今日の推薦書き込みです。
 みなさんは、大学に入って間もないで、大学で求められる文章がよくわかっていないと思うのです。僕の評価基準を読んだ人は、ある程度わかると思いますが、自分の意見を書いただけのものというのは、だめということはないけれども、そういう文章を求めているわけではない。他の先生でも、レポートなどに、自分の感想だけを書けばいいということはないと思うのです。授業の最後に、小さな紙を配って、感想を書かせるということがあるかと思いますが、この授業の掲示板への書き込みは、授業が終わって、その中で自分なりに感じた「課題」をひとつ設定して、それを掘り下げることが大切なんです。
 授業でいくつかの問題を設定していますが、それをひとつひとつとりあげて、これについてはこう思う、これについてはこうだ、というような、自分の意見を羅列しただけのものは、求めていません。人為的操作についてはこう思う、優生思想についてはこう思う、出産前検診についてはこう、というように、たくさんの課題を連続して書くについても、自分の意見を書くだけなら、意味がない。大学で文章を書くということは、そのことによって力をつけるということです。例えば、体力を増進させようというときに、10程度散歩してきても、体力つきませんね。体力をつけるためには、少なくとも20分か30分は、ランニングする。歩くだけなら、1時間とかを速めに歩くというように、負荷をかけなければ、いけないと思うのです。知的鍛練でいうと、課題をひとつに絞って、何かを調べる、こういうこともあるんだということを踏まえて、掘り下げた文章を書く。そうした文章を書くことを積み上げていくことによって、知的な能力を鍛えていくのだと思うのです。
 そういう意味で、この推薦する文章は、「ロングライフ訴訟」ということについて書いてあった文章ですが、僕も知らなかったので、とてもいい勉強をさせてもらったけど、出産前検診に関して、ロングライフ訴訟を紹介しつつ、この問題について掘り下げて考えたことを書いている。僕としては、こういう感じで書いてほしいのです。37541番の文章をじっくり読んでください。番号を書いておいてください。
 
 今日の課題は「安全」です。前回は「生まれる」ときの問題でした。今日は生まれたときのことです。生まれて最初に問題になるのは、病気にかからない、事故にあわない、健康な状態で育って欲しいということです。みなさんは、そういうことが実現してここまで生きてきたのでしょう。いろいろな人の援助もあって、安全に生活してきたわけです。
 ところが、安全は、いろいろなところで、脅かされている。安全も教育学の課題なのかという疑問があるかと思いますが、教育を成立させるための土台のようなものですから、教育的行為そのものではないけれども、安全が保たれなければ、教育は成立しないということは自明なわけです。例えば、大阪教育大学付属池田小学校事件は記憶にあるでしょうか。
 この小学校に、詫間という男がナイフをもって侵入して、いくつかの教室を周りながら、手当たり次第に子どもをいった。それで多数の死者とけが人がでたという事件です。記憶にありますか?(大勢挙手)
 
 あれは明らかに安全が侵されて、教育が危機に瀕したという事件でした。このようなことが起きないという配慮がなければ、教育は成り立たない。
 いろいろな事件がありますので、そういう事件をこれまで取り上げてきたのですが、ここ2、3年、その前の認識を少し検討してみる必要があると感じているのです。
 まずはこの表題を見て下さい。
 
   安全は成長の大前提?
    安全か効率性か

 この副題です。ここ2、3年、このテーマをやっている上で、強く感じているのですが、みなさんは、「安全」と「効率性」とどちらが大切だと思いますか?挙手してみてください。

 (安全−大多数   効率性−数名)

 こう質問すると、こうなりますね。ところが、具体的に聞くと違うようになります。あることを聞くと、この大学の学生だけかどうかわかりませんが、それを具体的にみなさんに聞いてみましょう。
 
 道路の安全を守るために信号がありますね。信号は、最も単純には、赤・青・黄というみっつの明かりによって示されます。
 これだと、右折するときには、向こうから来る車がないかどうかを見定めて、いないときに、さっと右折するわけですね。そして、その際には、もちろん歩行者とか自転車が横断歩道を歩いていないかどうかも確認しなければならない。
 
 免許もっていて、運転しているひといますか?(10数名挙手)
 
 これはいい信号でしょうか。
 これは交通量が多い道路では、右折するタイミングがなかなかつかめないので、危険だしまた渋滞が起きやすい。そういうことのためだと思いますが、⇒ の信号がつく場合がありますね。この場合、右折する車は、直進車の有無を確認しなくてもいいので、多少便利ですね。⇒ 記号があるのと、ないのとどっちがいいですか?
 
