教育行政学コメント 2019.4..25

教育を受ける権利

Q 永山則夫の主張に対して、裁判所はとのような判断を下したのか。

A 永山の不幸な生い立ちは、もちろん考慮されています。それは、「情状酌量」という形をとり、情状酌量をして刑を軽減する場合もあるし、情状酌量すべきことを考慮したとしても、極刑は免れないという判断になる場合もあります。永山の場合は、基本的に後者であったということです。裁判は法律にしたがって判断するので、よほどのことがない限り、法律そのものを否定することはありません。(違憲判断)

 しかし、永山裁判で一度だけ、無期懲役の判決になりました。(最初の東京高裁判決)そのときには、「だれが考えても死刑以外にはありえない場合にのみ、死刑が判決されるべきだ」という理由となっていました。日本の裁判は、多数決なので、反対者がいても多数で死刑判決が下されます。おそらく、東京高裁のその判決は、死刑は全員一致にすべきである、という趣旨だったと思います。私も、死刑だけは特別な刑(あとで間違いがわかっても取り返しがつかないという意味)なので、全員一致を条件にすべきであると思いますが、現在そのような法改正はなされていません。最高裁によって、差し戻され、死刑判決を要求される形となったので、二度目の高裁判決は死刑になり、最高裁で確定しました。

 なお、永山の死刑は長らく執行されず、執行されたのは、サカキバラ事件がきっかけといわれており、少年事件でも厳罰に処すという法務当局の姿勢を示すためといわれています。事件は1969年で、執行が1997年ですから、事件から30年近くたっていたわけです。サカキバラ事件がなければ、永山の主張を支持する声も少なくなかったので、処刑はもっとあとになったか、まだ執行されていなかった可能性もあります。

 

Q (永山の件で)子どもの教育の責任は、題意に親にあるのだから、国家の責任より、親の責任が大きいと思うが。

A 現在の教育基本法には、子どもの教育の責任は第一に家庭にあると書かれていますが、これは、2006年の教育基本法改正によって、新設された条項です。それまで、子どもの教育に関する第一責任は家庭ではなかったのです。少なくとも、学校教育に親の見解を尊重するという行政は、ほとんどありませんでした。象徴的なことですが、大分以前、ある学校で校長と親の間で意見が対立したときに、親側は「私たちの子どものことではないですか」と詰め寄ったところ、校長は、断固として、「いや子どもは学校のものです」と回答したそうです。

 障害をもった子どもの親が、どんなに通常学級にいれたいと要求しても、入学前検診で、知能指数が低いと、教育委員会の判断で養護学校にいれられました。訴訟がおきても、親の要求は認められなかったのです。

 確かに、現在は、そうした考えは改められており、また、生活保護や就学援助が充実していますから、それでもなお、学校教育を充分に受けていない状況が生じたら、それは親の責任といえるでしょう。

 しかし、永山の時代を、現在の法理論で考えるのは、適切ではありません。

 

Q 給食指導以外にも様々なことが求められるが、教師はどこまで専門性を求められるのか。

A 教育上必要となる領域で、専門性をもっていることが望ましいことは、どんな分野でもいえることです。しかし、免許法で決められている基本的な専門領域に関して、極端に専門性が不足しているのは、大きな問題で、研修等で改善させる必要があると思いますが、そうでない限り、専門性がないことで、教師が処分されることはありません。実践をするなかで、自分にある専門性が不足していると感じたら、誠意をもって、専門性を高める努力をすべきでしょう。「どこまで」というのは、求められる専門性で、課題が解決できるようなレベルまで、ということになるでしょうか。

 

Q いじめや転居以外の理由で転校が認められることはあるのか。

A 文科省的にはないと思われます。しかし、通学区については、教育委員会の決定事項なので、自治体によって多様性があります。(学校選択を認める自治体とそうでない自治体があるのは、そのためです。)ある自治体では、部活を理由とした学校選択を認めているところがあります。ある優秀な指導者がいる学校に入りたいというときに、学区外でもその学校にはいることを認めるということです。おそらく、その優秀な顧問が他の学校に移ったら、転校したいという人を認めるのではないでしょうか。あくまで個別措置なので、一概にはいえませんが。

