第一章ドイツ統一学校運動と学校制度

第一節ワイマールの学制改革

(1)はじめに


 本節は第一次大戦直後のドイツ、つまりワイマール共和国初期の学校制度改革の分析を目的としている。扱う時期は主に「全国学校法」が廃案となる1922年初めまでである。この時期にワイマールの教育制度の骨格ができるのである。
 ワイマール初期の教育問題の核は統一学校であった。ルナチャルスキーが規定したところによれば、統一学校は資本主義学校の最後の形態であり、社会主義学校の最初の形態である。このことは高度に発展した資本主義国においては、改良主義的立場からも、社会主義をめざす立場からも統一学校が支持されることを意味する。ドイツにおいても、多少の時間的ずれがあるにせよ、そうであった。ドイツ革命の際には、社会主義的統一学校と改良主義的統一学校が制度構想として潜在的に対立した。しかし、革命の敗北とともに、前者は移行形態としての統一学校へと位置づけを変更せざるをえなくなる。いいかえれば、ブルジョア民主主義の積極的位置づけである。
 当然のことであるが、この3つの構想が同じものであるはずがない。とするならばこれらの相違を明らかにすることが、先の第一の課題に応えることになるだろう。しかし、独立社会民主党やドイツ共産党が革命の時期に、学校についての社会主義的プログラムを提示しえたわけではなく、更に、ドイツ共産党がブルジョア民主主義の積極的位置付けをするようになるのは、1922年以降のことであるし、またその後の政策的揺れも激しかった。
 ワイマール共和国をナチスが打倒したことは、様々な偶然が重なったにせよ、ワイマール共和国の内部にそれを余儀なくした矛盾があったと考えられる。しかも、ワイマール共和国は革命か否かを社会的に問うた結果として歴史に登場したのである。その時に現れた様々な構想の性格を明らかにしておくことは、今日の問題を解く上で重要であろう。ドイツにおいては、かつて「哲学」によって近代が告げられたように、この「変革」は宗教と学校をめぐる問題の中に主に表現された。したがって今日現れているカテゴリーが全面的に展開していないとはいえ、宗教と学校をめぐる問題の中に、「教育の自由」及び「国民教育の主体」の問題が問われていた。
 以後この点を中心にワイマールの学校制度改革についての分析を行いたい。
 ワイマールの出発は、第一次世界大戦の最中にドイツで生じていた社会主義勢力の状況を抜きに考えることはできない。社会民主党がツァーリからの「祖国防衛」を理由に、政府の戦争政策を支持したことはよく知られている。
 1917年ロシア革命が起きて、3月27日ペトログラード・ソビエトが「無併合・無賠償・民族自決」の声明を出したとき、SPDの多数派はノスケですら、これを歓迎し、中央派もこれにそって政府に圧力をかけた。4月7日に独立社会民主党が結成され、社会主義勢力は大きく二分されることになる。
 そうした状況の中で、べ一トマン=ホルベークの政府は国民の分裂状況を憂慮し、プロイセンの三級選挙制度を改訂することによって、国民分裂の危機を乗り切ろうと模索していた。
 1918年3月3日、ブレストリトフスク条約が締結されると、独立社会民主党内部でも、ボルシェビキを支持するツェトキンと、レーニンをドイツ労働者への裏切りであるとするR.ルクセンブルグとの意見の相違を生んでいる。
 こうしてドイツの敗戦を迎えるのである。(1)
 敗戦濃厚になり、マクス内閣が成立したが、こうした「ドイツ帝国主義の崩壊」を契機に、社会主義者たちは蜂起をめぐって意見を闘わせていたが、結局明確な合意に達する前に、無謀な出撃命令に反対した、キール軍港の水兵の自然発生的な反乱によって、全国に急速に革命情勢が広がっていった。(2)
 11月4日、シュトゥットガルトで起きた、スパルタクス指導のストライキを初めとして百数十の都市で革命情勢が生まれた。
 11月6日、ハンブルクで労兵協議会が支配権を確立し、SPDが主導権を握った。翌7日にはミュンヘンで両社会党の集会が開かれ、マイスナーがバイエルン共和国の成立を宣言している。
 ベルリンでは11月9日デモが行われ、ヴィルヘルム2世の退位、工一ベルトの首相就任へと進む。そしてSPDとUSPD幹部の協定によって、11月10日、両政党による連立政府が成立するに至った。(3)

<註>
  1.  以上富永幸生「ドイツの敗戦」『岩波講座世界歴史24』参照
  2.  水兵の要求は、即時休戦、ホーエンツォレルン王朝の退陣、戒厳令の廃止、逮捕水兵・政治犯の釈放、普通選挙制、軍隊内の待遇改善であった。富永幸生「ドイツ革命」『岩波講座世界歴史25』 p138 富永によれば、水兵たちは穏健であり、ノスケを受け入れた。
  3.  同上 p147-149

(2)ドイツ革命の勃発と学校と教会の分離の進展


<ドイツ革命と労兵協議会の要求>

 1918年11月3日、キール軍港での水兵の反乱に端を発したドイツ革命は、またたく間に全国に波及したが、これは単に政治的分野にとどまらず、「学校改革」の要求を含むものであった。王政が崩壊して共和政が成立し、スパルタクス団が蜂起するまでは、社会民主党幹部の現状維持的な姿勢にも関わらず、革命的情勢が高揚した時期であり、学校をめぐっても多くの改革の宣言がなされ、いくつかの前進的措置がとられたのである。(1)
 それはまず、学校と宗教の関係を改めることから始まった。革命の中心がプロイセン、ベルリンであったように、ここでもベルリンが中心であった。
 プロイセンの臨時政府は11月13日に次のような声明を発した。
 全ての教育施設、特に国民学校の改革。統一学校の創出(2)
 そして以後、社会民主党のK.へ一ニッシェ(Konrad Haenisch)と独立社会民主党のA.ホフマン(Adolf Hoffmann)によって次々と新しい措置が採られた。
 11月13日、ホフマンは教会の反動性を非難し、次の原則を提起した。
 全教育施設、特に国民学校の整備。統一学校の創設。教会からの解放。国家と教会の分離。(3)
 11月17日、へ一ニッシェの提唱で、ベルリン教師協議会が設立され、(4) 11月27日に教会による学校監督(Geistliche Ortsschulaufsicht)が廃止された。更に29日、無宗教者に宗教教授を強制することが禁じられた。この命令は12月18日、28日に繰り返され、徹底することを命じている。そして、12月に入って21日には軍学校(Wehrschule)が廃止された。(5)

 バイエルンにおいても同じような事態が急速に進展した。
 革命の中で成立した社会主義的な臨時政府は、11月26日「全学校制度は全ての者のための教育施設として、社会的な出生による差別なく、統一的に組織されなければならない」という声明を発した。(6) そして同時に文相ホフマンが、戦争による教科書不足克服の指示を出し、12月16日に、教会の学校監督を廃止し、世俗的な専門家に監督を行わせるよう命令した。これは監督体制全体の改編を予定したものであった。
 学校監督に関する訓令は次のように規定していた。
  1.  1919年1月1日より国民学校の監督と指導は、地方学校視学官(Ortsschulinspektoren)によって行われる。
  2.  教会の学校区視学官や学校区官庁一員のような教会の都市学校委員会の学校監督行為は1918年12月31日をもって終了する。その代わりを1919目1月1日より世俗的な専門家が行う。(7)
 この法令に付属するホフマンの訓令は次のように述べている。
 学校の外的な関係の秩序に対する配慮は、その学校、学校の各教科の全ての教師の義務である。教会の地方学校監督の廃止によって、多くの教師のいる学校においては、きめられた教師が校舎の秩序の維持、いくつかの学校部課に服務している全ての組織の経営、そして服務関係の処理に従事することが要求される。(8)
 教会の学校監督を廃止することは、国家がそれを代わりに行うことであって、国家管理の強化に他ならないのであるが、バイエルンにおいては、学校自治と調和させていく試みが萌芽的にめざされていた。それは教科書の取り扱いにみられるように、外的事項に限定されていたものでもなかった。教科書に関する訓令は次のようなものであった。
 全中等教育施設・国民学校の校長及び教師へ新しい時代を考慮しなければならない教科書を、直ちに修復し、導入することは、技術的困難や紙不足があるので、使用しうる教科書、特に歴史の読本・教科書は必要な処置をして再利用することが、全教師の教授経営で期待される。(9)
 リピンスキー(Lipinski)の下で新政府の成立したザクセンでは、12月2日教義問答による宗教教授を禁止し、宗教教授を週2時間の聖書史の講義に限定した。更に6日、無宗教者に宗教教授を強制することを禁じ、11日には国民学校を宗派的に設置することも禁止したのである。(10)
 そして、18日には次のような声明が出された。
 教会の国家からの分離は完遂される。宗教団体は自由が保証される。学校は政治・教会の監督から解放される。国民学校は、専門家の指導によって統」学校に形成される。(11)
 このように州政府が法的措置をとらなかったところでも、労兵協議会(Soldaten=Arbeiterräte)が要求を出して、実質的なカをもったところもあった。
 ハンブルクでは、11月12日の労兵協議会で、いち早く教師協議会を選出し、26日には次のような要求を出した。
  1.  1919年1月1日からの教育費(Schulgeld)の無償
  2.  予備学校(Vorschule)の廃止
  3.  宗教教授の破棄(12)
 そして、12月10日には、学校と教会の分離を要求している。(13)
 ハンブルクの労兵協議会は、翌年の3月25日になって、秘密投票による校長の選挙を要求しているので、その力は大きなものであったと思われる。(14)
 ブラウンシュバイクの労兵協議会が、11月21日に次のような法を公布したことは注目すべきことであった。
  1.  今までの内閣によって承認された全学校制度の上級監督、最高指導はブラウンシュバイク共和国においては、個々の学校の多少異なった規定に抵触しないことについては、国民教育人民委員会(Volkskommsariat für Volksbildung)によって行使される。
  2.  教員養成所を含めて、学校の指導と監督が宗教局(Konsistorium)に任されていた限りでは、この代わりに国家の学校官庁である人民学校委員が行う。この点でのこれまでの規定は全て廃止する。
  3.  人民学校委員会は7名よりなり、最終的な決定までは、州法によって国民教育人民委員会により任命される。
     この委員会には、教員養成所、自治体の学校の校長の中から1名、教師から3名、義務就学の子をもつ父母から2名、行政官1名が選出されなければならない。議長は行政官が行う。(15)
 以上みたように、革命情勢の進展とともに行われたことは、原則的な統一学校の宣言と、その実現の第一歩としての学校と教会の分離であった。しかし、労兵協議会の要求にみられるように、その基本にあったことは、学校を労働者階級にとりもどすことであって、後に「学校妥協」やワイマール憲法で規定された、単純に国家がとり戻すことではなかった。労働者の学校を実現するための、学校自治、父母の参与、国家の指導・監督の在り方を模索したのであって、その結実の一つの形態がブラウンシュバイクの人民学校委員会であったといえよう。

<註>
  1.  大戦前の論議については、岩崎次男「ドイツ帝国と教育の近代化」『世界教育史体系12』所収を参照
  2.  "Momunenta Paedagogica ゚── Beiträge zur Bildungspolitik und Pädagogik der revolutionären deutschen Arbeiterbewegung in der Zeit der Novemberrevolution und der revolutionären Nachkriege 1918−1923" Teil ワHerausgegeben und Schulge (以下本書をMonumenta.゚と略)
  3.  Gerd Hohendorf 'Die Schulpolitik der deutschen Arbeiterklasse in der Novemberrevolution 1918' in "Pädagogik" 13 Jahrg. 1958 s785−786
  4.  Monumenta.゚ Teil2 s222
  5.  "Die Deutsche Einheitsshule ── Zentralblatt für das gesamte deutsche Schulwesen" herausgegeben von Professor Dr. Kullnich, Nr.10 1920.1 s366(以下本書をdESと略)
     この間の事情については、岩崎次男「ワイマール共和国と教育改革」前掲所収、大野雅俊「ドイツの統一学校運動と義務教育」『世界教育史体系28』所収など参照。しかし、大野氏は論文で基本的な誤りをしている、つまりワイマール憲法の「上構(Aufbauen)」は言葉の上では第二帝政と同じであるが、その内容において違いがあるとし、高く評価する。そして、その根拠としてホフマンの演説を引用している。しかし、後にみるように、ホフマン的路線の否定の上にワイマール憲法が制定されたのである。
  6.  Monumenta.゚ Teil1 s130
  7.  dES No1 1919.6 s16−17
  8.  dES a.a.O. s17
  9.  dES a.a.O. s17
  10.  dES No. 10 s341 ザクセンでは1919隼2月28自に教会の地方学校監督が廃止されている。Günther "Geschichte der Erziehung" 1969 s528 同書によればザクセン州でのこの一連の措置の遂行には、ライプチッヒの教師協議会の力が大きかった。
  11.  Wittwer "Die sozialdemokratische Schulpolitik in der Weimarer Republik" 1980 s78
  12.  Günther a.a.O. s528
  13.  Monumenta.゚ Teil1 s210
  14.  dES No 1 s19
  15.  dES a.a.O. s18