 ある方がいい 大多数     ない方がいい   10人程度
 
 ここまでは常識の範囲です。これから先が問題です。僕は文教大学から派遣されてオランダに海外研修にいって、生活したことがあるんです。オランダの信号って、日本と少々違うのです。典型的なものをあげると、直進 ? ⇒ という方向性が3つそろっているだけではなく、歩行者と自転車も分かれています。普通の車と自転車がすべて別々の信号で動くことになっています。更に、車にしても、直進と直進は同時でもいいですが、こちらの右折と向こうの左折はけっして同時ではないというように、自分がわたるときには、他の方向から来る車や人とぶつかる可能性は極力ないように設定されているのです。
 しかしながら、自分がわたる寸前で赤になったとすると、次にわたることができるまで、かなり待たなければならないことになります。それは車も歩行者も自転車も同じことです。
 では、日本とオランダとどちらの信号のパターンとどちらがいいですか?
 
 日本 半分強    オランダ 半分弱
 
 ヨーロッパでも、オランダのようになっているところは、少数で、日本と似ているところもたくさんあります。ドイツなんかは、日本と似ています。
 
 今日は、最初に問題提起をしたので、こんな数になったのでしょうか。オランダの利点は明確ですね。自分がわたるときに、安全である。欠点も明確です。待つ時間が長いということです。もちろん、わかりながら手をあげましたね。
 
 去年までは、圧倒的多数が、日本支持だったのです。つまり、抽象的に安全か効率かと質問すると、安全というのに、この問題だと、圧倒的に効率派だったのです。それで聞いてみました。ここでも、安全が大事というのは、大多数だったのに、日本とオランダの信号では、半々になっていましたね。つまり、半数強の人たちは、効率と取ったと思うのです。僕の感じでは、総論で安全が大切といっても、各論で効率をとるという感覚が、みなさんの中にあるのではないかと思うのです。
 
 何か意見はありますか?
 
S オランダの方ですか?

T どっでもいいです。

S オランダの信号に比べて日本の信号がよいと思います。もちろん、オランダの信号にもいいところがあります。車の行き来や人の行き来が多い道路の場合は、役にたつと思います。しかし、そうでもないところに設置されたら、ドライバーはイライラして、ストレスのこめに、信号をぎりぎりまで待たないで、結局は事故になるのではないか。だから日本の信号の方がいい。

T 待っているとしびれを切らして、急発進したりして、事故になりやすいということですね。

S 日本では、今の現状で、交通事故はあまりおきていないと思うし、起きているとしても、信号のところではあまり起きていない。むしろ交通事故は飲酒運転やいねむり運転が主な原因なので、信号を見直して安全性をとるよりも、効率性重視の現状のままでいいと思います。

S オランダの信号の方が、時間はかかるけど、命をなくす事故の確立が極端に減少するからです。

S 日本の信号で右だけとか、ときどき自転車と車でお見合い状態になって、車の方がどいてくださいみたいな、めんどうなことがときどき起きるんで、しっかりわけたほうが、ある意味時間のロスが減るんじゃないかと思います。

T これは問題提起としての意味ですが、日本でもオランダ式に移行しつつある流れにあることは間違いないのですね。昔の日本は、⇒すらない状況だったですね。それが事故などが起きたりすると、少しずつ、信号が細かくなっていくという傾向になっているわけです。歩行者と車を分けるとか、方向をわけるとか。
 何も事前の説明なし、この質問をすると、もっと日本式が多くなっていたのではないでしょうか。みなさん、若いということもあって、問題提起をしておく必要があると考えたわけです。
 
 で本論にいきましょう。
 
 (パワーポイントの提示)
 
 安全を脅かす諸要因
  ・家庭で 親による虐待・経験不足による育児のまずさ・有害食品
  ・地域で 安全な遊び場の喪失 危険な道路
  ・地域の人間関係の希薄さ 誘拐・性犯罪
  ・学校で いじめ・学級崩壊・体罰・侵入者
  ・社会で 環境破壊・戦争
  ・自然災害 
  
