臨床教育学第一回授業の質問へのコメント 2018.4.12

 

Q 医者や弁護士と違って、何故教師がプライバシーを軽く見る傾向があるのでしょうか。(他の意見、授業で、カウンセラーの守秘義務は絶対だと教わったが、他人に情報を流すことはだめだと考えていますが、間違っていますか。)(別意見。プライバシーに関する考えが違うのは、問題が生じることが多いのではないか。スクールカウンセラーと教師の間で、プライバシーに関する共通の認識をもつような取り組みをしているところがあるか。)

A 医者や弁護士、カウンセラーは、基本的にクライアント、つまり、援助を求めてくる個人を相手にします。この二人の関係の他は、すべて外部になります。しかし、教師は、常に「学級」を相手にしており、いじめの加害者、被害者、傍観者等、多様な関わりをしている集団を対象として、いじめ問題を全体として解決する必要があります。スクールカウンセラーが、いじめの被害者の心理的問題を解決することを当面の目的とすることとは、かなりの相違があります。いじめ被害者の心理的問題の対応はもちろんとして、何故いじめられるのか、いじめられることに責任をあるというのではなく、原因はあるかも知れないから、その場合には、その克服も課題になる。また、いじめの加害者にも当然さまざまな問題があり、それを解決することとともに、いじめをしない指導をする、更に傍観している子どもたちには、止める勇気をもつように指導する必要もあるだろう。そして、いじめを解決することが、被害者だけの解決ではなく、学級としての解決をめざすことになる。更に、他の学級の子どもたちが関わっていることもありうるし、さらに前の担任が対応していた内容を踏まえる必要もあるかも知れない。

  このように、学校でのいじめ対応は、個人の関わりは当然のこととして、更に集団(学級)の問題でもあるということが、プライバシーを絶対的な前提として対応することを許さないという側面があるといえるわけです。

  もちろん、こうした解決の過程で、スクールカウンセラーが果たす役割は大きいといえるので、教師とカウンセラーの対応原則違いを踏まえた上での協力体制か必要であるといえます。

 

Q  先生方に対する評価は誰がどのようにつけるのですか?

A  教師に対する評価問題は、戦後最大の教育問題のひとつといえます。1950年代から60年代にかけて、勤評闘争が日教組によって行われたのですが、これは、勤務評定が、組合崩し、あるいは、財政問題を勤務評定で乗り切ろうという側面があったために、非和解的なものになりました。そして、その後30年以上にわたって、教師の勤務評定は、実質的ではない形で行われたのです。そうしたときには、基本的には、校長が評価するにしても、実質的な評価は行われないままでした。

  しかし、その後熱心な教師とそうでない教師がいるという社会的雰囲気が形成され、教師の勤務評定の研究も進み、現在では、ある程度実質的な評価がなされるようになっています。ただ、教師の評価自体の難しさは変化がなく、どのように評価するのがよいのかは、さまざまな見解があるといえます。

  現在多く採用されている評価は、予め評価項目が決まっており、それに基づいて、当人が自己評価を行い、それを踏まえて校長が評価する形になっています。そうした評価を踏まえて、管理職登用という道があるのですが、むしろ、管理職そのものがあまりなろうとする教師がおらず、管理職試験を受験する教師を集めることが、校長の消耗な課題となっていることなども、むしろ、評価問題の裏側を示しているといえます。

  質問に対する端的な回答としては、「校長」です。

 

Q  いじめ問題に対する昔と今の取り組みの違いはたとえばどんなものがありますか。

A  いじめの取り組みといっても、行政的な取り組みと学校や教師の取り組みというレベルでの相違があると思います。興味のある人は、ぜひ自分で調べてほしいと思いますが、印象としては、1970年代までは、行政や学校が取り組むことはあまりなかったのではないかと思います。そのころまでは、いじめによる自殺という現実そのものがほとんど知られていないからです。実際になかったかどうかはわかりませんが、ニュースで大々的に取り上げられるようになるのは、1980年代からです。行政的には、教師がカウンセラーになるカウンセラーの養成・配置、あるいは、いじめの被害者は、転校を許可する等の政策が行われ、21世紀になり、大津の自殺事件をきっかけに、法制化されるようになりました。

