗教を不可欠のこととしたし、(5) マウシャウゼンは、畏敬の念を育てる故、宗教に価値を認めた。(6) もちろん、ナチスが最大の敵とするマルクス主義が唯物論であり、その対抗上宗教を利用するのは言うまでもない。(7) したがって、ナチスにとって宗教はあくまで利用の対象であり、ナチス体制になって信仰心は確実に低下した。(8)
     宗教に対してナチスがとった最初の措置は、カトリック勢力との妥協(Konkordat)であり、(9) ドイツ福音教会法によるプロテスタント諸派の統制であった。(10) しかも、ドイツ福音教会法は、それまで実現せず、実現するはずもなかった一つの発想を内に含んでいた。それは、統一学校運動の中でも考えられた宗派の統一あって、それにナチズム的な民族主義が付加されていた。宗教的『均制化』も試みられたが、抵抗にあい失敗した。
     しかし、ワイマールの統一学校運動が結局越えることのできなかった宗派学校は、かなりの抵抗にあいながらも、ナチスの手によって統合された。このことは別の所で考察される。
     宗教とともに教育における重要な統合理念であった一般教養についてはどうだろうか。『わが闘争』の中では、必ずしも一般教養に対して全面否定でないことは既に述べた。しかし、後年ヒトラーは次のように否定している。
     一般教養と呼ばれているものにも、永遠にけりをつけることが肝要である。一般教養なるものは、リベラリズムが自己解体のために発見した、もっとも破壊的破滅的な毒物である。(11)
     このようなヒトラーの一般教養観は、次のような理解と結びついていた。統一学校はフランス啓蒙主義、フランス革命の産物であり、(12) ドイツ民族主義は、ドイツ観念論の産物である。(13) この二つが結びついてきたのであるが、1919年以降宗派的分裂の中で、ドイツ国民性は埋もれてしまった。(14) したがって、ドイツ民族主義を混合物の中から拾い出し、ドイツ的教養として再構成しなければならない。
     リベラリズムと結びつく一般教養は排撃された。(15) しかし、このドイツ的一般教養という試みは成功しなかった。フリック・ブレットナーの論文にその挫折がよく現れている。  ブレットナーによれば、中世において人文主義とはまずラテン文化のことであり、18世紀ドイツがそれを受容し、新人文主義となった時はギリシャ文化が中心で、それを基にドイツ観念論が生まれた。(16) しかし、ドイツ人文主義はギリシャ人文主義でも古典的なラテン人文主義でもない。我々の課題は新しい人文主義の形態を探究することである。(17)
     では、ドイツにおける人文主義はいかなる影響を与えたのか。
     第一に、人間を単なる理性的存在としてではなく、芸術と学問を含めた全体性として把握したこと。
     第二に、合理主義。
     第三にギムナジウムの形成である。(18)
     ブレットナーによれば、ドイツ人文主義は新人文主義の合理主義という弱点を乗り越えるものでなければならない。リヒターやケルシェンシュタイナーは、いずれも知識学校を変えなかった、という理由で不充分とされる。(19) そして、皮肉なことに、「全体性」は古典文化の中にあるという結論に到達するのである。(20) そこでは、ドイツ民族主義は位置づかない。
     以上みたように、学校制度における代表的な統合理念である「宗教」と「一般教養」はいずれもナチス教育の中にあっては、中核的位置を占めることはなかった。しかも、国民社会主義の教義は、学校全体系の理念として全国民に受容されるには、粗雑すぎる内容でしかなかった。それ故、ナチスのとった統合方法は、青年運動という私的団体(ヒトラーユーゲント)の領域を公的組織に、権力でもって押し広げ、様々な実践活動の中で統合するやりかたであった。

    <註>

    1.  Joachim Maier 'Zur Auseinandersetzung zwischen Staat un katolischer Kirche in Baden 1933−1945 in Fragen der Schule und des Religionsunterrichts' Heinemann a.a.O.s228  我が国でナチスの世界観と宗教について原理的検討を加えたのは、南原繁である。南原は次のように両者の矛盾を指摘した。「近代精神の発展の極まるところ文化の危機を現出し、これが克服を目指して興ったナチスがヨーロッパ文化の更生の発展たるよりは寧ろその伝統からの乖離と背反をもたらすに至ったものとして、一つの新たな危機の原因を作るものと謂ふべく、ここに人はヨーロッパ文化の前に置かれた現代危機の『両極性』を認め得るであろう。蓋し決定的なのは、彼等が1日きロマン主義に対して新しく立てた民族の理念が『種』の核心にまで掘り下げられたところの、寧ろ生物学的・種族的価値の強調に在ることである。その結果は人間に於ける精神的価値と自然的衝動との恐るべき混清を来たさざるを得ないであろう。」南原繁『国家と宗教』1942 岩波書店 p284−285
    2.  Usadel a.a.O. s15 クラゲスも宗教はナチス的倫理を弱めるものとして、否定している。Klagges a.a.O. s15−17
    3.  Blackburn op.cit p77
    4.  ヒトラー前掲 p215
    5.  Schemm a.a.O. s124
    6.  Mauschausen a.a.O. s24
    7.  Oswald Kroh "Das Kulturpolitische Wollen deutscher Gegenwart" 1937 s10−12
    8.  H. Scholz a.a.O. s44 ナチス体制になって gottgäubig が増大したと書いている。
    9.  Ottweiler a.a.O. s33
    10.  ラウシュニング『永遠なるヒトラー』舟戸満之訳 p65
    11.  Heinrich Deiters "Die deutsche Schulreform nach dem Weltkriege" 1935 s41
    12.  Deiters a.a.O. s57
    13.  Deiters a.a.O. s86
    14.  Joseph Wagner 'Hochschule und Wissenschaft im neuen Deutschland' Elomerich 'Die fremden Sprachen und das Ziel der neuen Erziehung' in "Schule und neuen Staat"
    15.  Fritz Blättner 'Die Humanismus im deutschen Bildungswesen' in "Die Erziehung" 1937 s193−194
    16.  Blättner a.a.O. s200
    17.  Blättner a.a.O. s215
    18.  Blättner a.a.O. s252−254
    19.  Blättner a.a.O. s272−73


    <徹底した男女差別の政策>

     統一学校運動は言うまでもなく、重要な一要素として「男女平等・男女共学」を課題の一つとしていた。もちろんザウペの整理にも入っている。しかし、その割には統一学校運動の過程で、論議を呼ぶことがなかった。それは、「人類最初の差別であり、また最後まで残る差別」と言われる女性差別の性質上、議論になりにくかったこともあろうし、まだ社会主義勢力が「教育論議」の中で確固とした地位を築くことができなかったこともあろう。他方、女性の社会的労働への参加の増大と共に、自然に女子の進学率が上昇し、女子にも進学の門が少しづつ開かれ始めたことも、とりあえず「共学」が論議にならなかった理由がも知れない。
     しかし、ナチスははっきりとこれまでとは違う「女性政策」を打ち出した。
     絶えず、女性は民族・血の重要な守り手であることが、強調された。そして、ナチスの政策は来るべき世界大戦への準備であったから、人口の増加が至上命令であった。したがって、まず女性に期待されたものは、健康でたくさん民族の兵士を生むことであった。1939年にヒトラーユーゲントの顧問医師が発表した十戒がある。
    1.  君の身体は国民のものである。国民あってこそきみは存在し、身体についての責任を国民に対して負うている。
    2.  つねに清潔を心がけ、身体を大切にし、鍛えなければならない。それには日光と外気と水が有益である。
    3.  歯を大切にせよ。強く丈夫な歯は誇りとするに足る。
    4.  なまの果物と野菜をきれいな水でよく洗ってから、たっぷりと食べよ。果物には、熱を加えると失われてしまう栄養素が含まれている。
    5.  果物ジュースを飲むこと。コーヒーはコーヒー中毒者に任せておくがいい。君には必要ない。
    6.  アルコールとニコチンを避けよ。それらは君の成長と労働力を阻害する毒である。
    7.  肉体鍛錬に励め。それは君を健康にし、抵抗力を強める。
    8.  毎晩少なくとも8時間の睡眠をとれ。
    9.  事故に備えて救急法を学べ。それによって君の仲間の命を救うことができる。
    10.  健康であることが君の義務である。この言葉が君の全ての行為を支配しなければならない。(1)
     こうした意見は、既婚の女性が職業を持つことを極端に嫌い、それをワイマールやマルクス主義の悪い影響であるとする。(2)
     そこで家庭こそ民族の基礎であるということから、ドイツの女性はドイツの母になるようにとされ、(3) 女性を家庭に戻し、教育においてそうした価値観を教えこんだ。健康への取り組みはナチスの政策の中で、唯一後生に誇るに足るものである、という評価もあるが、もちろんこれは健康な兵士を多数育てる必要があるということによっていた。
     女性が不健康になることは、直ちに民族の危機であった。(4)
     ヒラーは次のように書いている。
     国家の課題は民族の最良の部分を発展させることにあり、教育の課題は健康の増進である。(5)
     こうした考えの帰結として、女子に知的教育はいらないという政策が、男子より徹底されたことはいうまでもない。大学生の内、女子の割合を10%以内にする、という制限が設けられたりした。(6)
     しかし、現実のドイツの経済状況は女性の労働を抜きに成立するものではなかった。農村では離農が激しく、農業従事者は非常に不足していた。後に述べるラントヤールは、実にこの農業危機への対処だったのである。また戦争体制に入るや、あらゆる職場で労働者が不足し出した。どのようにナチス幹部が婦人を家庭に閉じ込めて、出産に専念させようにも、ナチス自身が作り出した体制がそれを許さなかった。(7)
     ヒラーは女子教育の目的を、家族としての教育と職業教育をあげているが、(8) こうした状況の反映であった。

    <註>

    1.  H.ブロイエル『ナチ・ドイツ 清潔な帝国』大島かおり 訳 訴人文書院 p155
    2.  Wilhelm Frick "Die deutsche Frau im Nationalsozialistischen Staat" 1934 s6
    3.  a.a.O. s14 Gertrud Sschwerdtfeger=Zypries 'Der weibliche Reichsarbeitsdienst' in "Erziehungsmächte und Erziehungshoheit im Großdeutschen Reich" herg. von R. Benze 1940 s134
    4.  Baege "Die biologischen und sozialen Ursachen der Entartung" 1936 s15
    5.  Friedrich Hiller "Deutsche Erziehung im neuen Staat" 1936の序文。s13
       しかし、他方でナチスが男女の性的交渉をむしろ奨励し、ブルジョア的道徳を軽蔑したことは、見逃すべきでない。
    6.  ブロィエル前掲 p71
    7.  Georg Tidl "Die Frau im Nationalsozialismus" 1984 この書物には、飛行機整備など、男性にしか不可能とされがちな職場での、婦人労働者の写真が多数掲載されている。
    8.  Friedrich Hiller 'Mädchen Erziehung' im "Deutsche Erziehung im neuen Staat" s184

