私の山びこ学校:昔こんな教育があった/250 勇ましき校長…=佐藤藤三郎 /山形

2010.02.16 地方版/山形 20頁 (1,586) 

 

 ◆勇ましき校長先生

 ◇若い教師と大激論 大正デモクラシーの中で青春

 私の「周辺の人」のひとりに岩井哲という人がいる。仲間とか友人とか、かといってただの知人というのでもないがあれこれとお世話になっている人だ。「どんなことで」といえばこれもまた「こうしたことで」と簡単にいいようもない。それで「このようなことをやっている人」といえば「そうか」とその仲について憶測してくれる人もあるだろうからそれを少し記しておくが、それもまた彼と私の間のすべてといったことにもならないのでご当人からは「ウソ」といわれるかも知れない。が私が直接かかわったことといえば以前「山形地方森林組合」が創立50周年記念誌をつくりたいというのでそれの製作の仲立ちと執筆をしたこと、それともうひとつ大江町の農協で技術指導員をしておられた小林喜正さんが在職中に農協の広報紙に書き続けていたものをまとめて本をつくりたいというのでそれの取り次ぎやらお手伝いをしたことがあるといった関係だ。こう書けば本づくりなどをしている人、ということをまずはわかってもらえるだろう。ほかに彼は有限会社スタジオ・ワンというのを設立し「月刊かみのやま」というタウン誌をつくっているのに誌面をふさぐための原稿を書かせてもらっていることと「言の葉倶楽部」という同人誌の発行をしているのでそれの会員に入れてもらっている、ということがある。

 ほかに私がかかわってはいないものに山形市の文人たちの雑誌である「わが町角」の制作もやられておられているらしいし、その他企業や旅館などの印刷物をつくる仕事で生き生きと張り切った活動をしておられる。それにしても上山といった小さな町でこのようなことをやり続ける、というのは並々ならぬ才能と努力が必要なのだろうと格別な協力もできないながらもエライものだと敬意を払っている。

 さてこの稿を書こうと思いついたのは実のところ哲さんのことではない。父君は岩井益富という人で教師であって歌人であったことと連なる。だが実は私、その先生とのかかわりは一冊の歌集と一葉の色紙をいただいたことのつながりでしかないのだが、その益富先生の親友であった大沢文蔵先生のことには忘れがたき思いがある。大沢文蔵という先生は私が山元小学校六年生のときの校長先生だ。昭和二十二年、学校の制度が六・三・三・四に変わり国民学校が小学校になったときに私たちの小学校の校長として赴任してこられた。私たちは六年生でありながら教員の定数を満たせない中で夏休みまでの四カ月間正式の担任の先生がいなかった。それで校長と教頭のお二人によって授業を受けたので恩師の中の一人ということになる。故に蔵王登山にご一緒したことの思いや、「タイムイズマネー」ということばを教えていただいたことなどがささやかながら頭の奥に残っている。

 それはともかく中学一年生になって無着先生が山元中学校に赴任してから、一つ屋根の下にある小中学校の先生方がよく一緒に酒宴していたがその際、文蔵先生と無着先生がどんなことで議論が始まったのかわからないが大変な論争になり、無着先生は大沢校長先生の背広とワイシャツを引き裂いたといったことが私たち生徒の中にまでも聞こえてきた。今時世ならば誠に大変なことであって、そうした先生、ましてや校長にくってかかっていく若い先生などはいないだろうし、また許されることでもないであろうが、当時はそうしたことが事実としてあり得たのである。つまり大沢校長先生もまた岩井益富先生などと共に大正デモクラシーの中で青春をおくったがゆえに若さにかえって若造教師と大激論を交わしたのであったのだろう。なんと愉快なことではないか。

 そして私は岩井哲君の顔をみるたびに岩井益富先生のことが思い浮かぶし、その親友であった勇ましき大沢文蔵校長先生の面影がまざまざと目に映るのである。

 

私の山びこ学校:昔こんな教育があった/番外編 無着成恭先生=佐藤藤三郎 /山形

2011.06.28 地方版/山形 22頁 (1,399) 

 

 ◇社会変革の実践者

 「私の山びこ学校」と題したこのコラムの連載を300回の切りのいいところで終わりにすることにした。思い起こせば、連載を始めたのは2004年7月だったので7年が経過している。長いと言えば長いが、私にはあっという間だった。当時、私は「山びこ学校ものがたり」というタイトルの本を出版したばかりだったので、このコラムのタイトルに好感を持たなかったのだが、話が急にまとまり書く気持ちがわいてきた。原稿は農作業の合間の早朝に書くことが多かった。

 さて、私は現在75歳。そして、山元村(現上山市)にあった「山びこ学校」というのは私にとって何だったのかという思いが頭にこびりついていまだに離れない。昭和23(1948)年、山元中学校に赴任した無着成恭(むちゃくせいきょう)という先生との出会いについても同じ思いがする。先生としては壺井栄の小説「二十四の瞳」や現在NHKで放映している朝のドラマ「おひさま」の陽子先生、さらには随分前のテレビドラマにあった「熱血先生」や「金八先生」なども思い浮かぶ。

 しかし、無着先生もそれらの先生と同じように子供の心の中に深く入り込み、教育への情熱を持っていたが、もう一つプラスされるものがあったように思う。それが何であったのか、適当な言葉が見つからないが、教師の本分である「人を育てる」ことのみならず、その領域を超えて村や国、つまり社会の変革といった大きな課題を抱え込み、その実践者たらんとした意識と行動が強くあったように思う。したがって、広い社会では多くの人に感動を与え、生徒たちの文集「山びこ学校」(無着成恭編)=1951年青銅社発行、現在は岩波文庫=を読んで自分の人生を切り開いたという若者がたくさんいるが、小さな村社会では必ずしも無着先生の実践が高く評価されず、反体制的なものと見られ、スムーズに受け入れられなかった。そのため、自らの実践の場を「村」から都会に移したのではないかと思われる。そして、悪く言えば「逃げた」ということにもなりかねない。

 私は今さらそうした議論にこだわりたくないが、「山びこ学校」という著書だけでなく、生活綴(つづ)り方教育の実践に期待を持ってくれた全国の多くの人たちに、無着先生から学んだ私たちは何も応えず、65年の歳月が過ぎてしまっていることに無力さと恥じらいを覚える。

 「山びこ学校」の「村」には、無着先生に学んだ生徒で現在残っているのはたった4人。そして43人の生徒のうち既に11人が亡くなっている。それぞれ波瀾(はらん)万丈の中で生きてきたと言いつつも、今はみんな子供のころのような貧しさから脱出し、それぞれたくましく生きている。

 それにしても明治16(1883)年に創立され、私たちが在学していた当時は小・中学校合わせて450人の児童・生徒がいたのだが、今は廃校になって生徒がいなくなり、ぽつんと寂しく建っている。それを見るにつけ、「なぜ、こんなことになってしまったのか」とこの国を疑い、声も涙も出ないほど悲しくなる。また、二十数年前に建て替えられた立派な校舎に都会の子供たちを呼んで「山びこ学校の再起を」と言ってくれる世話好きの人にも何人か出会ったが、いざとなると、それも「東京からはちょっと遠すぎて」となって、その実現も難しいまま今に至っている。(このコラムは今回で終わります。長い間、ありがとうございました)