 

Q 松本家の子どもが文教にはいるときの議論、なぜ許可したのか、どのようなことを気をつけたか、知りたい。

A 「学生・生徒」のときに詳しく扱う予定ですので簡単に。

 合格者のなかにはいっていることがわかったときに、大学の運営者たちは、すぐに拒否の姿勢を決め、ただし、教授会で許可しているので、取り消し提案を人間科学部の教授会に提案しました。反対したのは私だけで、提案者との議論になりましたが、ほとんどの教員は無言だったと記憶します。こういうときには、運営者は、権力をもっていますから、その提案が通るのが普通です。それで、本人に取り消しの通知をだしたところ、それまで何度か同じ経験をしてきたことと、文教はおそらく第一志望だったこともあって、訴訟を起こしました。当初、運営者たちは、最高裁まで争うといっていたのですが、仮処分申請の段階で敗訴したときに、勝ち目がないことがわかり、仕方なく受け入れを決めたのです。「なぜ許可したのか」という問いに対しては、裁判で負けたから、ということになります。議論は、殺人犯の子ども、またオウムの人間を受け入れるわけにはいかない、という論と、犯罪の当事者ではないのだから、子どもであったとしても、教育を受ける権利があるという議論の対立だったといえます。保護者や他学部の教授たちは、強く反対していたと聞いています。

 実際に入学してからは、学生たちも自然に受け入れてくれたので、特に気をつけることはありませんでした。

 

Q 日本ではなぜ飛び級制度がないのか。

A 飛び級と留年(原級留め置き)とはペアで論じられることが多いのですが、日本の法制度では、留年は認められていますが、飛び級はありません。ただし、戦前型の飛び級は、例外的に行われています。つまり、戦前は、中学校進学は、6年生のときに受験をするのですが、優秀な子どもは5年で試験を受けることができ、早く進学することが認められていました。近年、高校2年生に試験をして、合格したら入学させるシステムをとっている大学があります。他方、留年は、制度はあるけど実施がされていないわけです。以前は、外国に1年いって、帰国すると、前の学年に接続する、つまり、1年遅れになるのが普通だったのですが、今ではそれもなくなり、年齢にあった学年に復帰させるようになっています。

 なぜそうなったかを、私は専門的に研究したことがないので、正確にはわかりませんが、おそらく、国家の教育は、国民の一体感を醸成することが重要だったので、留年とか学校内での飛び級などのような、一体感を阻害する要因は認めがたかったのではないでしょうか。早い年齢での進学は、その生徒は消えてしまうわけですから、異質な存在がはいってくるということではなかったので許容できたのでしょう。

 

教育をする権利

Q オランダは学校を作るとき国が援助するということだが、国の税金は高いのか

A 北欧と同じような福祉国家ですから、税金は高いです。念のため、学校を作るときに、援助するわけではありません。学校をつくって、生徒を基準以上に集めれば、その後の運営資金は公立学校と同じようにだされるということです。学校そのものを準備する段階は、設立する人たちの責任です。しかし、オランダの、特に小学校は、非常に小さく、日本の学校のように多くの施設を必要としないので、日本とは比較にならないくらい、容易なのです。極端には、マンションの3戸分程度を借りて教室に割り当てれば、成立してしまいます。体育は市の施設を利用するので、一切施設が不要です。

 

Q オランダのような公私の平等の制度のほうが、無駄がないというが、日本はなぜそうならないのか。私立学校の割合が高いオランダの教育は、学力はどうか。(同趣旨 どのような資金の運用がなされているのか)

A なぜ、日本よりオランダの方が無駄がないかの説明をもう一度しておきます。2万人の学齢児童生徒がいるとします。オランダは、私立・公立あわせて、2万人分の収容力を確保すればいいわけです。しかし、日本では、2万人の公立学校の収容を前提に学校を作り、教職員を雇用する必要があります。そして、私立学校については、多くが親の負担ですが、補助金も必要となります。東京などは、私立学校が多いので、補助金も多額になるし、また、余剰施設もたくさんできています。