    (3)学校制度改革


    <権力争いの手段としての学校>

     教育内容のナチス化については大きな対立がなかったのに、学校制度については部分的に対立が生じたのは、前者がイデオロギー上のことであって、『わが闘争』の内容が反復、敷衍されていたに過ぎず、更にイデオロギー自体が単純で深い議論の対象になどなりようがなかったのに対し、学校制度についてはヒトラーの絶対意志がなかったことに加えて、前時代からの様々な社会的対立、論争が継続しており、ナチスといえどもそれを無視することはできなかったからである。そして、指導層の権力争いがからみ、全体としての学校軽視によって、統一学校運動に反映した社会の要求は大きな痛手をこうむった。そして、ユダヤ人や社会主義者の弾圧、追放により、学校教育の質の低下によって生産現場が十分に機能しなくなり、財界から不満がだされた。(1)
     そうした結果として、学校制度についての異なった理解が生じた。
     シェムは、教育の目的をあくまでナチス世界観の形成におき、ナチス教員連盟の任務を健全なナチス精神をドイツ人の中に形づくることとした。学校は教授学校から性格形成学校に転換しなければならない。(2) 「学校はナチス世界観の全体的表現である。」という言葉がこの立場をよく表している。(3)
     それに対して、相対的に知識、あるいは学問的教科を保持しようとしたのがルストであったということができるだろう。ルスト自身は知的な人物ではなかったと言われており、それ故他の指導者にその権限をよく侵犯されたのであるが、とにかくこの立場を代表していた。
     ナチスの知的教授の軽視が明白に社会の中で弊害として現れた時、知識の復興を唱えたのがウザデル(Usadel)であった。ウザデルによれば、ナチスの教育はHJ・SA・SS・労働奉仕団に偏しており、(4)そこでは知識の教授の裏付けを欠いている。それ故、学校の比重を高めなければならない。(5) 特に生物教育と(6) 政治教育が必要であり、(7) 知識がナチスヘの服従を阻害するとみる者があるが、自らの意志によって民族に奉仕するということこそ、民族共同体を強固にするのである。(8)
     しかし、こうした論理は決して最後まで貫徹することはない。ナチズム自体が科学と矛盾するし、また矛盾することを肯定しているからである。
     こうした権力争いの結果、教育機能は、様々なナチス指導者によって自分の組織にもっていかれ、学校は縮小されることになった。

    <註>

    1.  Ottweiler a.a.O. s211 宮田前掲 p26
    2.  Schemm a.a.O. s168 ドイツ数学を説いたティートイェン(Tietjen)なども同じ立場であろう。Nyssen a.a.O. s65
    3.  H. Mauschausen a.a.O. s65
    4.  Georg Usadel "Wissen, Erziehung, Schule" 1937 s7
    5.  a.a.O. s33
    6.  a.a.O. s17
    7.  a.a.O. s22
    8.  ショルツによれば、ウザデルは14歳までの統一学校を主張した。Harold Scholz 'Die Schule als ein Faktor nationalsozialitischer Machtsicherung' in "Erziehung und Schulung im Dritten Reich 1" herg. Manfred Heinemann 1980 s36
       宮田光雄が、ナチスの教育の矛盾として、資格付与機能の軽視をあげ、ウザデル、ボイムラーがその復権を主張した、とするのは賛成できない。資格付与というのは、学校が社会的選抜の手段となるにしたがって、個人からみると学校が社会的地位の保証をある程度与えてくれるということであって、国家あるいは経済の側から労働力の質を高めることは、相対的に独自の機能とみるべきであろう。

    <学校縮小>

     ナチスの教育政策は知的教育の否定であるので、とりあえずは学校教育の縮小として現れた。(1)
     これは学校機能の縮小という直接的な側面と、入学者の様々な方法による制限などによって実施された。
     年限の短縮・時間数の削減・進学条件として勤労奉仕を義務づける・定員の削減及びそれを利用したユダヤ人排除などである。
     1933年4月25日法は早速そうした政策を実施しようとしたものである。
     この法は次のように規定している。
     第一条 義務学校を除くあらゆる学校において、又大学において生徒並びに学生の数は、根本的教育が確実であり且つ職業の受容に足る程度まで制限されるべきものである。
     第二条 地方当局は各学年の初めに当たって、各学校が新たに収容すべき生徒数及び各学部が新たに収容すべき学生数を決定する。
     第三条 生徒、学生の数が職業に対して特に甚だしく過多なる学校及び学部においては、1933年中に適当なる状態になすために、過度の厳格さを加えざる程度にて、既に収容せる生徒及び学生の数を低下させるべきである。
     第四条 新収容に際しては、1933年4月7日付け、専門的官吏再興法令に於てアリアン系統ならざるドイツ国民の数は、各学校の生徒及び各学部の学生の総数に対して、ドイツ国民人口に対する非アリアン族の割合以上に昇らないように注意すべきである。この割合数は全国に対し一律に確定せられる。(2)
     アビトゥアを制限し、農村では義務でない学校め生徒をできるだけ早く労働に就かせる一方、ユダヤ人の制限を目的として、この法が出された。(3)
     次の例は大学入学に関する1935年2月9日のルストの訓令である。
    1.  ドイツにおける高等学校は、身体的・心意的及び精神的に特に優れたる素質を有するドイツ青年をして、将来指導的位置に立って政治的・文化的及び経済的国民生活を共に構成する能力を有する者たらしむように教育することをもって任務とする。
       それには、卒業試験にいたるまでの高等学校に於ける全学年を通じての注意深き選抜を要する。
    2.  高等学校の卒業証書を有する者は、6箇月の労働奉仕をしたる後に初めて大学入学を許可される。
       大学を志願する際には、卒業証書及びその他必要なる証書の他に、6箇月の労働奉仕の完了と同時に授興される義務記帳を添付して提出すべし。(4)
     更に1938年2月2日のルストの教員養成大学入学に関する訓令は、ドイツ民族の血統を証明する証明書を提出することを義務付けている。(5)
     直接学校制度を対象とせずに、学校機能を縮小したのは、ヒトラーユーゲントであった。ヒトラーユーゲントは重要な教育機関として位置づけられ、しかも学校の時間を相当程度奪った。このことは次にみる。
     1933年8月9日、レフラーのプランが出された。それは「血と大地の原理」によって学校を形成し、3年の基礎学校から、6年の中間学校、9年のギムナジウムが続くという案であるが、(6) これは国民学校の事実上の縮小を提案したものである。
     このような学校縮小に対して、ワイマール時代に活躍していた教育学者達はほとんど大学内部に沈潜し、発言することはなかったが、勇気ある執筆をする者もいた。ブリットナーは、年限の短縮について、内容・方法の合理的な改革がなされない短縮では、将来科学や法律の分野で人が不足することになるだろうと警告している。(7)

    <註>

    1.  もっとも知育を当初からそれなりに重視していた者もいた。W.フリックは、ナチズムこそが真実と自由を与えるのに対して、マルクス主義は人間の自然的属性を認めない、という理由で非科学的とした。科学的真理はナチスにとっては必要ないというのが、決まり文句であったから、これは確かに異なったニュアンスをもっており、それなりの合理主義者であったフリックはこのように確信していたのかも知れない。W. Frick "Studenten im Volk. Völkisch Aufgaben von Hochschulen" 1934 s12
    2.  文部省『教育制度調査』第6輯 p480 この法律はヒトラーとフリックの名で出されている。
    3.  Nyssen a.a.O. s137
    4.  文部省『教育制度調査』第7輯 p480
    5.  同上第10輯 p247
    6.  Ottweiler a.a.O. s18−19 オットヴァイラーはルストによって実現されていった、と評価している。しかし、その意味は優秀な者の3年での進学のことであり、国民学校が3年制になったわけではない。ヘンツェは中等学校の改訂教授要網が、学校の非都市化を押し進めたと評価している。Benze a.a.O. 1940 s40
    7.  Flittner 'Schulzeitverkürzung und Studiendauer' im "Erziehung" 1937 s147 フリットナーは、ニュルンベルク党大会以降、国民は群衆になったと書き、家族にも、自然にも職人にも受け入れられない新しいプロレタリアートが出現しているので、真の意味深い精神的な自由が必要である、と書いている。W. Fritner 'Freizeit' im "Erziehung" 1937 s32−34

    <中等学校の改編・短縮>

     中等教育についても、論議の基本は学校の縮小であった。基礎学校を3年にするか4年にするかという問題とからんで、ギムナジウムを9年にするか、8年にするかが議論されたが、結局長い就学期間を嫌うところから、8年に落ち着くことになる。つまり、ナチスとしては先述したようなナチズムの世界観が生徒に確実に教えこまれさえすれば、制度は大した問題ではなく、むしろ中等段階の教育としては青年組織の方が重視されていたのである。(1)
     しかし、中等学校の改革としてまず取り組まれたのは、選抜原理の変換であった。
     1935年3月15日、「選抜について」の訓令がだされる。
     遺伝学と民族学教授の目的・目標は、科学的な基礎を越えて専門・生活の全ての学科に先だって教え、ナチズムの意識を呼び起こすことである。
    1 全ての現存する問題の関係・原因・結果についての遺伝学及び人種と結び付いた理解を獲得すること。
    2 ドイツ民族の生活と運命及び国家指導の課題にとって、人種と遺伝がどんな意味をもつかについての理解を呼び起こすこと。
    3 青年の中に民族の全体性に対する責任感、つまり人々に対し、ドイツ民族に属しているという、北方民族の担い手としての精神を呼び起こし、それでもって、生徒の意識の上に、ドイツ民族性の人格的性質を自覚させること。
     この目的のために、中等学校の選抜では遺伝学と人種学を重視することを命じたのである。(2)
     そして3月27日の訓令で、ギムナジウムヘの移行の際の選抜を強化し、性格と肉体の状態を、知性より重視することが明確にされた。(3) このことはほとんど同じ内容で、1937年2月22日法で確認されている。(4) ただし、中等学校の選抜は、むしろ別のエリート養成の学校の選抜との関連でみることが必要であろう。
     さて1937年に中等学校の改革が始まることになる。
     まず中等学校が三つの基本的形態に統合されることになった。
    1.  古典的ギムナジウム
    2.  自然科学上級学校
    3.  現代語上級学校
    である。そして中等学校の年限が大きな問題となったが、8年制として中等学校は一年短縮されることになった。(5)
     1938年1月29日のルストの訓令は、
    1.  9年制の中等学校は8年制にする。
    2.  中等学校は国民学校に接続する。
    3.  男女共学はナチズムに反する。
    というものであった。(6)
     また1938年には、6年制の中間学校を国民学校の4年から接続し、4年制の上構学校を国民学校の6年に接続するものにした。(7)
     ヘンツェによれば、ナチスは中間学校にあまり関心がなかった。それはおそらく、国民学校のように全ての国民に関係するというのでもなく、また中等学校のようにエリートを育てるわけでもなかったからであろう。(8)
     しかし、1938年7月1日の訓令で、計画的な経済秩序に適合させるという観点で、中間学校の編成をおこなった。民族の分岐に合わせるという意味で、中闘学校を、第六学年級で始まる基本的中間学校(grundständige Mittelschule)と国民学校の中に、四年間の中間学校と同等の学級を作ることにしたのである。 (9)
     この方針転換はルストの露骨な権力要求を伴っていた。7月1日の訓令は、中間学校の設立・廃止には、必ずルストの許可が必要であると規定していたのである。(10)
     こうした動きの中で、ハウプトシューレ(Hauptschule)がにわかに脚光をあびてきた。ハウプトシューレはオーストリアの統一学校運動の中で、主張実施されたもので、今日の前期中等学校のような学校であるが、ボルマンが1940年10月に導入を主張し、以後ボルマン、ルストによって推進されていくことになる。
     41年4月28日にルストが導入を発表、国民学校の4学年級より初め、中等学校に行くことができない者が通う4年制の学校として位置づけた。農業・商業・手工・家政など職業教育を主にするとし、6月25日には全国に導入することが提起された。41/42年度には144校設立され、教師は国民学校の教師が兼務する形で始まった。(11)
     しかし、5−6年制のミッテルシューレとの関係が問題となったのは当然であろう。ナチスの教育改革としては、前期中等教育の原理に基づいたとされるハウプトシューレ(Hauptschule)が重視されるが、これとても年限短縮を兼ねた中間指導者層の早期選抜が主眼であった。(12)
     以後戦争末期まで、この勢力争いが続くことになる。