<ホフマンとへ一ニッシェ>

 しかし、11月革命が当初から社会民主党の指導部──それは党首工一ベルトの「私は革命を欲しません。いや私はそれを罪悪のように憎んでいます」という言葉に端的に表されている──によって裏切られ、労働者階級の要求が歪められていったが、これは教育政策においても例外ではなかった。しかもそれは先述した一連の改革の動向に既に巧みに織り込まれていた。そこでつぎにこの2ケ月に改革と反改革がどのような政策論理で対立していたかをみてみよう。
 さきに述べたようにプロイセンではK.へ一ニッシェとA.ホフマンが教育政策の責任者であり、この2人によって、それぞれ2つの政策の対抗がなされたと理解されている。
 社会民主党にしても、独立社会民主党、スパルタクス団にしても、党の原則的教育政策は1906年の社会民主党マンハイム大会の定式を批判したことはなかった。(1)しかし、周知のように19世紀からドイツ帝国主義の発展とともに社会民主党多数派の右傾化が進み、第一次大戦での帝国主義戦争擁護でそれが決定的になった。H.シュルツとともに有力な党の教育面でのイデオローグであり、かつ臨時政府での文教責任者であったへ一ニッシェは、既に階級協調主義、反西欧的ドイツナショナリズム、社会有機体説の信奉者であった。(2)
 しかし、ここでは具体的な教育政策に限定して以下みていこう。
 ホフマンの出した訓令は11月15日と27日のものがある。15日付けの訓令は(1)軍国主義教育の一掃、(2)反革命的教唆煽動の禁止、(3)宗教教授の強制の禁止がその内容であり、27日のは次のような文面であった。
  1.  プロイセンの教会の地方学校監督は今日より廃止する。
  2.  (略)
  3.  いままで役職についていた者は、郡学校視学によって受け継がれるまで職務に留まる。
  4.  この引き継ぎは即座に着手されるべきであり、12月31日には終了していなければならない。(3)
 ホフマンが政策化したことは、革命の遂行とそれに基づく学校改革であり、それを簡潔明瞭に支持したのである。しかし、それは具体的な内容については必ずしも明確ではなかった。
 これに対し、へ一ニッシェが11月29日に出した訓令は、ほとんどがホフマンと同趣旨のことを述べながら、小さな、しかし巧みな抜け道を設けたものであり、しかもそれは正確に保守派によって感知された。
  1.  これまで行われていた授業前後の祈り(Schulgebet)は廃止する。
  2.  学校の側で礼拝に行ったり、他の宗教施設に行くことを生徒に強制することはできない。更に学校は共通の宗教的な祭(例えば、聖餐式出席)などを行うことはできない。
  3.  宗教教授は試験科目ではない。
  4.  いかなる教師も、宗教教授を分担したり、教会活動を義務付けられたり、又礼拝の子供の監督をしたりすることはない。
  5.  生徒は宗教教授に出席することを強制されない。14歳以下の生徒については、ある宗教教授に出席するか否かは教育権者が決め、14歳以上の生徒については宗教成年についての一般規程が妥当する。
  6.  学校の宗教教授には宿題は禁止される。とくに、教義問答・聖書・歴史・聖歌の暗記教授は禁止する。(4)
 2人の訓令の間には一見大した違いはないようにみえる。ホフマンにしても決して宗教教授そのものを禁じているわけではなく、その範囲では同じなのである。しかし、マックス・ポール(Max Pohl)は、学校と教会の分離は支持するが、宗教教授を固守するという保守の立場から、へ一ニッシェの訓令に安堵するのである。
 宗教教授を禁じているのではなく、宗教教授の宿題、そして教義間答・聖書・歴史・聖歌の暗記がいけない、といっているのである。(中略)教授計画を変えるものではないのだ。(5)
 そして、彼は宗教教授は至るところで望まれているのだ、といったあとで「キリスト教徒の親が、非宗教的な道徳教育をやらされたとしたら、それは良心の強制である。」といって、信仰・良心の自由を根拠として、宗教教授を主張するのである。(6)
 では、どこにこの2人の相違があるのか。
 いうまでもなく最も基本的な相違は、11月革命への態度である。ホフマンは「嵐が地上にあふれている。ほとんど測ることのできない重要な変革が成就した。これまで最も頑固に古い伝統・偏見・特権、そして抑圧手段を固持していたところで、新しい生活がドイツの村でおこっている」と述べたのに対し、(7)へ一ニッシェは「労兵協議会は自分の党しかないかのようにふるまっている」と不満を露にした。(8)
 第二に、宗教教授の全体における位置づけの相違である。宗教教授はそれ自体として固有の問題であるが、ワイマールドイツにおいては教育目的についての争いが、宗教教授の衣装をまとって現れたのであり、教育をめぐる最も基本的な問題だった。ホフマンが「軍国主義教育の一掃」と結びつけて指示したことは、とりもなおさず宗教教授の裏にある教育の基本的性質の除去を意図したものであった。それに対して、へ一ニッシェは宗教教授を固有に採り上げることによって、軍国主義・国家主義的本質を黙認したのである。そのために、宗教の自由が倭小な形で採り上げられ、問題そのものが短小化された。これはへ一ニッシェ自身によって自覚されていたことである。かれは「社会民主党はおろかにも性急にことを運ぼうとすることを拒否する」と述べていた。(9)
 第三は、「教育の自由」についての捉え方に根本的な相違があった。このことについてホフマンはこう述べていた。
 全ての偏見から自由に、伝統的な歴史の偽造から、そして全ての宗派的影響から教授が自由である。完全な学校と教会の分離が守られる。──宗教的な宗派の自由は守られる。宗教は私事であり、宗教団体の事項である。それ故国家と教会の完全なる分離が最も基本である。教会は自由な生活を送ることができるが、自らの要求・生活維持は自らの労苦で行うべきである。(10)
 これに対してへ一ニッシェの自由は、各団体の自治論とでもいうべき内容のものであった。教師・父母・生徒(但し中等学校生徒)の自由な判断を最大限認めていく体制において「教育の自由」を捉えた。(11)
 ホフマンが伝統的な「教育の自由」に対して、新たな「労働者階級の教育の自由」のカテゴリーを獲得したと評価することはできないであろう。しかし、ホフマンが偏見や抑圧から解放されることが「教育の自由」の基本であると考えるのに対し、へ一ニッシェにおいては、「選択の自由」となり、望みさえすれば公的に認める体制が「教育の自由」であった。後に宗教勢力が進出するに及んで、教育の自由をめぐる対立がより複雑となるが、へ一ニッシェの論理が容易に「教会の教育の自由」を認めるものであることは明白であった。
 しかし、忘れてはならないことは、教会の主張する「教育の自由」とは、公費によって運営されている公立学校を、教会の意のままにする自由として主張されていることである。

<註>
  1.  マンハイム党大会の定式については、第5章1節及び岩崎前掲参照。詳しくはKarl Christ "Sozialdemokratie und Volkserziehung − Die Bedeutung des Manheimer Parteitags des S.P.D. im Jahre 1906 für Entwicklung der Bildungspolitik und Pädagogik der deutschen Arbeiterbewegung vor dem ersten Weltkrieg" 1975 党大会全体の議論については安世舟『ドイツ社会民主党史序説』参照
  2.  Konrad Haenisch "Staat und Hochschule" によく現れている。なおこの点については藤沢法暎「戦間期ドイツの教育政策と教育運動」に詳しい。なお、前掲岩崎論文が1919年2月以降、へ一ニッシェが反改革的になるように書いているのは賛成しがたい。
  3.  Berthold Michael und Heinz-Hermann Schepp a.a.O. s75 本書によればこの点が正式に法定されたのは、1919年7月18日の州憲法制定会議、及び1919年9月20日の訓令である。
  4.  Monumenta.゚ Teil 1 s187-188より引用。このへ一ニッシェの訓令を本書が前進的なものとして全体に評価しているのは納得しがたい。もっとも、後の兆しがあるとはいっているが具体的にどの点がは明示されていない。
  5.  Max Poll 'Nachdenkliche Betrachtungen zum sogenaten Religionserlaß' in "Manatschrift für höhere Schule" 1919 s17
  6.  a.a.O. s17-19
  7.  A. Hoffmann 'Neue Bahnen im preußischen Ministerium für Wissenschaft, Kunst und Volkserziehung' in "Manatschrift für höhere SChule" 1918 s401
  8.  Haenisch a.a.O. s1257
  9.  Hoffmann a.a.O. s402
  10.  Konrad Haenishc 'Sozialdemokratische Kulturpolitik' in "Die Glocke" 1918 'An die Lehrer und Lehrerinnen der höheren Lehranstalten für die mannliche Jugend, der Lehrer-und Lehrerinnensemiare, Präparandenanstalten, Studieanstalten und Oberlyzeen Preißens' in "Politik und Schule"


(3)学校妥協とワイマール憲法の制定

<社会民主党の主導権獲得>

 1918年12月後半になると、にわかに反改革の動向が積極化した。16日に開かれた「全ドイツ労兵協議会(Allgemeiner Kongreß der Arbeiter-und Soldatenräte Deutschland)」で独立社会民主党は惨敗を喫し、社会民主党多数派が圧勝した。そして、独立社会民主党はついに29日に臨時政府を脱退するに至る。30日ドイツ共産党の創立を経て、1919年1月6日、スパルタクス団の蜂起、そしてそれに対するノスケに指導された軍隊の徹底的な弾圧を通して、旧支配層の勝利がもたらされた。しかも、この弾圧に積極的に加担した社会民主党は19日の国民議会選挙に苦戦し、連立政権を余儀なくされたのである。
 このような保守勢力の回復は、直ちに教育政策の分野にも反映された。ホフマンによって出された11月27日の指示は、2月15日へ一ニッシェによって撤回された。「同意を各方面から得ていないということを充分に考慮していなかった。それで、これ以上適用することを停止する」とへ一ニッシェは撤回の理由を指示の中で述べた。(1)しかし、へ一ニッシェはこれに先立って2月3日にプロイセン議会で次のように演説をしていたのである。
 社会主義者や非社会主義者の最良の専門家による基本的な計画が同時に練られでおりますが、その目的は次のようなものであろうと思います。統一学校というスローガンは、今日はまだ単なるスローガンでありまして、計画は実際に具体化され、統一学校という全ての子供にとっての平等の可能性という偉大な思想は、実行に移されなければななりません。(2)
 この演説は、統一学校の実現をめざすものであるが、統一学校を「平等の可能性」と置き換えており、これは事実上「学校間の移行」ということに倭小化するものになっていた。
 ザクセンにおいても後退現象から免れなかった。3月に入って、ザクセン人民議会(Volkskammer)では、新法案、新学校制度をめぐって激しい論争が闘わされた。独立社会民主覚のリピンスキー(Lipinski)やリュッセル(Ryssel)は、宗教と学校の徹底的な分離をおしすすめること、そして才能ある者を直ぐに上級学校に入れることを要求した。 (3) しかし、3月24日民主党(Deutsche Demokratische Partei)のランゲ(Lange)は、民主的な国家が平等を基調とするものであることを指摘しながらも、教育の目的が全体性(Gesamtheit)への奉仕でなければならないことを強調し、(4) 更に民主国民党(Demokratische Volkspartei)のワーグナー(Wagner)は次のように言って改革に反対した。
 教育者は、青年のことをよく知る必要があるのであって、政党の事情によって教育するのではない。(中略)親の権利は原人間的(ummenschlich)なものであって疑いようがない。そして、親の大半は宗教教授を望んでいる。宗教は実際に多くの宗派に分かれている。しかし、親も宗派に分かれているのであるから、特別に問題などないのである。(中略)ドイツヘの愛が必要であります。(5)
 こうして、ドイツ民族性、非政党(このことは実際には、左翼政党が教育政策に関わることを非難する論拠であった。)宗教教授が反改革の3つの柱として登場した。
 こうした動きを受けて首相のクラッドナウアー(Gradnauer)は改革姿勢を強調し、統一学校の実現に努力しながらも、なお3月30日の議会で「教育・宗教問題についての主張は、今進行している国民議会(Deutsche Nationalversammlung)の決定に一致させるべきである」として、憲法に先行して改革を行なうことに消極的な発言をせざるをえなかったのである。(6) しかし、SPD,USPDが力をもっていたザクセンでは、1919年7月22日「国民学校制度の移行のための法(Übergangsgesetz für das Volksschulwesen)を成立させた。この法は財産、宗教によらず全ての子供が通う国民学校を原則として、宗教教育は宗教団体にまかせ、教師も宗派によらない宗派混合学校を規定した法であった。(7)

<註>
  1.  dES No 2 -3 1917.7 s68
  2.  Monumenta.゚ s136
  3.  dES No 1 s20-22 Monumenta.゚ にもこのリピンスキーの演説が紹介されているが、この会議の中に反動の勢力が台頭してきていたことには触れていない。
  4.  dES a.a.O. s19-21
  5.  dES a.a.O. s21
  6.  dES a.a.O. s19
  7.  dES No 4-5 s133-136

<ワイマール憲法審議>

 さて、1919年の前半期、政治的状況が最も直接的に反映されたのはいうまでもなく憲法審議であった。特にワイマール憲法は複雑な制定過程を経た「妥協」の産物であるので、特にその推移をみておくことが、その性格を把握する上で不可欠であろう。
 臨時政府が憲法制定国民議会を招集することを決めたのは、1918年11月25日各州革命政府の代表者会議の場であるが、その後臨時政府は、12月9日から12日にかけて憲法についての最初の討議を行い、そこでは国民学校について「統一性・無償性・世俗性」の原則を確認した。(1) しかし、この古典的な原則は多分に独立社会民主党の力によるもので、その政府からの脱退後はもう再び掲げられることはなかった。さて、臨時政府は国務大臣であり、ベルリン商業大学教授であったプロイス(Hugo Preuss)に憲法草案の起草をさせたが、(2) 1919年1月3日の第一次フロイス案(これは一般には公表されなかった)では、(3) 「学問と教授の自由」「才能による進学」の2点が記されているのみであったが、1月25日の第二次草案には次のように規程された。
 公立学校の上構は統一的であり、全体の福祉のために、才能に応じて全ての個人の発達を保障する。(4)
 この案に対して社会民主党は、不満であった。この後段に独立社会民主党の考えを認めたからである。マックス:クワルクはこれをホフマンとアイスナーの「不純物」と呼んだ。(5)
 このプロイスの草案を討議して作成された政府第一次案は2月17日州委員会に提案されたが、その内容は次のようなものであった。

