教育行政学コメント2019.5.23

Q 大学の講義を休講にした場合、補講が行われないとどうなるのか。学生は授業料を払っているという意見にどう答えるのか。

A 大変難しい問題を含んでいるので、少々詳しく説明します。

 「補講をしないとどうなるのか」という点については、どうにもならない、強制的に補講をせよという指示がくるわけではありません。

 まず、15回授業ということと、それを認定することの制度を確認してみましょう。

 基本は、学生に認める「単位」計算にあります。

 3年生だから知っていると思いますが、大学で2単位を取得するということは、

   90分の講義を15回。1回の講義のために4時間の家庭学習をする。

 このふたつの条件をともに満たしたときに、1単位が認められます。

 みなさんは、一コマの授業のために、毎週4時間の自習をしているでしょうか。

 教師の側からみてみましょう。

 まず教育実習指導などの実習指導があります。海外研修の付き添いなどもあります。

 その他大学のなかで役割をもっていると、授業と重なりつつ、重要な仕事がはいってくるということがあります。また、かなり多いのが、学会への出席です。学会活動は大学の教師にとって、公的な活動になっています。

 さて、こういう「公的な仕事」で休まざるをえなくなったときに、補講が可能かという問題を考えてみましょう。

 まず、日本の大学は教師が入学試験事務を行うために、入試期間は、授業期間から絶対的に排除されます。それが、2月以降になります。まずこれで2カ月が消えます。4月の途中から、15回授業を組むと、7月の下旬までかかります。以前は、授業が終わると補講機関と集中講義期間というのがありました。今はありません。

 それでも、試験、そして、成績をつける期間等を考慮すると、8月1週くらいに試験まで終えなければならないのです。そして、9月になると、集中の期間が短くあり、すぐに授業が始まります。秋は祝日が多いので、最近はぎりぎりクリスマスの時期まで授業があり、1月に残りの授業をこなすとすぐに試験期間に入り、そして、入試が始まってしまいます。

 こういう中で、補講をするということは、事実上不可能なのです。補講ができるように最初から組んでいません。

 結論的にいうと、どうしても公的な仕事で、休講にしなければならないことがある、しかし、補講をする日程は組まれていない。これが実状です。もし、土曜日の午後に補講するなどといったら、学生諸君は承知するでしょうか。たぶん、ほとんど欠席すると思います。

 さて、では授業料はどうしてくれるんだ、という問題を考えてみます。

 学生からすれば、履修している授業に授業料を払っているのだから、休講になったら、その分返せという気持ちも、起きるでしょう。

 しかし、正確にいうと、授業料は、個々の授業に対して払っているわけではありません。授業料は、この学期に、メニューの中から、限度内で、自由に履修してもよい、という権利に対して払うのです。だから、3年生までは目一杯とるでしょうが、4年生になると、ゼミ以外履修していないという学生は少なくありません。だから、理屈の上では、休講した分を返却するという対象には考えられないのです。

 アメリカやカナダの方法なら、成り立つでしょう。

 アメリカやカナダでは、履修した授業の単位数に応じて、授業料を払うことになります。最近話題の小室圭の話題で、アメリカフォーダム大学の授業料がテレビで離されていましたが、1単位25万円だそうです。

 そういう授業料納入方式も影響します。

 ちなみに、私は、単位制限などをせずに、授業料を申請単位で決める、アメリカ方式を取り入れれば、自然に取得単位は経ると思うし、取得単位が経れば、宿題なども出すことが可能になりますから、学生諸君の実際の学習が進むのではないかと思っています。

 なお、アメリカでは、休講についてどうなっているのか。休講はほとんどない、ということと、あれば、助手のような人が代講するということのようです。(校務の休講はほとんどなく、あるとすれは病気)

 欧米の大学というのは、日本のように教授が入試にかかわったりしませんから、日程的にすごく余裕があるのです。また、余計な校務で休む必要もないのです。夏休みは3カ月ありますから、学会などもそのときにだいたい開かれます。

 また、必ずサマースクールがあって、必修科目などは、夏にもう一度開校されて、落とした人が取り直す仕組みになっています。それも、余裕があるからでしょう。

 日本の大学の仕組みというのは、本当に改善すべき点が多々あるのです。

 質問の主は、そういう点で、とてもよい質問でした。

 

Q 常勤講師と教諭では基本給は異なるのか。

A 同じです。違うのは管理職になれないだけ。

 

Q 他国でも公権力を行使する人は、純粋なその国の生まれの人なのか。

A その国の国籍をもち、その国で生まれた者でないとなれないというのは、アメリカの大統領がありますが、他にはあまりないと思います。

 

Q 前に新潟で準公選が行われたと聴いたことがあるが、中野と同じ事例なのか。

A 2005年に合併した新潟県上越市では、旧町村の住民の意向をくみとる「地域協議会」委員を準公選制で選んでいるとあります。しかし、上越市のホームページを見るかぎり、委員の準公選の規定は、みつけることができませんでした。市民投票とか、住民自治を重視していることは、わかりますが、情報をもっている人は、教えてほしいとありがたいです。