    <註>

    1.  先のHiller編の書物についてみても、青年運動についての文はあるが、中等学校についての文はない。年限の短縮については常に持ち出されていたといってよい。'Zur Kürzung der Lehr=und Lehzeit' in "Die Deutschschule Monatschrift" 1939 s152
    2.  Benze a.a.O. 1940 s218−219
    3.  Nyssen a.a.O. s137
    4.  Nyssen a.a.O. s138
    5.  Ottweiler a.a.O. 1940 s37 これは早く職業生活に入らせるためであるとされた。Benze a.a.O. s225
    6.  文部省『教育制度調査』第10輯 p199
    7.  Ottweiler a.a.O. s22
    8.  オイティンでは実科ギムナジウムでは、ナチスの影響力が弱かったが、最近力をもってきた、と報告されている。'Schreiben von dem Regierungspräsidenten in Eutin an den Minister der Kirchen und Schulen, Oldenbung 19.2.1934' in "Kleinstadt und Nationalsozialismus Ausgewählte Dokumente zur Geschichte von Eutin 1918−1945" hrg. von Lawrence D. Stokes 1984 s621
    9.  Benze a.a.O. s204−206
    10.  文部省『教育制度調査』第10輯 p194−195
    11.  Ottweiler a.a.O. s100−104
    12.  選抜には親の意思は無関係とされた。Ottweiler a.a.O. s125

    <制度の国家的統一>

     度々指摘しているように、ナチスは教育政策において全国的統一を常に重視した。その実態は統一とはほど遠いものであることが多かったが、義務教育制度については、かなりそれを実現した。また一般的に文部省の設置が国家的統一をもたらしたとされている。
     義務教育については、ワイマール憲法の継続教育の義務規定が実施されていない州があったり、就学開始年齢が州によってまちまちであったのを、1938年7月6日の法(Reichsschulpflichtsgesetz)によって、6歳からの8年間に統一された。(1) これは、内容的にはナチズム教育とは関係はなく、国家的に統一するという点が目的そのものであった。(2)
     しかし、やはり義務教育の構造を大きく転換させた面をもっていた。
     つまり、西欧の公教育の重要な留保点であった「家庭教育の自由」と「私立学校の自由」とが大きく制約されたことである。
     第五条で次のように規定している。
    1.  全ての児童は、他の方法によるその教育及び指導に対する配慮がなされない限り、国民学校に通学する義務がある。
    2.  国民学校の最初の四学年の間は、国民学校在学に代わるべき他の方法による授業は、ただ例外的にしかも特別の事情によってのみ許容される。(3)
     例外的に許容される以外は、国民の全てがナチスの直接的な統制下にある「国民学校」に通学することを義務づけられたのである。
     そして全国一律の規定であることによって、州毎の相違を認めないことにし、更に職業教育の義務規定を示した。これも年160時間と全国的に統一した。
     家庭による代替を認めず、国家が用意する教育を受けなければならないことにしたことは、西欧資本主義国家の中では、異例の措置であったといえよう。(4)
     予備学校の廃止も同じ意味を持っていた。
     予備学校は、第一節でみたようにワイマール初期においても統一学校運動内部で完全に意見が一致しており、1920年の法律で廃止が決定していたが、留保条件があったことと、私立の存在は部分的に認められ、1925年の法律で事実上残されることになった。特に私立の予備学校はナチスの成立時に存在していたのである。しかし、1936年4月4日の法によって私立も含めて全て廃止されることになった。(5) ナチスが、私立の予備学校を廃止することにした動機は、ナチズムによる教育が、私学や家庭教育では徹底しないからであり、(6) これは私学全体に向けられた攻撃であった。ナチズムは原則的に私立学校を認めないのである。
     教育行政はきわめて特徴的な動きをした。
     ナチスは強力な国家統一を進めたから、当然行政機構も統一した。周知のようにドイツでは教育行政権限は各州にあり、国家の統一的な教育行政機構はなかった。それに対し、1934年5月1日帝国文部省を設立し、(7) 統一的な行政機構の基盤を形成することにした。
     以後の秩序形成の歩みを、ベンツェによってみておこう。
     1936年4月4日私立予備学校の禁止
     1936年12月2日プロイセン国民学校財政法
     1938年1月29日出席についての訓令
     1938年4月13日中間学校財政法
     1938年4月21日中等学校の要綱
     1938年7月6日帝国義務教育法
     1938年8月8日体育教育についての訓令(8)
     それ以前ナチスが政権を取ると直ちに、ルストがプロイセン、バルトナックがザクセン、ジェムがバイエルンの文相になり、古い役人の除去にかかる。(9) 6月15日から7月1日までに23州の内12州で視学が交代させられた。そして1934年には古い視学は一掃されていた。(10)
     しかし、統一はここまでである。帝国と州の関係は実際上は混乱の連続であった。
     1934年1月30日法で、教育に関する権限が州から帝国へ委譲されることになったが、1934年2月2日の法で、州が行使権、帝国が指導権ということになり、5月1日の帝国文部省の設立になる。プロイセンの文相ルストが帝国文相を兼ねるが、7月29日法で、プロイセンの職業教育、専門学校についてはプロイセンの事項になっているのである。(11)
     こうして、権限の移行が頻繁になされ、また内務省との関係も複雑になっており、それぞれが勝手に教育に関する命令を出していく、というのが実態であった。職業学校は労働戦線との関係も生じた。更に以下みるように、学校組織自体が分化し、そこに個人的な権力争いが絡んで、行政は全く統一性を欠いてしまった。

    <註>


    1.  Ottweiler a.a.O. s94
    2.  Wenke a.a.O. 1938 s453−456
    3.  文部省『教育制度調査』第10輯 p181
    4.  Benze "Jahrbuch des deutschen Zentralinstituts für Erziehung und Unterricht Bericht über die Entwicklung der deutschen Schule 1933−1939" s58,89 ヘンツェの著書はワイマールでは憲法の義務就学規定は実効的ではなかったとして、初めて実効的な義務教育制度が完成した、と誇っている。a.a.O. s159
    5.  Ottweiler a.a.O. s93
    6.  Wenke a.a.O. 1936 s384−386
    7.  Wenke a.a.O. 1934 s442
    8.  Benze a.a.O. s55
    9.  Ottweiler a.a.O. s47
    10.  Ottweiler a.a.O. s51−53 言うまでもなく、視学が選ばれる際「教育的識見」ではなく、ナチス的「人格」が重視された。ナチスによる州教育行政当局の制圧については、Horst Diere 'Das Reichsministerium für Wissenschaft, Erziehung und Volksbildung Zur Entstehung, Struktur und Rolle der zentralen schulpolitischen Institution im faschistischen Deutschland' "Jahrbuch für Erziehungs-und Schulgeschichte" 1982
    11.  Benze a.a.O. s46

    <教師の問題>

     教師政策はある面では最も強く押し進められた分野であった。これは徹底的に教師をナチスの影響下におくことによって、青少年を獲得しようということである。
     教師政策の柱は二つあった。
     第一に、現職教師の「均制化」である。
     教師の「均制化」はかなり徹底して実施された。ナチス教員同盟に加入すること、反ナチス的な言動をする教師の免職が主な手段であった。
     フォルケの著作にはそうした事例が多数紹介されているが、ここではオイティン(Eutin)の例でみてみよう。オイティンでは1932年からナチスの勢力が増大し、6月16日の選挙で多数派となった。その影響は体育や競技を重視するということですぐに現れたが、(1) 33年になると、上級視学のエルンスト・レーマン(Erunst Lehmann)がナチスの攻撃を受けるに至る。
     ナチスの教師、ヘルマン・ディークス(Hermann Diecks)によるレーマン攻撃から事態は発生した。ディークスは公務員の再任用について、現実にマルクス主義的な教師が多いので、試験をすべきという意見書を内相にあてて提出した。 (2)
     レーマンが狙われたのは、ナチスとのいざこざで、ナチスメンバーの一人が死ぬに至った事件を起こした「国旗団(Reichsbanner)」のメンバーだったからである。レーマンは弁明書を書いた。
     1919年から1930年に「民主党」に入っており、1929年から31年まで「国旗団」のメンバーだった。しかし、事件の後は辞めており、その後落書きなどの嫌がらせがあったが、問題は起こしていない。(3)
     しかし、レーマンは本当には改心しておらず、「国旗団」の信念を捨てていない、というD博士の報告で、(4) 結局その意見がいれられ、免職となる。(5)
     このように教師や教育関係者に対する「均制化」は、執拗になされた。
     ナチス教員同盟への加盟工作も繰り返し行われた。
     1933年4月20日の連盟の通知は、ナチスヘの協力、つまり全ての学校にヒトラーユーゲント、その他のナチス青年組織への加盟者がいなければならないとして、その報告を求めた。そして協力できない教師は免職させると脅している。(6)
     しかし、これはすぐには効果が現れず、5月18日の文相の命令は、教師にSA,HJなどで活動することを求め、(7) 5月23日のナチス教員連盟の声明は、教師の連盟への加盟を訴えた。(8)
     1933年6月6日から7日に、マクデブルクでは教員組織がナチス教員同盟に統一された。(9) そして1933年12月1日には、ドイツ教育者共同体(Deutsc Erziehergemeinschaft)が内務大臣の提唱によって設立され、ここには大学・中等学校・職業学校・私立学校も含まれていた。(10)
     レーマンを辞職させたディークスの報告では、初めの半年は教師にナチズムを浸透させるのに苦労したが、集会を開くことが効果的であり、最近ではかなり浸透した。しかし、教師を30人辞めさせたとしている。(11)
     このように「均制化」は徹底的に「脅迫」を手段として実行された。
     第二に、教員養成機関の改編である。
     ワイマール共和国では、初等教員の養成は基本的に中等教育機関によって行われていた。プロイセンでは1924年に中等学校レベルの認定試験が実施され、1926年に教育アカデミーが設立されたが、高等教育機関とはされていなかった。ナチスによってまがりなりにも教員養成大学(Hochschule für Lehrerbildung)が設立されたのである。(12)
     1938年1月29日に大学(Hochschule)での教師養成のための試験規定がだされた。それによれば、1.教育学、2.人物、3.遺伝・人種学、4.民族学、5.一般となっており、ナチズムの観点が重視されていることがわかる。(13)
     シェムはバイエルンの中等学校に対して新たな教員養成を重視し、特に宗教・ドイツ語・歴史・生物・体操を重視した。(14)
     教員養成は、ワイマールにおいても第一節でみたように、教師団体の間で意見が一致せず、統一的養成が実現しなかった。つまり、アカデミックな養成にするか否か、という対立がナチスにも持ち越されたのである。しかし、ワイマールの時の対立が、中等教員・初等教員という教員の階層を背景とした対立であったのに対し、ナチス体制下では教育分野における指導者の権力争いという性格が強かった。オットパイラーによれば、教員養成大学(Hochschule für Lehrerbildung)を主張するルストと、教員養成のための中等学校を主張するシェムの間に対立があったとされる。事実、各々の影響地域で自らの主張に合う教員養成機関を設置していくのであるが、(15) しかし、二人の教師観に殆ど違いはなかった。つまり、教師に必要なものは、ナチズムの世界観であり、自由な学問研究などの必要性は全く感じていなかった。(16)
     ただし、ナチスは厳格に実施した「均制化」政策によって教師を大量に追放したために深刻な教員不足が問題になっていた。(17) 更に中等学校・大学の縮小政策をとったため、補充そのものが困難な状態であった。(18) いくつかの施設を創ったものの、教師に学問はいらないという党指導者層(ヘス、ゲーリング、ボルマン)の意向も反映して、中等程度の施設に傾いていき、当面の不足はヒトラー=ユーゲントから補充するという乱暴な措置が取られた。(19)