 ここに一覧として、現在子どもの安全を脅かす要因を手短に整理してみました。昔は、ここに書いてあるようなことは、あまりなかったと思うのですね。例えば、子どもが一番安心して生活できるはずの家庭において、虐待を受ける、そして死亡してしまうというようなことが実際に起きている。これも、昔の方がほんとは酷いような状況があったかも知れません。昔は、子どもを殴る親はいくらでもいましたから、最近になって虐待が増えたかといえば、増えたというよりは、それが問題視されて、表面に出てきたという側面が強いかもしれません。でも、昔と今と比較して、親の虐待で死んでしまうという自体は、以前は聞いたことがありません。逆にいうと、みなさんの学校に体罰をひんぱんに行っている教師はいましたか?しょっちゅうなぐっている教師の体罰よりは、普段はまったく殴らないのに、あるときかっとなって殴ってしまうというようなことの方が危険だということもいえますね。殴る方法を知ることが大事だとは思いませんが、普段体罰をしない教師は殴り方をしらないので、かえって重症を負わせてしまう危険があるということなのです。それと同じことがあって、昔は子どもをしょっちゅう殴っていたので、危険・安全な範囲を分かっていた、でも、最近の親はその範囲を理解していないから、虐待が死にいたらしめるような虐待をしてしまうという事例があるのかも知れません。
 多少違う事例なのですが、先日もユッケを食べたら、子どもが死んでしまった。注意深い親であれば、小さい子どもには食べさせなかったろうし、昔はこうした食べ物はなかったので、そういう事故も起きようがなかった。焼き肉料理、あるいは韓国料理が入ってきて、おいしいから食べようということで、危険性を認識せずに子どもに生肉を食べさせてしまう。これは、ひろい意味で子どもを知らない親の恣意で、子どもを引き回しているようなことといえるかも知れません。
 地域です。
 以前は、地域で遊んでいて、事故や事件に巻き込まれることは、皆無ではなかったけど、ほんとうに少なかった。実際に、事故や事件は滅多にありませんでしたから。しかし、この授業の第一回のときに議論した事故、クレーン車が子どもたちの列に突っ込んでしまった事故、数年前に起きた保育園の子どもの列に突っ込んだ事故、こちらは、運転者に病気はなかったのですが、やはり、何人も死んでしまった。
 事故には至らないが、怖い思いをしたというのは、いくらでもある。危険な道路、あるいは安全な遊び場の喪失。
 僕が住んでいる近くに野原があるのです。みなさんが住んでいる近くに野原があったら、子どもは遊べるでしょうか。
 持ち主ははっきりしている野原があって、そこは使っていないので、子どもが自由に遊んで言いようになっているのがある人挙手してみてください。
 (20名程度挙手)
 他の人はないんですね。私のそのところは、何もしていないのに、ちゃんと入れないように柵が設けられていて、立ち入り禁止になっています。以前は、そういう使用していない土地があれば、子どもが遊び場にすることを、地域社会は許していたのです。もちろん、家を建てるときには、遊べなくするでしょうが、その前であれば、自由に使わせていた。ところが、今はそういう土地があっても、遊び場として使わせないようになっている。手をあげた人は、まだそれが残っているのでしょうが、段々減っていることは間違いないのです。
 
 それから人間関係の希薄さ。これは犯罪に関係している。子どもが犯罪に巻き込まれることは、滅多にないけれども、たまにあります。日本の政策を大きく変えた事例と言われている、奈良県の事件があります。小学校一年生の女の子が、放課後学校行事の準備のために集まることになっていたのだけど、その子は、一端家に帰って、また学校に行くという途中だった。そのために急いで帰宅していたのです。その子のことを予め目につけていた男性が、たくみに誘って車に連れ込み、そして、いたずらして殺害してしまったという事件がありました。これは、学校の登下校中のことですから、学校関係者としては、そういう事件が起きないように何らかのことを考えざるをえない。この事件が、政策を返させる転機になったというのは、この男性が、実は性犯罪者としての前科があったのです。それが地域の人はまったく知らなかったので、この章の最後にあるメーガン法のような法律を、日本にも作るべきだという主張が現れることになりました。そして、法務省などもつっこんだ検討をしたようです。
 
 学校のいじめ、体罰、侵入者。
 侵入者というのは、さっきの池田小学校事件ということでわかると思いますが、体罰でも、打ち所が悪くて、亡くなってしまうとか、おおけがをすることは起きている。
 戦争というのは、日本ではないわけですが、国際的には子どもが戦争に巻き込まれて大量に死んでしまうことはよくある。アフリカではここ2、30年ずっと起こり続けている現象です。
 自然災害については、いうまでもなく、最近震災が起きたわけです。あのときに、非常にたくさんの子どもが巻き込まれている。今回の震災でいうと、学校で災害教育をきちんとしていたところと、なおざりがあったところ、当日の対応にミスがあったところで、子どもの死亡率が格段に違うという結果が起きている。やはり、教育的課題であるということができます。
 
 では、次に事例をとりあげてみましょうか。
 
 最初に杉並第十小学校の天窓転落死事件です。これは、教育学として、安全を考える重要な例です。
 みなさん、この事故は、記憶にありますか?2008年です。みなさんは?
 