 31条 公立国民学校の教授は無償である。青少年及び全国民の教育(Bildung)のために公立の施設によって充分に保障される。学校・教授制度は全州において国民学校の上に、中間学校、中等学校施設で教授が上構されるように設置される。公立学校制度は国家の監督の下にある。(6)
 この草案は既に社会民主党の後退を如実に示している。「世俗性」は消え、「全ての個人の発達の保障」が「公的施設の保障」に変わった。後者は文言上それほど差異がないようにみえるが、プロイス第二草案に対する社会民主党の反発に現れたように、この時期の政治情勢ともあいまって、改革への消極性の反映というべきものである。(7)
 この機をとらえて宗教団体は猛然と攻勢に出た。プロテスタントのN.カール、カトリックのグレーバーが要求したことは、宗教教授が正規の科目であること、大学の神学部を維持することの2点であった。(8) この論拠はやはり「教育の自由」であり、「私的教授の自由」を公的に保障する、という論理であった。これに対して社会民主党は、宗教教授は学校を「競争学校(Konkurenzschule)にするという理由で反対したが、結局民主党が宗教団体の側を支持し、憲法委員会で作成された4月の草案では、大幅に宗教教授の規程が採り入れられた。長くなるがこの教育条項を引用しておこう。

 33条 芸術・学問及びその教授は、外的強制から自由である。国家はそれを保護し助成する。
 34条 青少年の教育のために公的施設が準備される。その設立に際しては、国・州・郡が協力する。公立学校の教師は国家公務員としての権利と義務を有する。
 35条 全学校制度は国の監督の下に置かれる。国はそれを常勤の専門的に養成された役人によって遂行する。
 36条 一般的就学義務は、少なくとも8年の国民学校とこれに接続する18歳までの継続学校とを含む。国民学校の教授と教材は無償である。
 37条 公立学校制度は組織的に形成される。全ての者に共通の基礎学校の上に、中間学校・中等学校制度が上構する。この上構のためには、職業の多様性が、又子供が一定の学校を選択するためには、親の経済的、社会的地位ではなく、素質と性向が考慮される。貧困者の中間学校、中等学校への進学のために公的な手段が準備される。
 38条 私立学校の設立は国の許可を必要とする。私立学校は州法による。私立の国民学校は、その内的組織が公立学校より劣っていないときにのみ認められる。
 39条 全ての学校において、人格的公民的な徳性と道徳的陶冶がドイツ国民性の基礎の上に求められなければならない。公民科は全ての学校の教授対象である。生徒は就学義務の終了時に、憲法の写しを受け取る。
 40条 宗教教授は学校の正規の教授対象である。
 それは学校法の規程するところによる。宗教教授は当該宗教団体の教義と規則に一致して行われる。教師は宗教教授及び教会の行事に参加する必要はない。生徒は教育権者の意志に反して宗教教授に出席したり、教会の祭祀や行事に参加することを強制されることはない。
 41条 大学の神学部は存置される。(9)

 表面的には社会民主党の「敗北」であった。しかしむしろ社会民主党の側で歩みよったというべきであろう。4月2日に社会民主党の提出した草案は、細かい字句以外の内容的な相違は全くないからである。そればかりでなく、憲法委員会草案の40条の内容につけ加えて「宗教団体は一定の隼令に達した子供に対して宗派的な宗教教授を学校の内で教授計画に従って行うことができる」という規程を設けていた。(10) 社会民主党の意図が、学校側は宗教教授に直接タッチしない、ということであったとしても、この規程は当然の帰結として「宗派学校」に道を開くものであった。この段階で社会民主党は大勢として「宗派混合学校」へと傾いていたことを示している。(11)
 さてこの草案は、当然のことながら以前の憲法と比べて大きな相違をもっていた。(但し、ドイツ憲法は教育条項をもっておらず、州憲法に委ねていたので、ここではプロイセン憲法と比べる)
 第一に、共和国憲法が教育制度の原則を定めたことである。そしてより詳細な規程をもった「全国学校法」を予定したが、すぐには実現せず、政策的に揺れることになる。
 第二に、教材の無償、学校への国の監督、学校制度の組織的上構、才能による進学、貧しい者への援助が新たに決められたことである。これらは統一学校を実質化するもので、実施されれば大きな前進面であった。
 第三に、ドイツ国民性による教育を規定したこと。
 第四に、「公立の国民学校の設立に際しては、できるだけ宗教上の関係が顧慮されなければならない」という宗派学校の上構が削られていることである。もし、社会民主党がこの線で決着をつけることができれば、統一学校運動は大きな相違をみせることになっただろう。しかし、既に1918年7月29日、30日の全国会議で宗派学校の維持を決め、(12) 社会民主党をここまで譲歩させてきたカトリック政党の中央党は、更に6月6日に次の提案を行って攻勢に出た。
 国民学校は親あるいはそれ以外の教育権者の意志によって、その宗派の教師によって子供が教育を受けられるように設立されるべきである。(13)
 この提案に基づいて、社会民主党と中央党の所謂「学校妥協」が行われる。形式的にみれば、社会民主党は宗派学校を認め、中央党は宗派混合学校原則、世俗学校の設立を認める、というのがその内容であった、その結果として
 146条(1)子の入学については──宗教上の信仰を標準とすべきでない。(2)しかし、市町村においては教育権者の申請に応じて、秩序的学校経営が第一項の意味においてもそこなわれない限り、その信仰または世界観の国民学校が設立されなければならない。
 149条(1)宗教教授は世俗学校を除いて、正規の科目であるという条項がつけ加えられたのである。(14)  「妥協」により成立したワイマール憲法の教育条項は矛盾に満ちたものであった。特に宗教教育の規程は全ての勢力にとって不満なものであった。独立社会民主党や共産党はいうまでもないが、当事者である社会民主党においてもそれを承認する会議で、60名中25名が反対し、承認そのものが危うかった。(15)こうした不満は「徹底的学校改革者同盟」を創立させる力となった。  一方「妥協」をかちとった宗教界でも、9月1日に「第一回ドイツ福音派教会会議」が開かれ、宗派混合学校を標準とし、世俗学校を認めたことを非難、更に11月12日に開かれたカトリックの「司教会議」は、憲法が教会の不変の権利を侵害した、と表明した。(16) このように歓迎されざる憲法が、それが「民主的」といわれようとも、早晩崩壊していくのは必然だったといえよう。特に教育目的として「ドイツ精神」と「宗教」という両立しえない目的を掲げたことは、何らかの「解決」を迫るものであった。ナチスという歴史的に最も不幸な形で「解決」されたことは周知の通りである。
 しかし、現実問題として宗教は国民の生活に根付いていた。いかに科学的に宗教を否定し、宗派学校が国民を分裂させるものである、と説いても国民の多くは宗派学校を望んでいた。1920年以降多くの父母協議会(Eltermbeiräte)がつくられていくが、ベルリン、ハレ、フランクフルト、ブレスラウの4都市でみると、1924年で78%、26年で72%が宗派的な父母協議会であった。(17)
 「遅れた親」という規定が理論的には可能であったとしても、現実を動かすには別の事実の進行と論理が必要だったのである。

<註>
  1.  Max Quarck 'Schulkämpf und kompromiße im deutschen Verfassugswerk' in "Die Neue Zeit" 1919-20 s7
  2.  1918年11月15日にエ一ベルトが任命した。S. Müller "Die Höhere Schule Preußens in der Weimarer Republik" 1977 s35 但しこの本では第一回草案が1919年2月21日になっている。s35
  3.  山田殻『ドイツ近代憲法史』 p88
  4.  Max Quarck a.a.O. s7 クワルクは社会民主党多数派に属して教育政策の立案に参加していたが、統一性と無償性に賛成しながらも、世俗性については積極的でなかったといわれている。そして社会民主党側の審議委員であって、「学校妥協」に直接関与した人物である。Wittwer a.a.O. s86
  5.  Max Quarck a.a.O. s7
  6.  Max Quarck a.a.O. s8
  7.  Müller a.a.O. s35 国家的結合と地方の自治を統一しようとした試みとミュラーはフロイス草案を評価している。「プロイスは教育問題を国家の事項(Staatsgelegenheiten)とは考えなかった。」s37
  8.  Max Quarck a.a.O. s8-9 尚プロテスタントは「意思に反して」、カトリックは「明示された条件に反して」強制されない、と規定されているが、教育法上の相違はないといえよう。
  9.  Max Quarck a.a.O. s31-32
  10.  Max Quarck a.a.O. s33
  11.  しかし、ザイフェルトのように委員会で世俗学校を主張するものも当然いた。
  12.  Günther "Geschicter der Erziehung" s37
  13.  Max Quarck a.a.O. s37 この時点ではまだ社会民主党は宗派学校については賛成していなかった。しかし、中央党に大きな襖を打ち込まれたことは否定できない。Wittwer a.a.O. s93
  14.  ワイマール憲法の教育条項の成文は、宮沢俊義編『人権宣言集』岩波文庫 p209-213 Wittwerによれば、当時プロイセンはほとんど宗派学校であり、ヘッセンに宗派混合学校があった。しかし、世俗学校はほとんどどこにも存在せず、紙上の要求(Ein papiener Anspruch)であった。Wittwer a.a.O. s101 ドイツの各州は、憲法をもっていたが、そこで教育条項をもっている州と、教育に関する規定は法律や条例で処理する州とあったが、プロイセン、ザクセン、ヴュルテンベルク、チューリンゲン、ヘッセン、ハンブルク、アンハルト、ブレーメン、リッペデットモルト、リューベック、ヴァルデック、リッペ=シャウムブルクは、独自の憲法教育条項をもつことがなかった。
     次に独自の憲法条項をもっている例を挙げておく。戦前の文部省の資料によるので、翻訳の文体を口語風に改めた。
    • バイエルン(1919.8.14)
       第21条教育、教授及び陶冶に関する公立諸施設の規制及び促進、及び私立の教授、教育の諸施設の認可、及び監督は州が所管する。公立国民学校は州の施設であることを原則とする。
       (2)父兄及び就学児童の責任者は法律の規定する義務教育年限中児童を就学させる義務をもつ。
    • バーデン(1919.3.21)
       第19条 学校は州の法律及び監督に従うものとする。宗教教授の指導は教会及びその他の宗教団体が行う。
      その教授は学校法の規定するところによって行う。
       教員はその宗教的信念に反して宗教教授又は教会的儀式の採択を強制されることはない。また生徒は父兄の宗教的信念に反した宗教教授、又は教会的諸行事に参加することを強制されることはない。
       州の法律及び徳儀に反しない目的の団体に所属することをもって教職を解かれることはない。
       高等の公立学校及びそれと同様の教授目的をもった私立学校に入学するか、或いは精神的又は身体的虚弱或いは道徳的欠陥等の原因により、就学できない者以外は、すべての児童は公立国民学校に入学すべき義務をもつ。
       私立学校の入学が、前項の規定する所によって許容される限り、州文部省の認可を経て、私立学校を設立することができる。
       国民学校及び補習学校の教授は無月謝とする。
       貧困な児童に対して市町村は必要な学用具を給与する。公立高等学校及び大学、専門学校では、能力の優れ、学資の乏しい者に対しては月謝を免除する。
       第67条 私立の国民学校教授施設は、公立に変更されない限り、遅くとも1925年の復活祭までには廃止されるものとする。
    • メックレンブルク=シュヴェーリン(1920.5.17)
       第18条 芸術、学問及びその教授は自由とする。州はこれに保護を与え、その発達に協力する。
       第19条 青少年の陶冶は公立の施設によって行うものとする。
       一般に就学の義務があり、義務の範囲及び年限に関しては法律をもってこれを定める。義務教育は州立又は州によって認められた学校に於いて行われるものとする。
       第20条 学校は補習学校をも含めて、統一学校及び無月謝、学用品の無料給与の原則に関する特別の法律を規定する。
       学校は全て州の監督下にあるものとする。公立学校の教員は州官吏としての権利及び義務を持つ。
       第21条宗教教授は無宗派(世俗)学校を除き、正規の学科目とする。宗教教授は学校法が規定する。宗教教授は当該宗教団体の原則と一致すべきであり、但し州の監督権を阻害することがないことを要する。
       宗教教授の方法及び教会礼拝の採否は教員の意志の自由によるものとする。宗教教授の科目、教会例祭及び行事の採択は、児童の宗教教授を規定する者の意志表示によるものとする。
       大学の神学部は存置する。
    • ブラウンシュバイク(1922.1.6)
       第6条 両親の経済的及び社会的位置又は宗派の如何に拘らず、児童はその素質及び能力に応じて州の費用をもって、教育されるものとする。中等及び高等の学校への入学は、その素質及び性向にのみよるようにし、両親の経済的及び社会的位置によって決定されてはならない。
    • オルデンブルク
       第22条 学校は州の立法及び監督に従うべきものとする。
       第23条 学校は青少年に一般の人間的、公民的、宗教的、倫理的陶冶を与えうるように組織すべきであり、しかし児童を父兄の意志に反して宗教教授に参加させることはできない。国民学校は福音派とカトリック派とによって分ける。他宗派の児童及び如何なる宗派にも属さない父兄の児童に対しては、法律の定める所によって公立学校を設立することができる。
       教員養成は、大学に於いて行われない場合は、法律によって宗派別に行われるものとする。
       第24条 カトリック派の学校における宗教教授は、カトリック教会が監督するものとする。福音派の宗教教授に関しては、福音派の僧侶をも含む委員会を通して、学校に協力するものとする。
       第25条 教員が良心的考慮によって、不可能であることを表示する限り、教員に宗教教授を強制することはできない。
       第26条 中等及び高等学校における教授は、国民学校に基づくようにし、能力によってどの学校にも入学できるように学校を組織する。児童の学用品の無料給与に関しては別に法律をもって定める。
    • メグレンベルク=スツレーリッツ
       第38条 一般に就学の義務がある。児童は8学年教授を受けるものとする。
       初等教授は州又は市町村によって設立された公立学校に於いて行われ、如何なる住民の子弟もこれに入学するものとする。月謝無料は新たに制定される学校維持法によって保障されるものとする。高等学校の予科及び予備学校は廃止される。
       公立学校への入学免除は、学校官庁のみが許すことができる。州は試験委員がその能力ありと認めた生徒のすべてに高等学校への入学を可能にし、必要な時はこれに学資金を給与する。
       学校の発展は統一学校の意味において行われる。
       補習学校及び職業学校は、当該地方の要求に応じて組織されるものとする。
       第39条 学校監督は専門的教育を受けた者によって行われなければならない。
       州の全ての学校は州官庁、教育部の監督下にあるものとする。
       第40条 教育費負担に関しては、他の法律的規制をみるまでは、従来の法律を適用する。市町村がこの教育費を所定の範囲に於いて負担することができない場合は、州はその費用を負担するか又は適当な補助を与えるものとする。
       文部省教育調査部『教育制度の調査第5輯』 p38-41
  15.  Monumenta.W゚ a.a.O. s201
     Hans Bretgoff, Holgen Erhardt, Renate Ramb 'Theorie und Praxis der Arbeitergemeinschaft sozialdemokratischer Lehrer und Lehrineen 1919 − 1922' in "Lehrerschaft, Republik und Faschismus 1918 − 1938" herausgegeben von Krausevilmer 1978 s39
  16.  Monumenta.W a.a.O. s202 又私的団体である「ドイツ教育会議(Deutsche Ausschuß für Erziehung und Unterricht)1919.9 − 10」は妥協を実りあるものでもなく、合目的でもない、と批判した。dES No 8 − 9 s246
  17.  "Pädagogische Lexion" herausgegeben von Heilmann 1928 s1074