    <註>
    1.  'Verfügung des Staatsministeriums Ordenburg, an die Regierung Eutin, 13.7.1932' in "Kleinstadt und Nationalsozialismus Ausgewählte Dokumente zur Geschichte von Eutin 1918−1945" hrg.von Lawrence D.Stokes 1984 s593(以下本資料集を Dokumente Eutin と略)
    2.  'Bericht von Regierung Eutin an den Minister des Innern, Oldenburg' Dokumente Eutin s614
    3.  'Erklärung des Oberstudienrats Dr.Erunst Lehmann, Eutin 19.9.1933' Dokumente Eutin s614
    4.  'Erklärung des Studienrats Dr.D Eutin 9.9.1933' Dokumente Eutin s615
    5.  'Bericht von der Regierung Eutin an den Minister des Innern, Oldenburg 9.9.1933' Dokumente Eutin s616 レーマンの免職は10月1日であった。
    6.  'Eine Mitteilung an die Lehrerschaft' Dokumente Eutin s609
    7.  'Verfügung des Ministers der Kirchen und Schulen, Ordenburg 18.5.1933' Dokumente Eutin s609
    8.  'Überführung des Landeslehrervereins in den NS-Lehrerbund' Dokumente Eutin s607
    9.  Hans Wenke a.a.O. 1934 s233 1936年には97%の教師がナチス教員同盟(NSLB)に組織され、その内32%がナチ党員であった。Ottweiler a,a.O. s 27
    10.  Wenke a.a.O. s233
    11.  'Tätigkeitsbericht des Schulrats Diercks für die Zeit von Herbst 1933 bis Ostern 1935' Dokumente Eutin s629
    12.  Hans Wenke a.a.O. 1937.s75−7 ただし、これらは、 Grenzehochschule と呼ばれ、しかも農村には設立されなかったとヴェンケは書いている。もちろん教師の再教育も取り組まれた。Wenke a.a.O. 1935 s40
    13.  Rudorf Benze "Jahrbuch des deutschen Zentralinstituts für Erziehung und Unterricht Bericht über die Entwicklung der deutschen Schule 1933−1939" a.a.O. s172
    14.  Wenke a.a.O. 1935 s272
    15.  Ottweiler a.a.O. s199 後にはルストを攻撃することと結び付いて、大学での教員養成に、ヘス、ゲーリング、ボルマンらは反対している。Ottweiler a.a.O. s245−246
    16.  ルストの主張は Rust 'Rede des Reichs=und Preuss. Ministers für Wissenschaft, Erziehung und Volksbildung Rust bei der Einweihung der landgebundenen Hochschule für Lehrerbildung in Lauenburg (Pommen) am 24. Juni 1933' Hiller a.a.O. 44−45 シェムはSchemm a.a.O. s58−60
       1942年段階で作られていた教員養成所(Lehrerbildungsanstalt)は次の通りである。
          
      男 子女 子
      プロイセン5357
      バイエルン 8 1
      ザクセン 6 4
      ヴユルテンベルク 3 1
      バーデン 3 1
      チューリンゲン 3 1
      パラウンシュバイク   7 1
      ヘッセン 2
      メグレンベルク 1
      オルデンブルク    1 1
      アンハルト 1 1
      ブレーメン 1
       Ottweiler a.a.O. s251
    17.  国民学校で教師の不足は大きく、オットパイラーによれば、34年に夏1736人、冬2755人、35年に4229人増加しても不足であり、39年には上構教師課程を導入した。Ottweiler a.a.O. s224
    18.  例えば先述の1933年4月25日の法。
       中等学校についていえば、過剰を批判する声は頻繁に出されていた。一例として、Alfred Jentzsch 'Um die Vereinheitlichung des höhren Schulwesens' in "Die Erziehung" 1934 s162
    19.  Ottweiler a.a.O. s246−248

    <ナチスのエリート学校>

     以上述べたように、ナチスは確かに全国的に学校制度を統一したのであるが、しかし、一方党独自の学校を設立することによって、その統一性を壊した。
     通常その時代のエリートを養成する教育機関は、当時の最良の教育を準備するものであり、その中からかなりの確率で有能な後継者が育っていくのであるが、ナチスの場合は、教育それ自体が乱暴であり、しかも権力を保持したのが12年間という短い期間であったので、ナチスのエリート教育機関から最高指導者は全く育っていない。では再生産に必要な十分な時間があれば、時代を担うナチスのエリートが育ったのか。それはかなり疑問である。ヒトラーが存在しないナチス政権維持があり得たかが、かなり問題であるし、ナチスの学校で育った人材が社会を支えることができたとは思いにくい。それほど以下にみるエリート養成機関はナチス高官の玩具のようなものであった。
     ナチスエリート養成の学校は4種類作られた。(1)
     1933年の「騎士団の城」「ナポラ」、1937年「アドルフ=ヒトラー学校」、1941年「ローゼンベルクの高等学院」である。
     「ナポラ」(国家政策的教育施設Nationalpolitsche Erziehungsanstalt)は1O−18歳の青年のための全寮制の学校で、陸軍幼年学校の伝統に結び付くとされ、(2) またイギリスのパブリックスクールとの類似性も言われた。軍事的な教育が主流を占め、特に戦争勃発後増設されていって、30校にもなった。女子用も作られている。1942年には一挙に10校も設立されていることが報告されている。(3) これは純然たる国立の新たな中等学校であり、卒業資格がアビトゥアとしての意味を持つので、全く異質の新たな中等学校体系が作られたことになる。
     1933年4月に最初の学校が作られたが、性格(charakter)精神(geistig)肉体(körperlich)を総合的に教育し、ドイツ精神と指導性を延ばし、軍事的に寄与することを目的としていた。
     入学は自由意思であり、財政的には殆ど国家が支え、あくまで適性で判断するとした。(4)
     カリキュラムは基本的な部分はドイツ上級学校を受け継いでいたが、それにナポラ独自のものが加わった。時間配当は表1のようになっている。

         表1 ナポラのカリキュラム(5)
    01 U1 02 U2 03 U3 W  V  Y  
    ドイツ語
    歴史
    英語
    ラテン語
    郷土
    生物・人種科  
    物理・化学
    算数・数学
    宗教
    体育
    図画
    音楽
    国家政策
    特別活動1010


     ナポラは寄宿学校であるので、午前6時40分から夜の10時までの日課が決まっている。詳細は省くが、午後のほとんどは水泳・徒歩・作業・球技など体を動かすことになっている。(6) そして政治教育、芸術(特に音楽)、祭りが重視されていることが、ドイツ上級学校としては特色があるが、ナチスのエリート教育機関としての特色が現れているのは、外国との交流がかなり頻繁に実施されていることである。例えば、1939年にはバルカン・ベルギー・デンマーク・フィンランド・オランダ・アイスランド・イタリア・ユウゴスラビアとの交流が報告されている。パブリックスクールとの交流はとりわけ重視された。(7)
     次にアドルフ=ヒトラー学校を見てみよう。ナポラが国家の組織であるのに対して、アドルフ=ヒトラー学校は党の組織であった。しかもここでも権力争いの結果として、ナポラに対抗して、あるいはルストに対抗して設立されたのである。
     フレッサウはアドルフ=ヒトラー学校を次のように規定している。
    1.  アドルフ=ヒトラー学校はヒトラーユーゲントの組織であり、それによって責任をもって指導される。教材・教授計画・教師は承認された全国指導者(Reichsleiter)によって決められる。
    2.  アドルフ=ヒトラー学校は6年制である。通例12年制に接続する。
    3.  アドルフ:ヒトラー学校への入学は、ドイツ人の青年であることがはっきりと保証され、権限のある高官によって推薦された青年に限られる。
    4.  アドルフ=ヒトラー学校の教育は無償である。
    5.  学校監督は地区指導者(Gauleiter)の権限である。
    6.  卒業決定後、アドルフ=ヒトラー学校の生徒に対して、国家・党の全ての道が開かれる。(8)

     12−18歳の学校で党の後継者を育てることを目的としていた。費用も党によって支えられ、国家ではできないことを党がする、という実態であった。
     選抜の基準は、「指導者としての資質をもち」「遺伝病質をもたず」指導者に推薦されたものが、肉体的・政治的選抜の後に入学を許可された。(9)
     以上の二つの学校への入学に、社会的出自は関係ないとされたが、実際の入学者は80%がブルジョワ的中間層であった。(10)
     「ナポラ」の社会的構成を見ておこう。
    1937年1941年
    知的職業 51人 37人
    官吏・管理職  53人 31人
    警官・SS 20人 17人
    商人 32人 17人
    農業 13人  5人
    職人  7人  2人
    労働者  −  −

     「騎士団の城(Ordenburg)」は、「ナポラ」や「アドルフ=ヒトラー学校」の卒業生の中から、将来のナチスエリートを育てるために、人種学・イデオロギー教育を受けるものとして、設立運営された。
     特に東方政策と密接な関連で、ナチス大帝国のためのエリート養成機関であった。(12) 親衛隊の重要な補充機関であった。
     ローゼンベルクの「高等学院」は教育をナチスの指導者が個人的な権力欲を満足させた好例であろう。ナチズムのイデオロギーの守護神をもって自ら任じていたローゼンベルクが、イデオロギー形成・管理の中心機関として設立しようとしたのが、「高等学院(Hohe Schule)」であった。
     ローゼンベルクはルストに次のような書簡を出している。
     高等学院はナチズムの世界観の研究・教授・教育の最上級の機関となる。党の指導者達の要求によって建設され、保持されるが、ナチス党の高等学院ではなく、全体の高等学院なのである。その成果はナチズムの理念が問題になる限りは、党と国家のために役立てられる。私は、多くは単科大学に密着している総合大学からは独立した施設を設立したいと意図している。そうすることによって、アカデミックな後進の動員によって高等学院を導き、また我々の世界観の新しい学問生活の具体的な課題によって単科大学を指導することを、共に助けえと信じるからである。(13)
     しかし、ローゼンベルクが他のナチス指導者から軽視されていた、という状況と、ナチスの大学政策はむしろ大学それ自体を均制化することに置かれたこと、(14) そして大学を管掌する文部省の反撃等によって、この「高等学院」は殆ど現実的な意味をもつことができなかった。
     こうした学校はもちろんナチズムの教育と軍事力の強化に奉仕したが、表向きは、平等な血・平等な信頼による仲間としての「全ドイツ共同体」の理念の教育を押し進める必要が説かれた。それはマルクス主義が今は断たれているとはいえ、再びでてくる可能性があるからである。(15)

    <註>

    1.  ブラッハーは、ナチスの教育がイデオロギー教育と、党によるエリート教育の二重性をもっていたことを指摘している。『ドイツの独裁』 p471
    2.  ブラッハー前掲 p476
    3.  Horst Ueberhorst "Elite für Diktatur Die Nationalpolitishcen Erziehungsanstalten 1933−1945 Ein Dokumentarbericht" 1980 Jungmann誌の報告 s108−109
    4.  Gustav Gröfer a.a.O. s70  本論文によると、1940年当時21校4000人であった。
    5.  Ueberhorst a.a.O. s187
    6.  Ueberhorst a.a.O. s188−189
    7.  Ueberhorst a.a.O. s299
    8.  Flessau a.a.O. s16
    9.  ブラッハー前掲 p478
    10.  Gerhard Armhardt 'Schulpforte im faschistischen Deutschland der Bruch mit einer 400 jährigen humanistischen Bildungstradition' in "Jahrbuch für Erziehungs-und Schulgeschichte" 1982 s135
       ベンデイクス・リプセットはドイツの労働者は下降移動が多く、その不安が中産階級をナチズムに結び付けた、と分析している。リプセット・ベンデイクス『産業社会の構造』1956 鈴木瓜訳 サイマル出版 p34
    11.  ブラッハー前掲 p480 東方政策はナチスの教育のほとんどの場面で、意識されていた。
       Wenke a.a.O. s294 ここではプロイセンで始まったラントヤールで、東方植民者を育てることが、目的になっていることを紹介している。なお1935年にラントヤールに75%が参加している、とヴェンケは報告している。Wenke a.a.O. 1935 s362
    12.  Reinhard Bollmus 'Zum Projekt einer nationalsozialischen Alternativ Universität : Alfred Rosenbergs "Hohe Schule"' in "Erziehung und Schulung im Dritten Reich" s125 この論文には、ローゼンベルクとルストの管轄争いの状況が詳細に紹介されている。
    13.  ブラッハー前掲 p480
    14.  Rudolf Proksch 'Der Erziehungsafutrag der NSDAP' in "Erziehungsmächte und Erziehungshoheit im Großdeutschen Reich" herg. von R. Benze 1940 s218