S 高校生です。

T 東京に住んでいた人。

  (数名挙手)
  
T 少ないんですね。その人たちは、鮮明に覚えていますよね。
 この事故は、特に教師になろうと思っている人たちにとっては、非常に重要な意味をもっているので、深く考えて、記憶にちゃんととどめて下さい。事故が起きたときに、損害賠償請求の訴訟が提起されることがよくあります。しかし、それは国家賠償法によって、国が払ってくれるわけです。教師が過失をして起きた事故であっても、教師が損害賠償をしなければならないということはないわけです。しかし、この事件は、極めて例外的に、この事故をおこした担任の先生と校長が刑事罰に問われて有罪になったのです。逮捕はされなかったようですが、簡易起訴されて有罪になりました。前科がついてしまったということです。そういうことは滅多にないのですが、そうした認定かあったことは、学校のミスが大きいということであるし、教師にもそうした責任が問われることがあるということを忘れないでほしいということです。
 
 杉並第十小学校は、建築当時から有名でした。20年くらい前に、3年生の演習で、地域と学校の交流−−学校開放というテーマで勉強をしたことがあるのです。そのときに、杉並第十小学校を主な対象として研究した記憶があります。神戸の小学校も調べましたが、そういう点で有名な学校だったのです。学校建築をつくるときに、地域住民が利用することを予め前提にした設計が行われたのです。プール、体育館、教室などを住民が使用しやすいように作ったのです。そういうこともあって、ホールを作ったのです。そのホールが天井まで届いていて、明かりを取り入れるために天窓をつくった。天窓は乗れば耐えられないので、危険である、それでどうするか、という議論はしたようです。それで時の校長が屋上は使用しないということを明確にしたので、通常の天窓にしたということです。初期は、使わないという申し合わせが実行されたけれども、学校は、校長は3年程度でどんどん変わります。教師も6年程度で変わっていくわけです。20年たてば、総入れ換えになるので、作ったときの確認などは曖昧になるわけです。忘れられていくと、屋上使ってもいいという話しになる、そして、授業をするようになる。最初は、危ないことは伝わっているので、許可をえるということになっていたが、その許可も曖昧になって、担任が使いたいと思えば、そのまま屋上にいって帰ってくるというようなことが、日常化していた。そういう中で、ある先生が、算数の授業のときに、歩幅をつかって、何歩歩くと何メートル進む、というような計算の練習をしようと思って、屋上を利用したのです。屋上をやって、終わったから戻りましょうというときに、ある子どもが残って、天窓の上でトランポリンみたいな遊びをやっていたら、壊れて下に落ちて即死してしまった。こういう事件です。
 事実経過は分かりますね。
 これはどこに問題があったのでしょう。
 しかたない事故だったのでしょうか。
 
S 一番重要なのは設計上の問題で、大人が乗っても壊れないようなガラスにすることが重要ではなかったか。

T 当然乗るだろう。だから乗っても大丈夫な耐久性のあるガラスにしなかったのが問題だ。そうすると、その責任は誰にあるんですか?

S わからないです。

T 建設会社とか、設計した人とか、お金を出した人が出し渋ったとか、

S 学校が承諾したのであれば、学校の責任だし、市が承認したのであれば、市の責任だと思います。ただ、どのような承諾で決まったのかはわからないので、厳密にはわからないです。

T 責任がわからないと、どうしようもないですね。

S では設計者だと思います。

S 責任は学校側にあると思います。そもそも最初から天窓の設計を受け入れるべきではなかった。それでも受けいれたのだから、屋上を立ち入り禁止にするという決まりを引き継ぎの時に伝えておくとか、そういう責任が学校にあったと思います。

T 管理責任が強いということですね。

S 担任の責任もあるのではないかと。乗るなと、予め言っておかなかったのは、疑問です。

T 言う位は言ったと思いますよ。

S 担任の先生は、乗るなとは言わなかったと教科書に書いてあります。

T 書いてありますか?

