臨床教育学コメント2018.5.10

 

Q 通信制高校からの入学を嫌がっている先生は、なにを嫌がっているのか。

Q 推薦の件で、学校によって評価の仕方が異なることは問題になっていないのか

Q 大学推薦の件で、通信の人は、4.8以上、それ以外は4.0以上などのようにはできないのか

Q なぜ通信高校は成績が甘くつけられるのか不思議だ。大学からすれば、普通の高校と同じに扱うべきではない

Q 推薦入試では、偏差値の低い学校のほうが高い評価をえやすいことは当然で、通信高校だけに制限を加えるのではなく、募集要件を見直すことがあってもいいのではないか。

A 通信制高校からに入学を嫌がっている先生がいるかどうかは、わかりませんが、入試の判定材料である学校の成績が、公正につけられておらず、受験生を有利にするために、高い点数をつけているという疑問はほとんどの教員がもっていると思われます。しかし、これは、通信制高校だけの問題ではなく、一般的にいって、偏差値の低い高校の成績のほうが、偏差値の高い高校の成績よりも高い傾向があることは事実で、推薦入試をするようになって以来、ずっと問題になっていたことでもあります。したがって、高校の偏差値によって、成績評価に何らかの基準で、軽重をつけるべきだという意見は、常に存在します。

 しかし、実際にそれをやろうとすると、直ちに不可能であるという結論にならざるをえないのです。偏差値といっても、模擬試験を行う企業・予備校によって異なる数値が与えられています。文教大学の人間科学部でも、かなりの差があるのです。高校も同様でしょう。特に、高校の場合には、大学と異なって、全国的な模擬試験での偏差値ではありませんから、偏差値で全国の高校を比較することは不可能なのです。そのために、偏差値を修正するという案は、必ず否定されることになります。

 そもそも成績は、つける者の専権事項ですから、大学でとやかくいうことではありません。したがって、推薦入試を行い、高校の成績を判定材料として使用する限り、高校から出された成績をそのまま使用する以外にはありません。それが不満であれば、判定材料として使用しないことにするしかありません。

 では、高校に明確な格差があり、成績の表すものが、高校間によって異なるにもかかわらず、成績を平等な判定材料として使用することに、意味があるか、ここが、それぞれの価値観によって異なる論点になります。

 推薦入試を実施する大きな理由は、経営的なものだと思います。学力テストだけでは、受験生を集めにくいということで、さまざまな評価基準での入試形態をとり、受験生を集めようとするものです。したがって、入試形態によっては、批判を受けるようなものもあります。

 もうひとつの理由は、高校入試等で不本意な結果になっても、高校での努力を評価して、そうした高校生に、多くの機会を設定するというものです。スポーツにも、敗者復活戦というシステムをとっているものがありますが、大学でもそのようなシステムは、意味があると考える結果です。

 更に、学力だけではなく、さまざまな能力を判定して、入学を認めることに意味かあるとするものです。

 高校格差を無視して、成績を平等に扱うことは、第二の観点からすると、積極的な意味があるわけです。学力に自信のある者は、学力試験で、そうでないけれども、大学で学ぶ意欲がある者は、推薦入試でという道をつくっておくことは、大学生の多様性を確保する点で、意味があるでしょう。

 しかし、学力試験以外で入学した学生と、学力試験で入学した学生の間で、大学での勉学に大きな差があるのならば、問題とすべきでしょうが、過去行われた入試形態別の学生の成績調査では、差がないことが明らかになっています。

 このように考えると、不登校で学校に行かなくなったひとを、通信高校が学ぶ機会を与え、多少公正感を欠くとしても、学校の成績で有利になって、大学進学の道が開かれるということは、不登校対策として、ひとつの有効な手段であるともいえます。

 

Q 不登校対応のICT活用とはどんなことか

A ICTは、これからどんどん開発される新しいツールなので、創造的に考えておく必要があるでしょう。

教材の提供。不登校でもさまざまな形で学んでいる者同士のコミュニケーションをとる手段、さまざまな場で行われている授業・講義の録画の提供。学んだことの記録の交換等々、いろいろと考えられるし、また、実際に活用されています。