    <農村での実情>

     村瀬はナチスの支配が実際には貫徹していなかったということを、様々な例で説明しているが、統一学校についても実例をあげている。
     ナチス政府は統一小学校(Gemeinschaftsschule)を導入するために、1935年以来宣伝を強化してきた。しかし、バイエルンでは農民の気分が相当に動揺していたとする。(1)
     ミュンヘンと上バイエルン大管区ナチス党指導者アドルフ・ワグナー(Adorf Wagner)は、1937年2月24日の布告で方針を出す。
    1.  統一小学校は、カトリック小学校と新教小学校が並存しており、また住民も混ざって住んでいる所に限って設置する。
    2.  統一小学校を設置するのは町村長である。
    3.  ナチス党は党員が結集しているナチス教員同盟を正面に押したてて、多数が提案を支持するように活動すべきである。
    4.  父兄の支持は署名または一般投票によって表明されるものとし、その際ナチスによる国政指導と統一小学校の支持とが一致する点を明記すべきである。(2)
     村瀬は更に工一バーマンシュタット郡での署名を求める文面を示しているが、貴重な資料であるので、長いが全文引用しよう。
     私は、自分の子どもの学校における教育が、宗教的不和を起こすように誤用されたくない。
     私はドイツの小学校、すなわち民族共同体の小学校において、宗教の授業が同一の授業時間に宗派に分離され、かつ生徒と宗派を同じくする教員によって授業されることを希望する。
     その他の学科の授業についてはドイツの若者はいっしょになって、強大で独自で、反ボルシェビキ的なドイツを目標として、教育されることを欲する。
     私はドイツの小学校、すなわちドイツ民族共同体の小学校において、すべての子供達が平等に扱われ、両親の名前だの身分だのによって区別されないことを欲する。
     私はこの重大な時期にあたって総統を助ける。なぜならば、共同体精神がすべての者の共有財産になっている現在においては、ドイツ民族の学童教育にとっては、ただ一つのスローガンしかないことを私は知っているからである。そのスローガンとは『一人の総統、一つの民族、一つの学校』Ein Führer, ein Volk, eine Schule である。(3)
     村瀬はこの成果はナチスの運動にも関わらずまったく不十分であったという。
     聖職者が激しい抵抗運動を展開し、一般住民は聖職者とナチス教員・村長・ナチス指導者との間で激しい動揺をきたし、次々に意見を変えていった。
     いくつかの事例を村瀬はあげているが、まとめると次のようになる。
     アウフゼス1937年9月に署名が行われ、賛成した13名が牧師の説得で撤回したが、村長の説得で再び賛成した。
     ピルケロイド党員までが反対運動をした。
     ドウリューゲンドルフ33名の父兄が反対し、党指導部が一人一人呼び出して説得した。
     フランケンフェルス新教62%、カトリック44%が賛成投票。
     ムッゲンドルフ反対票が多いことが予想され、まだ投票していない。(1937年11月26日現在)
     ボルフェルト、出頭しない者は賛成したと見なして、96%が支持したと発表。(4)
     次にティーフェルダーの研究によってビュルテンブルクの例を見てみよう。
     ビュルテンブルクははじめてゲマインシャフトシューレを実施したところであるとされているが、(5) これは州文相のメルゲンターラー(Mergenthaler)の活動に負うところが大きい。すでに彼は1933年10月に「宗派学校ではなく、ドイツ教育をすることが必要であり、宗派学校はドイツ民族共同体に反する」と述べ、(6) 教会の抵抗に対しては議論さえ封じて、1936年4月4日にジュトゥットガルト・ヴァイリンドルフにゲマインシャフトシューレを導入した。(7)
     そして、10月には98.8%がゲマインシャフトシューレに通っていると宣言することができた。(8)
     いうまでもなくナチスがゲマインシャフトシューレに固執したのは、ナチズムの世界観を子どもに注入するためであった。したがって、メルゲンターラーは宗教教授の干渉に乗り出した。1937年4月28日に政令を出し、キリスト教はナチズムに反すること、ナチズムの世界観を学校で教えなければならないことを強調した。(9) そして1938年には世界観教授の要項を発表するが、結局教会も消極的にせよそれを受け入れざるをえなくなった。「公民教育」という理由で合理化したと、ティーフェルダーは評価している。
     次にオイティンの例で見てみよう。  内相の命令で1933年8月2日に、学校の教材原理が指定されている。
    1. 学校共同体・学校秩序が重視されること
    2. 自然な結合とドイツ的人種特性(土地と血)
    3. 民族的義務(アルコール)
    4. 国家的社会的教育としての青年団
    5. 民族生活共同体としての家庭
    6. 生存圏としての狭い故郷
    7. 民族共同生活の一部としての職業
    8. 民族共同体の事項としての経済
    9. 1918年以来のドイツの欠乏
    10. ドイツの成長(ナチス革命)
    11. 生々するドイツ国民国家
    12. ドイツ帝国への回帰(10)
     しかし、確かにこうした命令は学校で忠実に実施されたわけではなかった。
     1936年の校長ラングマークの報告によると、国民学校七年級で宗教教授が中止されておらず、1930年の要綱で授業が実施されている、とされている。(11)
     以上三つの事例で見ると、確かにナチスのゲマインシャフトシューレはスムーズに実現したわけではない。しかし、ナチスに抵抗したのは、これらの例ではカトリックの神父であって、民衆ではなかった。資料に現れる民衆は、ナチス指導者と神父の間で動揺している。そして、神父達の論理はこの時点でも伝統的な「教育の自由」なのであった。

    <註>

    1.  村瀬興雄『ナチス統治下の民衆生活その建前と現実』東京大学出版会1983.1.31 p202 Gemeinschaftsschule を統一小学校と訳すのは、村瀬の訳であるが、ここではそのまま使用する。ヴェンケも各州で問題になっていることとして、ヒトラーユーゲント・宗教教授・民族科をあげている。Wenke a.a.O. 1934 s293
    2.  村瀬 前掲 p202−203
    3.  同上 p203
    4.  同上 p204−207 以上の状況はH.フォック『ヒトラー政権下の日常生活』に簡略に紹介されている。出典は村瀬と同じくブロッシャートの資料集である。なおヘンツェは3分の1がゲマインシャフトシューレになった、と書いている。Rudorf Benze "Jahrbuch des deutschen Zentralinstituts für Erziehung und Unterricht Bericht üer die Entwicklung der deutschen Schule 1933−1939" s76
    5.  Jorg Thierfelder 'Die Auseinandersetzungen um Schulform und Religionsunterricht im Dritten Reich zwischen Staat und evangerischen Kirche in Würtemburg' in "Erziehung und Schulung im Dritten Reich" s230
    6.  a.a.O. s232
    7.  a.a.O. s235
    8.  a.a.O. s236
    9.  a.a.O. s237−238
    10.  'Verfügung des Ministers des Innen, Ordenburg 21.7.1933' in Dokumente Eutin s611
    11.  'Schreiben von Riktor Langmaack, Knabenschule Eutin, an den Schulrat Diecks, 14.4.1936' in Dokumente Eutin s629 ディークスは国民学校の宗教教授については、実態がつかみにくいと書いている。'Tätigkeitsbericht des Schulrats Diecks für die Zeit von Herbst 1933 bis Ostern 1935
       ルストによる1937年4月10日の国民学校の教授指針では、宗教教授については留保している。文部省『教育制度調査』第10輯 p171

    (4)青年運動と教育的課題

    <ナチス青年運動の意味>

     20世紀は青年運動が自立した時代であった。ドイツ大学などの学生運動はあったとしても、社会を縦に貫く青年運動は19世紀末に起こったのである。ナチスはあらゆる政治団体の中で最も巧みに青年運動を利用したということができるだろう。
     ノールは第一次世界大戦前後の青年運動のもつ雰囲気を次のように書いている。
     青年運動はドイツ民族のなかに生き生きと流れていた理想主義的なその大きな社会的潮流のなかに流れ込んだ。そして当時のあらゆる改革的、革命的運動は青年運動の中に共鳴するところを見いだし、逆に青年運動からそれらの運動に炎が広まっていったのである。(1)
     ではその社会的基盤はどこにあったのだろうか。
     この数十年間、家庭が崩壊し、親方と徒弟の生活共同体が崩れ、一定しない工場労働によって余儀なくされる転居のために故郷が失われ、聖職者からその感化力を次第に奪っていき、教会のしきたりが解体する、という文化危機が強まり、またそれに代わって野放し状態の未成年者の賃金労働と映画や俗悪な小説や遊戯場などの精神的代償物とのまったくの悲惨さが明かとなってきたが、それがそうなる程、学校という共同体を離れた後の青年を新しい共同体へと導くという課題が一層はっきりとしていった。(2)
     ノールはこのようにして生まれた青年運動が、自立的なものになり、したがって他の大人の運動に従属することはできなかった、と書いているのであるが、(3) しかし、ノール自身がおそらく痛いほど理解していたように、ナチスは青年運動を徹底的にナチス運動に組み込み、利用したのであった。
     ナチ党の中に青年グループができたのは、1922年2月であったが、実際にナチスが政権を取ることが明確になってくる以前は、2万人程度の小さなグループに過ぎなかった。しかもその構成は労働者階級の出身が多数で、かなりの失業者を含んでいた。圧倒的に中等学校の生徒が多かった「ブント」と著しい対照をなしていた。(4)
     ヒトラーユーゲントが強大な力をもつようになったのは、自身の魅力ではなく、完全にナチス党が政権を取り、政権維持の立場からヒトラーユーゲントを活用したからに他ならない。したがって、ナチス青年運動はナチス教育改革の終着駅であった。
     ではナチス青年運動の意味はどういうことであったのか。
     第一に、青年の統合方法として、徹底的に感性及び肉体を利用したことである。カウフマンは体育がもっとも広い基礎であると説き、(5) その具体的実践として、軍事に慣れることの活動、射撃、自動車などを紹介しているように、(6) 体の鍛練が教育方法の中心であり、こうして肉体だけでなく、共同性と指導性を獲得していくとされたのである。(7) 女子の団体であるBDM(Der Bund Deutscher Mädel)でも三分の一をナチズムの学習に、三分の二を体育にすべきとされた。(8) これは短期的には著しい効果をあげたが、しかし、真の知性をもった青年の心を捉えることは、困難であった。
     第二に、公共性の原理が完全に破壊され、公的組織が私的組織にとりこまれたことである。体の鍛練のための活動は一方で、労働奉仕・援農などを含み、労働徴発としての意味ももっていた。そして、労働コンテストもそこで実施された。(9) 公と私の癒着は1936年12月1日付けのヒトラーユーゲント義務化法によって制度化された。
     第三に、選抜原理の改編であった。統一学校運動は、あくまで学校を選抜機構として認定し、それにふさわしい内容を盛り込もうとしたのであるが、ナチスはそれらをほとんど無視した。才能より重要なことがある、(10) 人を行為によって評価する、(11) という原則によって学校の進学そのものが、ヒトラーユーゲントでの評価が大きな意味を持つようになった。更に、ナチスが独自にエリート養成のために設立した別体系の学校が設立され、(12) 学校体系そのものが分岐することになった。これは多く青年運動と結合していた。アドルフ=ヒトラー学校はライとシーラッハによって主導権が握られていたのである。
     ベンツェは教育制度の統一性注について次のように書いている。
     個々の学校の間での移行は可能である。全体として、初期の統一学校という考えからは離れており、学校の様式は特別の教育、職業目的の調整によって、互いにますます分離してきている。統一は今日では全ての学校様式の特性の外的除去が求められるのではなく、世界観の「均制化」とすべての教師、すべての教育運動の一貫性によって求められている。(13)
     つまり、統一性を与えるものが実は青年運動だったのである。