S はい

T 明確に

S いや。でも、先生は指示を出していなかったと書いてあります。

T 指示の出し方の問題だと思うのです。何も言わないということはなく、単に、やっちゃだめだ、というだけだったら、子どもはやりたくなるものですね。
 みなさんは、注意を受ければ、ちゃんと守る子どもだったかも知れませんが、先生になったときに、注意をすれば、子どもはちゃんと自分と同じように守ると思ってはだめですね。
 注意をしたからいい、というのではなく、注意したからこそ危ない、ということを気をつけないと。
 担任の責任だということに異論を唱えているのではなく、その責任の中身がどこにあるのか、という問題ですね。
 
S 担任の注意の問題もあると思うんですが、目でしっかり、子ども全員が屋上からいなくなったことを確認してから、担任が屋上を出るべきだったと思いますし、それから、設計の段階で屋上にはいかないという前提であれば、最低、校長の引き継ぎのときに、しっかり確認すべきだったと思います。

T 担任は、終わりといったときに、階段のところで待っていたようです。安全確認はしたのでしょう。しかし、階段のところでやったのは、どういう判断だったでしょう。担任の話しとして、直接内容が紹介されているわけではないので、正確なところはわかりませんが、なぜ、屋上ではなく、階段のところで確認作業をしていたのでしょう。
 意図がなんとなくわかる人いますか?
 
 僕が思うに、一番最後まで見ているとすると、なんとなく、先に帰った子どもたちが、何かするのではないかと不安になる、だから、列の中にいて、前も後ろも把握しようとしたのではないかと思うのです。しかし、階段から確認していたので、屋上にずっと残っている子どもたちが視界から消えてしまったのではないか。だから、屋上で最後の一人が戻るまでいるべきだったというのは、ごく自然に出てくる批判だと思いますし、たぶんそれは正しいだろう。しかし、この担任は、最初に帰っていく子どもが心配だったという思いがあったのではないかと、想像します。子どもの状況もあるし、なかなかわからないことがあります。
 
 ただ、今までの話しで、誤解があるかと思うのは、学校を作るときに、現場の学校側の意向が反映されることは、まずないです。全く埒外であるといえます。新しい学校の設立の過程に関与したことがあるのですが、やはり、その学校の教師になる人たちの意向が聞かれることはなかったです。ほとんどの学校は、文部科学省がつくったモデル設計案があって、それを元にして設計をします。ですから、全国どこにいっても、学校があると、遠くから見ても、学校があるとわかりませんか?あれは、文部科学省のモデル設計を採用しているので、最初から似ているのです。それで、新しい、斬新なものを作りたいという風に、教育委員会が考えたりすると、有名な建築家に設計を依頼することが多いようです。有名な設計者は、自分の理念や理想がありますから、現場の先生の意向などはほとんどきかないことが多いのです。もちろん、そうでない建築家もいますが、そこらが、学校建築の作り方の問題ではないかと思いますね。学校の先生は安全を配慮しますから、より安全な設計の学校が増えるのではないかとは思います。もちろん、文部科学省もそこを軽視しているわけではないでしょうが、やはり、現場の教師の認識はもっと尊重されるべきではないか。
 
 次は虐待問題です。
 
 子どもが虐待されて亡くなってしまうのは、たくさんあるので、共通のパターンを考えてみよう。最近でいうと、2年くらい前に、小学校6年くらいの男の子が虐待で死んでしまったという事故があります。
 
 本人はあちこちで、虐待を訴えていたようです。歯医者さんに行ったときに、身体中にあざなどがあったので、どうしたのと聞くと、虐待されているというようなことを言ったので、すぐ学校に通報した。学校は、児童相談所に報告しましたが、児童相談所は、学校で少し対応してほしいと任せたようです。そこで校長と教頭等が家庭訪問した。すると、父親が「絶対に虐待はしないので、簡便してほしい、男の約束をします。」というので、校長らは、ではそうしてほしいといって、相談所にその旨報告した。すると、児童相談所は、大丈夫と思ったようです。ところが、父親は、自分のプライドを傷つけられた、学校は自分を虐待者として扱った。こんな学校に子どもは行かせられない、といって、子どもを囲い込み、不登校にさせたわけです。学校はそれはないでしょうと対応するのですが、父親の方は、お前は自分の名誉毀損の犯人である、訴える、と学校を脅すような対応をとる。それで、学校としては、何もできなくなった、その結果、虐待が激しくなって、その子は死んでしまったわけです。
 
 これはどこに問題があったのでしょう。防げる事件でしたか?防ぐことは難しかった事件でしょうか。
 
S 歯医者があざがあると気付いて、学校に通報したら、児童福祉施設、学校ではなく、福祉職員がすぐに対応すべきだったと思います。

T 児童相談所が通報を受けたら、それを学校に任せずに、自分でやるべきだったということですね。学校が、私たちがやりますと言ってもですか?