都市宗派的世俗的
ベルリン192441881050
192639191500
ハレ1922175165
1924180*441
1926260*40
フランクフルトa.M.1924384201
1926360250
ブレスラウ1922456254
192453698
1926401118
* この数字は不自然なので誤りであろう。

(4)予備学校の廃止と国民学校の再編


<都市の学校改革状況>

 ワイマール憲法は8月11日に成立し、14日公布されたが、それに先立って春頃から各州で学校改革が進行していた。そして、憲法によってその動きが促進された。また、この間の改革を規定したものとして、6月28日に調印されたベルサイユ条約を忘れることはできないであろう。
 まず改革の動きを概観してみよう。
 第一の動向は国民学校のなかに進学者用の促進学級(Förderklasse)が設置されていったことである。(1) 調べることのできた44都市の中で、促進学級が設置されなかったところは、バルメン、ブラウンシュバイク、ブレーメン、カッセル、ケルン、デュッセルドルフ、ハンブルク、カールスルー工、ケーニヒスベルク、ポツダム、ロストックの11都市のみであり、1919年11月までに73%の都市で進学者用特別コースが国民学校内に作られていた。(2)
 第二に、中等学校の「予備学校(Vorschule)」が次第に廃止されでいったことである。同時期に廃止されていた都市は20都市に及んでいる。(ブレーメン、カッセル、ケルン、ダルムシュタット、デッサウ、デュッセルドルフ、エルベルフェルト、エルフルト、エッセン、ハレ、ハンブルク、マンハイム、ノイケルン、オップェンバッハ、ロストック、シュパンダウ)しかし、この方は45%にとどまっている。
 一方、統一学校の理念の現実的な裏付けとなる教育費の無償はあまり進んでいなかったことを指摘しておく必要があろう。無償が明確なのは16%にすぎなかった。(ベルリン、ウィネスドルフ、ブレーメン、エルフルト、ハンブルク、ハノーバー、ポツダム、ロストック)(3)
 ワイマール憲法は、学校体系を組織的に上構することと、私立の予備学校を廃止することを規定したのであるが、その中で優秀児のための改革が進み、無償化が進まなかったことは重要なことがらであろう。もちろん、敗戦と賠償の負担を考慮する必要はあるだろうが。

表1 1919年における各地の改革進行状況
都市 A B C D E F 備考
Altona    
Barmen      教師志望者学級
Berlin       
Berlin-Wirmersdorf      
Bochum      45人学級
Brandenburg       
Braunschweig        
Bremen      
Breslau      手工
Cassel       
Cüln       
Darmstadt     
Dessau      
Düsseldolf      改革進行
Elberfeld      
Elbing       
Erf urt     
Essen     
Flensberg       
Frankfurt.a.M      手工
Freiburg       
Fürth     
Gelsenkinchen       
Hagen     
Halle       
Hamburg     
Hannover     
Karlsruhe       
Königsberg        
Magdeburg      
Mainz       
Manheim       
Münster      40 人学級
Neuköllen      
Nürnberg       
Offenbach     
Plauzen       
Potzdam      36人学級 
Rostock     30 人学級
Saarbrüchen       
Spandau       
Stettin       
Wiesbaden       
Zwickau       
A 予備学校の廃止
B 授業料の無償
C 教材の無償
D 能力別学級
E 進学促進学級
F 遅進児促進学級(4)

 ワイマール憲法が制定される以前の州段階での改革の中で、ザクセンの改革が最も進んだものであった。先述したようにザクセン人民議会では、学校改革に関する闘争が行われていたが、保守派の攻勢にもかかわらず、1919年7月22日に比較的前進的な「国民学校制度の移行法(Übergangsgesetz für das Volksschulwesen von 22.7.1919)」を制定した。これは18章104条に及ぶ長大な法で、教育目的、学校制度、行政組織、学校運営、教育課程の全般に及ぶ規程をもっており、翌23日に実施令が出された。
 簡単に内容をまとめると、国民教育の目的として、肉体的精神的道徳的諸能力を高めることと共に、共同体(Gemeinschaft)への奉仕を初めに掲げている。更に継続教育の目的として職業教育のみならず、公民教育を重視した。
 義務就学は国民学校8年と継続学校3年(定時制)とし、国民学校は全ての者が社会的地位や財産・宗教に関わりなく通うとされた。(5)
 宗教教授は公立一般国民学校では行われないと定められた。もっとも、提案によって宗教教授を宗教団体に任せることができる、とされているので、完全な世俗学校とはいえないが、学校が直接宗教教授に関与することがなく、まして宗派学校が認められる余地がないことになり、憲法よりずっと革新的なものであった。更に教会の地方学校監督の廃止が確認され、教師の任用に宗派は顧慮しないことが明示された。
 授業内容としては、ドイツ語・郷土・歴史・地理・自然・算数・幾何・音楽・図画・体育・家政(女子のみ)が掲げられた。そして実施令において「国民学校は国民共同体の全ての部分に親しみやすいような陶冶内容を伝えるのでなければならない。その教授は全方法において祖国民族性に従ってなされなければならない」と補足されていた。(6)
 この法は教育目的が少々あいまいであり、ドイツ民族精神との区別が不明瞭であること、中等学校制度の改革が充分視野に入っていないなどの欠陥があるが、国民学校段階の統一性については、宗派学校を廃止したこと、全ての者が通う4年制の基礎学校を設けたことによって大きく前進した。独立社会民主党の力も強く、社会民主党が多数をとっていたことがこのことを可能にしたといえよう。(7) そして、何よりも学校に宗派的な分裂を持ち込まないことが、統一学校にとって不可欠なだけでなく、教育改革のための統一戦線の結成にとっても不可欠のことであることが示された。
 しかし、先にみたようにザクセンのような改革は例外であった。予備学校の廃止と進学者用のコース、これが主要な改革動向であった。ではそれをもたらした真の原因は何だったのだろうか。
 支配階級が戦争中に戦争の教訓として把握したことは、学校教育が力であり、教育によって国民に祖国愛を形成していかなければならないということであった。(8) しかもこのことは社会民主党のイデオローグ、H.シュルツにおいても同様であった。(9) しかし、戦争中にはこの認識は多分に楽観的なものであった。戦後の中等学校制度の検討を集団で行った著書の序文で、1916年に枢密院事務官のK.ラインハルト博士は次のように書いていた。

 やがて、闘いは勝利するだろう。自由と独立、そしてドイツ国民の一体性がもたらされるだろう。(10)
 そして、宗教・愛国心の必要性を説き、戦争がそれをもたらした、と語ったのである。(11)
 デウスの「ドイツ統一学校」という著作が出されたのも同じ年であり、ここでは統一学校の可能性が楽天的に論じられていた。(12) しかし、敗戦・革命・ベルサイユ条約という悪夢の連続によって支配階級はこの楽天性をすて、教育改革への切実な要求をもつに到る。このことが現実に行われれた改革の質と内容を規定した。資本主義社会においては、教育が繰り返し変革されなければならないのであるが、従来の支配の構造と、労働力の養成がそのままで機能しなくなったことが認識されたとき、支配者の手で学校改革が行われてきた。この危機を最も政策的に的確に理論化したのがケルシェンシュタイナーであった。1920年の全国学校会議で、統一学校についての基調提案を行うなど、その位置は戦後の体制的イデオローグといってよいであろう。「予備学校」の廃止は、国民的一体感を公民教育を通じて形成する、というケルシェンシュタイナーの議論を制度的に保証するものであった。(第4章で詳説)

<註>
  1.  促進学級は障害者あるいは遅進児のためのものもあったが、数は非常に少ない。
  2.  カルゼンによれば、ドイツ学校制度を統一しようという試みは、社会主義鎮圧法に対抗して新しい共同体的な社会秩序を求める努力によってなされたが、1900年1月26日の帝国勅令によって、中等学校の新しい編成の試みが自由になり、その顕著な事例として、ベルリン英才学校をあげている。しかし、カルゼンはこのベルリン英才学校を国民大衆によって生み出されたものではなく、恩恵であると評価している。F.カルゼン『現代ドイツの実験学校』小峰総一郎訳 明治図書 p97-103
  3.  dES No 12 の記事による。カルゼンは中等学校の上級の流動化が進んだことを紹介している。カルゼン前掲 p108
  4.  ザウペによって各地の状況を整理すると次のようになる。
    ベルリン才能ある者のための学校設立。そこでは知能テストが実施された。
    ライフツィッヒ国民学校修了の優秀者を大学に進学させるため5万マルクの予算化。職業学校の充実。
    エルザス=ロートリンゲン国民学校から中等学校への進学保障。しかし、あまり早く分化させるべきではない。
    ケーニッヒ上構学校設立への動き。
    ハンブルク統一学校への方向性。平等な学校の志向。
    シャルロッテンブルク国民学校の能力別編成。
    ブレスラウ優秀な子どもは3年で中間学校へ。
    ケーニヒスベルク26人の優秀児を5つの国民学校から集めて、中間学校へ入れた。
    エルフルト親に200マルクの援助。反対者も多く問題になった。
    マンハイム優秀児への多様なコース。活気があると報告されている。
    ザールブリュッケン中間学校の整備。国民学校3年で。
    ケルン予備学校の廃止。国民学校の能力別編成。
    デュッセルドルフ優秀児のコース。
    エルバーフェルト優秀児は国民学校3年で中間学校へ。
    エッセン国民学校に特別クラス。
    キール9年の国民学校。予備学校廃止せず。
    フランクフルト国民学校に中等学校進学コース。
    ハレ国民学校の優秀児は自由に中間学校に進学でき、補助。
    Saupe a.a.O. s47-63
  5.  基礎学校は施行令によって4年と定められた。
  6.  dES N04 - 5 sl33 − 138
  7.  Monumenta. W a.a.O. sl44
  8.  Wilhelm Schremmer "Die deutsche Schule auf deutschen Grundlage" 1916 s2 − 4
  9.  Heinlich Schulz 'Karl Marx und die Pädagogik' in "Die Glocke" Jg4 1918 sl56
  10.  Karl Reinhardt "Die deutsche höhere Schule nach dem Weltkriege Beirage zum Frage der Weiterentwicklung des höher Schulwesens" 1916, s111
  11.  Reinhardt a.a.O. s2
  12.  J.Tews "Die deutsche Einheitsschule" 1916 戦争中の動向については、Gerd Hohendorf "Die pädagogische Bewegung in den ersten Jähren der Weimarer Republik" に詳しい。