    <註>

    1.  ノール前掲 p102
    2.  同上 p103−104
    3.  同上 p104
    4.  ウォルター・ラカー『ドイツ青年運動  ワンダーフォーゲルからナチズムヘ』1962 西村稔訳 p236 しかし、1932年のポツダム大会では、1O万人の参加者があり、結局ヒトラーユーゲントの魅力に青年が引かれたのではなく、ナチスの行動力にひかれた。
    5.  Günther Kaufmann "Das kommende Deutschland. Die Erziehung der Jugend im Reich Adolf Hitlers" 1940 s82
    6.  a.a.O. s88−93
       ヒトラーユーゲントで射撃で表彰された人は
        1936年    302人
        1937年   6415人
        1938年  25850人
        1939年  50000人と、急増している。
    7.  Peter Claus Hartmann 'Jungendbewegung und naitonalsozialistische Bildungsvorstellung' in "Bildung und Gesellschaft" hrsg. von O. Anweiler 1972 s51
    8.  Baldur von Schirach "Die Hitler-Jungend Idee und Gestalt" 1936 s99  具体的日課、訓練内容については竹内真一『青年運動の歴史と理論』大月書店 1976
       体育とならんで健康教育が図られたこともみのがせない。Baegge "Die biologischen und sozialen Ursachen der Entartung" 1936
    9.  Schirach "Revolution der Erziehung" 1938 s65
    10.  A. Schaller 'Was wollen wir in der N.S.D.' in "Schule im neuen Staat" s1
    11.  Kroh a.a.O. s20  ヘンツェは次のような選抜基準を掲げている。
      1. 肉体的選抜
      2. 性格的選抜
      3. 精神的選抜
      4. 民族的選抜
      5. 個々の決定
       Rudorf Benze "Jahrbuch des deutschen Zentralinsituts für Erziehung und Unterricht Bericht üer die Entwicklung der deutschen Schule 1933−1939" s20−21
    12.  Horst Ueberhorst "Elite für Diktatur" 1980
    13.  Benze a.a.O. s37

    <ヒトラーユーゲントの歩み>

     ヒトラーユーゲントは1925年プラネン(Planen)で、ナチス最初の青年組織として設立された。1926年のワイマール党大会で、ヒトラーユーゲントの名が定められ、グルーバー(Kurt Gruber)が全国指導者になった。(1) これまで女子はいなかったが、1929年女子部が設けられた。(2)
     1932年にシーラッハが前面に登場し、1933年4月5日に青年運動の主導権を握る。
     ヒトラーユーゲントは、ナチスの主要な教育組織となった。(3) しかし、それは常に学校を司る人、例えばルストなどとヒトラーユーゲント関係者との権限争いによって、綱ひきがなされていた。
     ヒトラーユーゲントの目的をシーラッハによって見ておこう。
     ヒトラーユーゲントは青年がナチ運動にやがて入っていくために育っていくところである。(4)
     シーラッハによればヒトラーユーゲントのメンバーは80%が職業をもっている。(5) そういう意味でヒトラーユーゲントは学校より進んだ段階であり、継続学校である。(6) しかし、知識は不用であり、(7) むしろ特に指導者になるものは、「むこうみずな奴」に育てる必要がある。(8)
     その教育内容の柱は、世界観教育・スポーツ・奉仕ということになる。
     そしてこれらの活動を保証するために、各地にハイム(Heim)が作られていった。(9)
     ワイマールは極めて多くの青年を組織して、青年運動を発展させてきた。もちろんナチス体制になっても、それらの青年団体は活動を継続しようとした。
     キリスト教の青年団体との間には多くの問題が発生した。
     1933年6月17日にシーラッハが帝国青年指導者になったが、その日「ブント」は解散させられている。(10) ショル兄妹が旧ブントのメンバーとともに、種々の活動をして、精神的な抵抗をするように、多くの青年が同じ行動をとったが、結局ヒトラーユーゲント内の密偵によって摘発されていく。
     1933年12月に帝国青少年指導者シーラッハとプロテスタント教会帝国監督ルードビッヒ・ミュラーが会談し、「プロテスタント少年団のヒトラーユーゲントヘの編入に関する協定」を結んだ。そこで形式的にはプロテスタント少年団がヒトラーユーゲントに編入するということになり、プロテスタント少年団員であるためには、ヒトラーユーゲントに加盟していなければならないとしたが、3割の団体はヒトラーユーゲントヘの編入を拒んで、事前に解散した。(11)
     またヒトラーユーゲントに加盟したものも、できるだけキリスト教の活動を優先させるようにした。(12)
     カトリックの場合は7月20日のコンコルダートで保護されることになっていたが、実際にはカトリック青年団にとどまる者は、様々な迫害を受けた。(13)
     そもそもヒトラーユーゲントの側には、宗教活動を保証しようというような考えはなかった。(14)
     こうして青年組織はほぼ完壁に「均制化」された。(15)

    <註>

    1.  Heine St&uunml;nke 'Die Hitlerjugend' in "Erziehungsmächte und Erziehungshoheit im Großdeutschen Reich" herg. von R. Benze 1940 s79
    2.  Lotte Becker 'Der Bund Deutscher Mädel' in "Erziehungsmächte und Erziehungshoheit im Großdeutschen Reich" herg. von R. Benze 1940 s95
       なお女子部の目的は次のようなものであった。
      1.  広く運動をすることのできるように肉体的に形成する。
      2.  健康な人間によって、強い民族が生まれ、こうした認識を通して肉体の保証、人生の知恵が現実のものとなる。
      3.  人生の諸形態の文化的課題を実践する。
      4.  適性、才能、興味を労働共同体の中に適切に位置づける。
       Benze a.a.O. s109
    3.  山口定はヒトラーの言葉として次のように紹介している。「幼児は幼年団に入る。少年はヒトラーユーゲントに入る。ヒトラーユーゲントの若者は次に突撃隊、親衛隊並びにその他の団体に入る。この突撃隊員と親衛隊員たちはいつの日か勤労奉仕団に入り、そこから軍隊に入る。この国民の兵士は運動の組織、つまり党と突撃隊、親衛隊とに帰ってくる。したがって、われわれの国民は残念ながらかつてそうであったような、堕落した状況に陥ることは決してないであろう。」ここには徹底した行動による管理の発想がある。山口定『ナチ・エリート』中公新書1976 p238
    4.  Baldur von Schirach a.a.O. s176
    5.  a.a.O. s114
    6.  a.a.O. s171
    7.  a.a.O. s49
    8.  a.a.O. s147
    9.  Alfred Freyberg 'Schullandheime und Jugenderziehung' im "Deutsche Erziehung im neuen Staat" s176
       1933年の時には次のようなハイムがあった。
       男子中等学校  95
       女子中等学校  37
       中間学校     7
       国民学校    61
       特殊学校     7
       職業学校     8
       各種同盟    34
       大学       2
       外国の学校    9
       フライベルクはこれらのハイムがリベラルであることを問題視し、ナチズムの教育を徹底しておく必要があるとしている。
    10.  ラカー前掲 p244
    11.  フオッケ前掲 p42
    12.  同上 p44−48 ショル兄妹もブントの仲間と活動したことを、フィンケは紹介している。
    13.  同上 p52−53
    14.  Baldur von Schirach "Die Hitler-Jungend Idee und Gestalt" 1936 s39−41
       シーラッハは、プロテスタントの側で、1.プロテスタント青年団は、ナチズムの国家的理念を認める、2.体育は国家的体育として教える、3.プロテスタント青年団の会員は、ヒトラーユーゲントの奉仕にならって奉仕活動を行う、ということを認めた。そしてシーラッハにとって、宗派のことなど問題ではなく、ドイツのみが問題であった。
       ルストは宗派的対立をさけるべきという立場から、指針をだしている。Wenke a.a.O. 1935 s225
    15.  ラカーは「『画一化』は完壁であり、ただ若干の亡命者と、ドイツに留まりながら体制と行動をともにしない方を選んだ人々だけが例外であった。」と書いている。ラカー前掲 p250
       村瀬の評価は少なくとも、青年に関しては成り立たないと考えられる。

    <ヒトラーユーゲントの義務化と労働奉仕>

     ヒトラ一ユーゲントを軸として青年の組織を統合した後、ヒトラーユーゲントはあくまで私的組織でありながら、国家組織になっていく。国家によって保障された様々な義務に包まれていくことになるのである。
     まず制度化されたのは、ヒトラーユーゲントが使いうる「時間」の確保である。
     1933年8月26日にプロイセンではルストによって、週2回ヒトラーユーゲントが自由に使用できるようにした。それが各州に踏襲されていく。(1) こうして学校とヒトラーユーゲントと家庭は、子どもの時間の奪い合いをすることになる。もちろんヒトラーユーゲントの優勢は常のことであったが。
     1934年6月7日の政令では、「教育は学校、家庭、ヒトラーユーゲントで行う」とされ、土曜日はヒトラーユーゲント、日曜日は家庭というように時間的な割振りが決められた。(2) そして12月にそれが制度化された。(3)
     しかし、8月1日の政令では、学問的教授の時間削減は最大限避けなければならないとし、ヒトラーユーゲントに属していない生徒は学校で授業を受ける、と規定した。(4)
     そして、ヒトラーユーゲントはやがて義務化されることになる。
     1936年12月1日の法の概要は次のようなものであった。
    1.  帝国内の全青年はヒトラーユーゲントに統合される。
    2.  家庭・学校を別として、全ドイツ青年はヒトラーユーゲントにおいて、肉体的・精神的・倫理的にナチズムの精神において国家・国民共同体への奉仕のために教育される。
    3.  ヒトラーユーゲントにおける全ドイツ青年の教育の課題はNSDAPの青年指導者に委託される。(5)
     こうしてヒトラーユーゲントは義務化されることになったが、シーラッハはヒトラーユーゲントを学校の上に置き、ヒトラーユーゲントこそ最も重要な教育組織であるとした。(6) また、この法が宗教的グループの半合法的地位に終止符を打ったことも重要な意味を持った。(7)
     また義務は青年にとっての義務だけではなく、地方にとっての義務にもなった。1939年1月30日の法は、ヒトラーユーゲント用のハイムの設置義務を市町村に課したのである。(8) そして1939年4月6日、家庭と学校以外の教育は全てヒトラーユーゲントの所轄であることが、明言された。(9)
     ヒトラーユーゲントの義務化によってどのような影響が現れたか、ヒトラーユーゲントの人数を見ておこう。

    ヒトラーユーゲントの人数(10)
    10−18歳人口 HJ加盟数
    1932107,956
    19337,529,0002,300,000
    19347,682,0003,577,000
    19358,172,0003,900,000
    19368,656,0004,400,000
    19379,060,0005,800,000
    19389,109,0007,000,000
    19398,870,0008,100,000

     この人数表で見る限り、必ずしもヒトラーユーゲントヘの加盟を義務化したことが、全面的に守られていたわけではなことがわかる。義務化されるまで加盟率は半分であり、義務化によって65%になっている。しかし、注目すべきことは、むしろナチス政権獲得後の国民学校教育を受けた世代が、極めて高い加盟率を示していることであろう。
     ヒトラーユーゲントの活動は、種々の労働奉仕を伴っていたが、それも次第に義務化された。労働奉仕はナチスの政権獲得後に実施されたものではなく、1926年2月9日の党大会で提起されていた。しばらくその意義が党内でも認識されていなかったが、1931年に自発的奉仕の制度ができてから、広まるようになった。(11)
     その最大の効用は、無償労働の徴用であり、不況を脱出する上で少なくない働きをしたし、(12) また無償労働に青年を吸収することによって、失業を減少させることを、意図していた。(13)
     労働奉仕では、競争を重要な方法にした。労働コンテストが開かれ、そこでナチスの指導者を見いだそうともした。シーラッハは労働コンテストが青年の労働能力を高めたと分析し、またその階層構成をあげている。

