臨床教育学コメント 2017.6.15

1 ゴミはごみ箱へというのは、人間としてあたりまえのことだが、サドベリバレイの子どもたちは、あたりまえのことが、ルールがないとできない子どもになってしまうのではないか。

 「ゴミはごみ箱へということは、人間としてあたりまえ」ということは、常識的にいえば全く正しいし、普通であれば、学校生活のなかで、あたりまえのこととして教え、それを子どもたちに実行させるように指導することは、当然のことだろう。しかし、ゴミの捨て方を含めて、世の中には、あたりまえのようにほとんどの人が思っているけれども、実は違う考えや見方をしている人が多数存在するということは、いくらでもある。特に、グローバル社会を迎えて、異なる文化で育った人、また、社会の変化が激しい時代には、その変化に応じて、あたりまえのことがあたりまえのことではなくなり、また、以前にはあたりまえではなかったことが、あたりまえのことになるという、逆転現象も稀ではない。

 ゴミの収集についても、分別しない、燃えるゴミと燃えないゴミで分別する、オーガニックとその他で分別するという、基本的なゴミの分別の仕方で、基本的な相違がある。

 たとえば、デンマークでは、分別せず、すべてを高温で焼却し(高温だと有毒ガスがでない)その熱を利用して、地域に給湯している。日本は、燃えるゴミはもやし、燃えないゴミは埋め立てる。アメリカの一部では、オーガニックを肥料として再利用し、その他は埋め立てるというように、分別と利用の仕方が異なる。我々日本人は、「燃えないごみ」と「燃えるゴミ」があたりまえだと思っている人が多いかも知れないが、国際的にみれば、それ以外の方式で集めて、異なる利用方式をとっているところはいくらでもある。同じ国でも科学技術や社会的システムの変化によっても変わってくる。

 ある特定社会の中で、あたりまえのことになっていることを、当然のこととして守らせることは重要であるが、未来を担う子どもに対して、あたりまえのことが変わっていく、何があたりまえかは、文化や社会によって異なるのだ、という前提のもとに、自分たちにとって、本当に必要で有用なことは何なのかを、経験の中で学ばせていくということも、他方では非常に重要だろう。

 サドベリバレイの教育は、そうしたことを実際に行っていると考えられる。確かに、ゴミはごみ箱へということを、生徒に指導して守らせれば教師としては楽だろう。しかし、それをあたりまえのこととして教えるのではなく、子どもたちが納得のいくプロセスを経て、そうした習慣をつくることが、教育的には大切だということを認識して、それを非常に長い視野で取り組んでいるということ。教師が子どもに、強く指導すれば、表面的には、それを実行するだろうけど、それがどの場でもそのように振る舞えるという、強固な習慣になるかは疑問で、それは日本の学校をみればわかる。ゴミの問題だけではなく、あらゆるルールや習慣に係わることを、0から出発することによって、しっかりと身についたものにするということだといえる。

 

2 サドベリバレイの卒業生はどのようになるのか。

 卒業生の追跡調査をした書物があるが、基本的に、自分の意思を活かした職業についているという結果がでている。傾向としては、クリエイティブな仕事についている人が多いように思われる。ビデオでみた女性のように。

 

3 受験のときはどのように勉強しているのか。

 アメリカでは、通常日本のような受験勉強はしない。学力に関しては、SATという、非常に基礎的な学力試験(年数回実施)で、基準点をとればいいので、(ただし、ハーバードのような大学は、高い点数を求めるが、競争試験ではないので、何度か挑戦して到達すればよい。)特に厳しい勉強が必要ではない。通常は、高校の成績と願書(比較的書く部分が多い)で決まる。州立大学は、定員がないので、だいたい基準を満たしていれば入学できる。難関の私立大学では、他にレポートや面接があるが、サドベリバレイのような学校だから不利ということは全くない。高校の成績は存在しないので、しっかり勉強したという証拠となるものを自分で考えて提出する。サドベリバレイは進学のための学校ではないので、全員が大学に進学するわけではないが、進学する者については、よい大学に多くはいっているとされる。

 

4 授業料は高いのか。

 アメリカの義務教育は、だいたい高校2年生くらいまでなので、高校まではほとんど授業料がかからないが、他方、アメリカの私立の学校は、通常寄宿制をとっているので、数百万かかる。それに対して、サドベリバレイは、寄宿制ではなく、また、教員スタッフが極端に少ないので、私立学校としては格段に安い費用になっている。大分前の資料だが、年額20万ということだった。円高の時期の計算だったので、現在の感覚だともう少し高いと思われる。ただ、日本の私立高校より若干安いことは事実。(ただ、日本のサドベリバレイ校は、土地代や人件費の関係で、私立高校なみか、あるいは多少高めである。)

 

5 中にはさぼってしまう人もいるのではないか。

 通常の目からみたら、少なくないだろう。しかし、さぼるというのは、何かやるべきことが客観的にあって、それをしないことがだが、やるべきことを自分で決めるという立場にたつと、それがさぼりであるかは、断定できないことになる。いかなる意味でも、たとえば、登校したあと、ずっとソファーに寝そべって、それ以外のことを全くしない子どもがいたら、「遊びの中から遊んでいる」とも解釈できないだろうし、さぼっているといえると思うが、子どもというのは、たくさんの子どもたちがいて、楽しそうに遊んでいれば、そのなかに入ろうとするものであって、ずっと長期間、ソファーに寝込んでいるまま過ごすということは、ありえないのではないだろうか。