臨床教育学コメント2018.6.7

Q 仮説実験授業は主に小学校で行われているのか。

A 私の知る限り、小学校が多いようです。しかし、本当に効果的なのは、むしろ中学の理科の授業であると考えています。その理由は、最終的には、かなり高度な内容にまで踏み込むので、基礎的概念をきちんと確認しながら、高度な内容に進んでいくという意味で、中学のほうがふさわしいように感じています。

 

Q 仮説実験授業が管理職に受け入れられないのは、教科書通りでない以外に、歴史があまりないということもありえるか。

A 既に半世紀の歴史があるので、現在教師をやっているひとたちは、生まれたときには既にあった教育方法です。したがって、歴史が短いということはないと思います。

 

Q 理解以外でもこのようなディスカッションが行われるような授業や科目があるのか。

A テキストに、社会の授業に応用している例を紹介しているので、ぜひ読んでください。しかし、あまりうまくいかなかったようだし、やはり、それぞれの教科に則した教授法があると考えるべきで、仮説実験授業は、理科特有の教授法であるように思われます。ただ、極めて一般的な原則、「百人の百歩」などという原則は、他にも適用されるでしょうが、具体的な教授法ではないので、やはり、それぞれの教科にふさわしい理由のありかたを模索するのがいいと思います。

 

Q 仮説実験授業では、頭のよい子どもや塾などで理解している意見に流されてしまうのではないか。

A 少なくともきちんと行われている仮説実験授業では、逆の現象が起きるのが普通のようです。というのは、塾などで理解しているというのは、単に「正解」を記憶しているだけのことが多いのです。よくても、せいぜい正解のだし方を知っているレベルでしょう。通常、塾では、深い理解をさせるようなところまでは、いかないのではないでしょうか。だからこそ、塾があっても、学校の意味があるわけです。更に、塾では理科を深く学ぶことはあまりないとも考えられます。

 そういう、正解を表面的に理解している子どもは、逆に、何故そうなるのか、という活発な議論に参加しにくい現象が起きます。更に、実は間違った答えにたっているが、かなり説得力のある議論に太刀打ちできず、自分は正解を知っているから、解答を変更しないとしても、他のひとたちが変更していくのをとめるだけの、説得力ある論理を展開できないことが多いのです。そういう点で、実は、正解を知らないがゆえに、想像力を豊かに発揮して、塾にいっていない、成績のよくな子どもが活躍できる余地があるといえるのです。

 

Q 法則化運動からTOSSに移行して、コントロール性が強くなったということを自分も感じたから、そのコントロール性とは、どういう意味だったのか。

A おそらく、TOSSの授業に初めて接した人が、多く感じることは、教師の言い方が、「命令口調」であることです。参考とする先例が、多く命令口調で書かれているので、そのような言い方になるのでしょうが、人は、そうした言い方をしているうちに、気分もそうなっていくのが普通ですから、次第に、子どもに対して命令する感じが強くなっていく、そして、自分の意図した方向にもっていく姿勢や感覚が強まっていくのではないかと考えられます。もちろん、子どもの主体性を充分に理解した教師も少なくないと思いますが、表面的な理解で実践していくと、こうした命令的口調だけではなく、命令的指導になっていく危険があり、実際そうした例もあるようです。

 

Q いじめ対策の2つの授業とも、疑問が残った。

A いじめを許すのは、教師ではなく、子どものはず。正直さをほめることで、いじめが解決するのでは、原因や対処などは、考えているのか。いじめをやめさせることではなく、原因を取り除くことが対策ではないか。

もちろん、そのことは正しいと思いますが、ただ、授業でも説明したように、これは、あくまでも学級として出会った最初の日に行うことで、これでいじめが起きないようになるとか、いじめが解決できるというものではないと、実際の授業者も断っています。こういうことをしておくと、実際にいじめが起きたときの対処がやりやすくなるというけとです。

許すのは、教師ではなく、子どもだということもその通りでしょう。しかし、逆に新しい出発であるのに、過去のことを引きずることが適切であるかということ、難しいところですね。おそらく、いじめの加害者も被害者も構成はクラス変えで変化しているはずであり、また担任も変わっているのだから、「許さない」と仮に子どもたちが言い張ったら、そのいじめの解決を、担任をしていたわけではなかった教師が、そして、まわりの子どもたちも変わっているし、加害者の一部はいないかもしれない。そういうなかで、なんらかの「解決策」をとっても、的確な対応をとることは、著しく困難ではないかといえます。そうならば、クラスや担任が新しくなったことで、これからは新しくやり直そう、というのも、それはそれとしてひとつの方法ではないかと思いますね。悪いことをしても、正直にいうという姿勢を評価しておくことで、問題を隠さずに取り上げることを容易にする面もあります。確かに、考慮すべき点はありますが、一概に否定する必要もないように思われます。

 

Q いじめのない学級づくりで、許してあげるときに、いじめられていた子どもがいる場合には、被害者に対してもう少し考慮する必要があるのではないか。

A 前項の続きでもありますが、確かに、まったく考慮しないのは、疑問ではありますね。「ここは正直なところで、許してあげても、今回限りということでいいかなと思うけど、どうかな?」という感じで確認するようなことは必要かもしれません。ただ、「許す」ことの意味を教えることも、必要だとは思われます。

 

Q いじめで自殺した人の記事を読ませるのは、概ね賛成だが、保護者から苦情がくるのではないか。

A 賛成であれば、苦情がきたときに、きちんと説明できるのではないでしょうか。クレームはいろいろとところからくるし、間違った内容のクレームやありますから、クレームがあること自体を回避するために、やったほうがいいことをやらないという選択はしないほうがいいように思います。必要なことは、説明力です。