臨床教育学 2016.4.21

Q 女子に仲介者が多いのは、正義感が強いとも思ったが、被害者となってしまう可能性があるのに仲裁ができるのか。

 この点についての意見

1 男の子の問題には、女の子はあまりターゲットにならないことと、先生としっかりコミュニケーションがとれていて、自信をもっている子が多いからだと思います。

2 女子の仲裁者が多いのは、スクール・カーストと関係があると考える。自分の小学生時代、またボランティア先の小学校をみると、圧倒的に女子の権限が強く、スクールカーストの上位は、女子が多いと感じる。

3 男子がいじめの加害者の場合には、女子が仲裁できると思うが、女子がいじめの加害者の場合には、女子はあまり仲裁者になれない気がする。また、平等を教える教育の影響で、かえって、いじめの対象となる人が増えたのではないか。

4 女子が注意できるのは、強くて自立しているのもあるが、力での上下関係がないからではないかと思う。逆らったら何かされるという恐怖心よりも、正義感のほうが幼いときには、強いが、男子には叶わないと知ると、意見ができなくなるように感じる。

5 女が女をいじめているとしたら、女子は仲裁できないと思います。

6 女子が仲裁者の傾向が高いのは、小学校のときにはませていたり、お姉さんぶりたい年頃だからではないでししょうか。男の子を注意したりして、お姉さんであるという自覚をもちたいのでは?そのため、中学生になると減ってしまうのではないでしょうか。

 

 加害者が女子のいじめ事件はあるのでしょうか。ないとしたら、女子のほうが正義感が強いといえる気がします。

 いじめで自殺した女子は、栃木県の桐生市で起きた事件以外は、あまり話題にはなっていません。おそらく、自殺を考えるのは、犯罪的な要素(暴力・恐喝)が含まれていることが多いので、女子の場合には男子に比べて少ないと考えられます。

 

Q 日本は同調性がある人種だといわれるが、いつごろからそのような性格になったのか気になった。

A 江戸時代がひとつの転機で、明治以降の教育の影響が強いと考えられます。

 日本は戦国時代までは、統治機構も多重であり、人々も多様な生きざまがありました。社会全体が長期的に安定したこともほとんどありません。しかし、江戸時代になり、社会階層がかなり固定し、かつ平和な時代が続いたので、次第に、人々が共有する部分が多くなったと思われます。人々が守るべき価値観なども、あたえられる形で浸透していきます。江戸時代は教育も普及し、そこで倫理的な内容が中心的に教えられました。

 明治になると義務教育制度が敷かれることになり、そこで国民の知識や価値観が統一的に提示されて、強力に教えられることになるので、同質性やそれに従うという同調性が形成されていったということでしょう。

 

Q  観衆は、いじめに直接関わらずに煽動する人。、傍観者は、いじめに参加することも、とめることもしないで、ただみているということでしょうか。

A その通りです。

 

Q 1970年代に体育会系の教師が強権管理したことで教師内(管理職を除く)にもカーストが出来、それが今でも残っているのではないかと思った。

A そういう面があるかと思いますが、管理職はそのトップにいると考えるべきでしょう。

 

Q 仲裁者の減少の理由で、中学受験の影響とありましたが、少々納得できませんでした。中学受験をする優秀な子は、勉強ができてルーム長を務めることがあっても、いじめを仲裁できる子というイメージはありませんでした。どちらかというと、勉強が苦手でも、スポーツができたり、活発であったりする子が、クラスの中心でいじめを止めていたイメージがあります。

A そうした事実こそが、中学受験の影響だと考えられるのです。その優秀な子は、受験に関心がいっているので、クラスの問題に関わりたくないし、また、関わってもあまり影響力を行使できないようになっているのではないでしょうか。止められる側にしても、自分がある程度認めている、共感できる人によって止められるのでなければ、あまり従う気持ちにもなれないでしょう。

 

Q どうやったら塾に行っていても、クラスで中心になって、いじめをとめたりできるのか。

 おそらく、受験に意識が向いている子は、いじめを止められるりっぱなリーダーになることよりも、合格が大事だと考えがちなのではないでしょうか。現在のような中学受験システムのなかでは、難しいような気がします。何か名案がありますか?私自身は、中学受験に反対する気持ちはありませんが、積極的に勧める気持ちもまったくないので。

 