      第四回帝国勝利者の父
     知的労働者・商人 12%
     官吏       12%
     手工者      16%
     賃金労働者    60%(14)

     コンテストの成績が次第に向上しているとも言っている。

    193619371938
    5.7%9.5%9.9%
    34.1%34.8%37.4%
    38.1%44.2%42.0%
    不可22.1%11.5%11.7%

     勝利者自身の階層
     知的労働者   24%
     非知的労働者  12%
     自立的工業商業 22%
     官吏      12%
     雇用者     21%
     その他      9% (16)

     1934年1月24日の法で、学生団体は労働奉仕が義務になった。(17)
     労働奉仕は様々な意味を持っていたということができる。重要なものはラントヤールであろう。
     ラントヤールが構想されたのは、世界恐慌に対する経済的・政治的配慮であった。最初に提起されたのは、1930年であったというが(18)本格的な構想は、1933年10月、ルストによって出された。
     その計画に基づく1934年3月29日のプロイセンの法令は次のように規定していた。
     「国民学校を卒業した都市少年に対して、郷土及び民族性との精神的結合を深め、且つ健全な農民の民族的価値の理解を深めるために州内閣は次の法令を定める。
     第一条所定の就学義務を満了して学校を卒業し、ラントヤールに召集される児童は全てこのラントヤールに参加する義務がある。」(19)
     ラントヤールとは義務教育修了者を、1年間農村に寄宿させて農業を手伝わせながら、ナチズムの政治教育を完成させようというものである。
     この法による一年目、22000名を送ったが、農民も協力的で生徒もすっかり労働を気に入ったと報告されている。(20)
     その結果、ラントヤーレは拡大され、行政的にも組織化されるが、その最も大きな意味は政治的なことであった。1935年10月26日の通達によるラントヤール義務者選抜の基準は次のようになっている。
    1.ラントヤールヘの収容については身体的精神的両方面より血族的に健全で、性格的に重要なドイツ国民性のアーリア民族の児童のみが問題になる。
    2.政治的及び衛生的危険をその環境に内在する地方の家族の児童を優先的に収容すべし。その際には児童の多い家族及び長期に亙り失業救済、福祉保護を受け、或は受くべしと指定された家族を特に顧慮すべし。(21)
     この選抜は志望によるものはなく、指定であるから危険な青年を農村に抱え込むことによる教化と、援農を兼ねていた。
     しかし、それにも関わらずナチスから見れば、「教育」としての意味が重要なのであった。教師と生徒との関係をより友愛に基づくものにし、ここで教師は「教育者」から「指導者」に変わるというのである。(22) 青年自身について言えば、
     1.農業や農村共同体の中で、ナチズムの世界観を身につけた
     2.HJ,BDMのリーダーが育った
     3.人格教育に効果があった
    という総括をすることが可能だった。(23)
     しかし、最終的には、労働奉仕はやはり兵役のためのものであった。
     労働奉仕を自覚的に体験した青年は、自律的に、喜びに満ちた兵役義務の充足者となるだろう。そして再びアドルフ・ヒトラーの忠実な従士として、ドイツ民族の労働、そして経済・国家にみちびかれていくのである。(24)

    <註>
    1. Ottweiler a.a.O. s81
    2. 'Die Vereinbarung zwischen dem Reichserziehungsminister Rust und dem Reichsjungendf4ührer von Schirach über dem Staatsjugendtag' Nyssen a.a.O. s35
    3. Staatsjugendtag となった。Ottweiler a.a.O. s85
    4. 'Erlaß des Reichserziehtunsministers Rust über die Durchfühtungs des Reishsjugendtags vom 1. August 1934' Nyssen a.a.O. s36
    5. 'Gesetz über die Hitler Jugend' Nyssen a.a.O. s37
    6. a.a.O. s41
    7. ラカー 前掲 p252
    8. Kaufmann a.a.O. s129
    9. Stünke a.a.O. s80 ここでは家庭は民族の細胞であり、ヒトラーユーゲントは国家の細胞である、とされた。
    10. Elke Nyssen a.a.O. s34
    11. Hermann Kretzschmann 'Die Reichsarbeitersdienst der männlichen Jugend' in "Erziehungsmächte und Erziehungshoheit im Großdeutschen Reich" herg. von R. Benze 1940 s119
    12. 農業の手伝いとして、1939年には24000人の奉仕が導入された。これはまたドイツの血と土地への共感を育てる意味ももたされていた。Stünke a.a.O. s91
    13. A. Schaller 'Was wollen wir in der N.S.D.' in "Schule in neuen Staat" s1 ただし、これには弊害もあったようで、1938年4月30日の法 (Das Gesetz über die Kinderarbeit und die Arbeitszeit der Jugendlichen)で、労働保護年齢を16歳から18歳に引き上げ、1日8時間、週48時間とした。そして児童の労働は禁止した。Stünke a.a.O. s90
    14. Baldur von Schirach "Revoltuion der Erziehung" 1938 s65-66
    15. a.a.O. s67  指導者の職業構成は次のようになっている。
        学生   21%
        商業経営  5%
        技術者   3%
        農業   23%
        労働者  42%
        その他   6%
       また指導者の平年年齢は次のようになっている。
        ober Gebiets     30歳6カ月
        Gebiets        31歳4カ月
        Gebiets-Abteilung   25歳4カ月
        Baum         25歳1カ月
        Jungbaum       24歳8カ月
       いじょうKaufmann a.a.O. s37-39
    16. Schirach a.a.O. s77
    17. Wenke a.a.O. 1934 s351
    18. 文部省『教育制度調査』第9輯 p158
    19. 同上 p159
    20. 同上 p161-162 Erziehung 誌の翻訳である。
    21. 同上 p176
    22. Rudorf Benze "Jahrbuch des deutschen Zentralinstituts für Erziehung und Unterricht Bericht über die Entwicklung der deutschen Schule 1933-1939" a.a.O. s177
    23. Benze a.a.O. s179
    24. Hermann Kretzschmann 'Der Reichsarbeitsdienst der männlichen Jugend' in "Erziehungsmächte und Erziehungshoheit im Großdeutschen Reich" herg. von R. Benze 1940 s127

    <ヒトラーユーゲントの活動>

     ヒトラーユーゲントはどのような活動を具体的にしたのだろうか。
     施設(Heim)での活動、走行(Fahrt)、キャンプ(Lager)などの形態をとりながら、音楽・美術・技術などを学び、祭りを行った。(1)
     デルナーの『喜び・訓練・信念』というキャンプの手引書は、キャンプ地の条件、小屋の作り方、行進のさせ方、朗読する詩や物語、時々の生活の節目で歌う歌が満載されている。(2)
     一言でいえば、皆で体を動かしながら一体感を形成する活動であったが、綿密に考慮されたものであった。ヒトラーユーゲントが多くの青年に多大の影響を与えたことは、否定できない。
     後に「白バラ抵抗運動」を起こし、処刑されたショル兄妹も、ヒトラーユーゲントに加盟していた。特にハンスは熱心な活動家で、当初ナチズムに共感していた。彼らにとってヒトラーユーゲントは一種の挑戦であり、優秀な彼らはヒトラーユーゲントのリーダーとなって活躍したという。(3)
     フィンケは次のように書いている。
     ハンスの歴史の先生はかなりの国粋主義者でした。弟が学校から戻り、先生がどれほど熱狂的に総統やドイツやドイツ人のことをはなしたか、またドイツ人は、憎むべき退廃民族フランス人と比べ、いかにすぐれた民族であるかを話してくれたと報告すると、たいていあとははげしい言い争いとなりました。(略)
     父は、毎日窓から見える光景に深く心を痛めていました。たえることなく続く隊列行進、ナチスの高官の高慢な態度、陰険な新聞記事(略)
     父は真実を知らしめ、ハンスを納得させようとしました。しかし、ハンスは意見を変えようとはしませんでした。(4)
     しかし、ハンスはこの後、有名なニュルンベルク党大会で旗手を勤めることになり、皆にうらやましがられるが、「無意味な教練、隊列行進、ばかばかしい長話、だじゃれ」といったものに、うんざりしてヒトラーユーゲントに最初の疑問をもつようになる。(5)
     ナチス支配下のドイツにジャーナリストとして住んだシャイラーは、ドイツの青年について次のように書いている。
     全ての階級の子女、それらをことごとくいっしょにして同じ仕事をともにわかつ習慣は、それ自体、いいことであり、健康的だったことは否めない。おおくの場合、都会の青少年男女が6ヵ月を強制労働奉仕に費やし、戸外で暮らして筋肉労働の価値を知り、めいめい生い立ちのちがうものとなかよくしてゆくということは、何の弊害もなかった。あの当時ドイツ国内を旅して歩き、キャンプの若い男女と語り合い、彼らが働き、遊び、歌うのをながめたものはだれしも、その教えられていることはいかに不吉であろうとも、そこにはしんじられないくらいダイナミックな青年運動があったことを認めざるを得なかった。(6)
     第三帝国の青年男女は、強くて健康な肉体と、国と彼ら自身の将来にたいする信頼と、あらゆる階級と経済的社会的障壁を打破した友情と同志愛とをもって育っていた。私は後年1940年の5月の日、アーヘンとブリュッセルのあいだの街道沿いで、陽光のなかで、完全な食餌をとって暮らした青年から取ってきた、日焼けしてりりしいドイツの兵隊と、胸はおちくぼみ、なで肩をして、顔は青ざめ、歯の悪い、英国の最初の戦争捕虜たちの対照をながめ、そのことを考えた。英国の兵隊は、英国が、二つの戦争のあいだの年々、無責任に放任しておいた青年の悲劇的な見本だった。(7)
     またラカーは当時の青年の次のような回想を紹介している。
     ナチズムは青年なら心の奥底でひそかに誇りをもって望むようないっさいのもの━━活動性、仲間に対する責任、もっと偉大でもっと強い祖国のために情熱を分けあった同志とともに働くこと━━を提供したのである。そこには、世間一般の承認があり、以前なら考えることのできなかった出世があった。しかし、その反対側には、ただ困難と危険、見込みのない先行き、心の迷いしかなかった。(8)
     しかし、もちろん逆の事例もあった。
     フォッケによるカール・ハインツ・ヤンセンの述懐。
     12歳の分隊長が10歳の新入団員たちにどなりちらし、学校の庭や原っぱや荒田に鋤き返された畑の中をあちらこちらと追い立て回した。どんな小さな反抗にも、ちょっとした制服の乱れにも、わずか数分の遅刻にも、直ちに懲罰訓練が課せられた。無力な副指揮者は僕らに八つ当りした。しかし、意地悪いいやがらせにも、ぼくらは馴っこだった。ぼくらには小さなときからきびしさと盲従がたたき込まれていた。『伏せ』の命令があると、石炭殻の中に膝小僧を埋め、身を投げ出さねばならなかった。腕立て伏せのときは、鼻が砂に埋まった。耐久競争で息が切れた者は、『いくじなし』と笑い者にされた。どうしてぼくらはあんなことを四年聞も我慢したのだろう。なぜ、ぼくらは涙をじっと押え、歯を食いしばって痛さをこらえたのだろう。なぜ、ぼくらの身にふりかかる苦しみを、両親や先生達に訴えなかったのだろう。今にして僕に説明できるとすれば、ただ、ぼくらはみんな功名心のとりこになっていて、模範的な規律によって、きびしさを一身に受けることによって、きびきびした態度によって、副指揮官の目を引こうとしたのだった、としか言えない。だって立派にやってのけたものは、階級が上がり、モールの飾りをつけることが許され、『隊長』が叢の向こうへ姿を消したたったの五分の間だけだとしても、命令を出せたからである。少年は少年によって導かれなければならないと、標語でうたわれていたが、実地ではこれが、階級の上の者は、下を踏みつけていい、となっていた。(9)