<国民学校の貧窮と中等学校の水準低下>
 しかし、教育の質的水準の改題もそれに劣らず切実な改題であった。
 第一次大戦前、国民学校の92%は「貧民学校(Armenschule)」であって、1912年に625万人の生徒がいたが、教師は9万8千人でその比は1対65であり、しかも100人から120人の生徒がいる単級学校もめずらしくなかった。(1) 戦争によってこれが更に悪化したことはいうまでもない。それで国民教育そのものを成り立たせるために、教育条件の向上を図らなければなかった。予備学校を廃止した段階では、不可欠のことであった。
 1921年のプロイセンの統計によって、戦後の状況をみておこう。
 単級学校は依然として全体の36.54%にのぼっている。それに対して、8学級の国民学校、つまり全く複式にならずに済むのは、12.49%にすぎなかった。また、複数の学級がありながら、教師数が学級数より少ない学校が24.6%もあり、したがって61.22%の国民学校は全く劣悪な条件の下におかれていたということができる。施設の保有状況では、校庭62.3%、校園8.6%、工作施設4.74%、家政施設6.8%となっていた。(2) 戦前に比べて改善されたとはいえ、まだまだ劣悪な教育環境であった。真に解決されなければならない教育改革の課題は、第一にここにあった。1922年に「全国学校法」が議会で議論されたとき、クララ:ツェトキンはそれを指摘した。しかし、それにもかかわらず、国民学校の充分な向上より先行して、優秀な生徒を中等学校に進学させるための措置がとられたことに、この時期の改革の階級的性格が現れていた。
 一方、中等学校の教育水準は十分に高かったのかというと、これも必ずしも満足すべきものではなかった。
 当初中等学校の教師であったエストライヒは次のように書いている。
 学校は特定の社会階層の子弟を教育するという目的をもっていたがゆえに、せいぜい中位の才能あるものに調子を合わせねばならなかった。そもそも将来の実社会での活動といっても、ほどほどの理解力しか必要としなかった場合に、一体学校がどうして高い才能を生徒に要求する必要があるであろうか?(3)
 さて、予備学校の廃止は簡単に行われたわけではない。(4) 予備学校は初等教育とは異なる中等教育の異質性を示す土台のようなものであり、カリキュラムも中等学校への準備のために編成され、国民学校とは異なっていた。しかも、その特権的地位のために中等教員が改革に対して最も保守的だった。
 しかし、やがて中等教員の間からも予備学校に対する否定的な見解が出されるようになった。プロイセン=フィロローゲン連盟は、1919年5月11日、12日に代表者会議を開き、次のような共通見解をまとめた。
  1.  基礎学校は4年を越えず、才能ある者は3年で上級学校へ進学できる。
  2.  予備学校は廃止する。
  3.  中等学校は
    改革ギムナジウム(Reformgymnasium)
    上級実科学校(Oberrealschule)
    改革実科ギムナジウム(Reformrealgymnasium)
    上級リツオイム(Oberlyzeum)
    の4つに分かれる。
  4.  9年制ギムナジウムは廃止する。
  5.  学校間の移行の保証
  6.  教師の給与は任用資格による。(5)
 この見解の特徴は、既成の中等学校の地位は確保しながら、統一学校についての世論に予備学校廃止と学校間の移行のみで対応し、教員の統一性には背を向けることである。もっとも、この見解ですらギムナジウムの教員としては先進的なものであって7月5日のオルデンブルク=フィロローゲン連盟の要求には予備学校の廃止は含まれていないのである。(6)
 しかし、部分的にせよ集団の意志として上のように主張するに至った事情は何か。まず何よりも前世紀以来、そして11月革命以来の統一学校の主張により、統一学校原則、その第一歩としての予備学校の廃止が世論として形成されていたことである。1919年前半期に多くの統一学校案が出されたが、エルンスト=フォックがまとめたものによれば、15案中1つのみが予備学校を前提している。(7) そして、基礎学校に関する対立点は、3年、4年、6年のいずれにするかという点に集中しているのである。(8) いうまでもなく統一学校がこのように世論となったのは、その体制的性格によるのではなく、機会均等、教育の平等の原則と結びついていたからであった。
 さて第二の理由は、支配階級が自分の階級の中で人材を再生産することができなくなってきた。つまり複線型体系が機能しえなくなっていたことである。
 テウスは1920年にいくつかの年のギムナジウムの生徒の大学入学資格(アビトゥアと呼ばれる中等学校卒業資格)の取得状況を調査したが、全体として予備学校のあるギムナジウムでは全生徒の4.16%が取得している一方、予備学校のないギムナジウムでは7.21%となっていた。そこからデウスは、統一学校は国民学校より中等学校に対して大きい利益をもたらすと結論付けたのである。(9) リットも「才能のないやっかい者を中等学校が抱え込むのはよいことだろうか」といって、中等学校の現状を批判した。(10)
 実際19世紀以来中等学校において成績の悪い生徒の問題が深刻化しており、そこから「才能ある者に自由な道を」というスローガンが生まれていたのである。その具体化のために、国民学校に特別コースをつくり、中等学校への進学を認めるマンハイムシステムが生まれ、戦争中にベルリンに国民学校から進学させる「英才学校(Begabtenschlule)」が創られた。(11) 更に1916年8月30日に国民学校から中等学校の第6学級(9年制ギムナジウムの最下級)への編入を認める措置がとられていた。(12) こうした背景の下に、親の経済的社会的地位によって進学した者より、実力によって進学した者が実質において優位にたっていることがテウスによって明らかにされたわけである。このことは、不平等な教育は教育全体の質的低下をもたらす、ということを我々に教えてくれる。
 こうした世論を背景に1920年4月28日「基礎学校と予備学校廃止についての法(Gesetz bereffend die Grundschule udn Aufhebung der Vorschule)」が成立した。この法は
  1.  国民学校は全ての者に共通な4年の基礎学校を含み、その上に中間学校、中等学校が続く。基礎学校は上級学校への準備課程とする。
  2.  公立の予備学校は直ちに廃止する。
  3.  廃止にともなって教師は国民学校、中等学校に配属する。
  4.  家庭における教育を認める。
  5.  障害者のための学校、クラスは上の適用を受けない。
と決めた。これによって予備学校は法的に廃止されることになった。(13) しかし、予備学校の廃止を3年猶予し、しかも廃止の対象を公立予備学校に限定した。更に1923年には優秀な者は基礎学校を3年で修了することができるという留保がつけられた。(14)
 但し廃止の猶予によって速度が鈍ったとしても、公立予備学校は確実に減少しはじめた。1921年11月にプロイセンでは、予備学校の第一学年級(最上級で、廃止前に入学している)が12,195人いたが、第二、第三学年級は400人、317人となっており、(15) 制度としては社会的意味を失ったといってよいであろう。これによって初等教育は形態的には一体化され、労働者階級に対して行われた教育によって、初等段階全体がおおわれるに至った。それとともに一体化されることによって初等教育が選抜機関という社会的機能を担うことになった。義務就学の統一段階が上昇するにつれてその機能を担う段階も上昇するであろう。

<註>

  1.  Paul Ruschtz 'Die Schule in alter und neuen Zei' in dES No 6
  2.  “Das Preußisches Schulwesen" 1926 この工作施設の設備状況から考えてみて、ケルシェンシュタイナーの労作教育が労働技術に重点があったのではないことがよくわかる。
  3.  エストライヒ『弾力的統一学校』1921 中野光他訳 明治図書 p414
  4.  このことは、フランスをみるとよくわかる。フランスで完全に廃止されたのは1960年代のことである。
  5.  'Entschließungen des 41.Vertretertags der prueßschen Philologenverein' dES a.a.O. s172 フィロローゲンとはラテン語・ギリシャ語の教師のことで、中等教員の中心である。
  6.   'Forderungen des Oldenburger Phiologenvereins' dES a.a.O. sl72 − 173
  7.  Ernst Fock "Die Einheitsschule=Bewegung" 1919
  8.  3年を主張する者は、「選抜機能」を重視し、6年を主張する者は「一体感の形成」を重視するといえる。4年はその調和を目指している。
  9.  J.Tews 'Umschau' in "Die Deutschschule Monatsschrift" 1920. s31
  10.  Theodor Litt 'Die höhere Schule und das Problem der Einheitsschule' in "Monatsschrift für höhere Schule" 1919 s287
  11.  E.Schwarz 'Die Einheitsschule differenziere nicht die Schuler nach der Veranlagung der Schuler ' in "Die Neue Erziehung "I921 . sl9 − 20
  12.  Pestaloza 'W.Rein' in dES No 1 s11
  13.  'Politik und Schule' U s75 − 76
  14.  長尾十三二は、この第二点によって統一学校理念が挫折したとしているが、むしろ第二点を許すところに「統一学校運動」の本質があったとみるべきである。長尾十三二「ドイツにおける統一学校運動の消長」『世界教育史体系25中等教育U』 p222 もちろん労働者階級が求めた統一学校に反していたことは当然であるが。
  15.  "Preußische Statistik" s95
     尚、ワイマール憲法では、私立の予備学校の廃止が決められ、1920年法では公立のみが規定されていることの厳密な法解釈はよくわからない。Bictor Bredtの憲法注釈は何ら触れるところがない。しかし、存続したのみでなく、私立の予備学校は1920年以降増加した。

<全国学校会議>

 さて、1920年の4月に「予備学校廃止法」が公布され、統一学校は一歩前進したが、6月11日から19日まで、「全国学校会議」が開かれ、統一学校の論議はここで頂点に達した。この会議は3月に予定されており、それをふまえて「全国学校法」を制定するはずであったのが、カップ一揆のため延期されたものである。しかも、この会議の直前の6月6日の総選挙で社会民主党は163名から102名へ、民主党は75名から39名へと大敗北を喫し、ワイマール連合の主導権はさらなる後退を余儀無くされた。(1)
 では全国学校会議での討論をみておこう。

 初めに登場したのはビンダー(Binder)である。
 ビンダーは統一的精神と多様な分岐を統一学校の原則として提起する。
 全体として、我々はドイツ、ドイツ国民、ドイツ国家を考える。というのは個人はその能力の根を、自然的生活領域と活動領域に見いだすのであるから。(2)
 多様な分岐を主張するビンダーは、あくまで段階的な制度ではなく、国民学校・中間学校・学術施設(Studienanstalt)という三分岐を採る。それは、性格の異なった学校であり、しかし、才能によって進学するので「移行可能」でなければならない。(3)
 精神的に才能ある子どもを大衆から引き上げ、他の教育組織に移行させることは、才能ある青年を顧みることによるだけでは正しくない。全体性が保持されることが大切で、その為には遅れた者も移行することができることによって、全体性は保障されるのである。(4)
 ビンダーは一般教養をあまり重要視しない。国民学校や中間学校を職業陶冶の機関として位置づけ、職業陶冶の価値を高く見ることで、三分岐の平等を確保しようとした。(5) このような学校観は必然的に、学校の選抜機能性を重視することになる。ビンダーはそこで「教育科学」に人々の才能を正確に計ることを期待する。(6)
 次にビンダーは「親・教育権者」の基本的権利を主張する。(7)
 次に登場したのはカルゼンである。
 カルゼンはここに登場した統一学校論者では、例外的に「選抜」を否定する。KPD系の教育関係者は、シュルツヘの反対から会議をボイコットしていたので、統一学校を、才能ある者の選抜機能として評価する論者が多かった。それに対してカルゼンは明確に次のように述べている。
 基礎学校は中等学校への準備機関ではない。子どもを才能によって分けるという人は、知的才能のみでものを言っているのであって、そのことによる弊害はゲマインシャフト=アルバイトシューレにも現れている。(8)
 全学校制度が全国民に開かれるべきであって、「才能ある者に自由な道を」という原則を批判するのである。(9)
 ではカルゼンの原則は何か。
 新しい学校の課題は、肉体の陶冶・判断力のための理性の陶冶・実践への意思の陶冶・感情の陶冶である。(10)
 学校の組織については、次のような原則を掲げている。
  1.  幼稚園から大学までの統一的関連性
  2.  財産・地位・宗派・性によることのない全学校制度の開放
  3.  ゲマインシャフト形態に向けての可能な限りの個性化
  4.  学校は経済・行政・生活を考慮しての労働・生活共同体であり、それ故遊びから自覚的労働までの人間的共同行為の組織的発達の基本となる。
  5.  教師が要求し、親が賛同したら生徒は分化する。(11)
 このことからわかるように、カルゼンは分化自体を否定しているのではない。中等段階の上級では、実科的と学問的コースがあることを認めている。カルゼンは内的共同体を実現する、自己発見・自已表現の新しい教育方法が必要であるというのである。(12)  次はケルシェンシュタイナーである。
 ケルシェンシュタイナーは第二部で詳しく分析するので、ここでは簡潔に要約しておこう。
 教育は共同体の文化行為であり、したがって、公的な一般教育が基本である。他方、教育を受けることは文化共同体の一員としての義務であり、それ政義務学校は無償でなければならない。(13)
 生徒は能力・適性に応じて分化していくのであるが、統一学校としては「移動」が可能でなければならない。(14) ビンダーと同様、この分化を適切にするために、ケルシェンシュタイナーも心理学に期待する。ケルシェンシュタイナーによれば、心理学の課題は、成長段階の測定・適性の測定・教授方法の適切化である。(15)
 次にドッツ(Dotz)が登場した。ドッツは、才能による進学・移動の形式を統一し発達の多様性を保障する統一学校を主張する。(16) しかし、教育制度構想については、ケルシェンシュタイナーよりも一層保守的な案で、共通の基礎学校すら想定しないものであった。つまりドッツは明確に制度としての「統一学校」には反対であるが、才能ある者を引き上げるための「移行可能性」は賛成している。むしろドッッが重視するのは、統一的精神である。この点でドッツは重要な提起をしている。
 教育目的に関してドッツは次のように述べている。
 個人の意思が全体の意思になるということはなく、国民の意思(Volkswille)が国家に具体化されて全体意思になるのである。(17)
 つまりドッツは、私的意思の形成ではなく、全体意思の形成手段として「統一学校」を位置づけ、教育が全体意思の形成に寄与すべきであるとするのである。それ故、宗教教授が学校を分化させたり、身分によって学校が区別されていることは批判する。(18)
 次にテウスが登場した。
 テウス年来の主張である「ドイツ統一学校」が、外的・内的に統一されていなければならないと述べながら、テウスは中等学校を前期中等学校と後期中等学校に分割する案を提示している。(19)
 そして総会での討論になった。討論は特に題を規定するのではなく、個人が自分の統一学校論を自由に述べる形式で進められた。ここでは論点にそってまとめておこう。
 第一に「ドイツ」という国家と教育の関係である。ほとんどの論者は、ドイツ統一学校というデウスの主張にそった意見を述べているが、(20) 宗教の立場からは、反対意見が出された。
 宗派学校は権利の問題であり、憲法はその解決を試みているが、世界観の問題は強制すべきではなく二自由の余地を残しておくべきである。(21)
 注目すべきことは、「ドイツ」という国家意識のナショナリズム的危険性を意識した発言は殆どみられないことである。この会議での論議に関する限り、統一学校はドイツナショナリズムを助長したということができる。
 その例外的な発言をしたのはヴュネケン(Wyneken)である。ヴュネケンは、統一学校が教育的問題ではなく、政治的問題であることを指摘する。統一学校とは学校の社会化であって、それ以外のものではない。したがって、統一学校によって精神の生産(geistigen Produktion)という本質的なことが変わるわけではない。(22) ヴュネケンは古典的な人文教育でもドイツ的文化でもない、労働教育によって精神の生産が可能だという。(23)
 第二に、基礎学校の年数をめぐる問題である。ビンダーは国家によって統一が強制されることを批判し、あくまで自由な措置が求められ、基礎学校もしたがって、3年が適当であり、大事なのは9年制の中等学校を守ることであると主張する。(24) こうした「統一学校」反対論が、「統一学校論」として主張された。エストライヒが後ほど、このことを批判している程である。
 この意見に対する批判は当然多く出された。
 教師のアルツト(Arzt)は、妥協として6年制の国民学校もしかたないが、できる限り14歳まで共通に教えるべきであり、教育水準が低下するというのは学校の問題ではないとする。(25)
 ローデ(Rohde)は、国民学校の犠牲による中等学校の改革ではなく、国民学校の改革こそ重要であり、実効的な国民学校(leistungsfäge Grundschule)を欲しているとして、6年制の基礎学校を主張する。(26)
 第三に、才能による分化についてである。
 教師のケスター(Kösyter)は性向と才能は10歳頃から明らかになり、生徒には自由が確保されなければならないから、固定的学校類型を押し付けるべきではない、としてカルゼンを批判する。(27)
 エストライヒはこうした考えに激しく反発する。「今統一学校のことを言いつつ、統一学校でなくなるような議論をたくさん聞いた」と言いながら、全ての者に可能性が与えられなければならないと主張した。その為には「平等学校」でなければならない。(28)
 エストライヒによれば、「教育の自由」の主張者、あるいは才能による分化の唱道者は、家庭での教育を重要視するが、家庭での充実した教育が期待できるのは、裕福な階級だけであり、プロレタリアートの子どもは平等な義務的な施設が必要なのである。(29)
 結局この全国学校会議では、まとまった方向はついに出なかった。統一学校の分科会も同様であり、次のような意見整理を行ったが、雑多な意見の寄せ集めにすぎなかった。
  1.  4年制の基礎学校の上に次のようなコースを設ける。
    • 4年制の国民学校(共通コース)
    • 特に優秀な者のための中間コース(このあと6年制の中等学校、3年制の中間学校へ)
    • 4年制、6年制の中間学校。
  2.  6年制、8年制の基礎学校も可能にする。
  3.  人数の多い基礎学校では能力別にコースを設けることも可能にする。
  4.  ドイツ上級学校、上構学校を設立する。
  5.  ドイツ国民教育制度は全体として1つの目的をもつべきである。
 ようするに存在する意見を全てとりいれたのである。全てが満足し、全てが不満なまとめであった。教師・教育運動の統一の困難さがここにもみられるのである。