  また、90年代あたりから、専門家によるいじめの研究がさかんになり、学校や教師の取り組みにたいする助言などもなされるようになってきました。

 

Q  校長がいじめを認知すると退職金がもらえなくなるから認知をしないと聞いたことがありますが、本当ですか。

A  そのように対応する校長がいるかどうかについては、正確な情報がありません。もしかしたら、そのように行動する校長がいる可能性はあります。しかし、いじめを認知すると、退職金がもらえなくなるということは、事実ではないといってよいと思います。

 

Q  日本的同心円的構造がストレス要因となっているということですが、なぜストレス要因になるのに、日本的同心円的構造ができあがったのですか。

A  まず日本は、歴史時代になると、外国人の大量移入が滅多に起きなかったことと、島国であるということのために、日本人としての同質性が進んだことは否定できません。そういうなかで、江戸時代という安定した社会で、五人組のような支配形態が進みました。五人組は、庄屋を軸とした集団単位の支配で、これは、明治になると、「家族国家」という理念国家をまとめるという支配のスタイルが構築されました。「企業は家族」というような、集団を家族の類推を打ち出す方式がとられ、それは、戦後にまで続いていたといえます。この場合の「家族」とは、現在のような平等な家族ではなく、家長を頂点としたピラミッド構成であり、国家では、天皇を頂点とし、企業では社長、学校では校長というように、

 

Q  岩手のいじめで担任は、生活ノート以外にどんな対応をしていたのですか。

A  正確にはわかりません。学校が担任のオープンな発言を許可していないからです。わかるのは、生徒たちが記者たちに語ったことからで、それもすぐに禁止されてしまいました。その前に報道されていたのは、被害者と直接話し合ったりはよくしていたようです。

 

Q  教師がカウンセラーをしたが、うまくいかなかったというが、教師の立場を捨てて対応するとは具体的にどのようなことを、言ったり行ったりすればいいのでしょうか。

A  うまくいかなかったのはいくつかの理由が考えられます。ひとつは、教師は非常にいそがしいし、また、普段から生活指導などで指導しているので、わざわざ資格をとってカウンセラーとして活動する教師が非常に少なかったということ。また、カウンセリングを学んだからといって、生徒と関係が特別に変わるわけではなく、その教師が生徒に信頼されていれば、当然いろいろと相談したろうし、信頼されていなければ、カウンセラーの資格をとったからといって、相談にいくことは稀だったろう。また、教師は、生徒をどうしても上から指導する姿勢が強いので、カウンセリングには向かない者が少なくなかったという批判もある。教師の立場を捨てる必要はないでしょうが、子どもからの信頼があり、権威を振りかざすことなく、相談を受ける姿勢をとっていれば、カウンセラーの資格の有無は関係ないでしょう。

 

Q  一年のときからいじめがあったというが、一年の担任はどうしていたのか。また、担任は、いじめを受けた人、していた人、その他の人たちに確認をしなかったのか。

A  報道ではよくわかりません。一年の担任はそれなりに対応していたと言われていますが、自殺が二年の一学期になされたことをみれば、一年で解決していたわけではないでしょう。ただ、引き継ぎがきちんとなされていなかったのではないかという報道はあります。

 

Q  教師の責任のラインは正式に決まっているのですか。

A  決まっていないと思います。物相手ではなく、人間を相手にする場合に、このようにすれば、必ず一定の結果がでるということはなく、ラインを決めて、結果の評価をすることはできないと考えられます。したがって、特別に責任を問わざるをえない状況が起きたときに、個別事例としてその都度責任の有無を考えることになります。

 

