臨床教育学第二回コメント4.20

1 転校することが、いじめの解決になるのか疑問がわいた。「あの人はいじめられて転校してきた」とうわさされた人がいた。

 当然、転校することがいじめの解決になるわけではない。要するに、最悪の事態を回避できるという意味だが、転校できずに、そして、学校が解決もしてくれなかったら、ますます辛い状況になるわけで、それを回避できることは、被害者にとって重要なことだろう。そのため、文部科学省は、かなり早い時期から、いじめの被害者である場合には、通学区以外の学校に通うことを認めてきた。

 またオランダの場合には、完全な学校選択制度になっているので、評判が悪いと生徒が集まらず、結果として学校が潰れてしまう。(公立学校であっても)従って、いじめがおきている場合、きちんと対応しなければならないというインセンティブは、日本より強いと感じる。

2 スクールカーストがいじめの原因になっていると思うが、スクールカーストをなくすためには、どうすればいいのか。

 まずは、スクールカーストは、学級のあり方としてよくないという「意識」を教師がもち、それを子どもたちに納得させることが出発で、そのため原理として、アレントの「人間の条件」をあげた。みんな違うこと、それぞれの良さを認め合うような実践をすること、などが考えられるが、クラスの状況に応じた適切な対応が工夫される必要があると思う。

3 スクールカーストがあるほうが、秩序を守ることができるという意見を聞いたことがあり、社会の縮図を経験するという意味で必要だ、とある学者がいっていた。

 秩序の質が問題だろう。民主主義社会は混乱しやすいが、独裁国家は混乱がないからいい、という言い方もあるが、一般的には、混乱していても、独裁国家より民主主義社会のほうがいいのではないだろうか。独裁国家が秩序があるのは、弾圧があるからで、みんなが同意しているからではない。程度の差はあっても、スクールカーストの秩序とはそのようなものなのではないか。その学者の説は、正確に読まないとわからないが、それだけをみれば、どんな社会、大人の社会でもいじめがあるのだから、いじめのある学級での経験が必要だ、というのと同じような気がする。

4 アレントの母のように、子どもが差別を受けて抗議をするというのは、ユダヤ人の親みんながやっていたことか。

 アレントの母が例外的で、多くのユダヤ人の親はおそらく堪えるように言い聞かせたのではないかと思われる。だから、そういうユダヤ人の弱腰の姿勢を、アレントは批判的にみていた。

5 オランダで遠くの学校に通うようなとき、交通費などは自己負担か。

 通常ヨーロッパでは、通学は家庭の責任。安全も。だから、親が登下校送り迎えをするのが普通。

6 何故階層が生まれるのか。

 

7以前中学の全国大会が禁止されていたのは何故か。

 今でも小学校の全国大会はあまり聞かないが、小学校の大会が今ないのと同じ理由だろう。「ない」ことと「禁止」されていることは、こういう領域では、ほぼ同じこと。

 中学生が、かなり遠くまで大会のためにいくことは、経済的にも、体力的にも負担が大きいことと、大会の規模が大きくなるほど、競争が激しくなり、過度のスポーツの競争は好ましくないという理由から禁止されていた。それに対して、スポーツを強くしたいという人たちの要望が、なんども出され、東京オリンピックなどもきっかけとなって、徐々に中学生の全国大会が解禁された。

8 同じバックを使わせるのを、先生が売り込むといっていたが、取り締まり安さのためではないか。自由にすると、「学校にむかない」ものをもってくる生徒が出てくる。

 先生が売り込むのではなく、業者が売り込む。算数セット、楽器、算盤、体操着、バッグ、ノート指定等々、みな同じ。教師の側からいえば、確かに、そろっていれば、便利で、指導もしやすいし、また、揃いだから安くするという利益もあり、業者の売り込みに応じているといえる。問題は、それが「教育的か」ということだろう。単純に「非教育的」とはいえないが、多面的に考えておく必要がある。

9 いじめの被害者の行動が、報復から報復自殺へ変化したというが、身近な人に誤るなど、報復の意味は薄れているのではないか。

 報復(被害者が加害者に報復する)から、自殺へ(林賢一君事件)、そして、報復自殺へ(鹿川君事件)と変化したと説明した。確かに両親に謝るなどはあるが、加害者に謝る例はほとんど聞かない。いじめがあっての自殺だ、と書くだけで、かなりの報復になるので、文面の強弱はあまり影響がないといえる。

10 とめる人が減ったのは、「出る杭はうたれる」という日本的風土に関係があるのではないか。

 それは一般的に確かにあると思われるが、70年くらいまではとめる人がいたのに、80年代になると少なくなり、90年代以降にはかなり少なくなったということは、別の理由があると考えざるをえない。

11 いじめを受けていた人の話では、みんなが加害者にみえたというので、4層構造は部外者の見方で、当事者は違うのではないか。

 4層構造論は、あるいじめ研究者の「説」なので、部外者であることは確か。被害者にとっては、観衆(はやし立てる人)も加害者のようにみえるということは確かだろう。ただ、実際に加害行為をしている人と、はやし立てる人、みている人は、立場が異なるし、また、改めなければならない行為内容も異なるので、教師などは、それぞれに応じた対応が必要だろうとは思う。

12 まわりから見るといじめだと思うのに、被害者はいじめだと思っていない場合が多かった。

 そういうことは確かにあると思われる。例えば、鹿川君は、当初は異なるターゲットをいじめる、いじめグループの一員だった。そのターゲットが転校してしまったので、今度はグループ内の彼がいじめの対象になった。そのとき、おそらく当初は、グループの一員であるために、そうしたいじめを「いじめと思わない」ようにしていたかも知れないし、あるいは、この程度のことは我慢する必要があることだと思っていたかも知れない。しかし、まわりからは、いじめだと思われていた。「葬式ごっこ」で、グループから抜けようと思うが、それまでは確かに、いろいろされることが、グループの一員であるために必要なことと思っていた、だから自分でいじめだと思わないようにしている、というのは、本当の気持ちではないだろうし、また、気持ちを切り換える必要があるだろう。

 臨床心理学を学んでいる人たちが、ここらの心理を学んでほしい。

13 中学受験が増えたことが、仲裁者の減少につながったというのは理解できない。また、仲裁者とはどういう存在か。

 仲裁者とは、特に難しい意味ではなく、以前は、たいていいじめなどを行っている人がいると、ある程度影響力のある友人が、いじめをとめていた。だから、深刻な事態になることは滅多になかった。ジャイアンがもっと人望があり、思いやりがあれば、仲裁者になっていたろう、そんなイメージ。それが、80年代後半くらいから、教室や地域の子ども集団の雰囲気が変わってきたと言われ、いじめの仲裁者がほとんどいなくなり、学級崩壊なども、おきやすくなったと言われている。もちろん、仲裁者の減少の原因が、中学受験だけではないが、多くの人が原因のひとつと考えている。中学受験が広範囲になり、かつ厳しい勉強が求められるようになると、特に難しい学校を目指す子どもたちは、勉強はほとんど塾中心になり、学校の行事などにも積極的に参加しなくなる。そして、学級集団の一員としての活動をしなくなく者もでてくる。もし、彼らが受験などをせずに、学校中心の説明をしていれば、仲裁者になりうる者がそのなかにいる可能性があったが、受験のために、無関心になっていったという解釈である。その真偽はもちろんわからないが、無視できないと思われる。