アメリカではホームスクールが制度的に認められているので、インターネットを活用した学習が盛んです。

 

Q 日本は、学校に来ていないのに、義務教育を修了することができるのか。

A 日本の法令では、進級はその年度の学習を修了、つまり理解したことでもってなされるとなっていますが、実際には原級留め置きは公立小学校中学校では、実施されていないので、「修了」という認定行為そのものが放棄されているのが実情です。就学義務は、年齢で決まっているので、修了認定行為なしに、年齢がくれば、義務教育を終えたとされるわけです。このことは、義務教育のあり方としては、大きな問題ですが、この授業の課題ではないので、詳しくはのべません。

 

Q ホームスクールは、家に講師を呼ぶ場合も含まれるのか。

Q ホームスクールを実現する場合、学習指導は誰がどのように行うのか。

A ホームスクールは自習をする形態なので、誰が指導するかは、家族で決めます。完全に自習の場合もあるし、親が教えることもある、また、誰かに個人指導を頼んだり、グループ学習の場を設定するなど、さまざまな方法かあると思います。また、ホームスクールで学習すると届けても、学校でないと学習しにくい内容、たとえば理科の実験などに限定して、学校で学びたいという場合、それを学校は受け入れる必要があるとしていることが多いようです。

 

Q 頭痛や腹痛など、登校しぶりに対する学校での理解は進んでいるか。理解促進のための講義などが行われているか。

A 「登校拒否」と呼ばれていた時代に、無理に学校に行かせようとすると、腹痛や頭痛が起きる現象は、多く報告されていたのですが、そのことが、医療関係者によって、決して仮病ではなく、実際に起きていると報告されたことによって、次第に、無理に学校に行かせようとするのは適切ではないという考えが、支配的になってきて、現在では、名称も「不登校」となり、無理に登校させようとする親も教師も、ほとんどいなくなっていると思います。それが「理解が進んだ」結果であると考えることができるでしょう。「講義」というのが、どの場のことはわかりませんが、大学では、教職課程で不登校を扱う講義はたくさんあると思います。教師に対してであれば、多くの自治体が、研修の場で行っていると思われます。

 

Q 「無気力」や「不安」が文科省の不登校の要因で最も高いのは、自分が不登校となっている明確な要因が認識できていないからではないか。

A 不登校の定義自体が、30日以上欠席しているのに、病気とか経済的理由などの明確な理由がない状況としているので、定義自体が、理由の曖昧さを前提にしています。子どもに限らず、大人でも、自分の行動の明確な理由づけができるひとは、少ないはずで、それが大きな選択であるほど、複雑に理由が絡んでいるのが普通で、「自分が不登校になっている理由」が明確には認識できないという子どもが多いことは確かでしょう。

更に、文科省が示している理由も、実際に子どもに聞いたアンケート結果ではなく、学校側の認識によるもののはずです。(そのように明確に書いてあるわけではありませんが。)もちろん、教師が子どもや親に聞いたことを元にしているでしょうが、最終的には、担任教師の報告を参考に校長が判断したものです。したがって、実態をどの程度正確に表しているかといえば、かなり問題が多いでしょう。もちろん、教師がどのように認識しているかは、重要なことなので、無意味な統計ではありませんが、子どもの実態を把握しているわけではないこと、そして、指摘されているように、子どもに実際に質問したからといって、真の理由がわかる保障もありません。

だから、理由はわからないのだということでは、問題の解決方法がわからなくなってしまうので、やはり、できるだけ正確な理由を探り出し、それに応じた対応が必要でしょう。子ども自身、家族、そして友人等に意見を聞き、指導している教師や相談を受けているカウンセラーなどが協力して、対応を見いだすことが必要でしょう。

 

http://nakajima-lab.jp/multiblog/liferoom/2016/07/27/%E4%B8%8D%E7%99%BB%E6%A0%A1%E2%80%95%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%A8%E5%A4%89%E9%81%B7/

 

Q 「学校にいく理由」「楽しいから」だから、日本の登校率は高いというのは、正しい統計だとしても、違和感がある。「今の時代」に学校へ通ってきた者(*)として、生存者バイアスのようなものだろうと思う。