S 言ったとしても、福祉の専門職員と一緒にいくとか、専門家の人がいるべきだったと思います。

T 専門家がいれば、大丈夫だったと思います。

S 口約束で放置するようなことにはなりにくかったんじゃないかと。

S 母親はいなかったんですか?

T 情報ではあまり出て来ないんですね。いたと思いますけど。

S 母親がいたなら、母親は父親をとめるなどして、対処すべきだったのではないかと思います。

T あなただったら止められた?

S 私だったら、父親と相談して、何故そういうことをするのか、聞いて、それなりの答えが帰ってきたら、(聞き取れず)します。もし、経済的に無理なら、相談所に行くなり、良心に頼ったりするべきだと思いました。

T こういうケースというのは、その次の段階が多いようですね。離婚して新たにできたパートナーとの間で、こうした問題が起きるというのが、新聞でみる限りは多いですね。母親は本当の母で、父親が違う。子連れで分かれて、経済的、精神的につらい。新しい恋人ができた。でも、男はじぶんの子どもじゃないから、虐待をする。子どもをとるか、新しい恋人をとるか、子どもの状況には目をつぶってしまう。そういうときに、夫に対して強く出られない、というような心理だったのではないかと思いますが、絶対に許せないですか?

S 私だったら、ちゃんとおなかを痛めて産んだ子どもだから、子どもを守ります。

T こういう事例あります。
 あるとき、ビニール袋に死体が入れられて、用水路に捨てられたということがあった。それは、母親は子どもを産んだときに、育児に自信がない。そこで自分で児童相談所に預けた。ところが、預けると、母親ですから、子どもに一緒にいたいという気持ちが出てくる。そこで、児童相談所にいって、子どもを引き取りたいと申し出た。相談所も実際の親と暮らすがいいと思っていて、渡した。しかし、渡したら直後に虐待を始めた。つまり育児に自信がないことの裏返しとして、子どもが夜泣きをするとか、自分の思い通りにならないことが出てくるので、その時に、どうしても叩いたりしてしまう。そこまでは自制心があったのです。これではいけないと思って、また預ける。そういうことを何度か繰り返した。そこで、相談所は、この親は危ないと認識したので、簡単には渡さないということになっていた。ところがあるとき、どうしても自分は絶対にきちんと育児をするからと願い出て、相談所も訪問などをして、一週間くらい試験的に帰宅を認めようということになった。それでうまくいったら、渡そうということだった。そして、母親が引き取ったところ、やはり育児ができないということで、今度は殺害してしまったわけです。実の母親です。
 そういう育児に自信がない親は、現在の育ってくる環境などを考えると、どのようにやるのかわからないことは、普通のことです。自分が父親や母親になったとき、育児をこうすればよい、という自信は、今の段階ではあまりないのではないでしょうか。僕も子育てをしましたが、わからないことだらけでしたね。ただ、母親が一緒に住んでいたわけではないけど、現役の看護士だったし、また、保育ママなどもやっていた経験があるので、子育てが遠い過去にはなっていなかったという事情もあり、わからないときには、電話をして聞くことができた。それがけっこう助けになった。だから、多くの人は、試行錯誤や情報交換等の助けあいをするわけだけど、そういう友人関係がないと、思い通りにいかないので、虐待してしまうことがある。でも、このケースでは、母親は育児に対する自分の危険性を認識はしていたのです。だから、自ら預けたわけですから、まったく酷い親だとは、断定したくない側面があります。
 このときに、世間から非難されたのは、児童相談所ですね。危険であることがわかっていたのに、なぜ帰したか。

 さっきの事例に戻りましょう。意見は。

S 児童相談所の人も一緒にいくならいいけど、学校の人だけでいくのは、やりすぎではないかと思います。スペシャリストに家庭訪問などは任せて、子どもに事情を聞くのは学校で、担任の先生などがして、訪問するならば、児童相談所の人と、担任の先生、または校長先生とという形ですべきだったと思います。

T 学校って普通に家庭訪問をしますよね。

S 今回のケースは、虐待ということがわかっているので、まずは訪問するよりも、児童相談所の人に任せるのがよかったと思います。

T 虐待がおこっているときには、学校は安易に家庭訪問してはいけないということですか?

