臨床教育学第八回コメント 2017.6.1

 

1 斉藤喜博の「自分にもわからない」というのは、どういうことか。

 正直自分でも絶対的に正しい解答があるわけではなく、むしろみんなと一緒に考えたいという意思表示だと思われる。

 

2 「教師と生徒」ではなく、「教師と子ども」という表現は、何故か疑問に思った。斉藤喜博のこだわりか。

 「児童」「生徒」「学生」というのは、基本的には、「法律上の呼び名」「制度的呼び方」であって、日常生活での呼び方ではない。また法律によって呼び方、範囲も変わる。「児童」は、教育関係では小学生だが、児童福祉法では、18歳まで。中学生や高校生は、教育関係では「生徒」だが、少年法では「少年」となる。こうした法律的な呼び方ではなく、日常的な呼び方にしたいという教師は、たくさんいる。

 おじいちゃんが、近所の子どもたちに、「児童たち」とか「生徒たち」とかは呼ばない。「子どもたち」と呼びかけるはず。こうしたことと同じ。

 

3 遅刻早退が平気でできるというのは、教師の信頼感によると思う。生徒だけではなく、教師間の信頼も重要ではないか。(別意見)泉先生には反対。遅刻や早退が続くと、信頼がなくなっていく。(別意見)日本は時間に管理されているので、泉先生の意見もわかるが、そこに甘えてしまう可能性もある。(別意見)やむをえない遅刻や早退は、他の教師との協力で補うことが必要で、そうしたことができない状況では、そのような発言は無責任である。

 いろいろな意見があるので、それを紹介するのにとどめる。

 

4 カウンセラーとクライアントは、対等であるが、教師と生徒の関係は対等なのか。

 教師と生徒は、常識的にいえば、対等ではない。教師は成績をつけるし、もちろん、「教える」のが教師だからは、生徒と対等では教師は勤まらない。しかし、それはカウンセラーとクライアントでも「制度」的には同じではないか。ここで、教師と子どもが対等というのは、「考える」という姿勢において、対等であり、ともに考える点で対等であろうとすることだと解釈すべきだろう。