 学力的には、オランダはPISAの点数はコンスタントに上位にはいっています。昔から学力テストの成績は、オランダは上位を保っています。

 

Q 私立の方が設備が良いイメージがありました。公立でも最低限のことしか補助しないのか。

A 私立の方が設備がいいのは、全体がそうだというわけではないでしょう。少なくとも、大学は、圧倒的に国立のほうが、私立よりも設備や環境が優れています。高校までだと確かに、私立のほうが設備がいいイメージがありますが、それは、私立が人集めのために、設備をよくしておく必要があることと、公立の場合には、自治体全体での基準が必要なので、全体をよくするためには、かなり費用がかかるという事情があるでしょう。例えば、エアコンをつけるというときに、一校だけつけるわけにはいきません。つけるなら、その市内、高校なら県内の学校全体につける必要があります。それは予算がたりないから、難しいということになりがちなのです。市立高校などは、通常一校しかないので、設備などもよいところが少なくありません。

 

Q オランダでは、公立と私立は何が違うのか。

A 制度的には、公立も私立もあまり違いはありません。設置管理責任が地方政府にあるかどうかもありますが、公立学校でも、NPOの運営のようなスタイルのところが多いので、それもあまり大きな違いではありません。一番違うと認識されているのは、公立学校では、特定宗教に基づく教育をしない、宗教の時間はあっても、出席を強制されないということです。宗教の時間はあったとしても、特定宗教に基づくものではなく、宗教とは何か、というような感じの授業をやっているわけです。公立学校でも、特別な教育理念に基づく教育を行うとする学校も少なくありません。

 

外国人の教育権

Q 日本に外国人学校はあるのか。あるとすれば、それはどのような位置づけか。外国の日本人学校の位置づけは?

A もちろん、日本にも外国人学校があります。一番多いのは、朝鮮学校でしょう。韓国学校もありますが、韓国学校の数はすくなく、しかも、大部分は、日本の一条校として認可されているので、外国人学校とはいえない面もあります。アメリカンスクールとか、ドイツ学園とか、ヨーロッパ系の学校もあります。最近はインド人学校も設立されています。位置づけは、「各種学校」です。日本人が入学することはできますが、就学義務を果たすことにはなりません。認可の扱いは、県が担当し、補助金も県からでます。

 外国の日本人学校も同じようなものでしょう。

 

Q 大泉の友人によると、もう普通に学校にブラジル人が通っているそうだが。

A 日系ブラジル人やペルー人がやってきた当時と、今では状況がおそらく変わっているでしょう。当初は、ブラジルやペルーで育った子どもたちがやってきたわけなので、日本の学校になじめなかったり、ついていけなかったりする子どもが多かったのですが、今は、日本で生まれた子どもたちが多いはずなので、日本で育っているから、困難は特にないともいえます。「普通に通っている」というのは、そうした状況の変化があったからだと思います。

 

Q 日本の外国人には、権利も義務もないということだが、日本に帰化した人、両親外国人だが、日本に住み、生まれた子どもの権利はどうなのか。

A 基本的には国籍の有無によると考えてよいでしょう。日本は国籍の属地主義(日本で生まれたら日本国籍を与える)ではないので、日本に住んでいても、外国人の扱いになります。在日の人たちを考えればわかりやすいでしょう。彼らは、文化的にはまったく日本人ですが、国籍は違います。ただし、権利も義務もないといっても、日本での教育を希望すれば、排斥されることはありません。外国人だからといって、小学校にはいって、授業料をとられるわけでもありません。

 

Q 異文化をもつ子どもを受け入れる学校には、特別な補助等があるのか。

A 文科省として、日本語指導に関する援助・補助をしているようです。しかし、高校までは、基本自治体の事項なので、自治体として、そうした補助制度をとっているところはあり、そういう自治体に対する補助もあるようです。

http://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kyoiku/todofuken_kenshu/h28_hokoku/pdf/shisaku03.pdf