S はい

T 間違っているということをいいつもりは全然ないんだけど、そういう意見は、僕の予想外であったので、他の人はどう思うのでしょうか。

S 反対なんですけど、訪問したあとに、何回でも行って、確認するということが必要だったのではないかと思います。ちなみに、いじめの場合、いじめを受けた子どもが先生に言うと、加害者は先生にしかられたあと、もっとひどくいじめをするということと同じ危険があるので、そのことをもっと念頭において対応すべきだったと思います。

T 要するに、行ったことがいけないのではなくて、行った回数が少なかった、そこで、虐待しないと言ったのに、してるじゃないかとかがわかったら、親から話して、学校に預かることはできないでしょうが、児童相談所に渡すとか、そういう措置をもっと積極的にとるべきだったということですね。

S 一度忠告したわけですね。でも、そのあと、欠席状況とか、異変がないかとか、確認をするべきだったと思います。

T 繰り返しいくべきだったということですね。

S 長期的にしていないかとか、親の状況も把握するとか。

T 行ったことが問題だったという人と、一回しか行かなかったことが問題だという人が分かれているようですね。他の人はどうでしょうか。

S 一番最初の意見に近いんですが、学校としては、何回も行こうとしたと思ったんですけど、一回行ったあとに、自分がプライドを傷つけられたとクレームをつけられたから、いけなくなったと思うんです。

T もちろん、そうなんです。そこをどう考えるかですね。何かあることをして、それに対して相手がお前を名誉棄損で訴えてやる、というように言われた。名誉棄損といヴのは、酷いものは刑事罰の対象ですから、告訴することができるわけです。告訴してやる、と言われたときに、それじゃ怖いからやめておこうとなるのか、そんなことは脅しに過ぎないと考えて、すべきことができるか、ということを考えねばいけませんね。

S だから、学校だけでいくと、そうなってしまうので、学校だけでは行かない方がよかったと思います。

S 今の意見に足した感じなんですけど、やはり、その問題からすると、名誉棄損をしたと言っていても、虐待をしたということは認めたわけなんで、訴えられても、そんなことを気にせず、一人の子どもを、教育者の立場から守るためには、そんなことを恐れている場合ではないと思います。虐待する親というのは、やらないといっても、継続的にやってしまう例が多いので、何回も行って、根気よくやることが大切だと思います。

T 勇気が足りなかったということですね。

S もし学校側がいくとなったら、名誉棄損で訴えると言われても、虐待することが事実なんだから、勝てるだろうし、虐待されるいる子どもがいるんだったら、なんどもいって、もしくは、学校に長くきていないということがわかっているなら、それを児童相談所に通報して、学校側としてではなく、児童相談所の人が何度もいける体制を作るべきだったと思うんです。何度もいくのが、学校ではなく、福祉の専門家が何度もいけるようにすべきだった。

T なるほど。
 まとめ風のところに行きたいので、このテーマはこれだけにします。児童相談所は、こうした虐待の問題が起きる、となぜもっとちゃんとやらなかったのかという批判を受けることが多いのですが、児童相談所って、本当に人手不足なんですね。何度も訪問できるような人的資源がないといっていいのですね。例えば、越谷の相談所があるんですが、そこは、越谷だけを担当しているのてはなく、周囲の6つの市を扱っているんですね。とにかく、ものすごく広い地域を担当しているので、ひとつの家庭に何度も訪問するという人手がいないという事実は考慮しなければならないと思うんですね。だから、訪問するということが可能であるという意味では、学校の先生の方がずっといきやすいです。校長や教頭は、授業をもっていないし、責任ある立場なので、校長がいくのは、不自然ではないと思います。
 じゃ、名誉棄損で訴えるぞ、と言われたときに、どっちが適切に対応できるかというのは、個人の資質もありますから、なんともいえませんが、そういうときに、これからこういう困難な仕事に尽きたいという人、教師とか、あるいは児童相談所の相談員などになりたいという人は、毅然と対応できる勇気と、法律上の知識をもっていることが必要です。名誉棄損で訴えるといっても、絶対に訴えませんから。絶対というと、言い過ぎかも知れませんので、90%以上訴えることはない、といえます。つまり、単なる脅しです。なぜなら、虐待という犯罪を犯しているわけですから、裁判になれば、そうした事実がどんどん出てくるのであって、墓穴を掘ってしまうことになりますね。ですから、脅しなわけです。だから大丈夫と覚悟を決められるか。また、誣告罪ということも知っていた方がいいでしょう。不当な訴えに対する逆告訴という手段があります。虐待した人間が、そのことを指摘して改善を要求した担当者を告訴するというのは、明らかに不当な訴えですから、その訴えるという行為自体が、誣告罪という犯罪なのです。名誉棄損よりももっと重い犯罪です。そのことを知っていれば、「誣告罪で訴えられますよ」と反論できる。

 (パワーポイントの提示)
     何が必要か
    ・子どもの行動様式の理解
    ・それに基づく環境の整備
    ・安全責任の具体化・明確化
    ・リスク対応教育の実施
    ・監視体制は?