<註>

  1.  全国学校会議については、中山征一「社会民主党と国家学校会議」京都大学教育学部紀要19巻。 Hohendorf "Die Pädagogische Bewegung in den ersten Jahren der Weimarer Republik"
  2.  Deutsche Schulkonferenzen Band 3, Die Reichsschulkonferenz 1920. Ihre Vorgeschichte und Vorbereitung und ihre Verwandlungen, Amtlicher Bericht,erstattet vom Reichsministerium des Jennern 1972 ( 以下本書を Schulkonferenz 1920 あるいは Reichsschulkonferenz と略) s84
  3.  Schulkonferenz 1920 s81
  4.  Schulkonferenz 1920 s90
  5.  Schulkonferenz 1920 s91 − 92 しかし、ビンダーは中等学校については、原則的に承認している。
  6.  Schulkonferenz 1920 s86
  7.  Schulkonferenz 1920 s82
  8.  Schulkonferenz 1920 s111
  9.  Schulkonferenz 1920 s106
  10.  Schulkonferenz 1920 s98
  11.  Schulkonferenz 1920 s99
  12.  Schulkonferenz 1920 s102
  13.  Schulkonferenz 1920 s114 − 115
  14.  Schulkonferenz 1920 s116
  15.  Schulkonferenz 1920 s115
  16.  Schulkonferenz 1920 s129
  17.  Schulkonferenz 1920 s131
  18.  Schulkonferenz 1920 s132
  19.  Schulkonferenz 1920 s153−154
  20.  ファイト(Veit) Schulkonferenz 1920 s497 しかし、宗教関係者がすべてこのような意見だったわけではなく、「カトリック学校も統一学校のひとつであり、国家意識の形成に尽くす」という主張もあった。ヒール(Hierl)の意見。Schulkonferenz 1920 s500
  21.  Schulkonferenz 1920 s493
  22.  Schulkonferenz 1920 s494 ここでビュネケンはドイツ文化の強調が誤ったナショナリズムであることを批判している。
  23.  Schulkonferenz 1920 s458−459
  24.  Schulkonferenz 1920 s490
  25.  Schulkonferenz 1920 s505
  26.  Schulkonferenz 1920 s480−481
  27.  Schulkonferenz 1920 s481

(5)教員の要求運動と新しい中等学校の創設

<教員団体の要求>

 これまで、学校制度改革の主要な動向をみてきた。現実に行われた改革は、予備学校の廃止と教会の地方学校監督の廃止が主なもので、大きな成果をもたらしたとはいいがたいであろう。ワイマール共和国がドイツ革命の挫折から生まれたことの必然的な結果である。それにもかかわらず、ワイマールの学制改革が現代の教育構造を生み出し、今日なお継承すべき教育価値が生みだされたのは、教育運動の主体が大きく形成されたからであった。それは教育関係者のみならず、労働者、父母が教育全体に対する要求を提起し、集団的な意志形成を行うようになったことに最もよく表現されている。その中でも教育団体のめざましい活動は注目すべきものであった。1919年の初夏から各層の教員団体の集会や会議が頻繁に開かれ、それまで政党や労兵協議会が主体であった改革論議は、にわかに教員団体によって豊富な内容をもつようになった。あらゆる層の教師が集団意志として、教育制度全般についての意見を表明した。結局のところ、この運動は統一されず、個別的な運動にとどまったし、又多くの要求はむしろ対立していたが、このこと自体一つの重要な教育的事象とみてよいであろう。逆にいえば、要求が現実的な力に転化せず、改革を現実化することができなかったのは、「統一学校」を宣言しなければならない学校の現実を反映して、教師も階級的・宗派的に分裂していたからである。「教師の身分・養成・賃金の統一性」が要求として掲げられたが、それは一部にとどまったのである。
 これまで、各層別の教師の要求についてはほとんど紹介されていないので、教師の主体形成の前進面と限界を示すために、その要求を分析しておきたい。ドイツの初等教員を中心とする最大の教員組織である「ドイツ教員連盟(Deutsche Lehrerverein)」は、戦後いち早く1918年11月17日に会議を開いて統一学校の声明を出しており、(1) 教員団体としては最も強い統一学校支持勢力であったが、1919年6月10日から12日にかけて代表者会議を開き、大略次のような要求をまとめた。
  1.  国民学校は全ての公民に対する教育であって、最大限の能力・素質・心身の力を発達させることが課題である。
  2.  教育上の特権を廃止し、統一的な学校体系・行政にする。
  3.  6歳から18歳までの就学義務(最低8年の全日制教育)。学校制度は統一学校・無償・補償の原則により、4年の基礎学校の上の学校は互いに移行可能な措置をとる。
  4.  中等学校段階は多様にし、国家的に必要な領域によって分岐させる。
  5.  公立学校では、宗教教授は宗派に共通な部分を教え、他は宗教団体に任せ、生徒には強制しない。道徳教育は教育の最大の課題である。教会の学校監督をやめ、国の事務とする。
  6.  統一的な教員養成。専門教育と職業教育は大学で。統一的な給与・雇用。
  7.  私立学校を認めない。
  8.  障害児・貧しい者への特別な援助。
  9.  外的事項の協力の為の父母協議会。
  10.  教師団体の権利。
 ドイツ教員連盟と同じく初等教員を中心とする「プロイセン教員連盟(Freußische Lehrerverein)」は、これに先立って5月30日と31日に教員会議を開いて、ほぼ同趣旨の要求をまとめたが、基礎学校を6年とし、ドイツ上級学校を要求に加えた点が主な相違点である。(2)
 初等教員は教員の中ではもっとも低く位置づけられ、その養成も中等教育より下位に評価された教員養成所であったし、初等教育そのものが先述したように劣悪であったから、改革志向が強かった。
 この初等教員とも、先に引用した中等学校教員とも対照的なカトリック女子教員連盟(Verein Katholischer deutscher Lerhrerinnen und Verband Katholischer Oberlehrerinnen Deutschland)の要求をみてみよう。
  1.  教育の目的は宗教的道徳的な基礎を与えることである。したがって宗派的な基礎学校が核となる。
  2.  国民学校は普通児・優秀児・遅進児にコース分けする。
  3.  女子の教育の目的は婦人の課題を果たすことであり、共学は拒否する。
  4.  学校組織は国家組織の中に位置づけられ、統一的に組織する。
  5.  専門学校では職業教育を行なう。
  6.  4年制女子中間学校、リツォイム(高等女学校)、ドイツ上級学校から、中等学校へ進学できるようにする。
  7.  女教師に大学への道を開く。
  8.  給与を男女平等に。
  9.  既婚女性の採用を原則的に拒否する。(3)
 6月11日から13日にかけて代表者会議を開いたカトリック教員連盟(Katholischer Lehrer=Verband D.R.)の要求は、さらに教員養成も宗派的に行うこと、ドイツ上級学校を設立することであった。(4)
 カトリック教員は、抽象的に言われる限りでは統一学校を原則としては拒否しないが、それを現実化する個別要求には極めて消極的である。宗派教育が全てに優先し、ドイツ民族精神もカトリック教員の主張ではない。カトリック勢力は、中央党を介して、ワイマールの妥協を引き出し、実質的に大きな成果をあげていた。
 それに対してプロテスタントの教員団体(Verband deutscher evanglischer Shul=Lehrer und Lehrerinnen Verein)は各派に共通な宗教教授を行うこと、ドイツ国民性・ドイツ文化の教育を前面にすえること、産業社会という現実を直視して教育の内容を編成することなどの要求をだした。(5) このことから「教育目的」については、「宗派」と「ドイツ精神」が対立し、堀尾氏のいう「宗教的カテキズム」と「政治的カテキズム」は当初においては対立的に併存していたし、しかも後者は産業の教育への要請の政治的表現であることがわかる。早晩、資本主義が教育を支配するにしたがって、教育目的が後者に純化せざるをえなかった。(6)
 6月20日に社会主義教員連盟(Verband sozialistischer Lehrer und Lehrerinnen Deutschland und Deutsch-Oestereiches)が会議を開いた。その詳細はわからないが、要求の中心は学校と宗教の完全なる分離、世俗学校であった。(7)
 以上の団体の中で宗教についての見解が完全に異なっていることがわかる。しかも社会主義教員を除いて、全ての教員団体が宗教教授を望んでいた。宗派教育、ドイツ精神とキリスト教共通内容、世俗学校の対立は教育目的の抽象化された争いであった。
 1919年夏に、大学教育を受けた社会民主党系の中等教員が中心となって「学校妥協」に反対し「徹底的学校改革者同盟」を結成して世俗学校のために闘ったが、全体の教員の意識からみて、それは極めて困難な課題であったといわなければならない。しかし、逆にキリスト教共通内容に基づく宗教教授など現実には不可能なのであり、ここに「統一学校」の要求の現実的要請は存在した。これは後に「全国学校法」の闘いで試されることになるのである。

表21919年における教員団体の要求○は賛成、×は反対
要求内容
統」学校   
私学・学校選択の自由×     
基礎学校    
障害児のための教育      
宗教学校×         
統一的教員養成×       
大学での教員養成×    
統」的給与  ×  
教師の市民権      
教会からの分離×       
共学  ×  ××   
< A.ドイツ教員連盟 B.プロイセン教員連盟 C.カトリック教員同盟 D.福音派教員連盟 E.プロイセンフィロローゲン連盟 P.オルデンブルクフィロローゲン連盟 G.女子校改革案(カトリック系) H.ブランデンブルク教員養成所同盟 I.ザクセン職業学校連盟 K.ビュルテンブルク工業学校教師連盟
 Eの統一学校賛成は予備学校の廃止のみ。基礎学校についても優秀な者は3年という限定
 EFの給与については中等教員のみの増額を主張
 Iの教員養成では、専門的訓練を主張
 以上Deutsche Einheitsschule の記事より構成(8)

