臨床教育学コメント 2016.5.26

Q 作文と日記の違い

A 作文は、文章を作成するという一般的な言葉なので、文章を書くこと全体を指すと考えることができますが、一般的には、学校で教師が子どもたちに、指定題や自由題で文章を書かせることがイメージされることが多いでしょう。そういう意味では日記も作文だと思いますが、狭義での作文は、あるテーマをもって書く場合を指すときに、使われると思います。(日記にはテーマがありませんね。連絡帳なども)

 

Q 学級通信や連絡帳の担任教師と子どものやりとりも生活つづり方教育に当たるのか

A 授業で紹介した「生活綴り方教育」とは、説明したような「構造」をもっている教育手法をいうので、それを前提にすれば、学級通信や連絡帳は、その一部であって、そのものが生活綴り方教育ではありません。したがって、学級通信や連絡帳だけを実施している教師を、綴り方教師とは呼ばないと思います。ただし、生活綴り方教師を自覚している教師は、ほとんどが学級通信を発行し、連絡帳(日記帳)等を書かせ、コメントを書いていると思います。

 

Q 小学校の担任はよい作文を学級通信に載せていたが、保護者からの訴えでとりやめになった。時代によって、よいことを共有するのは難しいのかと思った。

A 現在の学級の性質を示す重要な点だと思います。ハンナ・アレントの論を思い出してほしいのですが、プライバシーとは、「奪われる」という語から派生したもので、プライバシーが重要な概念ではあるとしても、マイナスの面もあることを認識することも重要なのです。日本人は集団主義的であるとよくいわれ、日本人自身がそう思っているのですが、実は、かなり個人主義的で閉鎖的な側面も強いのです。

 こうしたなかで、共有が可能になるのは、教師と子ども、そして保護者、それぞれの間で信頼関係があった場合だけだといえるでしょう。生活綴り方は、生活を綴るのが中心ですから、当然プライベートな部分に触れていることが多いわけで、信頼関係がないところで、生活が書かれた文章が学級のみなに開示されることは、プライバシーが侵されたと感じる人が出てきても不思議ではないのです。しかし、信頼関係があれば、生活上の困難が書かれていても、励ましたり、支えることにつながります。

 生活綴り方的な実践が成功するためには、関係者の信頼関係を築くことを土台にすることが不可欠だといえます。

 

Q 経験主義による低学力批判があり、知識偏重にも疑問がありる人が生活つづり方の考えをするということだったが、「知識がある」というより、「文章力や構成力」など実践的な学力を重視しているということなのか。生活つづり方をすると、必然的に学力も高くなるということなのか。

A これは大変難しい問題で、決まった考え方があるというよりは、生活綴り方を実践したり、あるいは養護する研究者の間でも、微妙に相違がある領域ではないかと思います。戦前は、授業で紹介したように、科学的な知識や思考力を通常の授業では育てることかできないので、それを綴り方で補ったという意識が強かったわけですが、戦後は、戦前のような教育はあまりなくなりましたから、そういう意味での科学性を綴り方に求める必要はなくなったわけです。そこで、「日本作文の会」(生活綴り方の団体)の内部でもかなり大きな論争となりました。

  もちろん、単なる知識以上の文章力、思考力、観察力等々を重視していることは、同じだと思いますが、それを綴り方でやるかどうかについては、多様な立場があるように思います。むしろ、それぞれの論者の著作を自分で分析してみるのがいいと思います。

 

Q 自転車や水泳などのように、一度技術を獲得すると、ある程度の期間やっていなくてもいつでもできるものと、作文のようにやっていないと能力が落ちてしまうものの違いは何か。

A 人間の記憶は、一端脳に刻まれるとずっと残るといわれています。思い出さないのは、記憶が消えたのではなく、表に出にくくなったのだということです。頻繁に思い出さない知識は、だんだん出にくくなってしまいます。幼児の記憶などは、上に記憶が上書きされると考えられているので、思い出しにくくなります。しかし、高齢者になって、特に認知症になると新しい記憶から消えていく(脳の記憶部分が機能しなくなることで)と、少しずつ前の記憶が出てくる。そこで、幼児のことが思い出されるというような現象がおきます。それほど記憶は、脳が機能障害を起こしていない限り、残っているものなのです。

 自転車や水泳は、「型」の記憶として残ると考えられます。自転車に乗ることができるということは、バランスをとることがてきることです。バランスをとれる身体の状態を記憶すれば、その記憶が残るわけです。泳ぎも同様です。

 しかし、泳ぐには、型の記憶だけではなだめで、筋肉がエネルギーを補給しながら進む必要があります。そして、筋肉は、使わないと衰える性質があるので、ある期間泳がないでいると、筋力が衰えてしまい、以前のようには、泳ぐことができなくなります。つまり、泳ぎそのものはできるけれども、継続的には泳げない。

 知的な領域でも、「知識」は、「型」にあたる記憶なので、忘れることはありませんが、作文は、知識を使って総合的に構成する「活動」なので、筋肉が運動をするような要素が強いと考えられます。そこで、策分力は、書いていないと落ちていくと思われます。

 

Q 「二十四の瞳」で校長先生がいっていた「赤」とは何か。

A 社会主義や共産主義を信奉する人を、抑圧したり、あるいは非難する人が、指していった言葉です。どのくらい前からかはわかりませんが、少なくとも、マルクス主義が出現した以降(19世紀後半)、社会主義政党は、「赤」を象徴的な色として使ってきました。第一次世界大戦前後に、マルクス主義政党(社会民主党)は、議会主義派と武力革命派に分裂し、後者は共産党と名乗るようになります。(ロシアも同様)ドイツ共産党は、機関紙を Rote Fahne (赤旗)と名付け、また、ロシア革命を起こしたボルシェビキ(後のロシア共産党)は、軍隊を赤軍と呼んでいます。日本共産党も、現在に至るまで機関紙を「赤旗」という名前で発行しています。このように、比較的急進的な社会主義者は、「赤」をシンポルのように使用したので、それを嫌う人たち、弾圧するひと達は、彼らを「赤」と呼んだのです。一種隠語ですが、かなり一般的に使われました。そして、彼らを思想的な弾圧の対象としたときにも、第二次大戦後のアメリカや日本で「レッドパージ」という名前で、社会主義者を追放していた時期があります。有名な俳優のチャップリンは、マッカーシズムといわれるレッドパージ政策の対象とされたために、アメリカを去ってスイスに永住するようになりました。