Q  学級づくりにオープンが必要とあったが、具体的に何をするべきか。

A  学級づくりでは、もちろん、個々人のことを十分に尊重しつつ、それだけではなく、やはり、集団としてのまとまりが重要です。集団としてまとまるためには、お互いによく知る必要があることはもちろんのことで、そのためにはいろいろなレベルでのコミュニケーションが大切です。コミュニケーションがきちんと機能するためには、お互いの隠し事がないほうがいいわけで、隠し事、別の表現でいえば、プライバシーという理由で表現されない部分がすくないほうがいいのです。もちろん、そのためには、お互いが信頼しあっていることが必要です。このように考えれば、学級づくりにプライバシーは、絶対に必要なことは尊重するとしても、克服すべきものであり、オープンであることが不可欠であることがわかります。

 

Q  何故アレントの理論を選んだのか。

A  アレントは政治哲学者であり、政治は当然人間集団の矛盾を対象に研究します。つまり、矛盾を克服し、望ましい人間関係のあり方はどのようなものかを徹底的に考察したのがアレントです。アレントが世に出たのは、「全体主義の起源」という大著で、近代社会に何故全体主義が勃興したのかを究明した研究でした。こうした研究を経て到達した「人間の条件」は、非常に小規模ながら人間の社会である「学級」が、荒れたり、崩壊したり、あるいはよくまとまったりするために必要なことを、非常によく示していると考えたわけです。授業で示した人間的であるための条件は、まさしく学級経営に必要な原理を提示していると考えたので、選んだわけです。

 

 

Q  いじめの問題で、スクールカウンセラーのことをとりあげない理由はなんでしょうか。

A  私自身も知りたいところです。メディア関係者に聞かないと本当のところはわからないでしょう。以下は推定です。

  何か問題が起こったとき、責任があり、責任をもって対策をとらなければならないのは、管理責任者であり、学校では校長です。だから、会見をして説明をするのも、かならず校長が行います。個々の教職員が実際には活動をしていたわけですが、その活動に不備があったとしても、公的には、校長の責任が大きいので、そうした説明で個々の教職員の行動が詳細に説明されて、校長から、その教職員に責任があるかのような説明がなされることは、異例のことになります。

  また、多くの学校では自殺に至るようなことがなく、程度の問題はあるとしても、解決に至っていると思います。自殺者がでるということは、学校全体としてやはり大きな問題を抱えているわけで、その問題の核は、校長から教員までの意思疎通、コミュニケーション、そして協力体制がとれていないからで、校長の指導能力に大きな問題があり、校長自身が、個々の教職員が行っていることを把握していないのが実態でしょう。したかって、記者から質問があっても、答えることができず、むしろ、連絡がなかったなどといういいわけに終始してしまうことになるのではないかと考えられます。

 

Q  いじめ問題に関する校長の評価が、プラス評価のみではだめなのかと思った。それだとどういう問題が生じるか。

A   現実問題として、自殺とか、不登校のような問題が起きます。いじめが起きたこと自体は問題としないにせよ、非常に悲劇的なことが起こったとしても、その責任を問わないことになると、真剣に取り組まないのではないかという危惧があるということでしょう。

 

 

Q 学級の定義を詳しく知りたい。

A 厳密な意味での「定義」は存在しないと思われる。歴史的に形成されたものなので、常識的な意味と、さまざまな形態があると考えられる。

 一般的な意味は、一時的にではなく、恒常的に、一緒に学習する集団で、通常恒常的に指導する「担任」という教師が配置されている。構成メンバーは、最も一般的には、「同一年齢」であるが、基準に基づく「同レベルの学力」の集団である場合もある。小学校、中学校では、ほとんどの教科を同一学級で学ぶが、中学・高校では科目ごとに選択制となっていると、選択科目の集団を学級ということはない。基本となる生活単位として学級が構成される。

 学級が教育上もっている意味は、国や教育理念によって異なる。(次回に扱う)