2018.4.16

 

Q   経済力のために進学が困難だが優秀だった人は、どんな進路があったのか。

A ひとつは、地域の有力者が学資を出してくれる場合です。歴史的に有名な事例では、史上最高の数学の天才の一人といわれているガウスは、貧しい家の子どもでしたが、庶民のいく学校で、著しい算数の才能を示して、学校関係者が領主にかけあって、上級の学校から大学まで進学することができたといわれています。日本でもそうした事例はあったはずです。

 第二に、貧しいけれども優秀な生徒を想定した、省庁が設立する学校がありました。文部省は師範学校、陸軍は陸軍幼年学校、逓信省は管理練習所、等々。今でも気象大学校、防衛大学学校、など、いくつかのそうした学校があります。この種の学校の特徴は、授業料がなく、寮生となり生活費がかからない、小遣いがある場合もある、等々、貧しい人たちにとっては、とてもいきやすい学校でした。ある文教の学生の弟は、家が貧しいので海上保安庁の学校にいった例があります。

 第三には、自分が働きながら、あるいは働いてお金をためたあと、学校に通うという手段でしょう。

 こうしたことの逆の事実として、現在は私立大学が国立大学よりも授業料が高いですが、戦前は、帝国大学が最も高い授業料をとっていたことを知っておく必要があります。帝国大学には、貧しい場合には、よほど例外的に、第一の場合が偶然可能になる場合以外には、入ることができなかったということです。

 

Q  日本の農地改革は遅いほうだったのか。早かった国はどこか。

A 日本は先進国としては、遅いほうだったと思います。最大地主である大名などから、領土をとりあげる地租改正を武力で平和裡に行ったときに、あわせて自作農創出を広範囲に行う可能性は、理論的にはあったと思いますが、田畑を売買することを可能にすることで、その後大名ではないけれども、自らは耕作しない大地主が増大していったわけです。そして、実際には耕作は多くの小作農が行うようになっていったので、農村の状況は途上国のようになってしまった。それと近代化が同時進行したのが、日本の特徴でしょう。

 イギリスなどのような先進国は、農民が追い出されて都市に流入し、労働者となっていく過程と平行して農村の変化が起きたので、自作農としてやっていける農民たちは、とどまり、なれない人たちは労働者になっていったという事態が進行したといえます。ただし、イギリスはいまでも貴族が存在していて、彼らは大地主であることが普通で、逆にいえば、まだ完全な農地改革は行われていないともいえます。

 

Q アメリカでは、book of virtue という本が、ダイベストセラーになっているか、何故、教育勅語が日本ではそんなに大きな問題なのか。

A おそらく、book of virtue という本が、教育勅語の影響をうけて、ほぼ同趣旨のことを述べた本であるという、インターネット上の記事を読んでの質問だと思いますが、それこそ、インターネット上の情報をきちんと吟味しなければならないという見本のような事例だと思います。

 そこで書かれているモラルの柱が、教育勅語でいわれていると勝手にちじつけただけのことではないでしょうか。実際に、book of virtue の英文で、Japan という語を検索すると、1件だけでてきて、それはモンゴルの関連記事にすぎません。そして、Japanese という検索語にはヒットしませんでした。まだ全部読んでいませんが、出てくる固有名詞はほとんどがヨーロッパの有名な人物であり、日本のことなどはでてこないのです。教育勅語を礼賛する人たちの姿勢、あるいはそれこそモラルがどの程度のものであるかの証拠になるように、私には思われます。

 教育勅語の問題は、天皇という君主に臣下に対して、守るべき徳を示しているということ、国のために命を捧げることが説かれていること、その結果として、国民を精神的に拘束するシステムであったことなのです。真に優れた道徳であれば、国民を正しい方向で解放するものではないでしょうか。

 

Q 現代の教育がこのまま行われるとどのような問題が起きるのか。また、現代に合わせた教育勅語があってもよいのではないかと思った。

A 教育勅語とは何だったのかは、前回説明したので、その点をよく考えてください。

 

Q 学歴社会と言われているが、受験の圧力は昔より少ないと考えられる。何故か。

A 端的に少子化の影響です。現在は、進学希望者を上回る、進学先の学校の定員があり、必ず少なくない受験生が行き場がなくなる、ということは生じないので、圧力が低下したわけです。もちろん、そのなかで、どうしても特定の学校にいきたい人は、同じような競争を強いられるわけですが、それは一部の人たちなので、全体の圧力を高めることには、あまり影響がないのではないでしょうか。

 

Q 日本の教育は、大学に入るための教育になりがちではないか。北欧や他の国では、人をつくる、社会を生き抜く力を育てているように感じる。どうして、そのような違いがなくならないのか。日本の学歴社会をとりまく環境は変わらないのか。