Q オランダの仲裁者の数が、小学校の頃から低いのは何故ですか。

A この点は、あの統計を見て、私自身も驚きました。あまりその種の統計を見たことがないの。また、統計も詳しい説明はないので、正確なことはわかりません。ただ、実際にオランダの学校に子どもを通わせ、そのなかでいじめもあったので、その経験でいえることは、オランダでは、集団が特定個人に対する長期のいじめをすることは、比較的少ないということがひとつの理由として考えられます。つまり、当時実際に経験した「いじめ」と言われたものは、けんかに近い要素があり、当事者の問題だと子どもたちが考えていた印象がありました。理由は被害者が移民の子どもだったということなので、差別意識が根底にあったと思いますが、当人の溶け込み方もまだ十分ではない時期だったのでしょう。

 それから、オランダ(ヨーロッパには多いのですが)では、学校に休み時間がなく、教育時間中は、教師がずっと子どもの近くにいるので、教師が指導することが多いのではないかとも思われます。また、オランダでは個々人の行為は、個々人の自由意志と考える気風が強いので、いじめがあっても、その人たちの問題だ、助けを求められない限り干渉しない、という、ある面個人主義の悪い面が現れていると解釈することもできます。もう少し調べてみたいと思います。

 

Q いじめ問題で学校の先生の対応に問題があるのは、先生方へのいじめの対策指導がきちんとされていないからなのでしょうか。

A 教師の対応に問題があるのは、多くの原因があるかと思います。前回残ってしまった部分なので、28日の授業で扱います。

 

Q 1980年代以前に仲介者がいたことが驚きでした。仲介者がいじめのターゲットになるのは、地元の小学校でも中学校でもよくあることでした。1960年代は仲介者がターゲットになることはなかったのでしょうか。

A いじめは現在の最大の教育問題だといっても過言ではないでしょうが、年代はいじめ問題が騒がれるようなことは、ほとんどなかったように思います。命に関わる事件などはほとんど起きていないはずです。それは、いじめが長期で陰湿なものにまではなっていなかったということでしょう。また、授業でも説明したように、そのころまでは教師の権力や権威はとても大きかったので、教師が抑えることも大方可能でした。仲裁役はクラスのリーダー的位置にあるわけですから、仲裁に入った結果いじめのターゲットにされるようなことは、教師はとめることができた、あるいは、そこまでいじめの加害者はしなかったといえると思います。

 

Q 傍観者増大と仲裁者減少の理由のひとつに、日本教育の同調性について説明されましたが、他国では教育に同調性がみられますか。他国では、傍観者増大について、日本とは違う理由がありますか。

A 日本は同調性が重視される、あるいは同調性が支配的であるというのは、日本的特質であるといってよいと思います。日本は島国であって、ある時期に外から多くの人が移住してきたようなことはあったでしょうが、歴史的に見ることができる時代としては、奈良時代くらいが最後ではないでしょうか。それ以後は、日本人は自己内再生をしてきたわけで、そのなかで自然と同質性が高まってきたのは間違いありません。絶えず異民族が入り込み、(現在でも難民問題が起きていますが)民族の混合が起きてきたヨーロッパや、そもそも移民で成立しているアメリカなどでは、そもそも違うことが当たり前のことであって、みんなが同じという発想そのものが起きにくいと思います。同質性と多様性は、それぞれに長短がありますが、それらを立体的に把握しておくことが必要でしょう。

 ヨーロッパでは戦後一貫して、異民族の流入が起きており、多様性による発展があると同時に、社会的負担も大きくなるので、ストレスが子どもにも及んでいることが指摘されています。そのために荒れた学校は少なくありません。ときにイギリスなどは、ずっと学校の荒れが深刻な問題です。暴力やいじめも程度が大きくなれば、助けるためにはかなりの勇気が必要となりますから、そういう点で傍観者が多くなっているのかも知れません。

 

Q 大河内君事件をきっかけにスクールカウンセラーが導入されたとあるが、それまでいじめが問題視されたのに、導入に至らなかったのは何故ですか。

A まずカウンセラーという職業が確立していない時代であり、資格も存在せず、したがって人材もいなかったわけです。当初学校の問題を解決するために、文部省は、教師の力量のあるひとたちを選抜して、カウンセリングを学ばせる方針をとりました。しかし、教師の忙しさや、教師という職業の性格(懲戒権をもつ権力性)から、うまくいかないことがわかり、心理職のカウンセラーを養成する方向に変わったのです。関係学会の協力で臨床心理士資格ができて、動き出したばかりだったのです。この学会の状況と大河内君事件が近接した起きたことが、この時期にスクールカウンセラーの設置を決めた理由です。そして、その後臨床心理学科が全国の大学にどんどん設置されていきました。