    <註>
    1. Stünke a.a.O. s85-88
    2. Dörnaer "Freude, Zucht, Glaube" 1937
    3. ヘルマン・フィンケ『白バラが紅く散るとき  ヒトラーに反抗したゾフィー21歳』若林ひとみ訳 講談社文庫 p40
    4. 同上 p43-44 ここにはワイマール以降顕著に現れたとされる世代間の対立が見られる。第一次世界大戦を契機として、越え難いとも思われる程の世代対立が見られ、それがナチスの運動にプラスとなったと指摘するのはハンス・モムゼンである。ハンス・モムゼン「ワイマール共和国における世代間抗争と青年の反乱」『思想』1983.9 ナチスはこの世代対立を例えば「父母協議会」を廃止し、その代わりに学校共同体(Schulgemeinde)を作るという形で現した。そこでは家庭・人種・遺伝・奉仕などについてのナチズム的な広報を重視した。Wenke 1935 a.a.O. s138-139  マインシャイムは、親はブルジョワ的な感覚がどうしても付いているので、親には期待しない、と書いている。Meinscheim a.a.O. s15
    5. 同上 p446
    6. ウィリアム・シャイラー『第三帝国の興亡』第二巻 井上勇訳 東京創元社 p42-43
    7. 同上 p43
    8. ラカー前掲 p245
    9. フオッケ前掲 p61


    <ヒトラーユーゲントと学校・家庭>

     ヒトラーユーゲントと学校・家庭は教育機能を分担するのだとされた。例えば、ヒトラーユーゲントの獲得は学校の教師が大きな役割を果たした。ヒトラーユーゲントと教師はよく会合し、連絡を取り合い両親を学校に集めては、ヒトラーユーゲントヘの入団を勧めた。(1) そうして学校ぐるみのヒトラーユーゲント団員獲得競争が行われ、校長はその数を公表した。(2)
     また労働場面でもヒトラーユーゲントの援助が行われた。つまりヒトラーユーゲントでなければ徒弟になることもできず、職業学校へも行けないとする圧力がかけられたからである。
     オイティンでは、学校とヒトラーユーゲントの関係について、次のように通知されている。
    1.ヒトラーユーゲントに入っている生徒は、学校の体育の一部を免除される。
    2.日曜・土曜の午後はヒトラーユーゲントは授業を免除される。
    3.ヒトラーユーゲントのリーダーは月二回活動のため、学校の授業を免除される。礼拝は配慮されること。
    4.健康を害するようなことを要求してはならない。
    5.学校の内のことは、外から強制してはならない。ヒトラーユーゲントのリーダーは学校でもリーダーでなければならない。
    6.ヒトラーユーゲントのメンバーは学校での仕事を率先して行う。
    7.学校に武器を持ってきてはならない。
    8.互いの誤解を解くように行動せよ。(3)

     しかし、学校とヒトラーユーゲントは常に協力関係にあったのではなく、学校はヒトラーユーゲントによって大きな被害も受けた。フォッケはエ一リッヒ・ドレスラーの次のような証言を紹介している。
     一度、一人の老いばれ教師が、蛮勇をふるってそれに(ヒトラーユーゲントの活動があるので宿題ができないこと)抗議したことがあった。それはただちにグループリーダーに伝えられ、そのリーダーはさらに学校長の許へ行って、その教師を首にするようにかけあったのである。そのリーダーはまだ16歳だったが、ヒトラーユーゲントのリーダーとして、学校の宿題などよりはるかに重要なわれわれの奉仕活動が妨害されるのを甘受するわけにはいかなかったのである。その日から宿題の件は解決した。やる気がなければ「団活動中」と言っておけばよいので、それについてあえてとやかく言う者は誰もいなくなった。(4)
     教師達はクラスの中のヒトラーユーゲントの団員とまずくならないように、かなりの気をつかうようになっていた。(5)
     ヒトラーユーゲントと家庭も常に補う関係と規定された。(6)
     「常に家庭は根元(Urgrund)である。」(7)
     しかし、実際には世代対立の利用という側面から、対立もあおられた。男女差別の部分で述べたように、これは人口を増加させるためのものであって、教育自体は常に、ヒトラーユーゲントが最優先された。ヒトラーユーゲントは青年を親から奪うことを重要な目的にしていたのである。
     以上見たように、ナチスの教育、とりわけその仕上げとしての「青年運動」は青年を党の隊列、あるいは戦争社会に組み込むための手段であった。そのような意味で、ナチズムが有機体説にたっていることは、疑いない。
     ディーツェはヒトラーユーゲントを、国家と党の二元的存在を越えるものとして規定している。ヒトラーユーゲント法によって提出された「義務」こそ生きた力であり、「公」と「私」の対立を解決するのである。(8)
     つまり、ディーツェによれば、ワイマールは「青年のない国家であり、国家のない青年であった。」その結果としてワイマールはカオスとなり、ヒトラーユーゲントがカオスを破ったのである。(9) もちろん、このようにヒトラーユーゲントが時代を切り開いたのではない。しかし、問題はここにヒトラーユーゲント法によって生じたヒトラーユーゲントと国家の癒着を、ゲマインシャフトヘの回帰願望を満たすものとして把握していたことである。(10)
     しかし、その有機体説は、実は極めて特殊な有機体説であった。
     「自発的な民族への奉仕は自由の制限ではなく、自由そのものである。」とウザデルは言う。(11)これはすべての有機体説の基本的発想である。そしてヘンツェは「陶冶というのは、個人の能力の開発ではなく、民族の共同体に青年を編入することである。」と書いている。(12)
     しかし、ナチスの場合、有機体説の軸となる対象が、国家であったり、党であったり、また党と国家が癒着したり、人的に綱ひきをしたり、という具合いで混乱していた。
     しかも国家及び党組織は一種の無政府状態に陥っていた。(13)有機体説は、その選抜において必ず人為的な要素(能力)を含むものである。しかし、「血の原理」という人為的要素を全く含まない原理を本質とするナチズムにおいては、「血の原理」から外れた者は、如何なる手段によっても、その社会の中に入っていくことはできない。そうしたシステムは、有機体を成り立たせる基盤そのものを奪うことにならざるをえない。

    <註>

    1. フォッケ前掲 p35
    2. 同上 p37
    3. "bekanntmachung des Ministers der Kirchen und Schulen, Oldenburg, über das Verhältnis der Schule und der Hitlerjugend, 11.12.1933' Dokumente Eutin s617
    4. フオッケ前掲 p120
    5. 同上 p118
    6. 1933年8月26日法で、ヒトラーユーゲントと家庭の共同作業が言われた。Rudorf Benze "Jahrbuch des deutschen Zentralinstituts für Erziehung und Unterricht Bericht über die Entwicklung der deutschen Schule 1933-1939"
    7. Möller=Criviß 'Das Elternhaus' in "Erziehungsmächter und Erziehungshoheit im Großdeutschen Reich" herg. von R. Benze 1940 s31
    8. Dietze "Die Rechtsgestalt der Hitler-Jugend" 1939 s3-5
    9. Dietze a.a.O. s35
    10. a.a.O. s45
    11. Usadel a.a.O. s24
    12. Rudorf Benze "Jahrbuch des deutschen Zentralinstituts für Erziehung und Unterricht Bericht über die Entwicklung der deutschen Schule 1933-1939" s7
    13. 野田宣雄はヒトラーの多元主義的支配が、ステータスのアナーキーをもたらし、それが一種の解放感を与えたとしている。『二十世紀の政治指導』中央公論1976 p132

    <ドイツ統一学校運動の提起するもの>

     ドイツ統一学校運動は、最も典型的な統一学校運動であった。そして、ほとんどの問題が論議された。しかし、その中でも大きな意味をもっていたのは、「国家の地位」あるいは「国家と個人・私的団体の関係」の問題であった。そしてそれは「宗教」の問題を中心に論議された。それは、社会の縦の分裂である「階級」と横の分裂である「宗派」が重なって問題になったことを意味した。序章で述べたように、現代の国家は「世俗性」に近づいたのであるが、ワイマールにおいては、宗派間の対立が激しく、また宗教の自由との関連で「世俗性」はなかなか貫徹しなかった。親や教師の団体が宗派的に組織されていたことに象徴されている。政党も宗教に対する態度が最も鮮明な対立として意識された。
     このことは「国民の統合」がドイツでは、重要な要素になったことを意味している。
     宗教は広く世界観の問題であり、近代国家では「個人の自由」の領域に属する。多くの人々は教育の要素として、規範の形成を望んでおり、それは宗教に求められる。
     国家という人為的な統合組織が制度化する学校制度の中で、本来的に私的な宗教が重要な位置を占めるのは、いかなる意味をもつのか。
     この点に関する制度構想には次のような立場があった。
     第一に、国家による統合に対して否定的であり、したがって、統一学校に対しても否定的であるもの。現実にはカトリックがこの立場を代表し、ドイツ革命においては保守的な立場をとったが、ナチスに対しては原則的な批判者であった。
     第二に、統一学校を志向しながらも、現実的な人々の宗教的な感情を考慮し、原則的な統一学校の主張を、宗派的な分化によって後退させることと妥協した立場。SPDがこれを代表した。この妥協は必然的にSPD内部に、批判者を喚起した。
     第三に、宗教の重要性を容認しながら、宗派的な分化を批判し、キリスト教の共通内容によって宗教教授を実施し、そこでも統一学校が可能であるとした立場。初等教員や代表的な統一学校運動のイデオローグがこの立場であった。
     第四に、宗教を否定して統一性を実現することを主張する立場。宗教に対して科学を対置するKPDと、ナチズムを対置するナチスがこの点では似た立場をとる。
     人間にとってともに疎外態である国家と宗教が、人間形成の基本的な要素として問われた。したがって、そこでは必然的に矛盾をはらむことになった。しかし、人間が必要とする教育が、公教育として組織されなければならない現状においては、「人間観」に関わって基本的な論議が必要になる。この点は第二部で考察されるべき課題である。
     教師が宗派的に、また学校階層によって分化している状況では、統一的な理念の形成は不可能であり、とりわけナチスの政策の中で、教師が分裂している状況では、教師は容易にファシズムのような体制に取り込まれ、親よりも抵抗力が弱いことがわかる。教師が分断されていたのは、学校が階層的に不平等な状態におかれていたためである。より低い条件の下におかれた教師集団は、統一性を主張するが、エリート学校の教師は特権の保持を重視する。教師の養成や役割の論議として、第二部で取り上げることになる。
     ドイツ統一学校運動が示したもう一つの特徴は、青年運動や家庭教育の教育制度全体に占める位置である。青年運動を重要な教育組織と考え、教育制度の一環と位置づけると、その後の統一性の保持は著しく困難になる。世界観の形成をもとめるもの、多様な能力の発達をもとめるもの、政治勢力として期待するものなど、様々な大人の思惑が青年運動に対して付加された。
     そして青年運動と学校及び家庭についての関係も、様々な理解があった。中でも課題として残るのはナチスであろう。ナチスは青年運動を徹底的に利用する一方、家庭の教育機能は、表面はともあれ、実質的には無視した。ここでは「階級意思」を主軸とする勢力は無力であり、むしろドイツ革命において、反動的で「教育の自由」を主張するカトリックが抵抗勢力になった。つまり、「共同的な意思」と「個人的意思・自由」との関係をより詳細に、当時の論者に即して検討する必要がある。