臨床教育学 2016.4.14 コメント

 

Q スクールカーストを教師が積極的に活用を利用していることが問題になるということなのですか。

A 学級の構成原理として、基本的には、ハンナ・アレントを基準として考えるということにしています。もちろん、基準というのは、それが絶対に正しいということではなく、作業仮説のようなものとして考えてください。アレントの原理は、基本的に「平等」な関係なのですが、スクールカーストは階層的な上下関係になっています。その点で、アレントの考えとは対立することは自明です。アレントが正しいという立場に立てば、当然スクールカーストを活用するのは間違っていることになりますが、もちろん、個々人の考えでは、その逆であっても構いません。どちらが正しいかは、各人がじっくりと考えて選択することです。

 

Q 以前まではなかった犯罪を減らすために臨床家の学問を取り入れようと思ったのは、当時国際的に臨床がブームになっていても日本も取り入れようといった背景があったからでしょうか。

A 国際的に臨床がブームになっていたという状況はなかったと思います。アメリカで精神科にかかるのが一種のステータス・シンボルであると言われたことがありましたが、それに典型的なように、統合失調症などの重篤な精神疾患は別として、精神科にカウンセリングを受けることは、豊かな人々の特権であったのです。フロイトの患者は裕福なユダヤ人がほとんどでした。したがって、ブームというのとは少し違うと思われます。戦後、アメリカで精神分析の研究や実践が盛んになり、それに刺激されて、多様な臨床心理学、カウンセリング理論が生み出され、それを日本人の留学生や心理学者が学んで、少しずつ研究者や実践家が増えていったのが、1970年代以後だと思います。1960年代までの心理学は動物心理学が主要だったこと、また、精神医学は閉鎖的な治療が主流だったのですが、それらに対する批判が、新たな心理臨床の流れとなり、アメリカのような資格を設定しようという運動になったと思われます。しかし、これは、臨床心理学者の間で論争となり、現在でも学会は分かれています。(主流派が臨床心理士という資格を運営しています。)社会のなかで受け入れられていくのは、80年代にいじめによく自殺が多発し、学校の教師が十分な対応がとれなかった事例が悲劇を生んだために、専門家としてのカウンセラーが求められるようになったのが経緯であると思います。

 

Q 臨床心理学科ではない私にとって初めて聞く言葉が多くてあせりを感じた。

A 臨床心理学と教育学は、かなり学問のあり方が似ているので、あまり心配しないでください。また、教師になるには、「カウンセリング・マインド」が大切であるということになっているので、これを機会にしっかり学んでください。

 

Q アレント理論の人間の条件である労働と仕事の違いがわからなかった。

A これは誰にとっても難しいもので、原文を読んでもなかなか理解の難しい概念です。アレントの人間像の理想は、古代ギリシャのアテネで、広場に集まって、自由な議論をしている状況なのです。そこでは、何の義務もなく、自分の感興にそって、自由に議論をしている。小さな共同体ですから、お互いによく知っており、違いを理解しながら、でも自分の見解を何の拘束もなく陳べ合う。それが最も人間らしい営みであるというのです。

 しかし、今の現実社会では、それでは生活できません。働かなくてはならないからです。実はアテネのそうした自由に議論をするひとたちは、生活のために働くことは、奴隷に任せていたのです。だから、アレントにとっては、生活のために働くことは、できたら無しがいいのです。でも、そうはいきませんから、そのなかでも、自分の意思ではなく、資本家によって命令される形の労働と、自分の裁量で管理できるやり方(これを仕事と命名しています。)とを区別して、後者のほうがより人間的であると考えたのです。

 そんなことをいっても、エリート主義ではないか、と考える人も多いでしょうが、しかし、ベルトコンベアに座って働いている人が、非人間的であることは、否定できないことで、やはり、奴隷のように働かされる状況から、少しでも自分を活かせる働き方ができるように、社会を変えていくということを目指す意味で、意味があるように、思われます。マルクスは、「労働」を極めて重視していて、その点で、アレントはマルクスを批判しているのですが、マルクスの労働概念は、単に生活のためにいやいやすることを前提としているのではなく、労働こそ人間の形成の本質的営みであると考えているので、アレントとそれほど違いはないようにも思われます。

 

