国際教育論コメント2018.5.14

Q 黒人差別は格差は徐々に縮小しているように感じたが、スポーツなどでは、差別が残っているのではないだろうか。黒人の水泳選手はみたことがない。

A 最近は多くの分野に黒人が進出していますが、極端に黒人が少ない分野があります。スポーツでは、水泳は代表的なものでしょう。音楽では、クラシックの楽器部門です。

 スポーツでは、陸上、サッカー、野球、バスケットボール、ボクシングなど、黒人の優れた選手がたくさんいます。しかし、水泳だけではなく、ゴルフ、スキーなどには黒人選手は極めて稀です。この違いは、明らかに、小さいころからお金がかかるスポーツであるか、一流の選手になるためには、優れたコーチにつく必要があるか、そういう時期までは、あまりお金がかからず、子どもたち同士の遊びのなかで技術をみがけるスポーツであるかにあります。水泳、ゴルフ、スキーなどは、やはり当初から、きちんとした施設で行う必要があり、利用するには費用がかかります。もちろん、有能な指導者がいるクラブなどなら有利でしょう。しかし、そうしたクラブに通うには、経済的余裕がなければなりません。

 水泳の場合は、更に、差別感情がともなっているとも言われています。

 音楽では、クラシック以外の演奏家は、極めて高度な技術を必要とするほどではなく、楽器も学校のクラブや趣味のグループで鍛えられ、そのなかで才能があると認められ、指導者につけば、十分に対応できるものです。

 しかし、クラシックのプロの演奏家になるには、小さいころからかなり専門的な指導者について、長時間の練習をこなしていく必要があります。しかも、楽器自体が通常の家庭で買えないような高価なものをもっているほど有利になります。したがって、世界中のオーケストラの団員で、黒人は滅多にみられないほど少数しかいないのです。アメリカの楽団では、このことが常に社会問題となっています。しかし、技量の低い人を採用するわけにはいかないでしょうから、アファーマティブアクションなどを実行するわけにもいかないでしょう。

 お金がなくても、小さいころからはげしい練習をこなし、プロになっていける道を、はじめて切り開いたのが、ベネズエラのエルシステマです。アメリカでも、ロサンゼルスを中心としてエルシステマが実施されているので、このなかから、10数年後に黒人のオーケストラ団員が増えてくる可能性はあります。クラシックの一流の音楽家でも、声楽家には黒人が多数います。これは、自身の肉体が楽器であるかめに、高価な楽器を購入する必要がないこと、そして、声は10代にならないと、大人の声にならず、小さいころからのトレーニングはほとんど意味をもたず、高校卒程度からの訓練で十分に間に合うことなどが、黒人声楽家が大量に生まれている理由です。

 

Q アメリカでアジア人などへの差別はないのか。

A 明確な差別としては、ある特定の民族、国民に対する移民制限が行われたことが何度かあり、日本人もその標的になりました。また、太平洋戦争中、日系アメリカ人は、敵国人であるという理由で、強制収容所にいれられて、かなりひどい扱いを受けたことは、よく知られています。その誤りの認定と謝罪は、数十年も経過したあとでした。

 アジア人は、アファーマティブ・アクションの対象にはなっていないのですが、これは、アジア人は平均的に成績が優秀であることが理由と考えられており、差別とは、認識されていないようです。

 では、日常的な差別はないのかというと、かなり人によって認識が異なるようで、日系のアメリカ人やアメリカに住む日本人のブログなどを見ても、差別があるという人と、特にないという人がいて、その人の個性や地域の特質などによって、異なるのだと思います。ただ、アメリカ社会の中心が白人であるために、比較的身体的に小さく、おとなしいアジア人に対して、高圧的に振る舞う白人がいることも否定できないようです。

 

Q 白人用と黒人用の学校やレストランがあったというが、働く人も白人と黒人に分かれていたのか。

A おそらくいろいろとあったと思われます。白人しか入れないレストラン等の施設と、ともに入ることができるが、席はもちろん、入り口やトイレなどが分かれているような施設もあります。バスも白人のみのバスがある一方、両方乗車できるが、席が決まっている、あるいは、黒人は座れないなどのバスもあります。ローザ・パークスは、乗ってもよかったけれども、白人用の席に座って逮捕されたわけです。こうしたことでわかるように、共用の施設では、働く人を厳密に区別することはできません。また、専用施設では、白人のみ、黒人のみを雇用することが望まれたでしょうが、人手が不足になれば、逆の雇用をせざるをえないこともあったでしょう。特に黒人は、技術をもっている人が少ないこともあっただろうから、白人を雇用せざるをえないとか、あるいは、白人が嫌がる仕事に黒人を雇用するとか。

 

Q 生活環境に格差があるのなら、アファーマティブ・アクションはいいことだと思う。ただ、そうした結果として、卒業における民族比はどうなっているのか。

A 統計を探してみましたが、そのことを明確に示す統計を発見することは、現時点ではできていません。何か発見したら教えてほしいと思います。

 ただ、常識的に考えて、入学はともあれ、卒業が難しい状況で、点数が低くても入学できる学生が、十分な成績をとって入学した学生よりも、卒業に至る道が険しいことは十分にありうることで、優遇措置で入学した学生のほうが、卒業比率が低いことは、十分に推測されます。事実、黒人でありながら、アファーマティブ・アクションに反対する人たちの大きな理由が、このことです。つまり、優遇措置で入学すると、結局必要な努力をしなくなるので、結果的に、不利な状況に陥る危険がある。競争がある以上、平等な立場での競争を貫くべきで、それを勝ち抜くような努力こそが大事であり、優遇措置で突破しようというのは、一種の堕落であるという理由です。