 

Q 外国人の宗教に配慮するのはわかるが、「郷に入れば郷に従え」というわけにはいかないのか。

A 極めて難しい問題で、そもそも正解がない代表的な問いといえます。人の価値観の最も中心的なところ、例えば「人を殺してはならない」などは、どのような宗教、価値観でも共有されますが、しかし、「場合によっては許される」部分が含まれていて、そこはちがってしまいます。イスラム教では、異教徒が従わないときには、殺害しても構わないように読めるコーランの記述があることも間違いありません。多くの宗教は、程度の差はあれ、「郷にいれば郷に従え」という姿勢をもっていると思いますが、世界宗教に発展した一神教は、どこにいっても自分たちの宗教スタイルを実践するという特徴をもっています。かつてはユダヤ教は、そのことによって世界各地で差別されてきました。キリスト教は、世界を制覇したといえるので、キリスト教的価値観が、世界標準のようになっています。厳密にはそうでない部分もありますが、人権がキリスト教世界から発展してきたことを考えれば、このようにいっても間違いではないでしょう。イスラム教は、まだ市民革命を経る前の段階のキリスト教のような側面があるのですが、勢力としては大きいので、かなりの習慣を、世界各地で守っています。一日5回の礼拝、断食、マフラー等、それほど厳しいものではありませんが、イスラム教ではない国家では、「違う」感覚をかもしだします。そのことが、現在のイスラム教徒のトラブルの原因であるというのは間違いでしょうが、もっと、現地の風習になじめよ、という気持ちは、多くの人がもっているのではないかと思います。コーランを読むと、現在のイスラム教徒の行っていることとは、違うことがけっこう書かれていたりします。例えば、女性は必ずマフラーをつけるのですが、イスラムは厳格に偶像崇拝を否定しています。偶像崇拝の否定とは、信仰は内面の問題であり、重要なイスラム的価値(例えば喜捨)を行動で表すことであるという意味です。砂漠の地では、日光から肌を守る意味で、肌をださない服装も意味があるでしょうが、ヨーロッパのような北の地域では、むしろ日光を浴びることが必要であり、顔を隠す必要もまったくありません。そこに宗教的な意味合いをもたせて、マフラーの着用を絶対視するというのは、コーランの教えとは異なるように、私には思われます。尤も、キリスト教が宗教界として、内面の信仰と公的社会を区分して考えるようになるのに、1600年以上が経過していますから、イスラム教は、そうした変化をするのに、もう少し時間が必要なのかも知れません。特に、キリスト教世界に抑圧された歴史があるので、強いこだわりがあるともいえます。

 

Q 自治体によって外国人への対応が違うというが、どのような影響がある。

A 最近、多くの外国人の子どもが、日本語の修得の機会が与えられないまま放置されているという記事が出ていました。小中学校の場合、設置者は市町村ですから、彼らをどうするのかは、市町村の責任になります。学校への就学を希望しなければ、社会的な問題となる可能性があるし、就学を希望して受け入れた場合には、言葉の問題が生じます。そして、外国人の子どもが多い地域と、ほとんどいない地域というように、分かれているので、多い地域で、きちんと日本語教育を実施すれば、非常に大きな経済的負担となります。放置すれば、学校で授業がわからない子どもを生んでしまいます。

 問題が生じやすい形で外国人の子どもが多数いる地域というのは、大企業が外国人労働者を安く雇用している場合が少なくないので、企業に教育費の負担を分担させること、そして、国が補助するシステムを強化することが必要となるでしょう。

 他方、単純労働者を安い賃金で雇用する企業のやり方も、改めさせる必要はあるでしょう。

 

特別支援の権利

Q 障害者への対応は、どの程度特別扱いするべきなのか。

A 極めて難しい問題で、一般的な回答は不可能で、個別状況に応じて考えるしかないでしょう。

 「合理的配慮」といわれる措置のほとんどは、障害者だけではなく、健常者にとってもプラスになることです。だから、財政が許す限り積極的に実現させればいいと思います。しかし、例えば、企業に対する障害者雇用義務などは、雇用数を一定の割合、障害者に割り当てることですから、その分健常者は雇用機会が減ることになります。