A 大学全入、高校全入という状況になると、大学はよい就職での実績を示す、あるいは高い偏差値を示す、高校は、大学進学率、あるいはスポーツでの実績を残すことによって、生き残りを追求しなければならない事態となりました。以前の受験戦争時代には、個々の生徒がどのような進学を確保できるかが大きな問題で、受験圧力があったと思いますが、今は、むしろ学校の競争がまずあり、そのために生徒たちを動員するという意味での「大学に入るための教育」に変質してきているように思われます。企業のほうでも、かつての採用から方式が変化している面が多々あり、学歴社会といっても、かなり変質はしているように思います。

 また北欧では、人をつくるり、日本は学歴社会という対比が、実態にあっているかは、検討の余地があるでしょう。北欧を扱うときに、再度問題にします。

 

Q 大学の偏差値はどのように決まるのか。

A 試験の点数を、偏差値を求める式で計算してだします。それが個人の偏差値です。大学の偏差値は、全国の模擬試験の偏差値を、その大学、あるいは学部の合格者の最低点だった人の偏差値で表します。

 

Q センター試験の廃止が決まっているが、それは中学や高校の教育にどのような影響が出てくるか。

A 実際に行われていないので、何が起きるかはわかません。ただ、個別の変化がどのような影響を及ぼすかは、予想することができるでしょう。

(1)書く力などを媒介として、思考力や表現力をみるめたの記述式の問題を出す。

(2)試験の回数を増やす。

(3)民間の英語検定を使う。

このような改変がいわれていますが、(実際にどのようになるかは、まだ決定していないはずです。)

(1)は、当然、そのような教育をするようになるでしょうから、そのような能力は向上するでしょう。しかし、この点の最大の問題は、誰がどのようにして採点するのか、ということです。マークシート方式になるのは、それが教育的に好ましいと考えたからではなく、記述式問題の採点の困難さから、生じたことなので、実際にどの程度まで記述式を入れられるかは、試験の運用によって、そうとう変わってくると思われます。

(3)は、そうした民間のテストを、多くの人が繰り返し受けるようになるでしょう。高校でもそれを推奨するようになるでしょう。

(2)は、議論が分かれているところです。回数を増やすのは、一回だけの試験というストレスから解放する意図でしょうが、逆に、何度も受けるストレスが増大するとか、あるいは、部活が難しくなるとか、いろいろなことがいわれています。みなさん自身が、推量してみてください。

 

Q 学習意欲が薄いことは、どうしたら改善できるのか。またこのような状況は昔からなのか。

A それがわかれば、立派な教育者になることができるでしょう。教育上、学習意欲を高めることほど難しいことはありません。人間は、誰でも好奇心をもっていると思いますが、小学校に入るころには、興味の対象は多様になっていると考えられます。興味があることは、誰でも高い学習意欲をもつものですが、興味がないことは、強制されても学習意欲をもてるものではありません。とすれば、理論的には、サドベリバレイのように、個々人の興味にまかせることが理想でしょう。しかし、国民の共通教養を必要とする立場からすれば、それは認められないでしょう。結局、多くの子どもたちに、大人が決めた学習内容に関して、学習意欲を高めることは、不可能に近いことだと考えるのが現実的です。どうすればいいのかは、決められた内容を学習しながら、個々の興味とどのように関連させることができるかにかかっているといえるかもしれません。

 

  世間ではなぜゆとり教育に対するイメージが悪いのか。学力低下以外の理由があるのか気になった。

A 学力重視派からみれば、ゆとり教育は基本的に反対なので、そのような主張を常に行っていたことまずあげられます。ゆとり派よりは、学力派のほうが多いのが普通です。ゆとり教育の象徴的な新しいスタイルは、総合的学習だったと思いますが、教師にとってみれば、そのような訓練を受けたことがないし、また、教員養成課程の中で学んでこなかったわけだから、満足できる実践が非常に難しかったといえます。小学校はまだ総合的な学習をやろうと思えば、教師の創意工夫で可能でしょうが、中学や高校では、教師は教科の専門であって、総合的な学習を指導する立場ではないので、たとえ訓練をうけても難しいといえます。そもそも、文部科学省のなかで、ゆとり教育の位置づけが確固としたものになっていたとはいえず、新しい取り組みであったために、何のために、どのようにやるのかのコンセンサスがあったようにもみえません。そうしたことが、ゆとり教育批判として、たくさん出てきた理由と思われます。 

 

Q   何故世間的には、昔の教員はよかった、今のはだめだと言われてしまうのか。今の教員の状況のように厳しい状況だと、将来教員の質はあがるのか、あるいは戦後のようになり手がいなくなったときと同じようなことにならないか。