 

Q 差別はいろいろな国にあるが、差別は永久の問題なのだろうか。

A 人間の本性をどのように考えるかにもよるでしょう。

 

Q 日本には、男女雇用機会均等法があるのに、なぜうまくいっていないのか。

非常に多様な検討課題があるといえます。各人が調べて、また、自分の考えをもって調べてほしいと思います。

A まず、第一に、日本社会が、まだまだ男女平等という価値観をもっていない人が少なくないと考えざるをえません。財務省元事務次官の福田氏のセクハラ問題に端を発した麻生財務大臣の一連の発現などは、それを象徴しているといえるでしょう。江戸時代までの一般庶民の間では、男尊女卑的感覚は、それほど強くなかったと考えられています。男尊女卑が徹底していたのは、武士階級です。明治になって、武士道徳を中心にした道徳教育が実施されたし、明らかに男性優位の「家族制度」が法的システムとなっていたために、日本人のなかに男尊女卑の感覚がかなり浸透し、それが戦後の憲法体制のなかでも、完全に払拭されたわけではないと感じます。

 第二に、日本の労働条件が欧米などに比較して、極めて悪いために、長時間労働が強いられ、その結果として主な働き手である男性が、家事や育児などに参加する余裕がほとんどとれないという人たちが多数となってしまったことです。戦後20年程度は労働運動が盛んで、戦前的労働条件の改善はある程度進んだとしても、その後労働組合は力を低下させ、長時間労働を中心とする労働条件の悪化は、改善されないままきています。

 第三に、その裏返しとして、女性かフルタイムで働く環境が、いろいろな側面で欠けていることです。これは、戦後のある時期まで、政策的に作られた環境でもあります。M字型労働と言われていました。女性が働くためには、保育施設の充実などが必要ですが、これは、社会としての負担にかかわり、そうした負担をせずに、育児を女性に任せるという、政治的な「手抜き」が行われてきたともいえます。

第四に、そうしたことと関連があるでしょうが、女性の側にも、男性と伍して、管理職になっていこうという気持ちが弱いことがあります。これは、いろいろな調査で明らかになっています。更に、「理想は主婦」という感覚をもつ人も、けっこういるのではないでしょうか。

 まだまだいろいろな理由があるでしょうが、こうしたことを、ひとつひとつ解決していくことが必要でしょう。

 

Q 黒人差別の始まりがジム・クロー法だと知った。日本でもセサミストリートのような番組があるが、その影響なのか。

A 「ジム・クロー法が、黒人差別の始まり」という表現は、多少誤解を招く表現で、講義では、たぶん、現代的な黒人差別のあり方の始まりと説明したと思います。黒人を奴隷として扱うことが合法であったときは、もっとひどい黒人差別であったわけで、そうした法的な、制度的な差別は、とりあえず、奴隷を禁じる憲法の修正条項で否定されたわけです。したがって、その後は、法的、制度的な差別は形式的にはなくなります。しかし、社会的な差別はなくならないわけで、それは、世の中のあらゆる差別に共通の性質といえます。制度的には平等だけど、実際の扱いは不平等という状況です。日本の女性の扱いをみれば、そのことが理解しやすいでしょう。ユダヤ人差別も、ユダヤ人が解放されてから、社会的差別が激しくなった歴史があります。

 ただ、ジムクロー法が独特な意味をもっていたのは、そうした社会的差別を、法で規定し、制度にしたことです。それならば、法的、制度的差別ではないかともいえるのですが、法的には、平等なのだが、それぞれの利用場所を設けることによって、平等は維持されているという建前をとったわけです。したがって、そもそも法的に不平等な前提での差別ではなく、法的には平等だが、社会的差別を許容し、むしろそれを固定するという法ということになり、差別の歴史では、かなりユニークな存在だといえます。

 

Q アメリカは移民を受け入れているにもかかわらず、差別が残っているのは理解できない。

A 移民といっても、定着すれば、その子孫は、もともと存在した人になり、新たに来た移民と、同じ感情にはなりません。こういうことは、移民に限らず、存在する感情でもあります。

 私が住んでいるところは、40年くらい前は、市のほとんどが森林だったそうです。それを少しずつ木を伐採して、宅地に変えていったのです。当然人口流入が起きます。30年前に来た人たちは、まだかなりの森林が残っています。時が経てば、次第に森林が減っていくわけですが、30年前に来たひとたちは、20年前に来たひとたちが、森を削って宅地化して家をたてることで、環境が悪化するという意識をもちます。でもその人たちも、10年前に来たひとたち、あるいは最近来たひとたちに、もうこないでくれ、これ以上環境が悪化したら、住みにくくなると思う人たちが多数でしょう。

 移民がどんどんくれば、こういうことが、もっともっと大規模に起きるわけです。移民の受け入れは、非常に大きな経済的負担を課します。合法的な移民に対しては、政府は、当面の住まい、生活費、言葉や職業のための教育を提供する必要があります。莫大な費用がかかるわけです。もし、そういう費用を惜しんで、移民の受け入れだけをすれば、彼らはまっとうに生活できませんから、かなり犯罪に走るひとたちが出てきます。いずれよせよ、前から住んでいるひとたちからみれば、来ないほうがいいと思うひとたちが出てきても、それがみなではないにせよ、不思議ではないのです。

 人権的立場から、多くの移民を受け入れてきたヨーロッパは、すっかり移民排斥的な政治勢力が大きな力をもつようになっています。

 だから、差別が残るというよりは、ますますひどくなる側面もでてきます。

 受け入れるひとたちも、納得できるような受け入れ方法を考える必要がでてきているのだと思われます。