 分かりやすい例でいうと、私が知る限り、人間科学部の卒業生で、超難関企業に就職した人は、みな軽い障害者でした。就職を希望する人からみると、なんとなくすっきりしない気持ちになる人もいるでしょう。企業の側からすると、障害の程度などはあまり考慮されないので、一流企業が軽い障害者を採用し、中小企業になると、障害の重い人を雇用せざるをえなくなり、むしろ罰金を払ったほうがずっと経済的であるという姿勢になりがちです。雇う側でも簡単ではありません。こうした利害の対立する部分を含む領域については、個々の例に応じて、考えてほしいと思います。

 

Q 小学生のとき、重度の複数のアレルギーの人がいたが、弁当をもってくるように先生から勧められていたが、今でもそのようなことがあるのか。

A 給食を実施する上で、アレルギーの問題は大きな問題ですが、そもそも、食物アレルギーは昔(私の世代くらい)はそれほど問題になりませんでした。ひとつは、アレルギーをもつ人が少なかったこと、そして、給食の食材に多様性がなかったことなどです。次第に、アレルギーをもつ子どもが増えてきたことと、給食の食材が豊富になってきたことで、無視できないことになってきました。しかも、死者まで出たわけですから、何らかの対策が必要でしょう。

 自治体によって異なるわけですが、弁当持参させることは、ひとつの対応策となります。そもそも、給食は、法的義務ではありません。あくまでも自治体の判断でやっているわけで、小学校でも給食をしない自治体もあります。ですから、特別の事情がある限りは、弁当も認めるとか、あるいは、そもそも給食申し込み制でも、法律上は問題ないのです。もちろん、文科省の望ましいあり方としての通達はあるでしょうが。

 しかし、それらは、多くの自治体がとっている政策ではなく、アレルギー対応用に別メニューの食事を用意するのが普通です。これで通常は大丈夫なのですが、東京の死亡事故は、お代わりで、通常食を食べてしまったためにおきたことなので、東京は、アレルギー用は、通常の倍くらいを盛って、絶対にお代わりの必要がないようにするという方法をとっています。しかし、それは多くの場合残すことになるので、全く問題がないというわけでもありません。

 重度の複数のアレルギーというと、かなりメニューを考えるのが難しいと思われるので、弁当を勧めるというのも、合理的な判断のひとつではないかと思います。「常に」というと、また別の問題が生じる可能性もありますが。

 

能力に応じて

Q 習熟度別学習は、「能力に応じてひとしく」の原則にあうのか気になった。

A 賛否両論あると思うので、自分でよく考えてみてください。いずれ授業で扱うことがあると思います。

 

ひとしく

Q 教師が教え、それを子どもが聴くのが当たり前のようになっているが、それが「すべて等しく」ということにつながるのか。

A そういうことではないと思います。もちろん、そのように考える人もいるかも知れません。

 

Q 「能力に応じて」と「ひとしく」は両立可能ではないと思う。なぜこのふたつを並べたのか。

A 正確なところはよくわかりませんが、おそらく、常識的に、市民社会の大原則である「自由と平等」をそのような言葉に変換したものと思われます。「自由」は、結果として「能力に応じて」になりますから、重ねて理解しても大きくずれません。そして、社会的原則としての「自由」と「平等」も、両立は極めて難しい概念とされています。「自由権」は自由を保障し、「社会権」は平等を保障するものですが、その原理は、まったく異なります。だから峻別されているわけです。思想的には、自由を尊重するのが自由主義で、平等を尊重するのが社会主義であるわけですが、ふたつは対立する思想です。しかし、その両立を目指そうとする思想もあるわけで、これらをどう考えるかは、各人の問題でしょう。

 