A 統計上、多くの子どもが学校を楽しく思って通学しており、登校率は高いので、問題は少ないと結論するとしたら、確かに問題でしょう。たとえば、いじめは、年に一人だけの自殺者が出ただけだから、それはごく少数なので、問題とはならないと考えたら、それはおかしな理解であり、たった一人でも、大いに問題なわけです。したがって、不登校がわずかでも存在していれば、それは教育的問題として把握する必要があります。

むしろ、学校に楽しいからいっている、という調査結果は、日本の登校率が高く、不登校が少ないことを誇っているのではなく、「楽しさ」の内実が、本来の学校の機能である「学習」にはなく、「友人」にあることの「問題性」を指摘しているものだと、解釈するのが妥当でしょう。学校本来の機能が受け入れられていないのですから、大きな問題があるわけで、そのように統計を解釈すれば、「生存者バイアス」とは異なる読み方になると思いますが、どうでしょうか。

 

Q アジア圏で塾が多いのは、科挙制度の影響があるということだが、ヨーロッパにあまり塾がない理由はなんですか。ヨーロッパでは資格の取得は重視されないということか。

A この点での調査研究をみたことがないので、正確にはわかりませんが、一番大きな理由は、人口だと、私は思っています。

科挙の影響というとき、重要なことは、科挙は身分にかかわらず、広く公開されていたことです。もちろん、裕福な家庭が圧倒的に有利なわけですが、貧困家庭の子弟も受験資格はあったので、実際に多くの受験生が殺到しました。募集する人数に対して、応募の人数に多いほど競争が激しくなるわけで、激しい競争が恒常的に行われていれば、当然、プライベートな学習機関が多くなるわけです。中国文化圏である東アジアは、人口密度が非常に高い国ばかりで、科挙のような制度があれば、当然塾のような機関がたくさんできるわけです。

日本の江戸時代は、厳格な身分社会で、武士は藩校や幕府の学校、それ以外は寺子屋であったわけですが、明治になり、身分が廃止されると、学校制度は、オープンなものになりました。したがって、受験生は常に定員を上回るので、競争試験として入学試験が社会的に定着するようになり、それが激しくなるにしたがって、プライベートな学習機関ができていくことになります。しかし、戦前は、まだまだ中学や高校、大学にいくものは少なかったので、塾がそれほど目立った存在ではなかったのですが、戦後になり、ほとんど全員が高校を目指すようになり、更に多くが大学を受験するようになり、更に浪人が少なくない状態になると、塾や予備校が普通の教育産業として発展したわけです。

一方ヨーロッパをみると、まず日本のように人口が多くありません。人口密度は日本よりかなり低いのです。そして、身分制は、日本よりも強固に残っており、イギリスはいまでも貴族制度があります。伝統的な学校は、貴族階級のために創設され、したがって、定員を上回る入学希望者がいるということが、稀だったのです。貴族以外のブルジョア階層にも開かれていましたが、高い授業料を徴収していたので、これも多くが押し寄せるようなことはありませんでした。

そういうなかで、特権的な学校への批判が起きて、多くの学校は、少ない「無償席」を用意し、そこに、貧しいが優秀な子どもをいれることで、批判をかわそうとします。当然、そこには、定員を超える希望者がいたので、その部分で入学試験が行われるようになりました。ヘルマン・ヘッセの有名な「車輪の下」という小説は、実際にその入学試験を受けたヘッセ自身の経験を基にしたものです。

そういう状況のなかで、上級学校(大学)が、下からの入学を受け入れる際に、自ら試験をする必要はなく、中等教育機関の卒業認定をもって、受け入れるようなシステムになっていきます。ドイツのアビトゥアやフランスのバカロレアの試験が、日本でいうと入学試験のような役割を果たしていますが、実際には、高校の卒業認定試験であり、高校で学ぶ内容を、しっかり理解できていれば合格できるので、日本のように学校の勉強だけでは競争に勝てないなどということにはならず、学校の勉強をしっかりやっていればいいわけです。それがヨーロッパで、塾が栄えない理由と考えられます。