臨床教育学 コメント2017.5.18

1 質問で集団主義ではなく、カーストを使った教育法だと言われたが、班長を決める時に、教師側が班長を立候補ではなく、班長は強制で決まっていたり、班ごとの競争もあったのですが、結局どちらの教育法だったのか気になった。(カーストも利用していたが、集団主義の側面もあった場合)

 全生研の実践は、模倣した団体が多数あり、また、模倣しなくても、班活動はいたるところで行われているので、非常に混同しやすいところがある。全生研では、班長を強制的に決めることはない。教師が勧めたとしても、本人が納得しなければ立候補しなければいいわけで、教師の勧めが絶対ではなく、断ってもよいのだ、実際に断る場合がある、ということが保障されている必要がある。班ごとの競争といっても、相互の援助があること、助けられている者を決して馬鹿にしたりしないなどが保障されている必要もある。集団主義といっても、全生研は、民主主義的集団主義を目標にしているが、民主主義的ではない集団主義もいくらでもあるから、そうした点も大きな相違になる。

 

2 班のリーダーを決めるとき、教師のイメージより、子どもの支持と本人のやる気で決めるべきだと思った。強制は本当によくない。嫌々やると本人が我慢して、ストレスを抱えるが、班の全体が悪くなる気がする。

 優れた教師ならば、イメージではなく、生徒の資質を見抜いて働きかけるはず。全生研の実践では、立候補制の選挙だから、子どもの支持は当然重視されている。ただ、よく見られる子どもだけの立候補や推薦などの方式だと、本人のやる気は検証されていないことが多いのではないかと考えられる。教師が働きかける場合には、そこも考慮することができるとはいえる。嫌々やるのがよくないのは当然だろう。弊害としての事件もある。

 

班活動で、ほぼやらない人が出てくる。順番を決めたり、きっちり役割をきめて、やらない人がでないようにすべき。大学の授業でも理不尽な思いをした。参加する力をどんなタイプの人も身につけてほしいと思う。

 この点については、様々な立場があると思う。やらない人がいれば、他の人の迷惑になることは事実だが、やらなければそれだけその人が成長する機会を失うわけで、やらないことで得をしているようにも見えるが、実は損している。小中学生であれば、子どもたちや教師の働きかけで、当然役割を果たすように指導すべきであり、また、それが可能だと思われるが、大学生になると、大学は基本自由な社会という建前があるし、大人でもある学生が意識的にやらない場合には、それを強いて分担させることは困難な場合もあるだろう。大学で班活動が行われ、班としての成績がつけられるようなことがあれば、役割を果たしている学生にとっては不利になるので、そうならないように担当教師と相談することも必要だろう。

 

集団主義生活指導論は、理論はもっともらないと思うが、実践の段階では教師の能力によるところや、融通のきかなさが見え隠れして、徹底的な管理下で行うならともかく、広範囲での適応には不適格に感じた。

 実践の段階で教師の能力によるところが大きいのは、どのような教育実践方式でも妥当するところで、教師がほとんど何もしないことになっているサドベルバレイの実践でも同様である。紹介した実践では、能重先生は、けっして融通のきかない教師ではなく、また、生徒たちの意見を受け入れないわけでもない。実際に生徒たちが能重先生を説得する場面もあった。安易な模倣的実践がむしろ危険であることは、いろいろなところで指摘されている。

 

5リーダーの役割は何かわからなかった。

 リーダーの役割については、いろいろな立場や考え方があるが、全生研では、班としての課題を班として達成するために、中心的な役割を果たすこと、学級の問題を班長会議で議論し、それを全体に提起すること、など。詳しくは、関係書籍を参照してほしい。

 

ビデオで生徒のまとまりはなかったが、「根本」に関する発言は多かったと感じる。今は生徒のまとまりは昔よりもましになったが、発言することは少なくなったような気がする。

 能重クラスで生徒たちの発言が多いのは、教師がそれを普段から抑制せず、促進させる働きかけをしているからである。時代差よりは、教師の実践スタイルや姿勢によるところが大きいと思われる。

 

班は何をするのか、無駄ではないかという意見があったが、班活動が教科内での意見をまとめるものなのか、行事での活動なのかによっても変わってくるのではないか。

 全生研の実践では、教科学習も行事等もすべて班が中核になって活動する。(現在はそれほどでもないクラスも多いようだ。)