Q 人間の条件に当てはまらない、当てはまりにくい、例えば障害を持つ人などは差別的に受け取られる気がした。

A 自由に、オープンにコミュニケーションすること、相違を認めて、そこに上下関係をもたせないことが、人間の条件であるとするならば、むしろ、障害をもった人たちも、まったく平等に扱うことになるような気がしますが、どうでしょうか。アレントは、障害者ではあませんでしたが、ヨーロッパで最も強い差別を受けていただけではなく、生きていた時代は、それだけで殺される危険性のあったユダヤ人ですから、差別問題には、極めて強い問題意識をもっていたと思います。

 

Q アレントが本を出版するたびに物議が起きたとありましたが、とのような意見があったのか

A 強い物議を醸したのは、最初の大きな著書である「全体主義の起源」と、授業で紹介した「イスラエルのアイヒマン」でしょう。「全体主義の起源」では、人間を抑圧する思想や政治体制として「全体主義」という概念を提起したのですが、主なものとして、反ユダヤ主義、ナチズム、スターリニズムをあげたのです。現在では、どんな社会主義者でも、スターリンを賛美する人はいませんが、当時は、まだスターリンが生きていた時代であり、かつ、ヒトラーと最も深刻な戦争を行って、ドイツを敗北に至らしめた存在だし、また、唯一の社会主義国家の指導者ですから、スターリニズムを全体主義として断定したアレントに対して、相当な批判があったのです。しかし、スターリンの独裁的な部分が明らかになるにつれて、この点の批判はなくなっていき、むしろ先見的な点として、高く評価されるようになったと思います。

 「イスラエルのアイヒマン」については、授業中に説明したように、悪魔だと多くの人が思っていたアイヒマンを平凡な人間と評価したこと、ユダヤ人が強制収容所でナチに協力した人がいることを書いたことが、非難の対象になりました。

 もうひとつ、大きな話題になったのは、「リトルロック事件」に関してでした。1960年代まで、白人と黒人は別の学校で学んでいたのですが、それが違憲であるという判決がでて、白人の学校だったリトルロック校が黒人をいれること決め、9人の黒人高校生が、応募しました。当初、いれることを推進していた知事が、選挙を意識して、突然反対に変わってしまい、また、多くの白人が強行な反対運動を行いました。そして、知事は混乱をさけると称して、黒人の登校を妨害するために州の軍隊をだしたのですが、それに対して、アイゼンハワー大統領が、判決を尊重して、黒人たちを守るために連邦の軍隊を覇権して、登校を保護したのです。全米を巻き込んだ、大きな教育的騒動がリトルロック問題といいます。そのとき、アレントは、黒人と白人を平等に扱うことは正しいが、こうした騒ぎの中で、黒人の高校生を無理にいれさせようとしていると、そうした運動をしていたり、特に、その高校生たちの親が、自分たちの信念のために、子どもを利用していると非難する文章を発表したのです。つまり、黒人運動の立場からすれば、称賛される高校生であり、白人主義の白人たちからすれば、とんでもない高校生なのですが、そのいずれでもない見解を、アレントはもったのです。そういう独特な議論であったこともあり、そうとう物議をかもしたようです。しかし、これは、アレントの勘違いであり、その黒人高校生たちは、親が強く反対するなか、自分たちは教育水準の優れた白人の学校で学びたいのだ、という意思を通したのが事実で、実際に、このとき入学した黒人高校生たちは、相当迫害をされながらも、卒業までこぎつけ、後々リトルロック・ナインと呼ばれて、尊敬されたと言われています。アレントも、自分の考えの勘違いに気づいて、誤りを認めたのです。間違いに固執するような人ではなかったのです。

 

Q 臨床心理学と教育学の違いは分かったが、教育学と臨床教育学の違いがいまいちわからなかった。

A 臨床教育学は、授業でも説明したように、主に二つの流れがあり、臨床心理学の系譜からきたひとたちは、スクールカウンセラーの実践について研究する学問と位置づけているのに対して、教育学からきたひとたちは、生活指導論をそれぞれの立場から発展させたものだと位置づけていると思います。いずれにしても、まだ形成途上の学問なので、統一的な体系はまだないといえます。

 

Q 心理学と教育学の共通点や相違点を習ったが、この二つがどのように関わってまとまっているのか知りたい

A 簡潔にいえば、心理学は、発達の基礎的な研究を行い、それを参考にしながら、教育学は教育実践への応用について研究しているといえます。