臨床教育学 2015.4.30のコメント

1 班長を、先生が適正者を見つけるのは、何かおかしいと思いました。

2 全生研の生活指導の仕方については、問題があるように思う。リーダーを育てるということしか考えなければ、そのほかの人は、見捨てられるようなことになる。また、そのように優先されてもリーダーにさせられた人は、逆によいリーダーになれない気もする。

 

 このふたつは同じ問題意識なので、まとめて扱います。

 全生研が、「リーダーを育てることしか考えない」というきは、間違いです。重要な課題だと考えていることは事実ですが、それオンリーと重要だというのは、かなり違うはずです。

 まず、考えねばいけないことは、人は自然に育つのか、ということです。もしそうなら、「教育」という行為は必要がないことになります。しかし、人類発生以来、教育という行為はずっと続いているだけではなく、拡大の一途をたどっています。それは、自然にまかせておけば育つ領域が、割合として減っており、社会全体の進歩や拡大とともに、意図的に育てなければ育たない、あるいは意図的に育てたほうがずっとよく育つ、という領域が拡大してきたことだと考えられます。 

 そういう中で、指導者の育成が、意図的教育の対象ではないと考えるのは、不自然です。したがって、まずは、指導者の育成が教育の課題のひとつであるとして、次にいきます。

 指導者に適性があるかどうかは、別に教師でなくても判断できると思いますが、学級の中でリーダーを育てるとなると、第一に教師であると考えるのは自然でしょう。もちろん、子ども自身が自分で適性を考慮してもいいわけだし、また、友人が推薦することがあってもいいでしょう。全生研では、特に教師だけがリーダーを選ぶ権限をもっているというわけではありません。ただ、教師にとっては、責任をもってリーダーを育てる必要があるということです。また、見分ける力も必要です。

 リーダーとしての班長だけを教師が考慮するのではなく、当然子ども一人一人に注意し、適切な指導を行う必要があります。

 適性を教師が見つけることへの疑義とか、他の人は見捨てられるという感じは、結局は、教師と子どもの信頼関係によるわけで、もちろん、まずい結果になることも当然ありえます。しかし、信頼関係があれば、先生の勧めということで、素直にきくし、また、一生懸命リーダーとしての活動をすると思います。また、自分がリーダーになってみたいと思う子どもは、教師にその旨伝えることもできるし、リーダーとしての資質がないと感じている子どもであれば、教師に対する不快な感情を抱くことはないでしょう。

3 全生研を利用する学級とスクールカーストを利用する学級とどちらのほうがクラスがうまくいく傾向にあるのか気になりました。

 全生研は、子どもたちを民主主義社会の主体として育てるという目的があります。そして、クラスがうまくいくように実践をするわけでもありません。しかし、スクールカーストを利用するというのは、そうした目的意識はなく、学級を混乱なくうまく治めようという意識なので、比較することがあまり意味がないように思います。

 

4 全生研とスクールカーストの比較で、「班競争」と「支配と服従」、「相互援助」と「内部での交流」とは、何が違うのですか。

 「班競争」は、全生研では、「班」と「班」の競争であり、その内部では、相互援助を行います。他の班に勝つために、協力するわけです。そこで能力の向上と協力的資質を培うという目的があります。いつも同じ班が勝つわけではなく、すべての教科、すべての行事で競争が行われるので、勝敗はいつも違うのが普通です。だから、班の間の上下関係はあまり生まれません。もし生まれるとしたら、班の構成がまずいと評価され、改められると考えられます。しかし、スクールカーストの「支配と服従」は学級単位での関係であって、協力があるわけではなく、単なる上下関係といえます。

 全生研の「相互援助」は、班のなかに能力のある者もそうでない者もまじっています。もちろん、教科や活動内容が変われば、その関係もかわるでしょうが、とにかく、様々な能力をもったものが協力するのが、「相互援助」です。しかし、スクールカーストの「内部交流」は、あくまでも「同じカースト」の内部の交流なわけで、様々な能力をもった者たちの協力ではないわけです。

 もちろん、上のことは、全生研の活動が適切に行われ、教師と子どもの信頼関係がある場合にいえることで、それが崩れている場合には、スクールカースト的になってしまう危険性があるといっても間違いではないでしょう。

5 体育の授業などで、運動能力に差があると、疑似スクールカーストができてしまうことがあった。それによっていじめもおきそうになった。このように必ずある能力差によって起きる問題は、どのように防ぐことができるのか。また、体育のような能力差がはっきりとわかる授業は必要なのか。

 なかなか難しい問題だと思います。日本の義務教育のカリキュラムには、ヨーロッパでは含まれないような様々な領域があります。音楽の楽器演奏、競争的な競技による体育、家庭科、様々な種類の学校行事等。こうしたことは、学校教育の内容を多彩にし、いろいろなことに触れることができるという利点の一方、社会にでて、特に必要とされるわけではないことで、かつ自分の向かないものや嫌いなことまでせざるをえないという欠点があります。スポーツが好きな人でも、網羅的にやるわけではなく、ある特定のスポーツを主にやるのが普通です。芸術的なことなどは、好き嫌いがあるし、また、家庭科で行うことは、主に家庭で指導することが多いといえます。

 そういう中で、特に、日本の学校は競争主義的な要素があるので、能力差がでることを前提に授業が行われることが多いのが特徴です。

 いろいろな考えがあるので、それぞれ自分で考えてほしいと思いますが、ヨーロッパの義務教育では、基本的に趣味にかかわる領域については、学校教育ではあまり扱いません。体育なども、特に小学校では、健康や楽しむことを目的として行われることが主流で、中学校以上で、競争的な内容を含む場合には、選択になっていることが多いように感じます。もちろん、すべてとはいいませんが。