臨床教育学 質問へのコメント 2015.4.23
1 ハンナ・アレントのところで、私的空間(プライバシー)が公的空間に入り込みすぎてはいけないとというのは、具体的にどういうことか。
 ハンナ・アレントは、私的という言葉は、フランス語のpriveからきており、「奪われる」という意味を根底にもっていると考えています。つまり、プライバシーというのは、人間関係の疎遠さを表しているので、人間関係が親密になれば、プライバシー部分は次第に少なくなっていくはずだというわけです。生活綴り方のところで扱う予定ですが、例えば、作文を書いて、みんなで読み合わせて感想を言い合う、ということは、とてもいい人間関係をつくるものです。また、いろいろな問題を解決する上でも有効です。いじめを受けている子どもが、そのつらさをせつせつと訴えた作文をみんなの前でよみ、意見をいいあえば、よほど雰囲気の悪いクラスでなければ、いじめていた子どもも、つよく自分のやっていることの問題を理解します。しかし、そこで個人情報という理由で、作文を読まない、あるいは、他の人が読むのはやめる、あくまで作文は書いた人と教師だけが読む、というようなことになってしまうと、上のような人間関係を形成していくような意味をもたせることができなくなります。もちろん、お互いの信頼関係がなければ、作文を読みあうことはマイナスでしょうが、信頼関係ができ、個人的なことを共有できるようになることが、望ましいのだということです。

2 アメリカは教育が義務ではないところもあるが、そこでは年齢別に勉強しているのか。モニトリアル・システムではない理由は、落第、飛び級ができるから。日本はどうして落第・飛び級ができないのか。
 アメリカは義務教育です。ただ、ホームスクールを認めているので、届ければ、家庭での教育が認められるということです。家庭なので、年齢別もなにもありません。
モニトリアルシステムは、全員をひとつの場所で教育するが、人数が3桁になるような状況で成立した特殊な授業方式なので、義務教育がおきて、国家が責任をもって学校を作り、20-30人程度のクラスで運営できるようになって、自然消滅したといえます。
日本では、法的には、飛び級は認められていないといえます。ただし、落第は、進級が課程の修了の認定によると法律で定められているので、法的には可能です。しかし、おそらく、平等主義の浸透によって、一人、二人遅れるのは学級運営上好ましくないという雰囲気ができて、実際には行われなくなったところでしょう。ただ、法的には可能なので、かなりの反発を覚悟すれば、日本でも落第はありえます。

3 日本の教育はクラスで仲良くなることに価値づけているというが、何故日本では学級崩壊が起きるのか疑問だった。ヨーロッパでもよくおこる問題なのか。
 今日行った説明は、あくまでも太田の私見です。日本では、学級をまとまりのある集団として形成しようとする。「仲間作り」なども重視され、更に、運動会や合唱コンクールなどで、学級対抗が行われる。そういう中で、うまくいけば、濃密な人間濃密な人間関係が形成されるが、それがうまくいかないと綻びが生じるし、また、競争の中でストレスが生じる。教師のまとめる力が不足していると、実際にはまとまりの悪いクラスになってしまう。秩序を乱す児童・生徒がいれば、授業も成立しなくなる。一斉授業を前提にしているので、子どもたちが、静かに聞くことで授業は成立するが、それが成り立たなくなる。そういう状態を学級崩壊と呼んでいる。
ヨーロッパでは、クラスのまとまりなどを重視した学級経営をしないし、多くの学校では、一斉授業ではなく、個別学習が主になっているので、そもそも集団的まとまりを前提としていないことが多い。だから、まとまりがなくても、それが学級崩壊とは意識されない。集団的ストレスも日本のようには存在しないので、秩序の崩壊も極めて少ないといえる。

4 イェーナプラン学校で、3つの年齢で一クラスということだが、人数が多くなってしまうのではないか。
 ビデオなどで見ると、確かに多めですが、3つの年齢の3つのクラスを1つにまとめるのではなく、3つの年齢で構成されるクラスを3つつくれば、同じ人数になるわけで、そうしている学校が多いのではないでしょうか。

5 「学級としてまとまっている」ことにそれほど価値があるとは思えない。一人一人がまわりにあわせているだけではないか。。社会の中で役立つ力は、一人一人動けることではないか。
 「学級としてのまとまり」に価値をおくことは、日本の多数の感覚であるということは、間違いありません。だからといって、それが「正しい」というわけでもないので、学級に対する価値付けは多様であっていいと思います。

6 学級崩壊を起こす先生は、クラス変えしても起こすというが、その先生の行く末はどうなのか。また、子どもでも教師に向いていない人がいると思うが、その人をやめさせることはあるのか。
 学級崩壊をしてしまった教師は、多くの場合、困難な子どもがいない学級、あるいは子どもが教師に従う傾向のある低学年などにまわされる、あるいは、担任をもたない教師になる、等になることが多いようです。そして、転任の時期になると、他の学校にまわされ、そして、同じことが繰り返されるというのが、残念な実態だと考えられます。学校は、新任の教師に、困難な学級を押しつける傾向があるので、その学校で学級崩壊を起こす可能性が高いといえます。
そういう教師は、やがて、「指導力不足教員」と認定されて、専門委員会が設置され、外部の人を含んだ委員会で、適格性を判断されます。そして、多くの場合、教育センターなどに送られて、1年、2年の研修をうけることになります。そこでやめる先生もいるし、復帰する先生もいます。また、かなり難しいのですが、一般公務員に鞍替えさせる場合もあります。
もちろん、能力がなければ、免職も法的には可能ですが、それを実行することは、やはり、少ないといえます。
教師が免職になるのは、「懲戒処分」が圧倒的です。犯罪を犯したり、規則違反をしたりの場合です。能力があることで採用した以上、能力がないことで免職にするのは、現場の指導性等も問われることになるからです。

7 ポストモダンの創造性が理解できなかった。創造性が何故個人の独立につながるのかというあたり。
 創造性が個人の独立につながるのではなく、個人の独立なしに創造性はないということだと思います。もちろん、ポストモダン論はいろいろなものがあり、単一のものではありませんので、違う論もあるかも知れません。

8 親の子どもに対するしつけが甘くなっていることを感じる。いつから甘くなったのか。
 親の子どもに対するしつけが甘くなっているかどうかは、人によって、評価が異なるのではないでしょうか。子どもがたくさんいたころは、一人一人に手をかけることができず、かなり放任に近かったけれども、少子化の現在では、一人一人にかなり手をかけ、しつけを親の考えによって、かなり入念に行おうとしている場合も少なくないと思われます。また、甘いといけないのかというと、昔のようにしつけと称して体罰を日常的に行うよりは、改善されたともいえます。家庭によっても、しつけの態様はかなり違うはずなので、多様なあり方に目を向け、甘くなったのかどうかの検討が必要であるように思います。