 次に多くの教員が望んでいたことは、教員の養成に関わる各々の要求と給与の改革であった。しかし、それ故にこそ教師の統一性をもっとも困難にする理由もここにあった。
 ドイツ教員連盟は給与の統一性、その前提としての大学での養成を要求したが、中等教員は賛意を示さないばかりでなく、給与は資格によって決めるという全く逆の要求を掲げていた。更にオルデンブルクのフィロローゲン連盟は、予備学校の廃止の後に、その教師の再配置が問題になることを予測して、「教員養成所出身の予備学校教師は中等教員として採用しないこと」という要求まで掲げていた。(9)
 一方、継続学校の教師や職業学校の教師は大学での専門教育とともに、中等教員と同じ待遇を求めていた。(10)
 特権の廃止を求める中等教員は、いまだ統一の基盤を見出すことができなかった。教育が人間の発達段階に即して行われるべきであること、発達の科学的研究によって明らかにされることが、統一の意識を形成するためには不可欠であり、それを保証するものが「大学における統一的養成」であった。初等教員の要求は次第に認められ、実現する方向に向かったといえる。初等教員は初等学校としての「教員養成所(Seminar)」で養成されていたため、大学に入学する資格もなく、そのために専門性が不充分であるという社会的評価が免れがたかった。それに対して、
  1. 一般教育を中等学校で
  2. 教育学、専門教育を大学で履修する
という養成構想が、統一学校運動の中で形成されてきた。先述したように国民学校の教師は不足しており、(11) 量的質的向上は緊急の課題であった。
 では教員養成所の教員自身はどのような主張をしていただろうか。「ザクセンゼミナール教員連盟(Sachsischer Seminarlehrerverein)」は11月25日に次のような要求をまとめた。
 教育の目的は、青少年が人格を発達させる共同体であるとし、そのために一方で教授の自由、学校の自治を主張した。又、国民教育の専門的な内容が高まってきたこと、教員の基礎として必要な心理学・社会学・教育学は大学で学ばねばならないことを根拠として、教員養成を主な目的の一つとする「ドイツ上級学校(deutsche Obershule)」を創設し、更に教員養成所を中等教育機関として再編成することを要求した。(12)
 8月9日から10日にエルフルトで開かれた「全ドイツゼミナール教員連盟(Deutscher Seminarlehrer=Verein)」もドイツ上級学校の設置と大学の協力を呼び掛けていた。(13) これらの要求はワイマール憲法に「教師の教育は高等教育(höhere Bildung)について一般に適用される原則に従い、ライヒについて統一的にこれを規律しなければならない」という条項に取り入れられていた。
 さて、残った職業学校、継続学校の教員の要求をみておこう。1919年5月30日、ウェルテンブルクの工業学校関係者は次のような要求をまとめた。
 未来の学校体系・統一的な公立学校体系の中に職業教育を位置づけ、その一環として、(1)高等工業学校(höhere Gewerbeschule)をつくること。(2)教員養成のための技術大学(technische Hochschule)を確立すること(14)
 職業学校は教育関係以外の産業関係官庁によって統轄されていることが多かったので、産業界に対する要求も含まれていた。この点については、1O月6日、7日にハノーバーで開かれた「ブロイセン工業=手工教員連盟(Verband preußischen Gewerbe=und Handels Lehrer)の会議でまとめられた次の要求によく表現されている。
  1.  職業教育は全教育の中で不可欠のものである。
  2.  職業学校の授業は昼に行われるべきであって、その間の賃金を不払にされないようにすること。
  3.  国の責任で教師の養成を行う。(15)
 継続学校の教師も大体同様の要求をしているが、「継続学校においても公民教育を重視すること、18歳までの義務就学を現実化するための職業学校をつくること、有能な非常勤の専門家を教師として採用すること」を加えている。(16)
 興味深いことに、職業学校・継続学校の教員の要求と、教育行政当局の課題意識は顕著に重なっているのである。当局者は先に実現した制度改革以外では、職業教育、実科教育の充実、及び公民教育の徹底を考えていた。(17)
 継続学校は19世紀後半から少しずつ作られていたが、1904年にプロイセンで法制化されて以来、急速に増加した。しかし、それは義務ではなく、ワイマール憲法の義務規程ができても実効は薄かった。表4によって1921年のプロイセンの就学率は24%にすぎないことがわかる。(18) 1923年7月31日の「職業学校(継続学校)義務の拡大についての法(Gesetz betreffend Erweiterung der Berufs-(Förtbildungs) schulpflicht)」と12月29日の通達によって義務就学が明確にされたが、それでも1926年に54.1%に上がったにとどまった。(19)
表4 14歳−18歳の就職率
職業14−18歳の人就職学校・継続学校に通学
農業866,000人4,923人( 6.68%)
工業906,000人552,532人(61.00%)
商業193,000人137,049人(71.00%)
定職なし123,000人17,492人( 1.41%)
3,200,000人756,303人(23.63%)

 継統学校、職業学校教員の養成学校の中心である実科教育については、あくまで職業教育を全ての者に与える、あるいは制度的に重視するというもので、普通教育との関係も含めた「教養」の変革という視点をもつものではなかった。ここで詳しく論ずることはできないが、労働者階級の要求する「労働と教育の結合」という要求とはまた異質なものであった。

<註>
  1.  Monumenta.゚ Teil 2 s215
  2.  dES No4−5 以下「要求」は全て筆者が本論文の主題に応じて選択・要約したものである。
  3.  dES No6 正確な日付が書かれていないのであるが、雑誌の日付が9月刊行になっているので、8月以前であることはまちがいない。
  4.  dES No4−5
  5.  dES No4−5
  6.  これはドイツにおいてという意味で、宗派的対立が公教育に直接持ち込まれない国では、教育目的は違った表現をとるであろう。
  7.  Monumenta.゚ Teil 1 s235
  8.  ザウペによって政党の統一学校への態度を簡単にまとめておこう。
     ドイツ国家国民党(Deutsch national Volkspartei)
    • 宗教教授の基礎にたって、国民教育(national Erziehung)をする。
    • 国民学校から中等学校への進学の経済的保障
     国家民主党(Die Nationaldemokratishce Partei)
    • 学校と職業の中での自由な人格の発達
     ドイツ国民党(Die Deutshce Volkspartei)
    • 中等学校は身分学校であることをやめる。
     中央党(Zentrum)
    • 統一的ドイツ国民教育という観点から体系を改める。
      宗教教授は残す。教授と学間の自由。学校制度の特権と身分制を廃止し、全ての才能が開花し現実化すること。
    • 「統一」とは身分的・階級的に分化していたのを結合させることである。
     ドイツ民主党(Die Deutsche demokratische Partei)
    • 親の財産・身分・信仰に関係なく、才能や教育意思によって教育を受けられる統一学校
    • 宗教勢力の排除
    • 教師身分の統一
     Saupe a.a.O. s68−70 USPD,SPDも紹介されているが、SPDの部分で扱う。
  9.  dES No4−5 もっとも後にはプロイセン=フィロローゲン連盟が1921年12月21日に州当局に対して、予備学校の教師の再就職を保証するように要求している。"Deutxhe Philologen=Blatt" 1922 s111
  10.  'Grundsätze für Neuordnugn des sachsischen Berufsschulverins-sachsischen Frotbildungsshulverein' 'Leitsäze des Vereins Württemburgischer Gewebeshulmänner 1919.5.30' dEs No 7
  11.  Paul Hoffmann 'Lehrerbildung im Rahmen der Einheitsshule' dES No2-3 s45
  12.  dES No8−9 s252−253
  13.  dES a.a.O. s252
  14.  dES No7 s205
     こうして二つの新しい型の中等学校ができたことによって、従来の三つの中等学校タイプを文化によって四つの類型にする発想が生まれた。つまり古典文化のギムナジウム、ヨーロッパ文化のレアルギムナジウム、自然科学のオーバーレアルシューレ、ドイツ文化のドイチェオーバーシューレという具合である。Heinrich Deiters 'Die Neueordnung des höheren Schulwesens' in "Gesellschaft" 1926.8 s143
  15.  dES No8−9 s256
  16.  Sachsischen Fortbildungsverein 'Grundsage für Neuordnung des sachsischen Berufsschulwesens' dES No7
  17.  'Konferenz der Thüringer Schulbehörde 1919.7.7−10' dES No8-9 s243 'Pädagogischer Ausschuss des Zentral=Institut für Erziehung und Unterricht 1919.6.20' dES a.a.O. s246-249 後者はへ一ニッシェ文相が上構学校について諮問したところ、教育全般について意見をまとめ、実科教育を第一の課題とした。
  18.  "Preußische Statistik" s112
  19.  Monumenta.゚ Teil 2 s114  1926年プロイセンの継続学校就学率(%)
     
    都 市100.043.983.5
    農 村57.73.928.6
    全 体86.123.054.1

    <新しい中等学校>

     新しい中等学校の創設の要求は、中等学校がほとんどない農村からも強く出されていた。表3は人口別の自治体における国民学校の生徒の数と、その地域の中等学校の数を表したものである。これによれば全体の4割が生徒が住んでいる地域(農村と考えてよい)に、中等学校がわずか2%しかないことがわかる。(1) これは都市と農村の教育機会の不平等ということにとどまらず、農村では中等学校による教員養成など不可能であることを示している。そこで「上構学校(Ausbauschule)」や「ドイツ上級学校」と呼ばれる新たな中等学校を設立することが検討され実現していったのである。(2)

    表3 生徒数の割合(%)
    人 口 国民学校の生徒男子中学校女子中学校
    〜241.10 2.37 1.41
    2千〜1万18.2021.32 9.90
    1万〜10万19.7039.9045.45
    10万〜21.0036.4143.23

     上構学校は、当初から農村などのために計画されたもので、1917年頃からプロイセンで計画が進行していたが、1920年に国民学校の特別優秀な生徒を集めて上構クラス(Aufbauklasse)を作ったことで出発した。
     1920年3月11日から19日に学校制度に関する問題をめぐって会議が開かれた。しかし、論議は上構学校とドイツ上級学校に集中した。
     そもそも学校についての理解が多様であった。教育内容原理としてのドイツ上級学校と、制度の形式原理としての上構学校、という一応の共通理解になった。(3) しかし、その後10月27日から30日の会議で、上構学校は国民学校に続く短期的な中学であり、ドイツ上級学校はドイツ的な教育を行なう中等学校であるという理解に進む。(4) 1920年12月18日の首相の通達によって、他の中等学校と同格とすることが認められて以来実質化した。そして、官庁・地方当局・大学・中等学校・国民学校の関係者による継続的な観察が実施されることになった。
     そうして、1921年1月17日から18日に14州の代表が集まり、次のような協定を結んだ、上構学校について。
    1. 短期的中等学校として試験的に承認する。
    2. 国民学校6年の後進学し、少なくても6年級をもつ。
    3. 特別の形態は採らず、カリキュラムもできるだけ一致させる。
    4. 教師は他の中等学校と同等とする。
    5. 卒業は、最上級(primareife)と第二級(Obersekundareife)とする。
     ドイツ上級学校について。
    1. 新しい型として試験的に認可する。
    2. 他の中等学校と同様の方向をとる。
    3. 実科的なカリキュラムを含めることができる。
    4. 1901年のプロイセンの教授内容規定を満たすこと。  a 外国語がラテン語なら、実科ギムナジウムと同等とする。
         外国語が英語・フランス語なら上級実科学校と同等とする。
       b 2外国語ならギムナジウムと同等とする。(5)

     問題となったのは、次のようなことであった。
     まず、上構学校について国民学校の卒業生でない者をどうするか、ということ。そして、国民学校を8年やった者は、上構学校の年限を短縮するか、という問題である。
     しかし、こうした卒業資格を簡単にする措置については反対が多く否決された。(6)
     ドイツ上級学校については、ドイツ的教育ということと、中等教育にとって不可欠と考えられていた外国語との関係、自然科学への重点的可能性について議論された。(7)
     1921年2月21日会議で、「試験的」ということをめぐって議論がなされた。多くの疑問は、中等学校という性格を新しい学校にわざわざもたせることへの批判であった。
     大学に行かず、職業に就く多くの生徒にとって、学問的な内容はあまり意味がなく、3年の短期課程の方がよい、とする意見。(8) 上級実科学校や実科ギムナジウムと変わらないとする意見。また、ラテン語と二つの外国語を完備していないことについての、大学からの反対もあった。(9) この大学の批判は、4月17日、25日の会議で中等学校としての水準を保つことを要求することにつながっていった。(10)
     1921年6月7日から9日に全国会議が開かれた。ここではこれまでの確認が大体支持されていくが、実科的内容を支持する人々は8年制の中等学校として制度化しようとし、また大学に続く通常の中等学校を維持しようとする人々は、9年制を守ろうとする論議が展開された。結局、こうしたことは「中等学校卒業資格」が「大学入学資格」を兼ねているというドイツの制度的特質によっていることもみのがせない。
     この点については、1922年4月27日から29日の会議で、9年制であるという確認がなされた。
     しかし、外国語については合意が得られず、大学入学資格を与える学校としての性格を保持しようとする者は2外国語を支持し、対立は解消されなかった。(11)
     1922年の復活祭にプロイセンで42校、23年に30校設立された。そして、1926年には、60地域に上構学校が存在し、他の32地域に上構学級が作られていた。他にはザクセン、チューリッヒ、オルデンブルク、ブラウンシュバイク、メクレンブルク、ジュバーリンなどで設置されていた。(12)
     ドイツ上級学校は、これに対して戦争の体験の中から、ドイツ精神を教育の核として位置づける必要性を、支配層が感じたところから構想されたものである。したがって当初から教員養成の為に考えられた。教員団体の要求につきあげられ、1922年頃から具体化したが、上構学校が先行したために多くはそれに併合されることになった。1926年にプロイセンで20校(男子8、女子12)があり、他にザクセン、チューリンゲン、メクレンブルク=ジュバーリン、オルデンブルク、ブラウンシュバイク、ブレーメン、ハンブルクなどに作られていた。(13)
     この2つの新しい中等学校は、形態的に大きな差異はなく、多くは6年制で国民学校の7,8年から編入するもので、古典文化より、ドイツ文化を中心とするものであった。これによって中等学校への道と、教師が大学で学ぶ道がわずかながら開かれたことはまちがいない。