A 「昔はよかった」というのは、人類共通のなげきと言われています。世界最古の文書であるエジプトの文書を発見して、読解に成功したとき、そこに書かれていることは、「今どきの若いやつはだめだ」というような年寄りの嘆きだったそうです。昔の教員はよかったというのは、そういう嘆きのひとつという側面と、ただ、以前は現在のように、教師や学校に対する批判意識、厳格な感覚がなかったために、教師はかなり自由に振る舞うことができたので、それがプラスに働くと、生き生きとした実践をやりやすかったという側面はあります。

 現在心配なことは、社会や行政が、教職の魅力をどんどん低下させてしまっていることで、そのために、教師になりたいという希望をもつ若いひとたちが少なくなってしまうことです。

 

Q PISAに振り回されていると思うが、それでもPISAは必要なのか。

A 必要かどうかは、各人が判断してくだい。必要だという意見もあるし、反対の意見もあるでしょう。

 当初PISAは、先進国が未来に必要な能力を模索し、形成させるための試みでしたが、最近は次第に獣医の学力テストに近いものに転換している部分もみられます。そうすると、単なる競争をあおるという効果が強くなるので、今後注意してみる必要があると思います。

 

Q 昔は高校入試の科目が9科目だったのは、体育や音楽もならないと、差がつかなかったということなのか。

A そういうことではなく、中学で学んでいる教科は基本的にすべて試験するという建前だったと思います。その後、負担論とともに、実技科目をペーパーテストで測ることへの疑問から廃止されたと解釈できます。

 

Q 国定教科書と、国によって検定されるのは、あまり変わらないと思うが。

A 確かに現在のように、教科書を作成している会社が少なく、(だいたい教科毎に数社)かなり強力に検定がなされている場合には、国定とたいして違わないともいえます。だからこそ、検定制度の是非を問題にする人たちが少なくないのです。

 しかし、戦後間もない時期には、もっとたくさんの会社が教科書作成に関わっており、100種類を超える教科書があり、もちろんさまざまな内容、形態があったのです。それが、1961年の教科書無償法によって、国の教科書関与が教科され、教科書を作成するための会社の資本金制限が行われるようになり、小さな出版社は教科書を作成することから排除されていったのです。その資本金は次第に引き上げられ、その結果が数社した教科書を作成できない事態を生じさせたのです。

 したがって、国定と検定は同じようなものだというのではなく、検定を国定と同じようにしてしまう政策があると考えるのが妥当です。

 

現代は受験圧力が軽減しているというが、友人のなかに、親から受験しなさいと圧力をかけられている人がいた。

A 要するに、受験圧力にさらされている人たちの割合の問題です。

 戦前は中学を受験する人たちは、3分の1しかいませんでした。3分の2は、受験などと無関係に生活していたのです。

 戦後になり、ごくわずかな人たちが、中学受験に参加し、進学率の上昇にしたがって、だんだん高校受験、そして大学受験に関わる人たちが増えていきました。一番受験圧力が大きかったのは、高校進学率がほぼ100%に近くなっているのに、高校はその定員を満たすより少ない時期です。第一次ベビーブームのときには、高校進学率は、まだ90%にいたらず、第二次ベビーブームのときには、100%に近くなっていました。

 

ゆとり教育とそうでない教育が、実際に子どもにどのように影響を与えるのか。

A 個々の子ども、担当の教師や親の姿勢等でさまざまだったと思いますが、実際のところは、今後の研究にまつほうがいいように思います。学力が低下したというのも、賛否両論あります。

 

Q ゆとり教育がいじめ対策になっていたとありますが、実際に効果はあったのか。教師をシフト制にしたら、精神的に楽になったりするのか。

A ゆとり教育が効果があったのは、不登校とされています。不登校が減少したのは事実であり、ゆとり教育をやめたあと、不登校が増加しているのも事実です。日本の子どもは、学校を友達関係で認めており、勉強の楽しさをほとんど感じていないという統計があるので、学力重視で詰め込み主義になれば、学校への拒否感が強まることは、当然予想できることです。

 教師のシフト制については、中学・高校で実施するのは、ほとんど問題にならないと思いますが、小学校では難しいと一般に考えられています。しかし、その場合、日本の小学校で、担任が原則全教科を教えるのは、先進国では異例であることを認識する必要があります。欧米では、担任教師は通常基本的な科目を担当するので、実技や宗教などは別の教師が担当することが普通です。したがって、担任が教える部分は、全授業の6割程度になるので、シフト制をとることは難しくないのです。日本だと、月曜日の国語と金曜日の国語が違う教師になるのは問題だという感覚がありますが、欧米では、シフト制であってもそれを避けることができます。更に、違う曜日で、違う先生が同じ科目を教えることに、それほど強い抵抗感がないことも事実です。