1990年8月 - イラク軍、クウェートに侵攻(湾岸危機、クウェート侵攻) 1991年1月 - アメリカ軍を中心とした多国籍軍がイラクを攻撃(湾岸戦争 2001年9月11日 - アメリカ同時多発テロ事件 2001年10月7日 - テロの報復としてアメリカ合衆国がアフガニスタンを攻撃(対テロ戦争、アフガニスタン戦争)。 2002年1月29日 - ブッシュ大統領が一般教書演説でイラクを非難する悪の枢軸発言を行う 2002年11月 - 国連決議1441により、イラクが4年ぶりに国連の査察を受け入れ、同決議の第3項が定めるところに従い、武器申告書を査察団に提出。 2003 1月9日 - 国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)と国際原子力機関(IAEA)から国連安保理へ中間評価報告。イラクが国連決議に違反したと疑われるような証拠、痕跡はないとされた。 2月14日 - 査察団の再報告。武装解除の進展を積極的に評価しつつも、査察が完了しておらず、まだ時間が必要であることが示唆された。 3月15日 - アメリカ、イギリス、スペインがアゾレス諸島で密談。[要出典][1]安保理では新決議案が反対多数で否決される見通しとなったため、アメリカは安保理での裁決を避け、独断で開戦に踏み切ることを決定した。 3月19日 - 米英軍による空襲「イラクの自由作戦」を開始。 3月20日 - クウェート領内から、地上部隊がイラク領内へ侵攻を開始。地上戦が始まる。 4月7日 - アメリカ軍は、バグダードの宮殿の一つを占拠と発表。 5月1日 - ブッシュ大統領が「大規模戦闘終結宣言」(終戦宣言ではない)。アメリカ兵の死者は138人。イラク人死者数不明。 7月13日 - イラク統治評議会が発足。 12月13日 - イラク中部ダウルでフセイン大統領を拘束。 2004 2月 - 日本の陸上自衛隊本隊がイラクに派遣された(自衛隊イラク派遣)。 4月28日 - アブグレイブ刑務所において、米兵のイラク人に対する虐待が行われていた事件の第一報がCBSで報道される(アブグレイブ刑務所における捕虜虐待)。 6月2日 - イラク暫定政権発足。 12月14日 - 翌年1月下旬の国民選挙に向け、立候補者受付と選挙活動開始。以降、妨害のための大規模テロ相次ぐ。 2005 月30日 - 国民議会選挙が実施。スンナ派勢力のボイコットや相次ぐテロによって実施が危ぶまれたが、シーア派住民の投票率の高さにより一応の成功。開票は当日から10日間かけて行われた。米軍は最初70%以上の投票率だとしていたが、後に「予想以上」に改められた。また、投票所が襲撃され合計36人が死亡、米兵も1か月間に106人が死亡した。 8月 - 新憲法草案がクルド人やスンナ派議員の反対によって否決。1週間後に再度投票を行い、やはりスンナ派が反対して全会一致とはならなかったが、憲法草案が承認された。 10月15日 - 新憲法草案の是非を問う国民投票を行う。 12月15日 - 新憲法に基づき、新政府発足に向けた2度目の国民議会選挙が行われる。シーア派勢力が圧勝、またシーア派・スンナ派ともにイスラーム教勢力が世俗勢力を上回る支持を得た。 2006 3月19日 - アッラーウィー前首相(暫定政府)が現状を「内戦状態」だと断言。 12月30日 - バグダートで、イスラム教シーア派住民148人殺害で人道の罪に問われていたフセイン元大統領の死刑執行。69歳。 2007 3月22日 - 潘基文国際連合事務総長がバクダートで迫撃砲により攻撃されるが無事 2008 3月24日 - 開戦以降のイラク駐留米軍の戦死者が4000人に達した(AP通信の独自集計)。開戦5周年を迎え、各地の反米武装勢力が活動を活発化させる。 2009 2月 - オバマ大統領、戦闘部隊の撤退計画発表 2010 8月 - 最後の戦闘旅団が撤退、オバマ大統領、戦闘任務集結を宣言 2011 12月 - 治安維持・部隊育成が目的の駐留部隊も撤退、これりより撤退が完了した