 

Q 教育委員会はなぜいじめアンケートをとるだけなど、手段が目的化してしまうのか。人手が足りないからか。

A 自分たちで必要だと思って実行しているものではないからでしょう。法律で決まったからやっているわけです。

 

Q アメリカでは、なぜ学区、水道区などばらばらなのか。

A 「自治」とは何かという考えによるのだと思います。自治とは、自分たちで治めるということですが、すべてを自分たちでと考える場合もありますが(行政区としての自治体)、ある特定の分野について自分たちで治めたいという考えも当然存在します。それが、教育であったり、水道であったり、検察であったりするわけです。しかし、学区というのは、教育自治体という意味ですから、自治体でない教育の区割り地域もあるわけです。自分たちで決めたいという意思をもたず、行政に任せるのでよいとすれば、一般行政区のなかで、教育担当官が決められ、そこの教育行政を行うことになります。教育は、歴史的な積み重ねがあるので、その事情からくる「範囲」があるわけです。それに応じて、学区が作られていったのに対して、水道はまた、別の論理で動きます。近くに川があり、そこから水道をとれる地域は、その範囲でまとまりやすいので、水道区を作ります。その場合、歴史的な学校の範囲と、自然的な川の範囲がずれることもまた、ごく当たり前のことです。それでばらばらになることがあるわけです。ただし、自治体としての区が設立されていない場合には、多くが重なることになるはずです。

 

Q 長野県で、外国人はどのくらいいるのか。

A 長野県に限らず、全国的統計が見当たりません。文部科学省の学校基本調査にも、外国人児童数の統計はありますが、教師の中で外国人の数値を表わす統計はとっていないようです。気になるなら、インターネットで調べてみてください。

 

 

Q 常勤講師は、昇給はあるのに、校長になれないのは、不思議に思った。

A 逆に考えてみましょう。そもそも法令にない常勤講師というカテゴリーを作ったのは、教師には採用するが、管理職にはしない、という目的が先にあったと考えるのが事実にあっていると思います。公立小学校や中学校に、外国籍の人がなってはいけないのか、構わないのかという、考え方の違いがあるということです。「構わない」と考える人は、「不思議だ」と思うでしょうし、「だめだ」という人は、「当然だ」と思うでしょう。

 

Q ALTの英語講師は、非常勤扱いなのか。(多数)正規の外国人教員とは別に考えてよいのか。

A 非常勤扱いです。

 

Q 梁さん事件のようなものは、今ではないのか。

A 教員の場合には、常勤講師に限定されていますが、全国的に外国籍が認められているので、梁さん事件のようなものは起きていません。ただし、在日の教師で、校長になりたいという人がでてきて、訴訟でも起こせば、問題になるでしょう。ただし、今の学校現場では、管理職になりたい人は少ないので、起きる可能性は低いと思われます。

 

Q 大学ランキングでアメリカやイギリスの大学はどんなところが評価されているのか。

A 前回授業で説明したような基準で評価されているということです。なぜアメリカ、イギリスの大学が上位を占めているのかというのは、英語国であることの有利さが働くと、通常考えられています。理系は「英語」が事実上の国際語で、ネイティブは有利であるだけではなく、世界中から優秀な人材を集めやすいということにもつながります。

 

Q 公務員はどうして外国人を受け入れるようになったのか、不思議だ。

A 逆に、どうして外国人を受け入れないのかを問うべきだともいえます。

 日本に関しては、戦前は「公務員」という存在はありませんでした。「官吏」であり「役人」だったのです。そして、彼らが奉仕するのは「天皇」であって、「臣民」ではありませんでした。天皇に奉仕する人が外国人であるというのは、むしろ考えられなかったのでしょう。しかし、明治前半期には、帝国大学の教授は多くが外国人だったのです。帝国大学の教授はかなり上級の官吏でした。

 戦後、官吏は消滅し、「公務員」となり、「国民に直接奉仕する」存在となりました。国民という膨大な人々への奉仕ですから、奉仕することが可能であれば、本来外国人でもなんら支障はないのです。しかし、戦後改革がなされたといっても、残っている公務員は、戦前の官吏だったひとたちですから、外国人の登用には拒絶反応があったのでしょう。「公権力の行使」という概念をもちだして、外国人の登用を阻んだわけです。しかし、日本には、在日外国人というかなり大人数の外国籍でありながら、事実上日本人と変わらないひとたちがいます。彼らも公務員としての就職を望むわけです。それを拒む理由はあまりないし、また、採用したいという現場の要求もあります。それで、管理職ではない人たちを中心に、次第に外国人の採用を認めるようになったのです。そのことで、差し障りがでたということは、ほとんどないと考えられます。

 ただし、国会議員や大臣などのように、国政そのものを扱うひとたちは、国籍をもっている人でなければならないというのは、合理性があると通常考えられているし、また、多くの国でそうしていると思います。

 しかし、その場合、帰化した人も含まれるのが通常であり、日本でも、帰化した人が国会議員をしている例は少なくありません。