臨床教育学コメント2018.5.24

Q 生活綴り方は、国定教科書を否定したわけではないのに、なぜ弾圧されたのか。

A 授業でも述べたとおり、生活綴り方は、戦前の教育に疑問をもった教師が中心であり、もっと自分たちの生活をしっかりと見つめ、科学的に考え、自分を表現する力を向上させることを目指していたものです。したがって、国定教科書を否定していなくても、国定教科書に現れた教育観とは相いれないものであることは、弾圧したひとたちは敏感に感じ取ったということでしょう。論語のねじ曲げというべき「由らしむべし、知らしむべからず」(従わせるべきで、理解させるべきではない)という前提に立つ教育を行っているひとたちからみれば、「理解させる」ことを目指した教育は、危険なものに思われたわけです。

 

Q 子どもとはこういったものだ、とか、教育とはこういったものだとか、人間は人一人違うのに、ひとつに決めつけてよいのだろうか。

A 指摘のとおり、よくないのは自明だと思いますが、にもかかわらず何故このような質問がでたのかが、わからないのですが、もし、「リーダーを養成することに関連して、教育は、そもそも教師が生徒を教える、つまり指導することが前提であるので、それをまったく理論的にないものとしたら、教育という行為そのものを否定することになる」というようなことを説明したことに対して言われたものだとしたら、多少の説明が必要でしょう。

まずはっきりさせておきたいことは、授業の説明の立場として、リーダーを教師がクラスのなかで育てるのは当然であるという立場にたっていたわけではなく、それはあくまでも 全生研の立場であるという説明です。リーダーを育てることに否定的な代表的な意見として、えこひいきになるという見解も紹介したように、「育てる」ことを、積極的に行動として示すのではなく、見守るとか、問題が起きたときに指導するというような方法もあるわけです。

ただ、「決めつける」という点に関していえば、教育は指導を前提としているというのは、それぞれの行為にともなう、「定義」「公理」のような前提によるもので、これを否定してしまえば、ある行為そのものもを明確にすることができなくなります。

人間はまったく無力な存在として誕生するので、少なくとも2,3年は、あらゆることに大人の関与が必要であるし、また、社会の文化や規範、技能を身につけなければ、自立して生きていくことはできないので、大人の指導=教育が必要であることは、自明であり、それが「指導を前提とする教育」が成立する客観的な根拠です。もちろん、指導の具体的なあり方は、人や領域によって異なるので、「リーダーを育てる」ことについても、多様な教育方法があるわけですが、それを否定することはできないでしょう。

 

Q 作文をクラスで共有することを、当時の認識ではなんとも思われなかったのか。(プライバシーの面で)

A それは、今でもクラスの人間関係の質によって、認識が異なるといえるでしょう。プライバシーというのは、私生活にかかわることを秘匿する権利ですが、少なくとも学級のなかで行われていることは、プライバシーではありません。ある子どもの家庭の事情とか、学校外でのことはプライバシーといえるでしょうが、クラスで行われているいじめなどが、プライバシーでないことは明らかです。クラスに問題がある場合に、みんなが認識することなく、解決するのは無理ではないでしょうか。もちろん、被害者の意識を尊重すべきであり、軽々しく「共有」の段階にもっていくことは、被害を大きくする危険があるけれども、最終的には、いじめの問題等は、クラス全体で解決しなければ、繰り返されるように思われます。とくに、現在のいじめは、多くが「傍観者」と言われており、見て見ぬふりをしているということは、逆に既に「知っている」ことになり、共有しなければ、知っているのに知らないふりをしていることを意味するので、ますますクラスとしての共同性などを破壊してしまうことになるでしょう。

プライバシーは、あくまでもそれが尊重される場と、尊重するふりをすることが、ますます問題を拡大する場があることに注意する必要があります。そのことを、ハンナ・アレントは、フライバシーはフランス語のプリベー(奪われること)という語からきているということで示しているのです。

もちろん、プライバシー意識が社会全体で低かった時代は、そんなに遠くないので、不用意にプライバシーを侵害するようなことが、なかったのかといえば、たぶんあったでしょう。しかし、作文を共有するときには、当然子どもの了解をしていたと思われます。(していないとすれば、それは昔でも今でも間違いでしょう。)

 

Q だしてもらった作文を本人が出されるのがいやだと思ったときに、その気持ちを尊重できるのだろうか。

A 尊重できるかというのは、教師の資質によるのでしょうが、尊重しなければいけないことは自明です。しかし、何らかの形で、学級のなかで解決を必要とする内容を、その子どもが書いたとして、その子どもが解決を望んでいるとしたら、「いやだ」という感情を、二次被害のようなものを生じさせない配慮を充分にしつつ、子どもの感情をかえるようにもっていくことが望ましのではないかと思われます。そうしないと、その問題は解決しないわけですから。

 

Q 以前「青年の主張」というものがあったが、やまびこ学校と似ている感じがしたが、これも生活綴り方の一種なのか。

A 生活綴り方教師が、日常的な実践のなかで指導した結果でてきた作文であれば、作成過程が「生活綴り方実践」であるともいえますが、コンクールに応募して、聴衆の前で朗読するという形式は、生活綴り方とは関係ないといえます。

 

Q 小学校5年で突然「生活の記録」をやるようになった。5年は荒れていたので、そのせいなのかと思ったが。

A 正確にはわかりませんが、いろいろな場面で、「書く」指導は行われるので、そうした一環でしょう。突然やるようになったのだとしたら、その教師が、紹介した生活綴り方教師の可能性は低いと思われます。生活綴り方教師であれば、当初から、かつ日常的に作文指導をしますから。