 で、子どもの安全を守るために、何が必要なのかということでは、まず子どもの行動様式を知るということですね。
 例えば先程の話ですが、子どもって、注意をするとかえってやりたくなるということがありますね。でも、もちろん必要な注意をしないということは、もちろんいけませんね。でも、注意したから責任を果たしたということにはならない。また危険である。注意をして、かつ、だからやってみたくなる子どもをどうするか、ということまで考えなければいけない。
 それから、道路の反対側に、親と子どもが分かれている。子どもが親の方に行こうとしているときに、車がきた。そのときに、子どもはどうするか。明らかに危ないけど、親の方に行こうとする、あるいは、やめようとする。どちらでしょう。

  (わたろうとする−−大多数   留まる−−数名)

 そうですね。じゃ、そういうときに、この親はどう対応したらいいのでしょうね。
−−−−−−
 (以下実際には話さなかったことの補充)

 では、向こうに親がいたわけではないとき。つまり、子どもがわたろうとしたときに、車がきた。危ないと思ったわけだが、それでも子どもは急いでわたろうとする、あるいは、危ないからやめようとする。どちらでしょう。
  (実際には挙手しなかったが、おそらく、わたろうとするという挙手はかなり減るだろう。)
 しかし、小さい子どもほど、実はわたろうとする、あるいは、道路の中央に行こうとする傾向があります。もちろん個人差はあると思いますが、たぶん、危ない方向というよりは、広い方へ、つまり中央に逃げようとするのかも知れません。こういうことは、僕の子どもでも何度か経験しました。
 (補充ここまで)

子どもはどのくらいのスピードで来るか、瞬間的にはできません。大人になって、動体視力が発達してくると、そういう判断が瞬時にできるようになるのですが、子どもにはまだそういう能力が形成されていない。ブランコ遊びで、誰かがこいでいるときに、どこまで近づいていいのか、というような判断がなかなかできないのです。
 そういうことを考慮して、環境のチェックをすることが必要だろう。天窓事件では、いくつかの天窓には、子どもの足跡がたくさん残っていたそうです。つまり、たくさんの子どもが遊んでいたわけです。たまたま体重の軽い子どもや、あまり高く飛んだりしなかった子どもは大丈夫だったけれども、その子どもは、跳び方が激しかったのか、天窓が弱くなっていたのか、わかりませんが、落ちてしまった。子どもの行動様式を認識した上での、環境や施設の安全チェックが必要ですね。言うはやすし、ですが、実際にはなかなか難しいのです。
 杉並の事故が起こったとき、文部科学省は全国の学校に、天窓があるかどうかの調査を指示したのです。それが複数回あったのですが、いずれも、天窓は存在しないという報告をした学校で、2年後に、実は天窓があって、そこから転落事故が起きたのです。ということは、そういう事故が起き、なおかつ調べるようにという指示があるにもかかわらず、ある天窓をないと報告して、事故が起きた。これは、やはり、かなり「点検」という意識が低い、あるいは点検能力が欠けていると言わざるをえないですね。みなさんが、教師になるなら、こうしたチェック能力を身につけてほしいですね。もちろん、危険だから、必ず撤去しなければならないということはないと思うのです。教育活動を萎縮させてしまうというもまずいわけですから。

 以上も含めて、リスク対応教育の必要性です。今回の震災での防災教育やその訓練が、被害に影響したと言われていますが、教育の内容は地域ごとに違うでしょう。都会では通学上のリスク、津波対策であったり、地震とか、施設のチェック、等々、いろいろな対象があるかと思いますが、必要なものを見分けて、きちんとチェックし、そしてそれに対応した指導をする、そうしたことができる資質と能力が必要であるということです。

 もうひとつ、監視体制。これは、毎年やっているのですが、例えば、防犯カメラの設置とか、テキストにあるメーガン法など討論していたのですが、時間がないので、今日はやりませんが、テキストはきちんと読んでおいてください。そして、犯罪を防ぐために必要だ、あるいは、プライバシーの不当な干渉だということで反対だとか、いろいろと考えてみてください。

 最後に、掲示板の書き込みは、最初に言ったように、いろいろなことに自分の意見を羅列的に書くのではなく、ひとつの課題にしぼって、掘り下げたものを書くというような姿勢で取り組んでください。