    <註>

    1.  "Preußische Statistik" 1926 より作成
    2.  当局の議論は Denkschrift des Reichsministeriumms des Innen "Die Umgestaltung des höheren Schulwesens insbesondere die Einführung der deutschen Oberschule und der Aufbauschule" 1923 に経過が記されている。(以下本書をDenkschriftと略)
    3.  Denkschrift a.a.O. s5−6
    4.  Denkschrift a.a.O. s8−10
    5.  Denkschrift a.a.O. s15−17
    6.  Denkschrift a.a.O. s21
    7.  Denkschrift a.a.O. s22−26
    8.  Denkschrift a.a.O. s34
    9.  Denkschrift a.a.O. s37
    10.  Denkschrift a.a.O. s42−43
    11.  Denkschrift a.a.O. s76−77
    12.  "Pädagogische Lexion" 1928 s285−288
       ユネスコ編『世界の中等教育』は、この上構学校は早期選抜の欠陥を是正したと評価しているが、設立の経移からみてとうてい納得しがたい評価である。但し大学の教師は、上構学校に対して質が低いということで批判的であった。'Verband der deutschen Hochschuullehrer, 1920.2.1−2' dEs No 12 s365
    13.  "Pädagogische Lexion" a.a.O. s926−928

    (6)「全国学校法」廃案への闘い


    <1922年法案反対運動>

     これまで教師の要求についてみてきた。そこでは教師の認識が進展したとはいえ、まだ統一的な教育運動を展開するには不十分であることが示された。しかし、「全国学校法」をめぐる闘いによって、なお重大な欠陥があったとはいえ、統一の闘いが前進した。
     ワイマール憲法は146条2項の宗派学校の設立について、詳細は別の法で規定するよう定めていたが、その具体的な提案がなされたのは1921年4月22日のことであった。その法案の作成の中心は民主党のコッホと社会民主党のH.シュルツであった。この法案は社会民主党の更なる後退を示すもとして大きな反撃に直面しなければならなかった。その内容は次のようなものであった。
    1.  国民学校は共同学校(Gemeinschaftsschule)である。しかし、この法律に反しない限り、宗派学校・非宗派学校(Bekenntnisschule)も保持されうる。非宗派学校は世界観学校か世俗学校である。
    2.  共同学校は原則的に全ての生徒に開かれる。共同学校は宗教教授を正規の課目として保持する。一定の宗派に属することは、教職につくことにとっての前提ではない。しかし、生徒の宗教的な分布にあわせて可能な限り考慮される。(1)
       この法案は、国民学校の原則を共同学校とすることで、宗派の分裂を克服しようとするようにみせながら、生徒と教師の宗派を考慮することによって、事実上共同学校を宗派学校に変質させる意図をもつものであった。当時批判されたように「隠然たる宗派学校」であった。そして、現に存在する宗派混合学校すらも、宗派学校に改編することを意味した。しかも法案の説明に学級を宗派別に編成することまでが記されていたのである。(2) 当時少ないとはいえ、プロイセンで4%の学校、4.2%の生徒は宗派混合学校であった。(3)
       この文字通り反動的な法案に対して反対運動が盛り上がった。この運動は教育界におけるはじめての幅広い統一的な運動であったということができる。ドイツ教員連盟は5月16日にシュトゥットガルトで第29回大会を開き、反対の決議をあげた。(4) 統一学校の形態として宗派混合学校を主張するドイツ教員連盟にとってこの法案に賛成できないのは当然であった。
       「徹底的学校改革者同盟」はこの決議を直ぐに支持し、(5) 中心人物のエストライヒは同時に法案批判の筆をとった。エストライヒはこの法案が「中央党のための自由な道」であることを潮笑しながらも、一方で父母団体・教師団体・労働団体までが宗派に分かれていることを批判せざるをえなかった。彼はあくまで世俗学校を要求し、単に宗派的に分裂した学校を克服するだけでなく、共通の倫理や共通の文化をめざすものであったからである。(6) そして、「徹底的学校改革者同盟」はこの年の秋のケルン会議で次のように反対の決議をあげた。
       父母の皆さん!ドイツは1つの共和国であり、したがってわれわれは、この国家形態を維持するために全面的に整備された1つの学校を築きあげねばならない。われわれの新しい国家形態を支えるための保証を何ら有しない学校は、共和国の最大の敵である。宗派学校・教会学校はかかるものとして位置づけられねばならない。
      1.  宗教教授・教会学校は従来、王冠と祭壇の最も強力な擁護者だったからであり、
      2.  それらは共和制といつ国家形態を内心嫌悪しており、したがってドイツ共和国の維持・強化に真剣に努力することはけっしてしないであろうからである。またそれは
      3. > 科学の成果にもっとも頑強に敵対しており、現実と遊離した学校として教会の信仰という教授原則を全ての教育の出発にしているからであり、最後にそれは
      4.  国民に敵対する学校だからである。というのは、それは従来通り、大多数の国民大衆を従順な臣民、卑屈な信者、安上がりの賃金奴隷に教育しようとしている一部の国民に奉仕するものだからである。自由を志向する父母がドイツを引き受ければ、ドイツを最悪の状態から守ることができる。(7)
       法案審議は1922年1月から始まり、1月24日ドイツ共産党のツェトキンが反対演説を行った。この演説はかつての同志であり、現在この反動法案の提案者であるH.シュルツに対し、かつて共に確認した原則を示したものであったが、それにとどまらず、ワイマール憲法にも引き続き採用されていた「教育権者」というカテゴリーを原則的に批判した点で特筆すべきものであった。「教育権者は、教育される権利をもつ子供であり、教育の義務を負うのが、第一に子供の全ての能力を有用なものにしなければならない社会の代表者としての国家である」とのべ、組織された階級の意志を対置した。(8) このことは「教育の自由」を進歩的なカテゴリーとして奪還する鍵になるものであった。国家の保障形態と、組織された階級の意志、及び個人の精神的自由との民主的関係が明らかにされれば、「教育の自由」論は大きな飛躍が可能となるであろう。
       「全国学校法案」は、このような反対運動によってついに廃案となった。この勝利はかなり広範な運動が組織されたという点で評価されるべきであろう。廃案となったとはいえ圧倒的に宗派学校として存在している国民学校の状況を変革することができたわけではないからである。1926年プロイセンでプロテスタント28570校、カトリック15216校、回教121校、混合学校8413校、世俗学校120校で84%が宗派学校であった。
       更に運動の主体的力量という点でも、大きな弱点をもっていた。それは「統一戦線思想」の欠落といえよう。ドイツ共産党は、1921年4月22日、即ち「全国学校法」が提案された日に、世俗学校に関する声明を出していた。
      1.  『世俗学校』というスローガンは共産主義的ではないので、共産主義者はこの目的での動機や集会は社会民主主義や市民的な政党にまかせておく。
      2.  教育と生産労働の結合なしには、世俗学校は最も価値ある要素を欠いてしまうし、資本主義的賃金労働と利潤経済の除去によってのみ、この目的は達せられることが強調されなければならない。
      3.  世俗学校の校長と教師が州の教会から脱会し、子供が宗教教授から抜け出ることを要求する。この共産主義的条件が満たされないところでは設立を拒否する。
      4.  世俗学校は、それが生まれたところでは、共産主義教育の宣伝のセンター、青年教師のための闘いの先端としなければならない。(9)
       ここには世俗学校の過少評価と過大評価が同居しており、社会主義への学校の移行形態についての独自の意味と、統一戦線の志向が欠如している。政治と教育の関係認識からみれば、1ではその分離であり、6では政治の安易な教育への持ち込みである。
       ドイツ共産党は1923年以降統一戦線の経験と思想を徐々に積み上げていく。それによってこれらの欠点は少しずつ克服されていくであろう。
       しかしまた、宗派によって分裂し、それが支配に利用されるという構造を国民全体のレベルで克服するには、1920年代以降の科学校術革命とその教育内容への導入、いいかえれば科学を核とする「国民的教養」の形成を経ることが必要だったと考えられる。
       さて、宗派学校とドイツ民族精神を掲げたドイツ教育はどのような性質を付与されただろうか。その答はちょうど全国学校法が共和国議会で論議されている時期に、プロイセン文相のべ一リッツ(Boelitzドイツ国民党)がプロイセン議会で行った演説によく示されている。
       国家的統一性と一貫性のない国民は自已の文化的価値を否定することで脅かされるのであります。私は2.3日前に、ドイツが国を失うならばドイツ国民の歴史は終わるのだ、という真撃なることばをみました。全生活価値にとって何物にも代えられない国家というこの感性は、喜びに満ちた進歩を作り出すのでありまして、あらゆる機会に全力でもって、学校に、国民学校に、中等学校に、大学に導入しなければなりません。
       皆さん、ドイツでは宗派的分裂があります。
       しかし、国民が400年間解決できなかった文化問題を学校が解決できるものではありません。我々は宗派的分裂を単に無視するのではなく、お互いに理解しようと思うのであります。
       もし、宗派学校においても国家理念を発達させるならば、文化的統一性の志向が注がれるでありましょう。(10)
       ここに語られた内容は、学校に対する統一的理念とはほど遠いものである。「宗派」と「ドイツ国家」を無理に並べたにすぎないものである。したがってこれは早晩「止揚」されなければならないものであった。しかも、この2つの概念は、伝統的勢力とブルジョアジーとの相剋の反映であったから、「止揚」は現実的要請であった。ナチスがドイツ民族の旗を掲げてこれを純化したことは歴史的不幸であったが、それは一種の必然性の上にのったものであった。

      <註>
      1.  Monumenta.゚ No 1 s218−219
      2.  J. Tews 'Umschau' in "Die Deutscheschule Monatsschrift" 1921 s266
      3.  "Das Prußischen Schulwesen nach dem Ergebnissen der amtlichen Schulstatistik vom 25 November 1921" s37
      4.  J. Tews a.a.O. C.L.A.Pretzel 'Die Stuttgarten Tagung des Deutschen Lehrervirrein' a.a.O. s241 社会主義教師労働共同体がその機関誌『自由教師(Freier Lehrer)』で次のような声明を出した。
        1. 共同学校(Gemeinschaftsschule)は隠された宗派学校である。
        2. 全国学校法の宗派学校は、今の宗派学校を強化する。
        3. 世俗学校が憲法に反して無価値にされる。
        4. 宗派学校が憲法に反して通常の学校になる。  Hans Bretgoff a.a.O. s67
        5.  Paul Gärtner 'Rundschau ──Schulpolitischen Rundschau ' in "Die Neue Erziehung" 1921.7. s232
        6.  Paul Oestreich 'Ein Versöhnungswerk?' in "Die Neue Erziehung" 1921.6. s175−177
        7.  "Die Neue Erziehung" 1921. s373 藤沢法暎「戦間期ドイツの教育政策と教育運動」『季刊教育運動研究』所収 p74
        8.  C.Zetkin 'Gegen das reaktionäre Reichsschulgesetz' in "Ausgewählte Reden und Schriften U" s481−482
        9.  Monumenta.゚ Teil 1 s235
        10.  'Aus dem Preußischen Landtag. Sitzung vom 20. Februar 1922. Rede des Unterrichtsministeriums Dr.Boelitz' in "Deutschen Philologen Blatt" 1922.3.1 No 7 s102−103

        <統一的基礎学校の後退>
         ワイマール期の統一学校をめぐる主な動きは、以上で終わる。しかし、その後小さな改革がなされた。もっともそれは改革というより、ワイマール初期の改革の部分的消去であった。ワイマールの改革が、社会民主党の原則を曲げた「妥協」によって成立したことを考えれば、そうした結果もまた必然的であったといえる。1925年4月18日の全国基礎学校法は、基礎学校に通う、成績の良い、才能のある生徒は、3年で上級学校に進学することを認めた。
         更に1927年2月26日の法は、私立予備学校の廃止を規定していた1920年の基礎学校法を、その点で廃止し、私立予備学校の存続を認めたのである。(1)
         これは中央党や国民党によって推進され、さすがにシュルツは消極的であったといわれている。(2) 実際に3年で修了した者は、3.5%であり、一部の優秀な者のための改訂であったことは明白である。(3)
         ノイバウアーは、13歳から14歳で才能をみるのは早すぎ、もっと成熟期間をしっかり保証することが必要だと批判した。(4) しかし、完全に政治の中心を握ったブルジョア政党の繰り返す反改革に抵抗することはできなかった。

        <註>

        1.  文部省『教育制度調査』第5輯 p55−58 1931−1932年に、私立予備学校の生徒は11,OOO人いたとされる。Raimer Bölling a.a.O. s138
        2.  Wittwer a.a.O. s128−129
        3.  Bölling a.a.O. s139−140 ヴュユルテンベルクでは11.6%、ヘッセンでは21.5%であった。
        4.  Neubauer 'Rede auf der 2.beratung des Gesetzentwurfs, bereffend der Lehrgang der Grundschule' in "Die Neue Erziehung" s109