Q 「国民は」と「何人も」と二通りあることが、「臣民」というのもある。臣民は、日本人をさすのか。

A 現在の法律や憲法には、「臣民」という言葉は使用されていません。大日本帝国憲法では、「臣民ノ権利義務」という章があり、すべての条項に「日本臣民は」と書かれていて、外国人は一切考慮されていないといえます。しかし、だからといって、では外国人は国際法的に自由権を認められていたのかというと、そもそも日本臣民でも、自由権すら制限された権利だったのですから、外国人に権利があったわけではありません。

 「臣民」だけでも、大日本帝国は天皇が統治すると書かれており、その中での「臣民」でて、天皇の「下臣」(家来)という意味ですから、日本人のみを指していたと解釈できます。

 

その他

Q 給食を食べるのが遅い児童に昼休みまで残す担任がいたが、それは許されるのか。

A 法令上、そのようなことは規定外のはずです。いわば「常識」によって判断されることでしょうが、常識は人によって違うこともあるので、やっかいです。

 おそらく、その教師は、食べ物はきちんと全部食べるべきである、好き嫌いは治すべきものである、という考えを、強固にもっているのでしょう。私が近くにいて、対応するとしたら、その教師がどのような理由でそうしているか、子どもにとって、昼休みはどのような位置づけかをきちんときき、また、給食のあり方も確認して、できるだけその教師の「理由」も尊重しながら、解決を模索したいと考えるでしょう。食べ物を残さないとか、好き嫌いは好ましくないというのは、否定すべきことでもないからです。子どもの考えも重要ですね。量的に不適切でもなく、でも時間をかけて食べたいので、昼休みにかかってもいいと思っているか、あるいは、量が多すぎるので、減らしてほしい、それならばもっと早く食べられると思っているのか。少ない量にしてもらっているけど、でも遅い、昼休みはほしい、と思っているのか。最後の場合以外は、解決は容易です。

 逆に子どもの立場にたってみれば、現在の学校の給食時間は短すぎるというのが実状です。配膳などが時間がかかるので、実際に食べる時間は10分から15分というのが普通のようです。これは、明らかに短すぎます。したがって、学校の設定時間に無理があります。しかし、それも、現在のような給食のあり方からすれば、仕方ない側面もあります。欧米のように、昼食が学校で用意される場合でも、食堂で食べるようにすれば、子どもが配膳する時間は不要になり、もっと食事時間を増やせるでしょう。それに対して、「いや、子ども自身が配膳することに教育的意味があるのだ」という意見もあるでしょう。

 制度的にいえば、現在のような給食のあり方を維持するには、給食時間をもっと長くする必要があるでしょう。多くの子どもたちは、あまりに急ぎすぎで食べています。これは、健康に好ましくありません。

 制度が変えられなければ、創意工夫して、それぞれを尊重しながら、折り合いをつけていくしかないでしょう。「折り合いをつける」ということは、とても大切な生活の工夫です。

 

Q 親が教育を受けさせる義務を果たさなかった場合どうなるのか。刑罰はあるのか。

A 授業で説明したように、罰金刑が課せられます。ただし、子どもが行きたくないといって不登校になった場合には、「果たそうとしたができなかった」ということになり、罰せられることはありません。

 

Q 権利と義務の関係として、警察による職務質問の問題がある。職務質問の権利とそれを拒否する権利との関係は難しいと思った。

A 職務質問は、もちろん任意ですから、拒否することはできます。ただ、何もないときには、また、急いでいるわけでもないときには、簡単に回答するほうが無難でしょう。他方、警察官に、職務質問の権利があるわけではなく、権限があるということです。権限は、職務にともになうことで、したがって、行使可能な場合が定められています。

 警察官職務執行法第2

「警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる。」

 要するに「疑うに足る」状況で職務質問ができるということですが、日本の場合には、これらがかなり警察官にあまく判定される傾向があることは事実です。アメリカの犯罪ドラマなどを見ると、任意捜査なのに、強制的に調べたりして、あとで証拠として認められないとか、違法捜査を罰せられるというような場面がたくさん出てきますが、日本では、こうした違法捜査すれすれのことも、市民側が主張しても難しいことが多いようです。不本意な職務質問をしつこくされたら、録音・録画するというような証拠を残さないと難しいともいわれています。